魔女と子供の召使
ロマス・テーナーは目を覚ますと、自分が見知らぬ屋敷の中にいる事に気が付いた。そこは不思議な屋敷で、大きくはあるのだが少しばかり雑然としており、“金持ち”や“豪奢”といった雰囲気からはかけ離れている。ロマスはまるで妖精か何かが、勘違いをして作ってしまった人家の中にいるような気がした。そこは一見、同じ文化を共有しているように思えるが、実はそっくり似せようとしただけで、全く異なった別世界なのだ。
後になって、その自分の感想は当たらずとも遠からずであった事を、ロマスは知るのだが、その時はただ戸惑っていただけだった。何が起きたのかを理解できていなかったのだ。
彼の目の前には、魔女がいた。いや、少なくとも、一目でそれと分かる姿をした二十代後半くらいの女性がいた。彼女はハロウィンの仮装でよく観るような、いかにもな魔女の装いをしていたのだ。これだけ分かり易いと逆に怪しいな、とロマスが思っていると、彼女は自ら「私は魔女だ」と、そう言った。
「名前はタバサだ。タバサ・KS。お前はこれから、この屋敷で召使として働くんだよ。文句は言わせない。親のいないお前を、これから面倒見てやろうっていうんだ。ただ飯食らいはガキだって許さないからね」
そうタバサが言うのを聞くと、ロマスはキョトンした顔を少しばかり傾かせ、しばらく考えると、
「うん。分かった。つまり、新しいママってことだね」
と、そう言った。
タバサはその時、彼の態度と返答に意表を突かれていた。実を言うのなら、彼女は彼が泣き出して暴れて助けを求めるだろうと思っていたのだ。だからこれから、脅すなり宥めるなりして、どうにか大人しくさせなくてはいけないとそんな事を考えていたのである。
「新しいママぁ?」
それでその予想外の反応に、思わずそんな声を彼女は上げてしまった。
「ママってなんだい? わたしゃ、子共を産んだ事なんて一度もないんだ。お前のママになるつもりなんてないよ!」
すると不思議そうな顔をして、ロマスはこう尋ねて来るのだった。
「でも、ママは、僕を買ったのじゃないの?」
どうにも話が噛み合わない。ロマスが何かを勘違いしているだろう事は明らかだった。それでタバサはこう言う。
「違う! 私はお前をさらって来たんだ! 召使として使ってやろうと思ってね!」
半分は怖がらせるつもりだった。泣き叫ばれるのは厄介だが、主従関係を納得させる為に恐怖を与えるのは重要だ。ところが、それを聞くとロマスは却って喜ぶのだった。
「僕をさらった? それなら、本当のママだね!」
そんな事を言って、嬉しそうにしている。
“本当のママ?”
首を傾げつつ、タバサは言う。
「断っておくが、私はお前をここで働かせようとしているんだよ? 掃除、洗濯、炊事なんかをやらせるつもりでいるんだ。こき使ってやるんだからね!」
「大丈夫。分かっているよ。今までのママも同じだったもの。家事は僕がいつもやっていた事だよ。それにしても、ここは大きな屋敷だね。それに、あまり綺麗じゃないし。これは掃除しがいがありそうだな」
“今までのママ? で、私が本当のママ? しかも、家事をいつもやっていただって? こいつは、いったい、何を言っているんだ?”
タバサにはロマスの言葉の意味が分からない。それで少し後悔をする。もう少し詳しく調べてから、さらう子供を決めれば良かったと。人さらいから子供を買うのは金の無駄だと思い、親のいないだろう子供に目を付けてさらったのだが、なんだか普通じゃない事情が、このロマスという子共にはありそうだった。
タバサが子供を召使にする為にさらおうと思ったのは、彼女の悪友のヴェーダから、自分の召使を自慢された事が切っ掛けだった。タバサは家事の類を面倒がってやらないのが常で、基本的にいつも屋敷の中は散らかっている。食事だって確りとしたものを食べてはいない。衣類は魔女である彼女の商売道具でもあったから、洗濯だけはやっていたが、必要最低限でしかなかった。
彼女の家を訪ねたヴェーダは、まずは彼女の汚い部屋を馬鹿にして、それから自分の家はきちんと片付いているとそう自慢をして来た。
「あんたと違って、わたしゃ、仕事が忙しいんだよ! 家事をやっている暇なんてありゃしないんだ」
タバサはそう言い返す。するとヴェーダは、にやりと笑ってこう返した。
「アタシだって家事なんて、やっちゃいないさ。やらせているんだよ、召使に」
「召使?」
「ああ、最近になって、人さらいから子供を買ったのさ。安いのを買ったから、初めは使いものにならなかったが、そこはアタシの腕だね。直ぐに有能な召使に育ててやったよ」
タバサはその話を半分くらいしか信じなかった。恐らくは、ヴェーダが召使を育てたというのは嘘だろう。しかし、召使を雇うというのは良い案に思えた。それで、
「なるほど。それは、私も考えてみるかね」
と、その時、そう返したのだった。
しかし、タバサには人さらいから人を買うつもりはなかった。“あいつらは、結局のところ、孤児や貧乏な家の子供を捕まえて来て売っているに過ぎない。なら、自分で捕まえる方が早いし安い”と、そう考えたからだ。
