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<R15> 15歳未満の方は移動してください。

恋の奴隷と逃げた花嫁

作者:弦巻桧
さらっと軽く読める、ベタな話が書きたいなーと思って書きました。
いろんな意味で突っ込みどころ満載です。
R15は念のため(あんまり色気はない気が)。
 明日は、人生最高の日になるはずだった。

 結婚前夜、訪れた彼女の部屋で、僕は置き手紙を見つけた。
 テーブルの上に置かれた、白い便箋、ただ一枚。

『クリストファー様
 お世話になりました。さようなら。
 リタより』

 婚約者に対して残すにはあまりに簡潔で、愛想がなくて、短すぎる手紙。けれど、まだこの国の言葉の読み書きが不得手な彼女には、これが精一杯だったのだろう。拙い文字の下に、何度も書いては消して書き直した、苦心の跡が見受けられた。

 『さようなら』――ということはやはり、彼女は出て行ってしまったのだろう。部屋はきれいに片づけられ、彼女の私物はほとんど無くなっていた。

 最愛の人に出ていかれてしまった。その事実が、あまりにも冷たく、僕を打ちのめす。そして、「どうして?」という想いが、何度も何度も心を巡った。

 逃げるなら……逃げるくらい嫌なら、君はどうして僕との結婚を承諾したりした? 確かに僕は君にろくな相談も無く進めてしまったけれど、不満があるならどうして言ってくれなかった?
 いつも、僕を好きだと言ってくれたのは、嘘だった?
 どうして僕に何も言わずに、突然いなくなってしまった?

 いや、いなくなると言っても、彼女の行くあてなんて限られている。今から探せば、彼女に追い付けるかもしれない。
 きちんと、彼女の口から本心を聞かないと納得できない。結婚したくないなら、もうそれでもいい。だけど、もし僕のことを嫌っていないのなら。

 出来ればずっと、僕のそばにいて欲しいんだ。



----------


 床下に作った、子ども一人がようやく入れる秘密のスペース。
 私はその真っ暗な空間で、膝を抱えてうずくまり、ただ震えていた。
 頭の上では、汚い男達の粗野な足音が聞こえる。下品で野蛮な傭兵たちが、金目の物を求めて家の中を漁っているのだ。

 微かな悲鳴が聞こえる。母や姉が、男達に捕まってしまったようだ。
 助けなければ、そう思ったけれど、恐怖で身体が動かない。今出ていけば、私も奴らに囚われて、その汚れた手で鎖につながれてしまう。そうなれば最後、奴隷として売り飛ばされ、……その先は想像したくもないような人生が待っている。家族がそんな人生を強いられることも耐えがたいのに、身を引き裂かれるような思いがするのに、それでも私は、動けなかった。
 ただただ、嵐が去るのを、じっと待つしかなかった。

 男達の足音が消えた後、私はそっと、隠れから出た。見慣れていたはずの家の中は、無残な有様だった。家具は倒され、割れた食器が床に散乱している。
 大切だったものは、すべて持ち去られていた。母がせっせと倹約して貯めていたお金も、父の形見の懐中時計も、姉の婚礼衣装用にと仕立てられていた美しいドレスも、私のお気に入りの、陽にかざすとキラキラ光る指輪も、何もかも。
 家族も、私以外は皆連れ去られてしまった。家族が助かるための唯一の希望は、隣国にいる伯父が見つけ出して買い戻してくれる可能性。だけど売られてしまった家族を見つけ出すことも、買い戻す為のお金を用意することも、非常に困難なことだと聞いている。望みは薄そうだった。

 知らず、涙がこぼれた。昨日までの幸せな暮らしは、一夜にして終わりを告げたのだ。私の国の、敗戦という形で。
 戦争に負けるということは、略奪の対象になるということ。勝者にとって敗者の所有物は、命ですらも、全てが戦利品だということ。伝聞情報として知っていた事実を、自ら体験することになってしまった。
 誰もいない、何もなくなったこの家で、私はこれからどうすればいいんだろう?
 誰を頼ろうにも、きっとご近所さんもみんな捕えられてしまっているだろう。
 やはりあの時、死を覚悟してでも飛び出して、母や姉を助ければ良かった。
 割れた陶器のかけらで切れた足が、血を流していた。けれどそんな痛みにも構う気にはなれなかった。

 不意に、人の気配がした。もう隠れる気力も残っていなくて、私はその場にへたり込んだままでいた。
 侵入者が、私を見つけて息をのむ。まだ人が残っているとは思わなかったのだろう。
 それは、年若い青年だった。光の加減で金色にも見える薄茶色の髪に、目は淡い緑。敵国の人間に特有の、少し彫りの深い顔立ち。この国でも敵国でも、美青年の部類に入るであろう整った容姿をしていた。服装にも立ち居振る舞いにも洗練されたところが窺えて、おそらくは貴族出身のまともな騎士なのだろうと思われる。

