【展覧会の絵】
その建物がいつからそこにあったか知る者は居ない。
太古からあったのかもしれない。
昨日、出来たのかもしれない。
誰一人、知らぬ。
不毛の砂漠の、小高い丘に、下界を卑下するように佇む、圧倒的な威圧感。
それは、白色の神殿と呼ぶに、まこと相応しいナリをしていた。
夥しい数の、太い円柱に支えられた天井は、巨人のためにあるかと思えるほど高所にそびえ立ち、そこには何やら、壮大な模様が描かれている。
己が輝いているかと見紛う床石。のみならず、その神殿の中は、常に淡い輝きが包んでいるようであった。
神か、それに仕える神官か、巫女くらいしか、こんなところにはいないだろう。
人は居た。
だが、神官とも、巫女とも思えぬ、おおよそ似つかわしくない者達。
ある者は浮浪者であった。ある者は乞食であった。ある者は子供、否幼児だった。
壁があった。壁というよりは、板、仕切りである。しかし、それは透明だ。
浮遊する、モノリスの如く、空間を仕切るそれらには、金色の額が架けられていた。
中に納まっているのは、絵画だった。
油絵だ。
油絵だが、奇怪だ。
構図も、材も、何もかもが。
描かれているのは、全裸で絡まる男女であったり、サバトのような儀式の場面であったり、人間を喰らう異形の怪物であったり、どこかの荒涼たる廃墟であったり、不毛の大地であったりする。
材の悪趣味さならまだいいかもしれない。
否、静止画のはずなのに「動く」。絵画のはずなのに「音」や「声」がする。
喘ぎ声が、苦悶の叫び声が、寒気を伴う風が、獣の遠吠えが、聞こえる。
生々しく蠢く男女が、滴り落ちる鮮血が、赤々と燃え盛る炎が、見える。
神殿に集った者達は、これらの絵を、眺めている。
おおよそ、芸術からは縁の無い、あるいは見放されたような者達が、これらの絵を理解できるとも思えない。そもそも、芸術的価値などないだろう。にも関わらず、この悪趣味な絵画は、高価な金縁の額に入れられて、高級な建物の中に飾られている。
一体何のために?
いつからそこにあったか知らぬ珍妙な建物。
その場には似つかわしくない人々。
悪趣味で下劣な絵画。
突如、場の空気が動いた。
呆けたようにして、思考を停止したように、絵に見入っていた人々に、それぞれの運命が訪れた。
情交に耽る男女に興奮した浮浪者は、絵にかじりつくように近づいた瞬間、その中に引き込まれた。そして、ボロを脱ぎ捨て、饗宴に参入を開始する。
垢塗れの肉体を、女は拒まなかった。
恋人のように丹念に身体中を舐め尽した。
ぼんやりと、不気味な怪物の絵を見上げていた子供は、突如、絵の中から現れた太い腕に頭ごと捕まれて、絵の中へ取り込まれたと思えば、瞬く間に食い殺された。
床を這う幼児は、どういうわけか、砂漠を彷徨っていた。
そうやって、その建物から人は消えた。
絵も、音や動きをやめ、ただの悪趣味な絵画へ戻っている。
静寂が包む館内に、高い靴音が響いたのはその時だ。
コツ、コツ、コツ、コツ。
滑らかな、やわらかい音の主は、真っ白なタキシードに身を包み、右手にステッキを持った男だった。
口ひげを蓄え、シルクハットを目深に被り、優雅な所作には、一分の隙も見られない。
男は、絵の前で止まった。
彼も、鑑賞者の一人なのか?
そして今、神殿はまた、一人の訪問者を招き入れた。
黒装束を纏った、女性。
その長い黒髪は、顔を覆いつくしてしまうほどに長かった。事実、半分の顔は隠れている。
美しいというよりも、目、鼻、唇、どれも小粒で鋭く、知的な顔立ちをしている。
静かに、二人は対峙した。
男はさながら紳士。女は淑女といった所か。いや、むしろ、死神・・・・。美を纏った死神だ。
「ようこそ、ここの館長です」
馬鹿丁寧に、男は会釈した。
「始めまして。教会特別執行部隊、夢美咲と申します」
教会特別執行部隊。それがどのようなものか知っているのなら、双方の挨拶は嵐の前の静けさと言えるだろう。
館長は顔色を変えなかった。知らぬ、と語っている。
「ほう」
とだけ、ため息のように言った。
「私を、殺しますか?」
いきなり、この男は何を言いだすのか。しかし、それは不敵な自信に裏打ちされているかのように、彼は微笑んだ。
「はい」
美咲も美咲だ。
「ただしそれは後回しです。まずはその絵・・・」
「ほう」
「その絵の処分が先です」
「させませんよ」
と、館長はステッキを振り上げて、それで美咲を指した。
直後、彼女は吹っ飛んだ。
そしてそのまま、しばし床へ横たわった。
コツ、コツと高い靴音を響かせて、館長は美咲へ近づいた。
「肋骨を折りました。動かないことを勧めます」
だが、美咲はその言葉の端から立ち上がった。
口から鮮血を滴らせている。ぞっとするほど美しかった。
「愚かな」
もう一度、館長はステッキを振り上げた。
「次は心臓を潰しますよ」
直後だ。
美咲の首がかくっと項垂れた。
眠りに落ちたかのように。
否、彼女は眠りに落ちたのだ。
立ったまま、崩れることもなく。
一体何を考えているのか。
それでもステッキは美咲を指した。
嗚呼、これでは確実に、美咲の心臓は体内で血の薔薇を咲かせるはずだ。
名の通り、美しく咲くはずだった。
しかし、成就はしなかった。
床が・・・・・陥没した。美咲の立っている部分を残し。
すり鉢上になった床へ、館長は飲み込まれた。
いかなる技か。美咲は眠っているのではないか?