それからタバサは、コウモリ達に街を探索させた。親がいないだろう子供を探して来いと命じたのだ。すると、数日後に、コウモリ達はロマスを見つけて来た。どういう事情かは分からないが、ロマスはたった一人で暮らしていた。家はあるようだが、そこに親はいない。ロマスは蓄えをやりくりして生活をしているようだったが、収入がないだろう点は明らかだった。やがては、生活は破綻するだろう。それに、季節は秋の終わり。既に寒くなり始めている。このまま気温が下がり続ければ、このロマスという子供は凍え死んでしまうかもしれない。ならば、召使としてさらっても構わないはずだ。この子共は生活する事ができ、自分は家事の手間が省ける。孤児が一人消えても、街では誰も騒ぎはしない。そんな事は日常茶飯事だからだ。数日は話題になるだろうが、やがて皆、忘れていく。何も問題はない。
……はずだった。
「このお屋敷は、何処にあるの?」
ロマスは明らかにはしゃいでいた。窓から外の景色を眺める。外には木々が生い茂り、紅葉しかけた葉の隙間からは青い空が見えていた。
「古の森だよ。その奥深くだ。お前だって、森の名くらいは知っているだろう?」
タバサがそう答えると、ロマスは「へぇ」とそう言って、それから、
「もしかしたら、ママが古の森に住んでいるっていう魔女なの? けっこう、有名な話だよ。僕は信じていなかったけど」
と、そう尋ねて来る。ロマスは結局、タバサを「ママ」とそう呼び続けていた。タバサははじめはいちいち訂正させようとしたが、やがては諦めてしまった。何度言っても、そう呼んでくるからだ。
「その通りだよ。私が古の森に住むと言われている魔女さ」
「でも、魔女は年老いた老婆だって聞いたけど?」
「それは、商売をする時の姿だね」
そう言うと、タバサは服を裏返し、それを羽織るような動作をする。すると、驚いた事に彼女は老婆の姿になってしまった。大きな鼻、潰れたような灰色に濁った目、顔中にブツブツの腫物があり、醜かった。
「わぁ 美人のママができたと思って喜んでいたのに、本当はこんなに醜かっただなんて!」
そうロマスが言うと、タバサは慌てて元の姿に戻って言った。
「違うよ! 馬鹿な子だね。婆の方が、化けた姿なんだよ。魔女って商売は、多少、不気味に演出した方が良いんだ。
それに、街で遊ぶのにも、本当の姿は隠しておきたいしね」
それを聞くと、「へぇ。じゃ、ママが本当に“古の森の魔女”なんだ」と、そう面白そうにロマスは言った。
「確か、“不老長寿の妙薬”を売ったりとかしているって聞いたよ」
「それは嘘だね。馬鹿な噂話さ。もっとも、病を治す薬は作れるよ。ほら、最近、流行り病が拡がっているだろう? 私の薬なら、簡単に治せるんだ。お蔭で今、商売が大繁盛しているのだけどね」
それを聞くと、ロマスは不思議そうな表情を見せた。
「その割には、忙しそうにしているようには見えないけど?」
「当たり前さ。作る量は同じなんだから。値段の方が釣り上がっているんだよ。薬を欲しがる連中が増えているからね」
ロマスはその言葉に、眉を歪めた。
「いっぱい作って、安い値段で売って、もっとたくさん困っている人達を助けてあげればいいのに……」
そしてそう呟く。恐らくそれは、昨今の不況によって貧しい人々が増えている事実を踏まえた上での発言だろう。それを聞くと、タバサは「はっ 冗談じゃない!」と大声を上げた。
「商売ってのは、そういうもんじゃないんだよ。そもそも、材料が限られているから、私だってそんなには薬を作れない。じゃ、その限られた薬を誰に売れば良い? それを決めるのが値段なんだ。最も高い値を支払った奴に、手に入れる権利がある。真っ当な話じゃないか。
それに、安い値段で売って、私が生活できなくなったら、誰が薬を作るんだい? 高い価値があるものを、安い値段で買いたがるってのは、泥棒と同じなんだよ。泥棒だらけにこの世の中がなったら、世の中は成り立たないじゃないか。何かを欲しかったら、それを相応の対価は支払わないといけない。じゃないと世の中は回らないからね。高い価値のある物を安く手に入れようだなんて、偽善もいいところだよ!」
ロマスはそのタバサの剣幕を受けると、「ふーん」と落ち着いて返した。「なるほど。ママの言うのはよく分かるよ」と、そしてそう続ける。
「良い商品には、それに見合った何かを返さないと駄目ってことだよね?」
ロマスがそう応えた事に、タバサは満足げに微笑んだ。そして、頷きながら「その通りさ」とそう答えたのだった。
タバサの屋敷は、大きな木の傍らにあった。まるでその木と融合して一つになったように寄り添って建っている。その屋敷の外に出る為に、今ロマスは玄関のドアを開けようとしていた。外を見たいと、タバサに許可を貰ったばかりだったのだ。鍵はかかっていなかった。恐らくは誰も森の深部までは入って来ないから、用心していないのだろう。そのロマスに向けてタバサは言う。
「一応、一つだけ言っておくが、逃げようとしても無駄だからね。この屋敷から遠く離れたら、森の中で迷って野垂れ死にするだけなんだから」