 彼は、声も無くただ涙を流すだけの私にそっと近づくと、上着のポケットからハンカチを取り出して、血を流し続ける私の足に巻きつけた。
 そして、その処置を終えると、彼は優しく私に話しかけた。

「ダイジョーブ、だから。イジメない、だから。……おいで」

 片言、だけど確かにこの国の言葉。それとともに差し出された手。
 それらを拒絶できる権利など、その時の私にありはしなかった。

 その瞬間から、私は彼の戦利品――奴隷になったのだ。

 青年は、壊れ物を扱うような慎重な手つきで私を立たせると、肩を抱いて歩き出す。
 この人は、家族を攫っていった他の男達とは違う。けれど、その優しい口調や態度が、私にはかえって不気味に感じられた。

 これが私とご主人様――クリストファー様の、出会いだった。


* * *


 あれから五年の月日が流れ、私は十五歳になっていた。
 拾われたあの日から、私はクリストファー様のお屋敷で働いている。
 第一印象で目した通り、ご主人様は貴族のお生まれで、現在は王家直属の騎士団に所属。お忙しいためお屋敷に戻られることは少ないのだが、戻られた時には、私も身の回りのお世話をさせていただいている。
 本来であれば、「戦利品」に人並みの義務も権利もない。ご主人様は、私の好きに過ごしていいと言って、私に労働を強いたりしなかった。それはすなわち、何もするな、という意味だったのかもしれない。けれど私は、ただの穀潰しになるのは嫌で、働かせてくれとお願いした。

 このお屋敷の皆さんは、ご主人様を筆頭に、とても品が良くて優しい方ばかりだ。執事さんや女中メイドさん方は、言葉が分からなかった私にも辛抱強く付き合って、いろんなことを教えてくれた。今も多少分からない単語はあるものの、日常会話はこの国の人並みになれたと思う。もちろん労働者としてのスキルも、彼らのおかげで今や一人前である。いろいろと出過ぎたお願いをしたにも関わらず、使用人と同等の扱いをしてもらえることが嬉しかった。
 奴隷階級に落とされた者としては、恵まれ過ぎた境遇といえる。


「帰ったよぉ~」

 よほどお疲れなのか、ヘロヘロな声を出しながらご主人様がお戻りになった。
 ご主人様はオンとオフの落差が激しい方なのか、気心知れた者ばかりのこのお屋敷ではとてもほまれ高い騎士様とは思えない振る舞いをなさることがある。
 こんな情けない声も、おそらく外では出していない……はずだ。というか、出してもらっては困る。

「やっぱりウチは落ち着くねえ…………おや?」

 ご主人様は私を見て、少しがっかりした顔をした。以前、出迎えが出来ずにがっかりされたことがあったので、今回は張り切って出てきてみたのだが……。下っ端が出迎えなどやはり図々しかったかな。
 と、思いきや。

「リタ。この前僕があげた服、着てくれてないの?」
「……着替えてきます」
「うん」

 気に入らないのは、服装だったか。このお屋敷での伝統に則った、動きやすさ抜群の由緒正しき女中服なのだけれど、私が着るのは気に入らないらしい。下っ端が他の者と同じようにするには十年早いってことかな。
 しかし。
 この前ご主人様が下さったのは、生地の上等っぽいドレスなのだ。装飾も何もないシンプルなデザインだし、普段着用だとご主人様もおっしゃっていたけれど、私の感覚では、これは間違っても普段着などではない。……実際どれくらいのお値段がするものなのかは、とても訊けなかったけれど。
うーん、下っ端だからこそ服くらいは良いものを着ろってことなのかな?
 五年もここに暮らしていても、いまだに異国文化とご主人様の考えは、複雑怪奇で理解不能な時がある。

 着替えを済ませた私は、再びご主人様の所へ向かう。執事と何やら真面目な話をしていたらしい彼は、私を見るなりニコニコ笑いだした。
 その瞬間思い出した。そうだ、私は彼の戦利品だったっけ、と。
 ご主人様がいない時間が長いと、うっかりそんな基本的なことすら忘れそうになるからいけない。

 なるほど。良い服を着せているのは、戦利品をなるべく綺麗に見せたいからだな。それなら納得。
 昔、隣に住んでいた友達が、従妹から分捕ったお人形にお手製のドレスを着せて、とても喜んでいたのを思い出す。そのあまりの喜びように、それは泥棒だろとは突っ込めなかったんだっけ。