「・・・なかなか、恐ろしい技を使いますねぇ」
崩壊した床の下から、あの清ました声が響いた。
のみならず、瓦礫が、浮き上がり、美咲へと殺到した。さながら、隕石のように。
だがそれもいかなる技か、瓦礫はすべて、美咲を避けるように移動し、壁に、天井に、柱へ次々激突した。
「なるほど、それが・・・夢術」
クレーターのような床から、埃一つ付着していないタキシードが浮かんできた。
「なるほど、素晴らしい。あの絵は、あなたのような人間にこそ、見る価値がある。ですが、あそこにあるのは、失敗作です。いくらでも、好きなように処分なさい。あなたが本当に見るべき絵は、まだ他に、沢山ありますからね」
そう言うと、館長は中空を漂うように、神殿の奥へと消えた。
立ったまま眠る、美咲だけが残された。
その覚醒は何時か。
意外にも早かった。
何事も無かったかのように、彼女は目を開いた。
胸の辺りを擦る。
肋骨にダメージはあったはずだ。しかし、どういうわけか、彼女は何の痛みも感じていない様子だ。
そして、絵に近づく。
眺めた。
「・・・・なるほど。失敗作、というよりは、これは贋作ですね」
美咲にも、絵が動いているのが見えた。音や声を発しているのが分かった。それでいて僅かも動揺しない。
教会特別執行部隊。通称、ヴァンパイア・ハウンド(vH)。教会が組織した、対吸血鬼戦のための特殊能力を持つ人間で構成される、特殊部隊である。美咲はその隊員の一人なのである。
「引き寄せられた人たちは、この中に消えた・・・のですか。なるほど、贋作ながらこの力。本物ならば・・・」
しかも、館長はさらに上のものがあるという口ぶりだった。眠ってはいたが、話は聞こえていたし、理解もしている。美咲のあの眠りは、ただの眠りではないのだ。
「そしてこの神殿」
教会によると、この建物は「突如」現れたのである。これほど荘厳なものが、文字通り「出現」するはずもないが、これが「博物館」と聞いて美咲は納得した。
魔界から齎されたとされる奇怪な品々。これらは、闇の中でもさらに闇のルートで取引されている。主に使うのは、「画伯」と呼ばれる骨董商で、彼等が品の調達、流通を担当する。ただ、画伯のような存在が他にもいるかは教会の組織力、調査力をもってしてもまだ解明ができていない。その中でも、数少ない成果の一つが、「博物館」と呼ばれる謎の施設だ。
その名の通り、魔界から齎された数々の品を展示するのが、「博物館」なのであるが、その目的はまるで不明だ。
これら、いわば魔界の叡智を、わざわざ人間相手に開闢、開陳する必要性などまるでないはずだ。むろん、芸術的見地からは。
ただ、別の側面からならば十分に意義がある。人間界への仇である。
これらの奇怪な品々が、どれほど人間界にとって危険な代物か。即効性の劇薬か。教会は知悉している。
故に、すべての魔界物品は、第一級危険物として指定され、即刻の破棄、処分が決められている。
この建物にあるのは、どうやら絵画だけらしい。そういう点では、むしろ「美術館」と呼んだほうがいいだろうか。
呪いをふんだんに染み込ませた絵画群。破壊の意義は十二分ある。
しかし、一旦無視した。
美咲は奥へ進み、突き当たりを道なりに右へと折れる。
只管に、直線的な廊下が延々、奥まで続いていた。
他の絵画はどこか。左右の壁には何も無い。
顔にかかる髪をかき上げるでもなく、美咲は歩き出した。他に道は見当たらない。
何か仕掛けでも?
だが、実際はただ長い廊下が続いているだけだった。何事もなく突き当たりへ至る。
また右へ。長い廊下。
やはり左右の壁には、何も無い。
何歩か歩いて、美咲は足を止めた。
人が居た。館長ではない。
カンバスが一枚、その後ろに。
誰かが絵を描いている。
「先ほどからずっとあなたを描いているのですよ」
館長ほどではないが、柔らかい男の声音だった。カンバスに隠れて、姿ははっきりしない。
廊下の真ん中で絵を描く男。
「あなたとは、今、初めてお会いしましたが?」
「何時出合った、ということは意味がありません。私は既に、分かっていた。この場面が来ることを。次にあなたが何を言うのか、私は何を言うのか、すべて知っている。何もかも知っているのです」
美咲は異議を挟まなかった。
「聞いたことがあります、そのようなお話を。ですが・・・」
「私の見えているものなど、一部です。私はすべてが、文字通りすべてが見えているお方から、その力の一部を頂いたに過ぎない」
「”彼等”ですね」
「むろん、あなた方ならばご存知のはずだ。しかし、今は関係はありません。私は、私の意思でここにいるのですから」
美咲は進んだ。問答をするためではない。
「通しませんよ。と、言うよりもうあなたは動けないはずだ」
確かに・・・・。
それ以上、一歩も進めなかった。足が動かないのだ。
「このあなたの絵から、あなたの足首を消しました。だからあなたは動けない。肺を消したとしましょう。すると、あなたは忽ち呼吸ができなくなる。目を消せば、あなたは盲目となる。心臓を消せば・・・・あなたは死ぬ。どのような絵か、お見せできないのが残念ですがね」
絵だけではなく、姿さえ上手く見えない。少し身を乗り出せば分かりそうなものなのに。
「抵抗は無駄です。あなたがどう出るかは、既に知っている」
「試しますか?」
「どうぞ」
美咲は目を閉じた。首が垂れる。
夢術が発動するのだ。
天井付近の空気が震えたようだった。
刹那、眩い閃光が轟音と振動と共にひらめいて辺りの空間を白色へ染めた。
美咲が操ったのは、雷であったようだ。
しかし、それを受けたであろう男は、無傷らしかった。
「無駄です」
突如現れた雷電を無効化したのは、一体いかなる技か。
「では、私はあなたの肺を消滅させましょう」
彼女から見えないところで、男は何かをしたか。
眠る美咲に変化は起きたか。いかなる彼女も、肺を失えば眠るどころではないだろう。覚醒を強制され、のた打ち回るのではないか。
あるいは、そのまま文字通り、眠ったように逝くのか?