ロマスはケロっとした様子で、それにこう返す。
「うん。逃げるつもりはないよ」
怖がらせようと思ったのに、ロマスが期待通りの反応をしなかった所為か、タバサは更にこう言った。
「もう一つ、言っておくが」
「一つだけじゃなかったの?」
「この辺りには、私が使役している動物達がウヨウヨしている。充分に気を付けないと、噛まれるからそのつもりでいるんだよ」
そう言われて、ロマスは思い出した。古の森の魔女には、狼を使役しているという噂がある事を。
少しだけ怯んだが、それでもロマスはドアを開けた。すると、その途端に“タッタッタ”という獣が駆けてくる音が近づいて来る。音がすぐ傍まで来ると「ヘッヘッヘ」という吐息まで聞こえた。ロマスが顔を向けると、そこに獣がいるのが見えた。警戒を込めた表情でロマスはその獣を観察したが、直ぐに冷静になるとこう呟いた。
「あ、これ、犬だ」
“狼じゃないじゃない”
少し大きくて、狼のような雰囲気がない訳ではなかったが、それは間違いなくただの犬だった。頭や喉を撫でてやると、その犬は喜んでロマスに甘えて来た。ペロペロと彼を舐めている。
「ママ、犬を飼っていたんだ。嬉しいな。僕、犬は大好きなんだよ」
それにタバサはこう返す。
「飼っているんじゃない。使役をしているんだよ。使い魔だね」
「名前は?」
「ロン」
「へぇ、ロン。良い名だ。お前は、可愛いね。“ワン”とお鳴き」
そのロマスの言葉に、ロンは素直に従い「ワン」と鳴いた。タバサは、ロマスが嬉しそうにしているのを観るとこう言った。
「そいつを甘くみていると、酷い目に遭うよ。そいつだって、魔女の使い魔なんだから」
それを無視して、ロマスは言う。
「でもこいつ、人懐っこ過ぎて、番犬にはならなくない?」
反論するようにタバサは返す。
「お前みたいな、小さなガキを警戒するほど馬鹿じゃないってだけだよ。そうじゃなかったら、魔女の使い魔が勤まるかい」
ロマスはそれを再び無視し、軽くロンの頭を撫でてやってから、少し離れると屋敷を眺めてみた。屋敷の三階の窓からなら、傍に生えている大木に移れそうだった。大木は屋敷や周囲の木々よりも高く伸びていたので、木登りをすれば、遠くの様子が観察できるはずだ。
ロマスはそれを見ると、満足げな表情を浮かべてからこう言った。
「さて。じゃ、お屋敷の中の掃除でもし始めようかな?」
それを聞くと、タバサは言う。
「もう、いいのかい? 外の様子を見たかったのだろう?」
「うん。もう充分に見たから。それに、お屋敷の中は随分と汚いからさ。さっさと綺麗にしたいんだよ。夕食の準備もあるし」
そう言うと、ロマスは屋敷の中に入っていってしまう。それを追いかけるようにタバサも屋敷の中に入り、「ちょいとお待ち、軽くこの屋敷について教えてやるから」と言って、ロマスを引き止めた。
彼女はそれからこの屋敷の中を案内し始めた。台所、居間、水汲み場、二つあるトイレ、客室、大きな物置、ロマスの為に用意した部屋、タバサの寝室兼書斎、そして薬を作る為の調剤部屋。そこは、同時に薬の実験部屋にもなっているらしかった。
「だから、ここには危ない薬品の類がたくさんあるんだ。他の部屋は、自分で判断して片付けて良いが、この部屋の中だけは別だよ。勝手に入っても駄目だし、掃除もしなくて良い」
それを聞くと、ロマスは軽く首を傾げた。
「でも、随分と散らかっているよ? 綺麗にしておいた方が良いのじゃないの? ちゃんと整頓しないと、ママだって危ないだろうに」
「私を舐めるんじゃないよ。散らかっているように見えて、この部屋に関しては、何処に何があるのかちゃんと把握しているんだから」
「じゃ、これは?」
そう言ったロマスは、机の上に置いてあったビンを指差していた。透明な液体が入っている。
「これはただの水だね。こっちの小鉢の中にある薬を溶かす為に持って来たんだ」
そう答えながら、タバサはそのビンの中の液体を、小鉢の中に入れた。すると、その途端に小さな爆発を起こす。ボンッという音と共に、ポワッと小さな煙が浮かんだ。タバサが汗を垂らしながら言う。
「あれ? 硫酸か何かだったかね?」
それを見て、ロマスは「危ないなー」とため息混じりにそう呟いた。
「やっぱり、整頓した方が良くない? 危ないって言うのなら、何をどう扱えば良いのか僕に教えてくれれば良いじゃない」
「生意気言うのじゃないよ。文字も読めない子共に、難しい薬品の類が把握できるはずがないだろう」
それを聞くと、ロマスは淡白にこう返す。
「僕、文字くらいなら読めるよ?」
そして、近くにあったビンを手に取ると、「えっと、これはアンモニアかな? あの臭いやつだよね?」とそう言った。それにタバサは少しだけ目を大きくする。
「これは驚いたね。親もいない貧乏な子共のくせに、どうして文字が読めるんだい?」
すると澄ました顔でロマスは言う。
「だって僕は“商品”だもの。商品価値を上げる為に、文字くらい覚えさせられるよ」
タバサは思う。
“商品だぁ?”