「はあ……やっぱり可愛い」

 そうですね、確かに可愛いドレスですよね。そんな気持ちを込めて、頷いてみせる。
 決して、自分のセンスにうっとりなご主人様に対する疑問など、抱いてはいませんよー。

 ご主人様は溜息を吐きながら、上から下へ、また下から上へと、舐めるような視線を向けてくる。
 しかし決して、私を見ているなどと自意識過剰なことを思ってはいけない。見ているのはあくまでドレスだ。職人の技術を隅々までチェックしているに違いない。そういうことは、こだわる人はとことん、こだわるらしいので。

「リタは、柔らかい……優しい色が似合うね」

 私が着ているドレスの色は、淡い緑。なるほどご主人様の瞳と同じ色だ。

 正直、何色だろうと私にドレスが着こなせるとは思えない。私の容姿は人並みかそれ以下だし、栗色の髪も琥珀の瞳もひたすら地味で、淡い緑とは合わないだろう。が、ご主人様が満足そうなので、水を差すのはやめておいた。


* * *

 ご主人様は本来、略奪を好まれない方だ。戦いの度に華々しい戦果をあげていらっしゃるそうだが、戦利品を持ち帰られたことはない。その唯一の例外が、私だ。
 だからか、ご主人様は私が近くに寄っていくと、その度に嬉しそうに頭を撫でる。お屋敷で仕事に勤しむのを眺めては、ご満悦の表情を浮かべられる。
 ドレスの件でもそう思ったが、このご主人様、相当なナルシストだ。
 自身の唯一の戦利品を眺めて悦に入られるだけで飽き足らず、何度も私に確認されるのだ。

「君は、僕のものだよね」
「はい。ご主人様」

 私があなたの奴隷――所有物なのは当たり前なのに。このやり取り、ご主人様がお屋敷にいらっしゃる時なら、一日一回はやっている。
 お屋敷にいらっしゃらない時は、手紙でも確認されることがある。私は便箋に拙い文字で、「はい。ご主人様」とだけ書いてお返事をする。というかその二言と自分の名前しか、私には書けなかったりする。
 手紙での返事は毎回、便箋がもったいないなーと思う。けれど一度、執事からご主人様向けの、つまり他の用件の手紙の端っこについでに書かせてもらったら、なぜか大変落ち込まれた。おそらく貧乏臭さがご主人様の気に障ったのだろうと思い、それ以来、私は紙をケチらないことにしている。

 さて、そのお決まりのやり取りの後、この日はオプションがついていた。

「君は、僕のことが好き?」
「はい」

 私は奴隷身分としては恵まれている。これでご主人様を嫌いだなんて言えるはずがない。
 まあ、恵まれてなくても嫌いとは言えないけど。

「……本当に?」
「はい」

 念を押すような問いにも、私は即座に頷いた。けれどご主人様は何故かまだ物足りない、といった表情。
 少し頼りなげな緑の目が、じっと私の目を覗き込む。

「気を遣わないで。嫌いなら嫌いと、はっきり――」
「好きです」

 途端にご主人様の顔が、ぱあっと明るくなった。そうか、やはりはっきり言われたかったのか。さすが、ナルシスト。
 気を良くしたらしいご主人様は、私を抱き寄せ、頬に軽く口づけた。それもわざわざ、ちゅっ、という音付きで。

 私は思わず顔を赤くしてしまったが、よくよく考えてみれば何のことはない。
 昔、近所に住んでいた娼婦のお姉さんは、「戦利品よ」と誇らしげに言いながら、男の人に貢がせた指輪(いかにも高そうな、大きな宝石が付いていた)にキスをしていた。それと同じだ。

 見上げると、ご主人様は照れくさそうに笑っていた。こんなのが戦いの場で使い物になるのかな、と思うくらい弛緩した、可愛らしい顔だ。

 そしてこの日以降、
「君は、僕のものだよね」
「はい。ご主人様」
「君は、僕のことが好き?」
「好きです」
 その会話の後、頬にキス――という一連のやり取りをすることが、いつの間にか私たちの約束事のようになっていた。
 お約束、だけど適当に返すとしょげられるので、いつも誠心誠意、お返事させてもらっている。ご主人様に納得していただけるよう、キスの時もなるべく大人しく、されるがままになる。面倒臭いと言えば面倒臭いが、私がこれまで受けてきた恩恵を考えれば大したことはないのだ。

 そのやり取りがほぼ日課になってから、心なしかご主人様がお帰りになる頻度が増した気がする。
 別に嬉しいなどとは思っていないが、屋敷はやはり主人あってのものだと思う。それだけは間違いない。


* * *


 ご主人様からの頬へのキスにも慣れた頃。
 珍しいことに、クリストファー様を訪ねて、お客様がやってきた。
 ご主人様に呼ばれて客間に入った私は、その人を見てハッとした。
 最後に会ったのはご主人様に拾われる二年前だから、もう七年が経つ。けれど、誰だかすぐに分かった。

