たまにはあたしを振り向いて、その手を伸ばしてくれたら。
それだけでよかったのに。
黒い革の靴が、カツンカツンと音を立てて前を歩く。
ぱたぱたと急ぎ足で追いかけて、荒い呼吸に気づかれないよう小さく息をはいた。
彼はいつも両手をポケットに入れていた。
寒いから、冷え性だからという理由ではなく、それはもうクセに近いんだろう。
だから、あたしはその手に触れたことすらない。
いつも急ぎ足で追いかけるその背中は、今日もひたすら無表情だった。
「きょ、今日はどこにいくの?」
「買い物。ずっと欲しかった靴があるんだよ」
背中越しの会話。
顔なんて見えやしない。
きっとあたしがオツキアイしているのは、彼の背中にちがいない。
半歩後ろの、定位置。
それでも気を抜くと距離が出来てしまうから、いつも必死で追いかけた。
待ってなんて、いえなかった。
ただでさえコドモなのに、その自覚もあるのに、こんなことで彼をわずらわせたくなかった。
あたしが好きになったひとは、たしかにここにいるはずなのに。
いつも会うたびに、遠距離レンアイをしているような気がしていた。
はじめてのデートでどうしても彼のとなりを歩きたくて、必死でその横をキープし続けた。
けれど、急ぎ足のために乱れた呼吸を我慢しすぎて、あえなく貧血。
強制帰宅になった。
二回目のデートではその歩幅に合わせようとして靴ずれを起こし、即帰宅。
履きなれない靴を履くなと散々しかられた。
三回目のデートで足がもつれて転倒。
四回目のデートで足首をひねった。
五回目のデートで人にぶつかり。
六回目のデートで足がつった。
今日は七回目のデート。
相変わらず彼との距離はいっこうに縮まらない。
だから、もう追いかけることをやめようと思った。
あたしがいないことに気がつかなかったら、振り向いてくれなかったら。
そのまま、家に帰ってしまおうと決めた。
さよならを自分からいえるほどオトナではなかったし、きっと彼は振り向いてくれると、そう信じていた。
ぱたぱたと追いかけていた速度を、ゆっくりと落とす。
半歩から一歩分。
距離は広がって、遠ざかる背中。
混雑する遊歩道の真ん中で、完全に足を止めた。
人ごみの中にまぎれる、見慣れた背中。
声も出さず、振り向いてくれるのを待った。
「ばか」
彼は、振り向かない。
なんとなく、どこかでそう思っていた。
あんなひと、どこかにいってしまえばいい。
ひとりで歩いていることにも気がつかずに、後ろに話しかけて、はずかしい目にあってしまえばいい。
雨でもないのに視界がゆがんで、アスファルトに染みをつくる。
あたしばかりがいつも必死。
答えてくれるのは、あの無表情のつめたい背中。
あたしがすきになったのは、背中じゃない。
こんなところで泣いたって、もう彼にはとどかない。
下を向いて嗚咽をこらえる。
歯を食いしばって、てのひらをかたくにぎる。
帰ろうと思っているのに、体が言うことをきかなくて、ぼたぼたと涙ばかりが落っこちてきた。
ハンカチを使うなんてそんなわずらわしいことができるわけもなく、目をこすろうとしたそのとき。
宙に浮いた手は、正面からつかみとられた。
「目を、こするな」
聞きなれた声に顔をあげれば、彼がそこに立っていた。
先に行ったはずなのに、どうしてここにいるんだろう。
つかまれた手はとても熱くて、じっとりと汗ばんでいた。
「なん、で」
「それはこっちのセリフだ。なんで泣いているんだ」
「とな、り、あるきた、い」
「だったら、手をつなげ。俺にはお前の歩く速度がイマイチつかめないんだ」
泣きじゃくるあたしの手をつかんだまま指をからめられて、涙がとまるのと同時に顔に火がついた。
腕を引っ張るように歩きはじめた彼のとなりを、手をつないだままならんで歩く。
横をみあげれば、彼の横顔。
背中じゃない、あたしの好きなひと。
つないだ手と反対側で、ネクタイをゆるめるのが見えた。
やっぱり、走って戻ってきてくれたらしい。
うれしいけど、はずかしくて、頭の中が混乱する。
いまだしゃっくりがやまないあたしのとなりから、やさしい声がふってきた。
「俺は、お前が必死に後ろからついてくるのが、かわいいと思っていたんだよ」
と、いうことは。
彼はあたしの必死な行動に気がついていたわけで。
「い、いじわる!」
思わず、となりの彼を見上げてにらみつければ、目があって。
となりで歩いている姿も悪くないなんて笑いながらいわれて、またさらに顔が熱くなった。
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