「ロマス、何かお前と話していると、時々気になる点が出て来るね。新しいママとか、家事は自分の仕事だとか。
一体、お前は何なんだい?」
それに、この年頃の子供にしては、気味が悪い程に落ち着き過ぎている。見知らぬ魔女の屋敷に連れて来られたなら、普通はもっと怯えるものだ。
「だから、言ったでしょう? 僕は“商品”なんだよ、ママ。ずっと前に人さらいにさらわれて、商品価値を上げる為に家事とか読み書きとか、色々と教えられたんだ。ほら、僕は見込みのある子共だったから」
その説明で、タバサはようやく納得した。
「なるほど。お前が見込みのある子共かどうかは置いておいて、それで話が分かったよ。しかし、だとすると、何回かお前は売られては買われるを繰り返しているのだね。さっき“今までのママ”とか言っていたじゃないか。生意気な態度の所為で、何度も愛想を尽かされているのか」
「失礼な事を言うね、ママ。断っておくけど、僕はどこの家でも高評価だよ。ただ、この不況の影響で傾く家が続出で、お金を手に入れる為に、高額商品でもある僕が売られ易かったってだけの話。
前のママは、僕をかなり気に入ってくれていたから、金持ちじゃなくなっても、売られはしなかったけど……」
この屋敷で目が覚めた時、だからロマスはまた新しい家に売られたものだとばかり思っていたのだ。タバサが自分を買ったのだと。
「なら、お前が一人で暮らしていたのは、どうしてなんだい?」
「前のママが病気で倒れちゃったからだよ。それで今は病院に入院している。僕は一人ぼっちで留守番してたのだね。
だから正直困っていたんだ。蓄えはなくなっていくし、寒くなって来ていたし。この冬は越せないかもしれないって不安でさ。ママが僕をさらってくれて助かったよ」
そのロマスの言葉に、タバサは肩を竦めた。まさかさらって感謝をされるとは思っていなかったのだ。
「まぁ、いいさ。文字が読めるのなら、それほど手間でもないだろう。少しは薬の事を教えてやるよ」
それからタバサは、そう言った。するとロマスは嬉しそうに笑って、「ありがとう、ママ」とそう応えた。ママ。恐らくは、人さらいから“ママ”と呼べと教え込まれているのだろう。そう思うと、タバサは何だか彼が少し不憫に思えて来た。
家事を教え込まれた、というだけあって、子共にしてはロマスの家事の腕は良かった。タバサの大きな屋敷を手際よく掃除し、半日で半分ほどの掃除を終わりにしてしまった。初日で時間がなかったからか、簡単なものだったが料理も美味しかった。明日は、溜まった洗濯物を洗うつもりでいるらしい。
“初めは不安に思ったが、これは当たりを引いたかもね。少し生意気だが、ロマスは召使としては優秀だ”
そんな事をタバサは思う。夕食が終わると自分の部屋で寝るようにとタバサはロマスに言い付けた。するとロマスは「寒そうだから、あの部屋で寝るのはちょっと嫌だなぁ」と文句を言った。タバサはそれに「贅沢言うんじゃないよ」とそう怒ったが、自分も寝室に入って、少し寒いと思ってしまう。
実はタバサの屋敷は、冬辺りになると、毎年冷え込みが辛くなるのだ。暖炉は居間にしかないので、仕方なく厚く布団をかぶるのだが、それでも充分とは言えなかった。まだ秋とはいえ、今晩は特に冷えるようで、布団をかぶってもまだ寒い。
“もう少し、ロマスに厚い布団を用意してやるべきだったかね?”
と、それでそんな事を思ったが、たかが召使に甘過ぎると彼女はそれを慌てて打ち消した。
やがて深夜になった。タバサにも睡魔がようやくやって来た。そして、彼女はまどろみの中で、何かが布団に入って来たかのようなそんな感覚を味わったのだ。しかし、どうせ夢だろうとそれを気にしなかった。それに、少し経つと温かくなってきた。心地が良い。彼女はそのまま深い眠りの中に落ちていった。その晩彼女は、仔猫を抱く夢を見た。
朝になって、タバサは違和感を覚えた。何かがいつもと違う。少し経って気が付いた。この時期、朝は夜の間に冷えた身体の辛さと共に目が覚めるのが常なのだが、今日は何故か温かいのだ。そして彼女は更に気が付いた。隣に誰かが寝ている。まるで仔猫のように丸くなり、自分に身を寄せている。
“何だ?”
驚いて布団を剥がし、彼女は目を丸くした。そこにロマスがいたからだ。
「何をやっているんだい? ロマス!」
そう彼女が怒鳴ると、ロマスはゆっくりと目を開けて、それから「あ、ママ。おはよう」とそう挨拶をした。
「“おはよう”じゃないよ。どうしてお前は、私のベッドで寝ているんだい?」
それを聞くと、少しも悪びれない口調で「だって、寒かったんだもん。眠れなくってさ」と、そうロマスは言った。
「寒いからって、主人の布団の中に潜り込んでくる召使がどこにいる?」
というタバサの文句に、ロマスは少しも怯まずにこう返す。
「そんなに怒らないでよ。ママもきっと寒いだろうって思ったんだよ。お互いに温め合った方が気持ちよく眠れるよ?」
それを聞いて、タバサは黙る。確かに、温かったからだ。
「前のママもそうしていたし、多分、変な事じゃないと思うよ。それともママは、僕が怖いの?」
「何を言っているんだい? お前みたいなガキが怖いはずがないだろう!」
そのタバサの返答にロマスは笑った。
「なら、良いじゃない。温かい方が良いに決まっているし」
タバサは少し黙ると、それからこう言った。
「分かった。認めてやる。お前は私と一緒に寝てもいい。しかし、飽くまで湯たんぽ代わりだからね。いい気になるんじゃないよ!」