「伯父さん……!」
「そうだよ、迎えに来たんだ。リタ」

 五年ぶりに聞く、祖国の言葉。
 再会の喜びと同時に、私は別れた母と姉のことを思い出していた。

「伯父さん! お母さんとお姉ちゃんは……」
「大丈夫、無事だよ。今は私のところに居る」
「良かったあ……」

 五年前、隣国にいて戦火を逃れた伯父は、苦労の末に私の母と姉を見つけ出し、二人の自由を買い戻すことに成功していた。そして私のことも最近見つけ、こうして迎えに来てくれたのだという。
 こうして再び伯父に会えて、しかも家族の無事が確認出来た。私はなんて幸運なんだろう。
 このまま伯父と一緒に行けば、また家族揃って暮らせる。しかし私は迷っていた。

 話を聞く限り、伯父は大丈夫と言い張る。けれど私は、伯父に私たち一家を食べさせられるほどの経済的余裕はない事を察していた。母や姉を買い戻す為だけでも、一体どれだけお金が必要だったんだろう。 私を迎えに来るためにも、もしかして借金をしたのではないだろうか。
 それなら、私を買い戻すお金で、母や姉たちに少しでも楽をさせてあげて欲しい。私は今のままでも、きっと悪いようにはされないはずだから。

 ちらりと、ご主人様を窺う。その視線に気づいたご主人様が、少し寂しそうな顔をしながら私に言った。

「僕は……出来ればリタにはこのままここにいて欲しいんだけど……。でも、どうしても家族に会いたいというなら、その意志を尊重するよ」

 私の意志か……。
 ……ちょっと待て。ご主人様、私にここにいて欲しいって言った?
 私はまだご主人様の所有物で、つまりは今も、ご主人様の意志が私の意志だ。
 ということは結局、私はここに残らなきゃいけない、ってことかな?
 うーむ、外国語の論理は難しいですな……。
 とにもかくにも、これで決まりだ。

「伯父さん、私、ここに残ります」
「リタ、本気かい?」

 心底意外そうな顔をする伯父に、私は今の生活も悪くないと思っていること、私のためのお金で家族の暮らしを少しでも楽にしてあげて欲しいことを伝えた。

 本当は、家族のことがとても気になる。もう一度昔みたいに家族で暮らせたら、と思う。
 けれど、今の私は、ご主人様のものだ。略奪を好まないクリストファー様が、唯一持ち帰った戦利品。果たして私で良かったのかという疑問は、常々感じている。
 でも、ご主人様は私に直接、「ここにいて欲しい」と言った。それは、あの戦いに特別な思い入れがあったから、ただそれだけの理由かもしれない。それでも私は、ご主人様の願いならば叶えねばと思ったのだ。

 私が残ると宣言した時、ご主人様も驚いた顔をして、でもすぐに、嬉しそうに微笑んだ。
 その瞬間確信した。正解を選んだ、と。


 私の意志確認後、ご主人様と伯父が、この国の言葉でいくつかやり取りをする。私は言うことは言ったし、ここからは大人の会話だ。その間、私は家族やご近所さんとの、去りし幸福な日々に思いを馳せていた。

 少々遠くに旅立ち過ぎたらしく、私はご主人様の重大発言を聞き流していた。
 しかし、私がこの時の発言内容を知るのは、もっと後のことだ。

 ふと気付くと、伯父さんが私を窺うような、心配そうな視線を向けてきていた。私は「大丈夫、心配無用」の意味を込め、笑顔を返した。
 すると伯父さんも安心したようで、私の祖国の言葉で「大事にしてもらえ」の一言を残し、帰っていった。

 伯父さん、心配しなくても大丈夫です。ご主人様は奴隷にも戦利品にもお優しい方なので。


* * *


 ある日、お屋敷に戻られたご主人様は、いつものやり取りの後、こう言った。

「今夜、僕の部屋まで来てくれない?」

 まあ……、なんというか……。
 要するに、夜の相手をしろ、ということらしい。


 自慢じゃないが、私には夜伽の経験なんぞ無い。その前にキスすら、ご主人様に頬にされる以外、経験がなかったりする。十歳の時からここにいるから、当然と言えば当然か。

 ご主人様も一応成人男性(二十三歳・独身)なので、そういう欲求があるのは理解できる。けれど、その解消手段に私、というのは違和感が拭えない。どうせなら私みたいなコドモよりも、もっとふさわしい相手がいるのでは……などと考えていて、思い出した。
 昔、お向かいに住んでいた兄ちゃんが、村の武術大会の優勝杯で自らを慰めている現場を目撃したことがあったな、と。
 あれは子ども心になかなかショッキングな場面だった。今思い返してもやっぱりちょっとショック。お向かいの兄ちゃんとは、その事件以来、気まずくて口をきかなかった。
 それはともかく。
 これで合点がいった。
 つまりはご主人様が私を相手にすることも、向かいの兄ちゃんと似たようなものだということだ。私はご主人様の戦利品だから。
 それに、奴隷でもあった。今夜からは、その前に「性」がついちゃうけど。あーもう私、嫁に行けないーってその前に貰い手がいないー!