彼女は腰を下ろした。少なくとも、肺を失った者の動きではない。
空気椅子と言うのか、むろん、そこには何も無い。だが、彼女は何かに座っているような格好になったまま、宙へ僅か浮いた。
直後、一陣の風が吹いたようだった。
それは、滅びの風と言えた。
男が床へ沈んでいく。
カンバスが、その背後の椅子が、そこに座っている男の足が、床の中へ没していく。
床のはずが、波紋が走る。水滴が跳ねた。ただ見るには床なのに、である。
完全に呑まれた。
美咲は目覚めない。攻撃は完了していない、とでも言うように。
いかなる魔技か。
彼女の胸から、腕が突き出た。
鮮血が、滴る。
それは、最後の抵抗だったのかもしれない。男に見えていたのは、自身の敗北だったか。
肺を消滅させた時点で、その勝利は揺るがないものであったはずだ。それは、男にも「見えていた」。
しかし、実際、美咲は悶えもしなかった。
戦いは終わったか?いかにして?
胸の傷も無い。鮮血も。
それは、すべてを夢に帰した結果だった。何かが予め、見通されていたのなら、その予想された結果さえも、夢とする。ダメージを受けたとしても、その事実を夢とする。あらゆるすべてを夢に変えることで、攻撃を受けた事実は消滅し、予測されている攻撃、その結果さえも無効化させてしまう・・・・。
それが、夢術の本質でもある。
何事も無かったかのように、美咲は先を進んでいた。
奇怪な、空間だった。
闇の中に浮かぶ、ピラミッドのような物体。全部で三つある。それが、回転しつつ、空間を回っていた。
その回転の輪の中。
白いタキシードを着た館長は、円を描いて回るピラミッドの中心点でゆったりと足を組み、足元を見つめていた。
小さな泉のようなものが広がっていた。
「いつからそこにいたのですか?」
館長は、足元を見つめながらゆったりと口を開いた。
闇の中に、誰かがいるらしい。
「主より、手際の程を確認するように、仰せつかったもので」
「ふむ・・・・」
コツコツと、館長はステッキで床を叩いた。神経質そうに。
「画家は死んだか」
「はい」
「次の手は?」
「あなたに、報告する義務はありません」
闇に要る誰かと、館長は、どうやらあまり仲は良くないらしい。
「そのまま、主に伝えてもよろしいか?」
「間接的な報告を、あのお方は信用しない。違いますかな?同志・・・」
そこで初めて、館長は声の主へ身体を向けた。
「画家は未熟でした。あのお方の力の一部を頂いただけで、神にでもなったつもりでいた。実に、愚かしい」
彼は強く、ステッキで床を叩いた。
「ところで、せっかくですから、余興でもご覧にいれましょうか」
館長は、泉へ近づいた。
ステッキの先端を、水の中へ漬ける。
水面に模様を描くようにして、彼はステッキを動かした。
一見すれば、ただ水をかき混ぜているようにしか見えない。
どれくらい、そんな動作が続いただろうか。
突如として、館長はステッキを引き抜いた。
そして先端で床を叩いた。
すると・・・・。
何かが、這い出してきた。水の中から。
胎児のようだった。
その身体は真っ青だ。
「・・・ギッ・・・ギ・・・ギッ」
だが、発する声が、もはや人間であることを裏切っていた。
「それが・・・余興か?」
どこか失望を漂わせる口調だった。
「児戯ですよ」
真っ青な胎児は、館長の足元に擦り寄ってきた。生みの親と、直感的に理解しているのか。
「私に言わせれば、あの絵は所詮、未完成の失敗作に過ぎない。主の計画には、なんら寄与はできません。ただし、私の創造欲を満たすことくらいはできる」
「魔界の遺産を、貴殿の私的な欲望のために利用するつもりか?」
「遺産とは笑わせる。多くは贋作です。ただし、本物は残してありますよ。いつの時代も、真の芸術的傑作は、ごく一部です。真贋を見極める術は、心得ているつもりです」
「貴殿の芸術論に付き合うつもりは無い。確かめておきたいことは、教会の猟犬から、我々の計画を守り通せるかどうかということだ」
「無論です」
微塵の迷いも感じられない口調で、館長は断言した。
気配の消失を、彼は感じた。歓迎されない訪問者は去ったらしい。
しかし、しばし館長はそこを動かなかった。
あの青い胎児はどこへ消えたか。
関心を失ったように、彼は天井を仰いだ。
闇しかそこには臨めないが、そこに館長は何かを見たか、薄い微笑を浮かべた。
美咲は扇形に開けた広場に出た。
建物は、今までも奥に広かったが、ここでさらにスケールを増している。
まず、門だった。
巨人の国へ迷い込んだかと見間違うほど、巨大な門。
そして、その左右に起立する二体の黄金の像。
金剛力士のような像だった。厳しい面をして、三咲から見て右の像は、長い如意棒のようなものを、左は金棒のようなものを持っている。背からは羽衣が靡いたような形の装飾が生えていた。
これら、巨大なオブジェの前では、三咲など、蟻同然であった。
だが・・・。
これらが「絵画」であると信じられるだろうか。
大門と、その左右に立つ、二体の黄金像。
絵画であると、三咲が気がついたのも、かなりの距離を近づいてからだった。その絵画は、巨大な壁面に描かれているらしかった。それにしては、奥行きも、高さも、まるで本当にそのような景色があるかのような臨場感を伝えてくるのだ。立体映像のイメージだ。
絵画であるが、紛れもない扉であり、門である。長い通路のどん詰まりの先には、この空間しか存在していなかった。故に、この絵画の大門を抜けなければならない。
どうやって、絵の先へ行こうというのか?