それにロマスはまた笑う。そして笑顔で、「ならないよ」とそう返した。それを受けて、何か調子の狂ったタバサは「言っておくが、ちゃんと家事をやらないと、お前なんか直ぐにでも追い出してやるからね! そうしたら、森の中で迷って野垂れ死にだよ!」と、そう怒鳴って誤魔化した。
「言われなくても、やるよー」
とそれにロマスは返すと、それから「じゃ、朝ご飯を作って来るね」と言って、部屋から出て行ってしまう。
ロマスがさっきまで寝ていた場所は軽く凹んで跡になっており、まだほんのりと温度を持っていた。その後をさすると、タバサは「本当に、むかつくガキだよ」とそれから小さくそう呟いた。
ロマスが屋敷に来てから、三日程が経った。昼過ぎ頃、タバサは屋敷の中にロマスの姿が見えない事に気が付いた。午前の家事の大凡は終わらせた後で今は自由時間だったが、彼女は彼の姿が見えない事が少しばかり気になった。それで屋敷の外を軽く回ってみたが、やはり姿がない。ロマスは犬のロンが好きだから、一緒に近くで遊んでいるのではないかとそう考えたのだが、どうやら違うようだ。
「あのガキ、まさか森の奥の方に行っているのじゃないだろうね? 屋敷から遠く離れたら野垂れ死にすると教えたのに!」
そう不安になった彼女は、ネズミ達を呼び出すと、森の中を探索させた。すると、大して時間もかからずに、ネズミ達はロマスの居場所を簡単に突き止めてきた。ロマスは森の中の川にいるらしい。
“川を下れば、この森から抜け出せるとか、そんな甘い事を考えたのかもしれない”
それでそう思うと、タバサはロマスを捕まえに川へと向かった。ところが、ロマスは逃げ出そうとしていたのではなく、川で釣りをしていただけだった。
「あっ ママ。どうしたの?」
彼女の姿を見ると、彼はそんな声を上げる。近くには犬のロンの姿もあった。
「“どうしたの?”はこっちの台詞だよ。お前はどうして釣りなんかしているんだい?」
「うん。今晩の夕食を釣ろうと思ってね」
「今晩の夕食? 夕食なら、ちゃんと肉があるじゃないか」
そのタバサの言葉を聞くと、ロマスは少しだけ怒った瞳で彼女を見つつこう言った。
「駄目だよ。毎晩毎晩、肉ばかりじゃ健康に悪いでしょう? それに、料理のレパートリーだって狭くなるし」
「いいんだよ、そんなのは。それにわたしゃ、そんなに魚が好きじゃないんだ」
「好き嫌いは駄目です」
そうロマスが言ったところで、魚がかかった。
「おっ 来た来た」
それからロマスは魚と格闘をし始める。そんな彼に向けてタバサは尋ねた。
「しかし、どうやってお前は、この川を見つけたんだい?」
屋敷からでは、この川は見えないはずだった。
「うん。物置で釣りの道具を見つけたんだよ。なら近くに川があるはずだって思うでしょう? で、屋敷の三階の窓から木に登って探したんだ。そうしたら案の定、比較的近くにあったって訳」
「お前は、そんな危ない事をしたのかい!?」
「それほど危なくないよ。ママは心配性だなぁ」
そう言い終えたところでロマスは魚を釣り上げる。ナマズだった。
「やった、ナマズだ! 食べられるぅ!」
喜んでいる彼に向けて、タバサは言う。
「心配なんてしていないよ。召使に怪我をされたら厄介だから、危険な事はするなと言っただけだ」
「それって、心配しているって事でしょう?」
ロマスはそう言いながら、再び釣り糸を川に投げ入れる。今度はタバサはこう尋ねた。
「それにだ。一体、お前はここからどうやって屋敷まで戻るつもりでいたんだ? こんな遠くまで来たら、一人じゃ迷うよ」
すると澄ました顔で、ロマスはそれにこう答えた。犬のロンを指差しながら。
「それも大丈夫だよ。僕、一人じゃないから。ロンと一緒に来ているじゃない。もう何度かロンに家まで案内してもらっているんだ」
その言葉に彼女は頭を抱える。
「ロン! お前は一体、誰の使い魔だと思っているんだい?」
そのタバサの文句を受けると、ロンはその意味を理解していないようで、「ワン!」と嬉しそうに鳴いた。それを見てロマスは言う。
「ママ。犬は世話してくれる人間に懐くもんだよ。僕が餌をやって散歩もさせているんだから、僕に懐くのは当たり前」
「散歩も何も、こいつはそもそも放し飼いじゃないか」
「それでも犬は、一緒にいられるのを喜ぶもんなんだよ」
その返答を聞くと、タバサは軽くため息を漏らし、それからこう続けた。
「ええぃ。もう、分かったよ。さっきも言ったが、わたしゃ、魚がそんなに好きじゃないんだ。魚は時々で良い。量もいらない。だから暗くなる前に、さっさと切り上げて帰って来るんだよ!」
言い終えると、タバサは屋敷に戻っていく。その彼女の後ろ姿を見ると、ロマスは犬のロンに向けてこう言った。
「あの人、案外、優しいね」
それを聞くと、ロンは軽く「ワン」と鳴いた。
夕食時。
タバサは文句を言いながら、ロマスのナマズ料理を食べ始め、一口食べると何も言わなくなった。正直な反応。ロマスはニッと笑うとこう言った。
「案外、美味しいでしょう?」
それに不機嫌を装いながら、タバサはこう返す。
「フン。偶にだったら良いかもしれないね。偶にだったら」
その言葉にロマスは嬉しそうにする。しかし、それから曇った表情になると、こう言うのだった。
「でも、食材がまだ全然、足らないんだよ。特にお野菜とかキノコとかが。森の中で調達できるかな? でも、キノコは見分けるのが難しいんだよね」
「おや? 私はキノコだったら得意分野だよ。ベニテングダケ、ドクツルタケ、ツキヨタケ……」
「うん。それ全部、毒キノコ……」
ロマスは軽くため息を漏らす。タバサは魔女だから、キノコの知識が偏っているのかもしれない。
「正直、もっと食材は豊富に揃えたいなぁ」