 緊張で若干、思考がおかしくなりながらも、なんとか平静を装ってご主人様の寝室のドアを叩く。
 いつもより熱を帯びた目をしたクリストファー様が、私を迎え入れた。

 クリス様――そう呼べと言われた――は、優しかった……と思う。あくまで主観的な感想だけど。
 深いキスだけで腰砕けの私に、クリス様はひとつひとつ官能を教え、ゆっくりと高みへと導いていった。
 その最中、クリス様は何度も何度も「愛してる」と囁いた。たとえ相手が奴隷だろうが娼婦だろうが、情事の最中はリップサービスを忘れない。まるで世界で自分だけが、彼に愛されているかのように錯覚させるあたり、さすがの手練手管だ。
 でも、甘い言葉に騙されてはいけない。男の人ってああいう時は何とでも言えるものらしいので。


 私は途中から記憶がないのだが、状況から鑑みるにアフターケアも万全だ。気配りの人というか、経験豊富な人は違うなーと感心した。
 ――感心しつつ、なぜか胃がキリキリした。


 翌朝目覚めると、ちょうど支度を整えたクリス様が部屋を出て行かれるところだった。
 私は跳ね起きて、とるものもとりあえず見送りの姿勢を取る。

「行ってらっしゃいませ、ご主人様」

 振り向いたご主人様が、小さく溜息を吐く。あ、呆れられた?

「違うでしょ、リタ。『ご主人様』じゃなくて『クリス』」
「……はい、クリス様」
「ホントは『様』も要らないんだけど……今はまだいいか。それから、服を着て。その……目に毒だから」

 しまった。朝から見苦しいものをお見せしてしまった。慌ててシーツで身体を隠す。
 クリス様は私の額に軽くキスをすると、
「今夜も、またおいで」
 魅惑的な声でそう囁いて、お出かけになったのだった。
 彼の色気にてられた気がして、なんだか少し悔しい。


 ご主人様の部屋を掃除しながら、私はまた昨晩の事を思い出してしまっていた。クリス様の手慣れた仕草の一つ一つと、それに翻弄されるだけの私。
 昔、近所に住んでいた娼婦のお姉さんは、「初めては男に全部預けておけばいいのよ」なんてことを言っていた。その通りにはなったけど……。

 昨夜、私はクリス様の辛そうな顔しか見ていない。愛を囁く優しい声も、どこか切羽詰まっていて、何かに耐えるような苦しそうな様子だった。そのことに気づいていたのに、私には気遣う余裕がなかった。あまつさえ、途中から意識を飛ばしてしまうし。
 クリス様のために呼ばれたはずなのに、あれでは肝心のクリス様が全く気持ち良くなれなかったのでは……?

 ――そう言えばあの時、男の人の悦ばせ方も根掘り葉掘り聞いてお姉さんを困らせたような。最終的にはノリノリで指導してくれたけども。
 そのおぼろげな記憶を手繰り寄せた私は、今夜は奴隷らしくクリス様に尽くそうと決意した。


* * *


 姉さん、大事件です。……私にとっては。

 それはいつものように、屋敷に戻られたクリス様のお世話をさせてもらっていた時のこと。
 一通りの用事を終えた私は、退室しようとしたところを呼びとめられた。
 そしてクリス様に、こう切り出されたのだ。

「あのね、そろそろ、結婚したいんだ」

 頬を染めて、そわそわと落ち着きのない様子は、さながら初恋の相手に想いを打ち明ける乙女である。この方が戦場では鬼神の如き活躍をなさるなど、今の姿からは誰も想像できないに違いない。
 しかし、なぜそれを奴隷に言うのか。

「よろしいかと思います」
「……本当に? いいと思う?」
「はい。クリス様さえよろしいのでしたら今すぐにでも」

 お好きな方と結婚なされば良いと思います、と続けようとした言葉は、突然強く抱きしめられたために封じられた。

「ありがとう! 今すぐには無理だけど、なるべく早く紹介できるように準備するから! ちょっと待っ
てて!」

 奴隷に結婚を祝福されるのが、そんなに嬉しいのかな。変わった人だー。
 しかも婚約者様を紹介して下さるのか、こんな下っ端にまで!? え、お目汚しよろしいのでしょうか……?
 クリス様の婚約者――好きな人。どんな人なのかな。
 ……あれ、なんか、おなか痛い……。これ、胃の辺り? キリキリ痛む。えー、何か腐ったものとか食べたっけ?
 うああ、気持ち悪い。
 ぶっちゃけ、ご主人様が他の女の人と居るところって、想像したくもないし見たくもない――。