とりあえず、近づくというのは、正攻法と言えた。
二体の力士像が今にも口を開きそうだ。
事実・・・・・。
開いた。
「何用だ」
左右、どちらの像の声か。
「ここへ人間が踏み込むなど・・・・おお、今まであったか」
「否。我等の創造主以外の人間を、永劫と言っていい時間、目の当たりにすることはなかったぞ」
「どうやってここへ至った、人間よ」
一様に、三咲への賛美とも言えた。
彼女は、それら、降り注ぐ賛辞の言葉に足を止めることなく、進み続けた。
「止まれィッ」
だが、止まらない。
「なるほど、おまえ、恐怖していないな。どのような術か・・・」
そう、三咲は目を閉じているのだ。すでに彼女は、夢術の中にあった。
その動きたるや、まるで夢遊病。眠っているのだから当然と言えば当然だ。
「久しぶりの人間というだけでなく、珍しい技を持ち合わせていると見える。よかろう・・・この大門を守護する任を授かったからには、全力で相手をしてやるとしよう」
ずん、と大地が揺れた。
三咲は・・・・揺るがない。
ずん、と再び世界が揺れる。
ぬうっと、絵画が立体を得た。
文字通り、二体の力士像が、抜け出してきたのだ。
ものすごい風圧だ。わずか、動くだけで突風のような風。そして、何より三次元の空間へ現れたことで備わった、圧倒的な存在感と威圧感。
しかし、眠っている三咲には、まるで通じはしない。見せ掛けの強大さは、今の彼女には無効だ。
ならば・・・・。
直接仕掛けるしかない。
蟻を踏むにも等しい作業。凶器は右足、あるいは左足一本で事足りるように思えた。
にも関わらず、二体は獲物を使った。それが、相応しい歓迎のやり方であるかのようにして。
ほぼ同時に、振り上げて、下ろされた。
壁のような凶器が、突風と共に叩きつけられる。
火を見るよりも、結果は明らかだ。
なのに、力士の変化しない形相は、明らかに、明らかに、驚愕を称えていた。
三咲は歩き続けていたからだ。着実に、絵画の大門へ近づいている。
手ごたえはあった。あまりに小さくて的を外したのかもしれないが、力士像は確かな感覚を得ていた。二体揃って。
だが、敵は、平然と歩いている。ならば、あの手ごたえは・・・?
未知の現象が、力士像を数秒間、硬直させ、思考停止状態に陥れてしまった。
「・・・なるほど。おもしろい。そちらの世界の理か」
「ならば、我等の攻撃が無効化されるのも道理」
「では・・・」
像の声が揃った。
空気が振れた。
刹那。
巨大な空間に、天を仰がんばかりの力士像と、一人の人間は居なかった。
圧倒的な壁面に描かれた大門と、その左右に起立する像。
しかし、目を凝らして見れば、絵画は動きを持っていたであろう。
そう・・・・・。
三咲は絵画の「中」に居たのだ。
「こちらの世界へ招いた」
三咲は依然、歩行を続けている。その正面にあるのは、質量と、大きさ、高さを備えた三次元的存在の大門だ。絵画の大門を通過するのなら、その中に入り込み、通り抜けるしかあるまい。
もっとも、夢術はまやかしさえも夢と化すから、遅かれ、早かれ、絵画という障壁は無効化され、三咲は門を越えていただろう。
その前に、三咲を絵画の中へ取り込み、自分たちのフィールドで勝負する。力士像たちの判断は、正しいと言えた。
二体はやはり、三次元的な大門の左右に居る。
先ほどと同じ三次元的存在でも、ここは二体の「世界」なのだ。勝手が違うというものだが、それをまったく感じさせない三咲の動きだ。
彼女は何を夢見ているのか。
彼女の捕らえている世界は、如何なるものなのか。
すべてを知るのは、三咲のみだ。
力士像が動いた。
「御せるか?我等の獲物!」
先ほどは、無力だった。だが、今回はどうか?