そしてそれから、そう独り言を漏らした。それを聞くとタバサは言う。
「ま、少しくらいなら、街に行ったついでに私が買って来てやるよ。どうせ、いつかは補給しなくちゃならないのだし」
そのタバサの言葉に、ロマスは喜んだ。
「本当?」
と言うと、それからこう続ける。
「じゃ、ピーマンとかニンジンとか買って来てよ。お米とか、他にも色々。あ、後でリストアップしておくね」
「ちょいと。私はピーマンが苦手なんだがね」
「駄目。健康の為に、食べないと」
とそうロマスは言ったが、タバサにピーマンを買って来るつもりはないように思えた。そして案の定、
「――ママ。やっぱり、ピーマンを買って来てないじゃない!」
次の日、買い物に出かけたタバサは、ロマスが渡したメモの通りに、食材を買っては来なかったのだった。ピーマンの他にも幾つか足りない。主に野菜類。
「うるさいねぇ。売ってなかったんだよ」
そう返すタバサに、ロマスは文句を言う。
「ちょっとぉ! 食材が足らないと料理が作れないのですけどぉ?」
「だから売ってなかったって言っているだろう? どうしようもないじゃないか」
「信用できないもん。この時期になら絶対に売ってるはずの野菜も買って来てないじゃない。それに売ってなかったなら売ってなかったで、代用品を買えば良いだけの話だし」
「私にそんな知識があると思うのかい?」
そのタバサの言葉を受けると、ロマスは腕組みをしてしばらく考えた。そして、それからこう言うのだった。
「分かった。じゃあ、今度、街に行く時は僕も付いて行く」
「なんだって?」
その言葉にタバサは目を丸くする。召使の分際で生意気な、と思ったが、ロマスが怒りながら「ママの健康の為に必要なの! 僕はママの事が心配なんだよ?!」と言って来たので、何も言えなくなる。
“どれだけ生意気なんだい、このガキは。どうにも、教育方法を間違えたようだね”
などと彼女は思ったが、「本当に生意気なガキだね、お前は」と文句を言っただけで何もしなかった。実質、ロマスの提案を認めてしまった形だ。
その頃になると、ロマスはかなり自由にタバサの屋敷を使うようになっていた。薬の事をタバサから教わっていたから、少しずつ調剤部屋の掃除もするようになっていたし、三階の窓から木に登って、遠くを眺める事も頻繁にあった。
更に、少しずつ森を歩く範囲も広がっていた。犬のロンと一緒ならば、まず戻る道を迷う事はなかったから、彼は大胆に行動ができたのだ。釣りにもよく行った。タバサは、そんな彼の行動に徐々に慣れていった。
そして、ロマスが街に行く日になった。出掛ける準備を早々に済ませると、ロマスはタバサを急かす。ロマスは思いの外上機嫌で、「言っておくけど、けっこう歩くからね」というタバサの言葉もほとんど気にしなかった。それどころか、それを聞いて、
「へぇ、魔女って空を飛ばないのだね」
などと言って、却って喜んでいる。
「飛ばないね。その話は女達が女神と共に飛行し集うってな民間信仰が元だろうよ。私も詳しくないけど、キリスト教から観れば、そういうのは異教だから否定して魔女の悪いイメージを結びつけたのだと思うよ」
やがて二人は森の中を歩き始める。ロマスがあまりに楽しそうに歩くので、タバサはこう問いかけた。
「お前は、何が一体、そんなに楽しいんだい? やっぱり久しぶりに森から出られるのが嬉しいのかい?」
それにロマスは澄ました顔で返す。
「うん。それもあるけど、ママとお出かけできるのを、普通、子供は喜ぶもんだよ?」
その言葉と彼の様子に、タバサは、“あの屋敷の周りから、こいつを出す気はなかったが、偶にならいいかね”と、ついそんな事を思ってしまうのだった。
市場に立ち寄ったロマスは、タバサの不安通り、彼女の嫌いな野菜を買ったりしたが、それでも彼と買い物をするのは悪くなかった。考えてみれば、彼女は誰かと一緒に買い物をするなど随分と久しぶりだったのだ。
実を言うのなら、タバサはロマスが逃げ出す気でいるのではないかと疑っていたのだが、そんな素振りを彼は一切見せなかった。買い物に関して、多少のおねだりはしたが、昔の知り合いに会いたいといった類の我侭もほとんど言わない。それでタバサは、彼の事をより信頼するようになった。偶の買い物くらい許しても良いかもしれないと、ますます思うようになっていたのだ。
更に時間が経ち薬品について学習をすると、ロマスは少しずつ調剤部屋の掃除だけじゃなく、タバサから禁じられていた整頓もやるようになっていた。タバサは初めそれを怒っていたが、ロマスが何処に何を置いたのかといった索引まで作って分かり易くしているものだから、やがては文句を言わなくなっていった。明らかに、部屋の使い勝手が良くなっていたからだ。
ロマスは生意気に甘える子共のような態度でタバサに接しながらも、召使として自分が有能である事を、そのようにして彼女に証明してみせているようにも思えた。例えば、他にもこんな事があった。
ある日、彼女の悪友のヴェーダがタバサの屋敷を訪ねて来た。その報せをロマスから受けた時、タバサは少し面食らった。
「タバサ様。失礼します」
ロマスが彼女を“ママ”ではなく、“タバサ様”と呼んだからだ。恐らくは、初めての事だったのではないだろうか。
「タバサ様ぁ? どうしたんだい、お前が、私を“タバサ様”と呼ぶだなんて。熱でもあるのかい?」
驚いたタバサは思わずそう尋ねたが、それに彼は少しも表情を変えず「何の事でしょう?」とそう返すのだった。それからこう続ける。
「それよりも、タバサ様。ご友人がお訪ねになられていますが、どうしましょうか?」
「ご友人?」