「……あの、ご主人様。やっぱり、紹介は結構です……」
「えっ!? あ、あれ? リタ、具合悪くなっちゃった?」

 ご主人様はすごく慌てて、心配そうに訊いてくるけど、私はとっとと自分の部屋に戻らせて欲しかった。今はあまり、ご主人様の顔も見たくない。

「はい……。これで、失礼します…………」
「う、うん。お大事にね。今夜も、無理そうなら来なくていいから」

 うん? 私の具合が良かったら今夜も誘う気だったのか?
 私はさらに落ち込みながら退室した。


 ご主人様にも、好きな人とか、婚約者とかがいるんだろうなー……とは、私だって薄々、気づいていた。あれほどの美男子に、そういう人がいない方がおかしい。
 婚約者、ってことはおそらく、ご主人様とちゃんと、身分の釣り合いが取れる人なんだろうな。貴族の、品のあるお嬢様、とかそんな感じの。
 最初から分かっていたことではないか。私はただの戦利品で、奴隷。クリス様のどんな行動にも、私への愛があるなどと錯覚してはいけないのだ、と。だから、私が傷つくのはおかしいのに。
 あまりにも心が痛むから、目を逸らしていたことに気づいてしまった。

 私は、クリス様が好きだ。

 たとえクリス様が、本命が別にいても私をベッドに誘えるような人であっても。「不潔だー、大嫌い!」って思えれば楽なのに。
 朝まで流し続けた涙も、私の恋心を洗い流してはくれなかった。


 悪いことは、どういうわけだか続いてやってくるものだ。

「僕らが結婚するに当たって、君には今の仕事を辞めてもらわなくちゃいけないんだ」

 解雇通告。
 なるほど、それであらかじめ私に結婚宣言したわけか。
 察するに、婚約者様に嫌がられたんだな。「汚い女奴隷なんかと同じ空気を吸わせないで!」みたいな感じで。
 しかも私とご主人様は肉体関係もあるんだから、そりゃ婚約者さんにしてみれば、視界に入れるのも嫌だろう。私だって婚約者さんに会いたくないし。
 私がこの屋敷を出ていく。それで、万事解決だ。

「分かりました。辞めます。……でも」

 いきなり出て行けと言われても困る。伯父さんのところに行くしかないけど、私の今の貯金は、そのための費用に少し足りない。出来るならギリギリまで、働き続けたかった。
 これが、最後のワガママだ。

「結婚の直前まで、今のまま働かせて下さい!」
「……それは、どうしても?」
「はい」
「分かった」

 良かった、認めてもらえて。無理だったらあのドレスを売らなきゃいけなくなるところだった。

「ところで、式のことなんだけどね」

 うわあああああ! その話を私に振りますかー!

「私にはこの国の作法は分かりませんので!!」
「あ、そうか。そうだねえ。……どうしようかな」

 困ったような顔にも、幸せが滲み出ていて、居た堪れなくなった。
 まさかご主人様が、これほど残酷な人だとは。弱ってるナメクジに塩を塗り込む事ないのに。
 このままここにいたら、泣いてしまいそうだった。

「私、他の場所の掃除が残っていますので失礼します!」
「え? あ、リタ――!」

 一気に言い切ると、呼び止められるのにも構わず部屋を飛び出した。


* * *


 それから数日、私はご主人様を避けまくった。
 下っ端が主人を避けるなどということが可能なのかと思っていたが、案外簡単だった。
 ご主人様が忙しい方なのが幸いしたのだ。
 ご主人様が戻られた時には、体調が悪いと女中頭に泣きついて、担当を変えてもらった。
 けれどやはり、そう長くは避け続けられるはずも無く。
 とうとう、捕まった。


 廊下を掃除している最中、背後からいきなり腕を掴まれた。
 驚いて振り向くと、少し緊張した面持ちのご主人様がいた。私がその手を振りほどかないのを見ると、彼は耳元に唇を寄せ、甘い声で囁く。

「リタ、今夜は、僕の部屋に来てくれる?」

 心臓がひとつ、大きく跳ねた。
 ――何言ってるんだろう、この人は。
 ありったけの嫌悪感を込めて、ご主人様を睨みつけた。

「結婚直前は慎むものじゃないんですか、そういうことって」

 私の尖った声と視線に、ご主人様がハッとしたように私の手を離す。

「あ。そっか。……うん、ごめんね」

 心底すまなそうな顔をして、立ち去るご主人様。
 まったく。婚約者がいるというのに、浮気とは何事だ。
 ……まあ、それが分かっていても心が揺らぐ、私も私なんだけど。