風圧を伴い、再び、二体の棒と、金棒が、唸った。
泰然自若としている三咲を、今度こそ完全粉砕するために・・・・・。
凶器は、大地を抉った。やはり、二体は手ごたえを掴んだ。
今度こそ、息の根を止めた。
しかし、戦慄が駆け抜けるのに時間はかからなかった。
三咲は、浮遊していた。
眠ったまま、そして宙を漂うように動く。正しく、歩行の動きのままに。
潰した。確かに、叩き潰したはずだ。
力士像から、猛々しい殺気が消失していた。
自身の世界に引き込んで尚、揺るがぬ存在。
それは・・・・・。
神を超えている。神を超える者などあるのか。
二体はそうやって、しばし沈黙した。三咲は歩む。
門の先を・・・・力士像は知らぬ。
だが、その先を渇望する欲求は、彼らに与えられた、そして許された感情ではなかった。
沈黙はしたが、諦めではない。
動きは止めたが、見逃す意味ではない。
少々の驚愕でしかない。驚きという感情くらいは、彼らも持ち合わせている。
「ならば、これではどうだ」
波動が空気を激震させた。
それは、負の感情を乗せている。
この世界において、二体は神同然である。念じれば、すべてが彼らの支配下。森羅万象は、彼らの思うがままに。
消えろと念じれば、すべては消える。生じろと思えば、何かが生まれるだろう。
ここは、そんな世界なのである。
今まさに、二体はこう念じた。
「消え去れ!」と。
にも関わらず・・・・。
三咲は、在る。
空気が震えたようだった。それは、刹那に、力士像と三咲の「世界」が激突した証左だったろう。まさに死闘に違いない。
しかし。
美咲は歩み続ける。強大な力比べをして尚、まだ余力を残しているかのように。
目には見えない。不可視の念だけが飛び交い、力士像は憤怒の形相を一層濃くし、まさに阿修羅だった。一念、美咲とその世界の消滅、崩壊だけを願って放つ負のエネルギー。その奔流は木の葉のようにして美咲を翻弄するだろう。
なのに、彼女は揺るがない。雨の中を、吹雪の中を行脚する求道者のようにして、歩むのを止めない。それこそ務め、と主張するように。むろん、すべてに背を向け、無関心を決め込んでいるのではない。同じように、彼女もまた、死力を迸らせているのである。消滅を念じる力と、対等に渡り合う力とはいかなるものか。空気の震えのみが、ぶつかる力を測る唯一の指標となった。
その震えは、次第に、目に見えて大きさを増した。そよ風が、突風になった。ついには、暴風と化す。このまま続けていけば、やがて空間に亀裂を生じ、開いた暗黒の中へ、すべてを放逐してしまいかねないだろう。それほど、風は荒れてた。荒れ狂っている。
続いて、地が反応を見せる。地震である。規模に換算できるのかと思える揺れは、出鱈目に世界を乱した。
その天変地異の中で美咲は・・・・。
やはり歩いている。あらゆる存在を、無様にひれ伏させる揺れなど、どこにも無いというように。
だが、気がついているか・・?
確かに、彼女は歩いている。実際、進んでもいる。
いや。
進んで「いた」と言うべきか。
今、美咲は歩いているが、もう彼女は前には進んでいなかった。ある地点より前に、一歩も進めていない。歩いているのに進まない。門を目前にしての明らかな停滞。
その停滞に、彼女は気がついているのか?
今、ここに来て彼女の夢術は、力士像の思念との均衡をわずかに崩し始めていた。歩みの滞りこそ、その証。美咲は尚も、無意味となった行進を続けるというのか?
否。
止まった。
美咲の歩みが、ここへ来て止まった。
そして、そのまま佇んでいる。
次なる一手を、どう打つのか、夢美咲よ。
一方の力士像達は光を得ただろう。今まで止められなかった敵を、ついに止めたのだから。
しかし、勝利を夢想するほど、彼らは油断もしていなかった。
一筋縄どころか、幾筋縄でもいきそうにない相手と既に痛感している。ならば、ここでさらなる強大な力で粉砕するのが、道理。
美咲とて、むろん、ここで術を解くわけにはいくまい。もし術を解けば、即、彼女は消滅してしまうだろう。ならばより強大なレベルに力を引き上げるよりあるまい。
首が垂れる。
「おお!」という声は、風の音だったかもしれない。
地の揺れは、一旦収束したが、それは次なる天変地異の呼び水でしかなかった。
急速に、世界が暗転した。
不穏な、鉛色の雲が生じている。分厚いカーテンのように、周りから光を吸い取って、雷電として放出した。落雷が、地面を抉った。ゴロゴロと不吉な、落ちつきの無い音が、間近でリフレインして、世紀の対峙を演出する。
「世界」のそこかしこで雷光が踊って、森を焼き払い、地面に穴を開けた。今、光の矢を操るのは、美咲か、力士像か。
力は、ここへ来て再度拮抗した。いや、二者の周りで巻き起こっている怪異が、質を変えたことで、その力関係もまた、動いたはずだ。
知れぬ。
奇怪な対峙が、どう終結を見せるのかも。
この場合、天だの、神だのという概念を持ち出してはいけない。天のみぞ知る、あるいは神のみぞ知る、というように。