「ヴェーダ様という方です」
「ああ、それなら居間にでも通しおいてくれよ。後で行くから」
「はい。かしこまりました」
不可解に思いながらも準備をしてタバサが居間に向かうと、ヴェーダが少しばかり面白くなさそうな顔をしてタバサを見ていた。どうしたのかと思って少し考え、察する。綺麗になった部屋と召使のロマスを見て、彼女はタバサに嫉妬しているのだ。
タバサが「久しぶりだね」と言って席に着くと、そのタイミングでロマスがお茶を持って部屋に入って来た。
「タバサ様。お茶をお持ちしました」
軽く礼をしてから、彼はお茶と菓子を置くと部屋を出て行く。普段の態度とは大違いだ。まるで何処ぞの資産家の有能なフットマンの様。もちろん、そう呼ぶには若過ぎたが。
「随分と良い召使を雇ったみたいじゃないか」
ロマスが部屋を出て行った後で、ヴェーダはそう言った。そしてその時になって、ようやくタバサは気が付いたのだった。
“まさか、あのガキ。友人の前だからって気を遣っているのかい? それで、私をタバサ様と呼んだりとか……”
軽く微笑んだタバサは、嬉しいけども少しだけ悔しいような妙な感情を味わっていた。自分の為にロマスが配慮してくれているのは嬉しいがしかし、同時に彼に子共のように接してもらいたいとも彼女は思っていたのだ。そして、それでなのか、
「なに、あんなのただのガキだよ。普段は私を“ママ”と呼ぶし、寝る時は布団の中にだって入って来るんだよ? そりゃ、家事はちゃんとやるけどさ」
と、それから彼女はそう応えたのだった。するとヴェーダは多少、怒った口調でこう言う。
「お前さんは、アタシに自慢がしたいのかい?」
「何を言っているんだよ、あんたは?」
そう返したタバサは、不思議そうにしていた。自分が仕合せそうにロマスについて語っている事に気が付いていなかったのだ。
家事さえこなしてしまえば、ロマスには他にする事があまりない。それでなのか、どうも彼は木登りを趣味として選んでしまったようだった。「危ないからやめな」とタバサがいくら言っても登り続ける。
「だって、木の上から見る景色ってとても綺麗なんだよ?」
そんな事をロマスは言った。タバサは流石にずっと屋敷と森の中だけでは飽きてしまうのかと考え、前よりも頻繁に街に連れて行くようにしたが、それでもロマスは木登りを止めはしなかった。そしてある日の事だった。
朝からロマスの姿が見えなかった。朝食どころか昼食の準備もしてあり、その他の家事も全て片付いていた。タバサはまた釣りでもしているのではないかと考えたが、釣り道具は物置の中に置いてある。それに、犬のロンも屋敷の周りで遊んでいた。散歩に出掛けている訳でもないようだった。
「ま、偶にはあいつも、一人で森を散歩する事くらいあるだろうよ」
そう独り言を呟いて、気にしないようにしたがやはり彼女は心配していた。
そして昼食を食べ終えた後だった。タバサは調剤部屋に置いてあったはずの薬が一つ足りなくなっている事に気が付いたのだ。
“おかしいね。確か、昨日の内に十個ほど仕上げていたはずなのに、九個しかないよ”
そこでロマスの以前の母親代わりの女性が病気だという話を彼女は思い出した。確か、病院に入院しているだとかロマスは言っていた。タバサは思う。
“まさか、あのガキ……”
それからタバサは、急いで街の病院へと向かったのだった。使い魔のネズミとコウモリをお供にして。
病院。その傍らに生えている木の上にタバサはいた。ネズミとコウモリの目を借りて、部屋の中の様子を見ている。病室にはロマスとそして彼の以前の母親代わりだろう女性がいた。病院は感染防止の為、立ち入り禁止となっているはずだから、恐らくロマスは勝手に忍び込んだのだろう。
ロマスの手には、タバサの作った薬が握られている。それを飲むように、ロマスは母親代わりの女性に言っていた。
その光景を見ながらタバサは思う。
“そうかい。そういう事かい、ロマス……。全てはこの為の演技だったのだね”
タバサを“ママ”と呼び、かつ布団で一緒に寝るような真似をして懐いている振りをする。そうして油断させておいて、薬品について教わり、調剤部屋の掃除や整頓を行うという名目で部屋を調べ、そして、病気を治す為の薬がどれだか把握できるようになっておく。そして木に登り、方向や目印を確認しながら街に何度か行く事で、森を自力で抜け出られるようになれば、後は薬を盗んで病院に届けるだけ。それでロマスは、自分の本当の“ママ”を救える。
“子供だと思って油断したよ、ロマス。小賢しいガキだ……。この私を出し抜くとはねぇ”
タバサはロマスを睨みつけていた。
“だが、お前は魔女を舐めすぎだ。魔女から物を盗んで、無事で済むと思わない事だね。呪って苦しみを与えた上で、殺してやるよ”
ネズミとコウモリが届ける視界。その中にタバサはゆっくりと手を伸ばす。ロマスの首筋が彼女には見えた。
“絞め殺してやるよ。その女はどうにもできないで、自分の子共が苦しみ悶え死んでく姿を見る事になるのだよ”
残酷な想像力。
しかし、後少しでその手がロマスに届くというタイミングだった。ロマスが母親代わりの女性に抱きついたのだ。彼女は薬を飲んだばかりで、「良くなったような気がする」といったような事を言った後のようだった。
タバサの薬にそこまでの即効性はない。その言葉はプラシーボ効果に因るものか、またはロマスを喜ばせる為の嘘だろう。
――そして。その時のロマスの表情を目にして、タバサは固まってしまったのだった。
それは、今までにロマスが彼女の前で見せた事のないとても嬉しそうな顔だった。その顔によって、ロマスを憎む気持ちが、タバサからすっかり消えてしまったのだ。そしてそれからタバサは肩を竦めると、