 ご主人様の結婚が近いからだろう。立ち話の合間に突然、こんなことを執事さんに訊かれた。

「お嬢様の国では、結婚式はどのように挙げられるのですか?」

 執事さんはとても礼儀正しい。執事さんに限らず、この屋敷の使用人は皆さん、言葉遣いにとても品がある。一番下っ端の私のことも、丁寧に『お嬢様』などと呼んでくださるのだ。
 それはさておき、私の国の結婚式、か。小さな頃に数度見たくらいだから記憶が曖昧だ。

「私の国では、というか村では……式自体は内輪だけで小ぢんまりと挙げてましたね。式とは別の、披露宴をやる時にはもう、村全体がお祭りって感じでしたけど」

 聞くところによればこの国では、知人を大勢呼び、派手な演出をする結婚式がポピュラーなのだそうだ。貴族の結婚なら、なおのこと。
 教会で式を挙げ、神の前で永遠の愛を誓う――という点では私の国と同じなのに、考え方がまるで違う。

「この国では確か、花嫁衣装は白って決まってましたよね。でも私の村では、特に色や形が決まってるわけじゃありませんでした。……ドレス自体、着なくちゃいけない、ってことはなかったかも」
「なるほど」

 五年前、姉の婚礼用衣装を用意するため、仕立屋を訪ねたことを思い出す。そこで私は色も形も様々なドレスにすっかり釘付けになってしまった。結婚の相手もいない癖に、あれが着たいこれが着たいなどと様々に想像を膨らませた。
 私がああいうドレスに腕を通す機会は、今となっては一生失われたわけだが。

 ちなみにプロポーズのやり方も、この国と私の村では違うらしい。
 私の村の場合は、まず男性が野に咲く花で作った花束を女性に渡し、OKなら女性はその花束の中から一輪を取って男性に返す。
 この国のやり方は知らないが、おそらく口頭で「結婚してください」と言うのだろうと思われる。
 などということを執事さんと話しながら考えていると、なぜか反射的にご主人様の、見知らぬ誰かへのプロポーズの光景が浮かんでしまった。
 ああ、胃が痛い。


 コツコツと働き、いよいよ貯金が目標金額に達しようとしていたある日、ご主人様が言った。

「ちょっと急なんだけど、僕らの結婚式は三日後に決まったからね」

 ……本当に急だ。

「準備とか、今からでは大変では……」
「僕はいつ仕事が入っちゃうか分からないから、いつでも式が挙げられるように、前から少しずつ準備していたんだよ」

 な、何と言う手際の良さ!

「全部僕一人で決めちゃったから、気に入ってもらえるか心配なんだけど」

 ご主人様が自信なさげに、視線でチラチラとこちらを窺ってくる。そんな顔をされたら、励まさずにはいられなくなる。本当は他の人とのことなんて応援したくないが、その気持ちは封じて笑顔を作った。

「大丈夫です!! ご主人様が決めたことなら!」
「……そう? そう言ってもらえて安心した」

 安堵の表情を見せるご主人様。私もつられて安心し、気を抜いた途端、彼は爆弾を放った。

「リタは、当日に向けて心の準備だけしておいてくれたらいいからね」

 それはつまり、「もう何もしなくていいから、その日が済んだら仕事辞めてウチを出て行ってね」ということなのだった。


* * *


 ご主人様の結婚式前日。ご主人様の部屋を掃除した後、その隣の部屋の掃除に移ろうとした時のこと。
 扉を開けた瞬間、目に入ったのは純白のドレス。ひらひらした蝶のようにも見えるそれは、細部に至るまで精緻な刺繍が施されていて、上等な品であることは明らかだった。一生に一度の晴れ舞台用の衣装。 白は、花嫁の色だ。
 このドレスを着るのがどんな人なのか、私は結局知らないままだ。けれど私は顔さえ知らないその人に、嫉妬と羨望を感じていた。そんな気持ちすら、本来なら私が抱くことは許されないのに。

 ご主人様は、どんな気持ちでこのドレスを選んだんだろう。
 ……こんなドレスを選ばせるってことは、婚約者さんはきっととても綺麗な人なんだろうな。綺麗で、そして可憐な人だろう。私とは真逆のタイプだ。ドレスのサイズから見ると体型は私と似ているようなのに。

 しばしドレスを眺めた後、私は掃除を断念して部屋から出た。うっかり埃を立てて、せっかくの花嫁衣装を汚してしまってはいけないからだ。
 廊下を掃除すれば、それで私の持ち場は終わり。そして、ここでの仕事も終わりだ。