なぜなら、この「世界」では、天や神さえも、まやかしであるからだ。美咲によれば、天や神さえ夢となるだろう。
混沌はより深まった。
無の空間から、水が生じた。その水は流れるでもなく、落ちるわけでもなく、中空で滞留した。波のように打ち合い、ぶつかり、しぶきを上げては壊れていく。
泡が生じる。泡は虚空に張り付いたまま、オブジェのように奇妙な模様を描いていく。
乱流が加速した。泡は増殖するが、水のようには砕けないので、辺りは一面、白色の膜と化した。
かと思えば、その宴のような光景は突然、終焉した。
代わりに・・・・。
雨が降った。
落ちるのは水だけでなく・・・・。
魚・・・だ。
そこで激突しているのは、一体、いかなる世界だというのか。
技、力比べの果ては・・・・。
見えた。
先ほど消えた泡が、力士像を侵食している。
いつしか、彼らは見ることを止めていた。聞くことも、感じることも。
否、「取り込まれた」というべきか。
力は均衡していたのではない。互いの力はぶつかりながらも、実は、美咲の方が確実に相手を圧倒していた。少しずつだったため、相手も気がつかなかったのだ。それはさながら、空気中に少しずつ混ぜ込まれた微量な毒物が、体を蝕んでいく様にも似ていた。
瞬間、門が開いた。
そこには、金色の額縁のみがあった。
そこに収まるべき、イメージは・・・・。
流出をしていた。
ドロドロと、体液のように、額から流れ出して、床に広がっていく。
絵の具が溶けたようだが、いくらそうでも、絵の輪郭くらいは残るはずだ。
しかし、丸ごと、そっくり額から流れ出しているのは、やはり異常だろう、まるで、絵画が、そのまま外の世界へ抜け出したいともがいているかのようだからだ。
いくつの額があるか知れぬが、すべてがそうであった。
これこそが、「本物」と美咲は知った。この、目の前の光景は、美の崩壊などではない。これこそ、「絵画」の真の姿なのである。
醜い、吹き溜まりが、汚れが。
月並みな美を嫌い、蔑むように、もはや、絵画としての主張を止めてしまっている異形の作品たちを前にしたら、その月並みな美で名声を得た画家たちは一様に悪辣な、呪詛の言葉を吐くだろう。ましてや、この汚物を芸術作品だと認めるくらいならば、彼らは喜んで、死を選ぶかもしれない。それは、自身の存在理由を奪われるに等しい。
入ってきたはずの門は今は影も形もなく、背後はただの壁だ。
「作品」はただの溶けた液体だが、それらが飾られているのは、贅を尽くした空間だった。
王宮の一室のごとき絢爛な部屋。部屋と呼ぶには、広すぎる。無意味なほどに。その中で、額は壁にかけられてはおらず、中空に浮遊していた。
幻・・・・。
と、美咲は看破した。この豪華な光景が。これらの絵の背後には、虚無が、その口を広げているに違いない。虚無。闇だ。
一歩踏み出してみて、世界が揺れた。
絢爛な無人の空間に、突如、人が沸いた。
全裸で絡まる、男、女達が。
床で、ソファーで、天蓋つきの黄金のベッドの上で、浴槽で、食卓の上で、椅子の上で・・・・彼らは乱れていた。快楽に悶えていた。その、悩ましい喘ぎ声も、ここまで重なると奇怪な生き物のうめき声にしか聞こえない。十や二十ではないのだ。その部屋、見渡す限りの肉、肉、肉・・・。肉の海。
酒池肉林とは、まさにこのことに違いない。
そんな狂態の宴にも、美咲は少しの感慨も持たなかった。すべては、絵の力。そうと知って引き込まれるわけにはいかない。
しかし・・・・。
既に美咲は、その光景のひとつに組み込まれていた。意識とは無関係に。
身には何も纏ってはおらず、何時の間にか、その身体には数名の男が群がっている。どれも、黒く日焼けした、屈強な肉体を持つ男たちだ。その一切の欲情を押し殺したような冷たい美貌と、佇まいをしている美咲は、その実は肉感のある体つきをしていた。その乱れることのないポーカーフェイスは、平素は入念にも、長髪で覆われ、一層、仮面めいている。それが今は・・・・。
壊れていた。顔は曝け出されて、快楽に、歪む。
前触れもなく、その光景を見た瞬間に幻惑されてしまう。
それでも、美咲ならば、夢術を使い、脱せるのではないか。この奇怪な宴をも、夢として、消滅させてしまうのではないか。あるいは、異常な超常現象でもって、すべての光景を破壊してしまうのではないか。
だが、快楽に歪み、あまつさえ、喘ぎ声さえ漏らしている彼女に、いかなる反撃が可能か。
・・・・・いけない。
精神は戦っていた。それでも圧倒的な快楽にくじけそうになるのは、時間の問題と思われた。
夢術を使おうという判断はあった。一秒で眠りに落ちる彼女だ。
しかし、できなかった。意識の断絶を防ぐは、押し寄せる肉体の反応か?
否。
美咲にとって、外部の刺激など、眠りを妨げる障害などにはなり得ない。にも関わらず、夢術は封じられた。それは空間の力場に違いない。ならば、唯一最強とも言える能力を封じられた彼女に、この状況から脱する術はないのか?