「はっ! 私は子共相手に何をマジになっているのだろうね?」
そう言って、ロマスを呪うのを止めたのだった。
ロマスはどう足掻いても人間社会の住人。魔女と森の中で暮らし続けて仕合せになれるはずがない。あの女と暮らした方が、良いに決まっている。元々、彼をさらって屋敷に連れ込んだ自分が悪いのだ。
彼女は無自覚に、そのような思いを抱いていた。
「その薬は餞別代りにくれてやるよ。お前にやるには高過ぎるが、袖刷り合うのも多生の縁だ」
そう独り言を漏らすと、彼女はそれから自分の屋敷に戻っていった。
屋敷に着くと、タバサは酒を飲み始めた。
“面白くない”
もう二度と、ロマスがこの屋敷に戻って来ないだろう事は明らかだった。薬を盗んだ立場で戻って来られるはずがない。
“いや、そもそも、一人ではこの屋敷まで辿り着けないだろう。森を出るのは何とかなっても、戻って来るのは訳が違う。不可能のはずだ”
独りきりだと思うと、妙に屋敷の中が寂しく感じた。そのまま彼女は、夜になっても飲み続けた。酒の肴が足らず、空きっ腹に酒を飲んでいる所為で、いつもよりも酔いが酷くなっていた。
「フン。あんなガキがなんだい。今度は、ちゃんと人さらいから召使を買う事にするよ。ロマスみたいな小賢しくて生意気なガキじゃなくて、少しくらい無能でも良いから、従順な奴を」
などと独り言を言う。ところがそのタイミングだった。
「ただいま~」
と、そんな声を上げて、ロマスが帰って来たのだ。タバサはその姿に目を丸くする。その不意打ちに混乱した。
「ロマス! お前、どうやって街から戻って来たんだい!?」
そして、そう声を上げた。澄ました表情でロマスはそれに返す。
「森の奥にまで進んだ辺りで、ロンを大声で呼んだら、迎えに来てくれたけど? 流石、魔女の使い魔。凄いねぇ」
それを聞いてタバサは頭を抱える。
「あのワンコロ! 何処まで、ロマスに懐けばいいんだい!」
しかしその後で、ロマスを睨みつけるとタバサはこう続けるのだった。
「ロマス! よく平気な顔で戻って来れたね。この私から、薬を盗んで無事で済むと思っているのかい?」
ところがそれにもロマスは澄ました顔を見せるのだった。
「何を言っているの。僕は盗みなんて、していないよ」
「ほぉ 言うじゃないか。私の部屋から、薬を盗んで、病院にいるお前のママの所に薬を届けたのを私は見ているのだよ」
「あれ? ママ、来ていたの? 顔を見せれば良かったのに」
「なんだってぇ?!」
タバサは怒ったが、ロマスは全く動じていなかった。彼は言う。
「僕は確かにママの調剤部屋から薬を取って、前のママの所に届けたけど、泥棒はしていないよ。むしろ、泥棒をしていたのは、ママの方だよ」
「私が泥棒? 何を言っているのだい、お前は」
「だって、ママは前のママから、この“僕”を盗んだじゃない。何か支払わないと、ママは泥棒になっちゃう。だから僕は、その代金として、前のママに薬を届けたのだよ。言っておくけど僕は高額商品なんだし、代金を支払っていなかったママは分が悪い。あの薬で支払う事を拒否はできないよ」
そのロマスの言葉を聞くと、タバサはワナワナと震え始めた。
「病院で、お前はあんなに仕合せそうに笑っていたじゃないか! どうして、こんな森の中の屋敷に戻って来たんだい?」
ロマスはそれを受けて首を傾げる。
「もしかして、ママ、あれを見て嫉妬していたの? そりゃ、仲良くしていた人の命が救われたと分かったら喜ぶよ。もしあれが、ママだとしたって僕は同じくらい喜ぶよ?」
タバサはそのロマスの言葉に顔を少し赤くする。
「そもそも、こんなに夜遅くになるのなら、何か言ってから出て行くべきじゃなかったのかい?」
「だって、こんなに時間がかかるとは思わなかったのだもの。森を出るのに、少し手間取っちゃってさ」
顔を少し赤くしながら、いつも通りの小生意気なロマスの態度にタバサは安心をし、わずかながら涙をこぼしていた。
――病院。
ロマスの以前の母親代わりの女性の部屋。ロマスが部屋を出る直前。
「行ってしまうのね、ロマス」
母親代わりの女性がそう尋ねた。
「うん。ごめんね、ママ。あっちのママは、寂しがり屋のクセに、森の中の屋敷でたった独りだから。
きっと、今頃、僕がいなくて、泣いていると思うから」
ロマスがそう答えると、彼女はゆっくりと笑ってこう言った。
「そう。分かったわ。あなたの今度の母親が、良い人みたいで良かった」
それにロマスはこう返す。
「うん。とっても優しい人だよ」
それから名残惜しそうにしながらも、ロマスは病室を出て行った。彼が出て行った後で、彼女は“仕合せになってね、ロマス”と心の中でそう呟いた。
「あの薬はとっても高いんだ! お前が代わりになんてなるかい! さんざんこき使ってやるから覚悟しな! 取り敢えず、夕食を作るんだよ! こっちは腹が減って仕方がないんだから」
「当たり前でしょう? 夕食を食べないなんて不健康な事、この僕が許すとでも思っているの? ママ。
あぁ、もぅ、こんなにお酒を飲んじゃって! 少しは抑えないと駄目だよ」
――タバサの屋敷。
ロマスはそう文句を言いながら料理を作り始めた。自分の予想通りに、寂しがっていたタバサを愛おしく思いながら。
”魔女狩り”の話を考えている最中に、魔女狩りでも何でもない話を思いついたので、書いてみました。
因みに、小説の中に出てきた”ロン”という犬の名は、僕が子供の頃に飼っていた犬から取りました。久しぶりに会いたくなったので、登場させちゃった。