舌が挿しいれされてきた。身体の各所は、既に確保され、攻めを受け続けている。乳首や、秘所はむろん、わきの下やへそ周り、太もも、足の指の合間、首筋や耳。全身のあらゆる箇所が、こってりとした愛撫の洗礼にさらされている。身体中から汗が噴出してくる。興奮と快感の生む、上気した汗だ。
対快楽の術への耐性をvHは有している。底なしの快感に落ちていった時、それは敗北を意味するからだ。今、絵の世界に屈したのなら、永劫、この世界からは抜け出せないことを、美咲は知識として知っていた。それでも尚、肉体を包む刺激は、彼女を仲間にせんと、激しさを増す。耐性があるからと言って、不感になるわけではないのだ。大事なのはこの場合、精神力なのである。精神的に崩れた時、快楽に負けるのだ。
戦いの均衡は・・・・。
「ここまで辿り着いてしまいましたか」
という、柔らかく、響く声で破られた。
声の主は、館長だった。
白いタキシード、シルクハット、そして黒光りするステッキ。その一部の隙も無い所作の主は、周りの人々には見えていないらしい。
絡まれる美咲を、まさに絵画の鑑賞者のような静かなまなざしで見つめたまま、
「このまま、この世界で永劫生きていくのも、悪くはありませんよ。ここに取り込まれている者達は、皆、選ばれし者。だからこそ、永遠の世界で生を受けた・・・」
話の間にも、蹂躙は続いている。
「私は、傍観を決め込んでいました。この絵画が、あなたの手で破壊されてしまうのなら、それはそれで良いでしょう、とね。ですが・・・」
館長は、一旦言葉を切った。
「ここの館長である以上、作品は大事にしないとね。まあ、只の職業倫理というやつですよ。従って、作品があなたの手にかかる前に、救いに来たというわけです。しかし、その心配もないようだ。それでも、ここまで辿り着いた部外者のあなたに、チャンスを与えましょう」
男根を突き入れられて、のけぞる美咲を尻目に、館長は勝手に続けた。
「この絵画の破壊があなたの任務、守るのが私の任務。どうでしょう。互いの立場をかけて、私と戦うというのは。本来、フェアな申し出ではありませんよ。既にあなたは負けているのですから。この世界に取り込まれた時点で、あなたの負けなのです。あなたの力不足なんかじゃありません。誰だってこうなる。実際、あなたはよくやりましたよ。とにかく、この絵画を見て無事なのは、作者と、管理者である私だけなのですから。そこのところをあえて曲げ、今一度、私と戦ってみませんか、という申し出をしている。私に勝てば、この絵の破壊方法を教えましょう。負けたら、あなたはこの世界の住人となって、永劫セックスして生きる。悪い話ではないでしょう?」
その瞬間、世界が暗転した。
美咲は黒装束をちゃんと元通り着ていた。あの光景は、もう無い。
館長は少し離れた所にいた。その足元に、水が沸いている。青白い美しい水だった。水が放つ輝きだけが、部屋のすべての光だった。ほかはすべて闇に沈んでいる。
「なぜ、そんな取引を?」
美咲は静かなる疑問を口にした。
館長は自虐的に笑った。
「あんな絵、何の興味も無いのです。私には芸術など、理解もできませんし。それでも、黙って破壊させたのでは・・・・同志に叱られてしまいます。一応、私にも役目がありますし。それに、主な作品はすべて別の所へ移しました。この建物は遠からず解体されます。一応の目的は既に達成されたのですよ」
つまり、と彼は付け加えた。
「無駄足ということです。無駄足。目の付け所は正解でしたが、一手遅れたようですね。私が勝っても負けても、何ら我等、修道会の計画に狂いは無い。これはいわば、暇潰し。児戯なのですよ」
修道会、という単語に美咲は反応した。修道会。教会と敵対する秘密結社。その全貌は、教会の情報力、組織力を持ってしても、大部分が謎のベールに包まれている。
美咲の首が垂れた。先制攻撃である。
何が起きるのか。
館長の上空、銀色の光が沸いた。
ナイフだった。千とも万ともつかぬナイフが雨のように降り注いだのだ。それらはあっという間に館長を飲み込んだ。針の山のような光景が目の前に展開する。
「それで、終いかね?」
ナイフの山の中から声がしたかと思えば、突風が吹いてナイフが美咲へと高速で飛んできた。無数のナイフは、ことごとく彼女に刺さり、身体を蜂の巣状態へと変える。
だが、数瞬後には、何事もなく立っている美咲がいた。傷跡ひとつない。館長も当然のように無傷であった。
「では、こちらから伺おう」
館長はステッキを振り上げた。
空気が震える。
超振動だ。
美咲が動いた。凄まじいスピード。むろん、眠ったままの動きだ。それはしかし、攻撃を避けるための移動ではなかった。
彼女は分身を成していたのだ。全部で五人。全員が、眠っていた。
館長がステッキを振り、先端を美咲の「一人」の頭部へ狙い定めた。直後、その頭部は四散した。
本物を叩けば終わるという作戦か。
しかし、それでは終わらない相手ということを、館長は知っている。現に今、頭をつぶされた一人も、平然とそこにいる。むろん、傷は無い。
五人の成す夢術がいかなるパワーを生むのか、星のようなきらめきが生まれた。渦のようなものと知ったかどうか。
空間が歪んだ。文字通り捩れている。五人の美咲の姿が、奇怪に曲がる。館長もまた。
その捩れ、渦に飲まれるように、館長は何かに吸い込まれるのを感じた。
星を見たような気がした。それも、かなり間近で。
何億光年の彼方へ消えるのを、彼は夢想していた。その中で身体は千切れ、細胞は焼き尽くされ、昇華していく感覚があった。安楽死とは、案外こんなものなのかもしれない。
割れた鏡に映ったような美咲の姿。それを一瞬、認めた瞬間に館長の意識は暗転をした。そうして、美咲は床の泉のほとりに立っていた。既に目は開いている。
「お見事です」
美咲は愕然と声の方向を見た。
「”空間”を一枚貼り付けておいてよかった」
何かの裏から現れるような格好で、館長は美咲の前に姿を見せた。
「それでも突き破られましたが・・・」
薄い笑みを浮かべた館長の右腕は、鮮血に染まっていた。
「だが同時に・・・この傷を待ってもいました。自分ではなく、他人につけられる傷を。おっと、誤解しないで下さい。私はマゾではありませんよ。ただ・・・・この血で喜ぶ者がいる」
館長は、滴る血を、湧き水の中へ落とした。忽ち、碧水は汚く濁る。
「成体だ」
ポツリ、独り言を呟いた時、水の中から何かが立ち上がった。
真っ青な体躯。それは、先ほど、館長がステッキで生み出した不気味な胎児ではないか。
だが、その身体は美咲ほどの大きさになり、くびれた腰が、豊かな乳房が、長い髪が、成長した女であると物語っていた。
真っ青な肌は相変わらずだが、それも不思議と美しい。
敵と認めた刹那、冷たい感触を美咲は感じた。
何時の間にか、彼女の身体は、青い女の中に取り込まれている。上半身だけがどうにか出ているが、胸から下は、女の身体の中であった。紛れも無い、水の感覚・・・。
青い唇が迫って、美咲のそれと重なった。
水が流れ込んできた。塩辛い。海水のようだ。
忽ち咳き込む。容赦なく流れ込んできた。このままでは、溺れるだろう。
目を閉じた。
落ちる意識。
青い女が燃えた。
美咲は束縛から脱する。ただし、全身はずぶぬれだった。
燃えた女はしかし、すぐに炎を消し、平然と迫ってきた。
美咲は床に倒れたままだ。それでも、夢術は発動中である。
女の動きに、停滞が生じる。
一歩、一歩、動きが緩慢になった。
崩れていく。
辺りは・・・・、灼熱の砂漠だった。その熱は、水分をあっという間に奪う。青い女とて例外ではないか。
「ふむ・・・・やはり血が少々少なすぎましたか」
首を傾げて館長は微笑んだ。
「今回のところは、退くとしましょう・・・・痛みわけです」
刹那、美咲の額から一筋の血が流れた。鮮血はその白い肌を鮮やかに彩った。その流れは額から鼻、それから唇へと至り、顎から滴り落ちる。
彼女は無感動に傷口へと手を伸ばし、触れた。大きなダメージではないと知った。しかし、何時それが付けられた傷か。滅多に感情の変化を見せない彼女にも、恐ろしいと感じられる部分であった。
そう、美咲も恐怖を感じる。人間である故に。
「どうすればあの絵を壊せるか・・・。簡単です。燃やしてしまえばいい。ただし、この聖火が必要ですが」
そう言って彼は懐へ手を入れると、金色の小さな筒を取り出した。
ジッポのような炎が勢いよく吹き出た。色まで黄金だ。館長はそして、その聖火を逆さまにしたかと思えば、筒、それ自体を床へ落とした。金色の炎が一気に空間を埋めた。
「・・・・何を?」
思わず美咲は驚きの声を漏らした。
その凄まじい火力よ。
闇は一気に、熱を伴う光の世界へ変わった。天国とは案外、こんな神秘的で、危険な世界なのかもしれない。
両者は炎の中で対峙した。
再戦はそんな世界で、突如始まった。
戦いの本能がそうさせたのかもしれない。
さっと、両者が右へ動いた。
館長がステッキを振るうと、金色の炎は、火竜となって美咲へと挑んだ。
その火竜に対し、美咲もまた、竜を放った。
こちらは水竜を。
二頭の竜が激突する。
力は張り詰めている。
火が水を制するのか、水が火を圧するのか。そのぶつかりの傍で、突如、何かが落下してきた。
と、言うよりも、崩れ、剥がれて行く。それは闇だった。
ボロボロと洞窟の壁が崩れるように、闇の部屋、空間はその姿を歪めた。
水と炎はまだ、せめぎ合いを続けている。
突如それが終わりを迎えようとは。
天上からの神光。まさに、その光は神がかっていた。
館長さえ、予期していなかったのか?
彼さえ、一瞬呆然と見惚れた。
やはり美咲もまた、その光の美しさに呑まれた。
今、二人は再び、その館のホールにいた。しかし、火炎はそこさえ蹂躙し、天井のみが、美しい光を投げかけていた。
柱が倒れた。やがて瓦礫が落ちてきた。崩壊していく。
二人はまだ、向き合っていた。
「いつかまた、お目にかかれるでしょう」
消えつつある世界の中に、館長は悠然と立っていた。
「さようなら。美しい眠り姫」
身を翻したかと思えば、館長の姿は炎の中へと消えていた。
美咲もまた、我に帰ったようにして走る。出口はすぐそこに開いている。
いつしからそこにあったのかも知れぬ、その建造物は、こうして人目に触れることなく、荒野に消えたのだ。ただ一人、美咲のみを存在の証人として。その事実も、やがて消えてしまうのだろうか。彼女が、夢としない限りは。 |