 とうとうやることを終えた私は、女中頭のところへ行き、今日までのお給金を受け取った。「今日までよく頑張りましたね」との優しい言葉に涙が出かかったが、なんとか堪えて挨拶をして退室する。
 自分の部屋に戻って荷造りを始めた。私の荷物は、とても少ない。身一つでここにやってきたのだから、当然と言えばそうだが。ご主人様にもらったものは置いていくべきだと思いながら、私はあの淡い緑のドレスだけは持っていくことにした。
 本当は明日まではここに居られるが、今日中にここを出て行くつもりだった。ご主人様の挙式を見届けられないのは少し残念だけれど、花嫁さんを笑って祝福できる自信はない。

 そもそも、もっと早く出て行った方がお互いのためだったのに、ここまで引き延ばしたのは私の都合だ。それなら、一日でも早く出て行く方が良いに決まっている。
 ご主人様は今、外出中だ。何も言わずに出て行くのは失礼だが、顔を見たら言ってはいけない気持ちがあふれそうなので、会わないうちに行こうと思った。心配されることはないだろうと思いつつ、念のために書き置きを残す。書きたいことは沢山あった。けれど、書ける言葉が少ないから、苦労した割には短い手紙になってしまった。

 せめて使用人の皆さんには挨拶くらいしなければと考えたけれど、お屋敷から出るまで誰にも会わなかった。おそらくご主人様の急な挙式で、皆忙しいのだろう。たかが奴隷一人いなくなるくらいで、仕事の邪魔をしてはいけない。結局誰にも別れを告げず、ひっそり出て行くことにした。

 馬車をつかまえると、見慣れた屋敷はあっという間に小さくなっていった。

 いつかはきっと全てが遠くなる。クリス様の目も、手も、言葉も、キスも。今は振り払えないそれらを、時間が流してくれるのを待つ。それだけが、今となっては私に出来る、最後の恩返しなのだった。



 数時間、馬車に揺られた後、お腹が空いた私は、街の外れのさびれた小さな食堂に立ち寄った。吊り目の気の強そうなオバサンが、一人で切り盛りしている店らしかった。客はイカツイ男達ばかりで、女一人の旅行者である私は、何となく居心地が悪かった。気のせいか、値踏みするような視線が向けられている気がする。
 私は味付けの濃すぎるスープを急いで完食し、そそくさと馬車に戻った。


 馬車でいつの間にか、私は眠ってしまっていた。
 目を覚ました私は、自分の両手と両足が縛られ、猿轡を咬まされていることに気づいた。暗い倉庫のような場所で寝かされ、というより、転がされていた。
 どこで間違ったのか、と言えばおそらく、最初に馬車をつかまえた時点からだったのだろう。どうやら私は売り飛ばされるらしい。
 目の前で、男と吊り目の女が私の荷物を漁っていた。男は馬丁、女はさっきの食堂の店主だ。こいつらはグルだったのだ。

「貴族様のお屋敷から出てきたって割には、ショボイねぇ」

 女は、私の財布を引っ繰り返しながら勝手なことをほざく。
 それでも、財布の中身が取られるだけなら、まだ許せた。男の手があのドレスにかかった途端、背筋を冷たいものが伝うのを感じた。

「……!」
「こりゃあ、かなり上等なモノのなんじゃないすか」

 返して! それは……それだけは取らないで!
 そう叫ぼうとしても、出るのは呻き声だけだった。しかも声を出そうとすればするほど、猿轡が食い込んで苦しくなる。腕と脚の縄を何とか解けないかと身動きしてみても、何重にも巻かれたそれはびくともしなかった。
 ジタバタ抵抗する私を軽く蹴飛ばし、女がドレスを品定めする。

「そうね、下働きには分不相応なものを持ってるじゃないの。あんた自身より、こっちの方が高く売れるかもね。……ああ、でも、あんたを売るのは止めにしたりしないから、変な期待はしないようにね」


 天罰が下った。そう思った。あのドレスは、女の言うとおり、私には分不相応なもの。あれは、遅かれ早かれ、いつか私の手を離れていくものだった。
 それなら、やっぱりお屋敷に置いてくるべきだったのだ。悪い奴らの手で売られるくらいなら、ご主人様自身の手で処分された方が良かった。
 あの二人のドレスの扱いを見ていると、欲に目が眩んだ性根の悪い奴らに、大切な思い出までも汚された気がした。

 荷馬車は、夜陰の中をガタゴトと進んでいく。私は他の荷と共に大人しく積まれたまま、ただぼんやりとしていた。手足は未だに縛られたまま、猿轡も噛まされたままだ。
 こんな最悪の夜でも、空には星が出ている。けれど今は何の感慨も持てない。こころが、空っぽになったみたいだった。
 実際、今の私は空っぽだ。この身以外、何も持っていない。
 私はこれからどうなるのだろう。

 不意に、クリス様の顔が浮かんだ。助けが来る可能性は、奇跡にも等しい。それなのに私はこの期に及んで、クリス様が助けに来てくれることを期待しているらしい。あの日のように、「おいで」と、手を差し伸べてくれるのを待っているらしい。そんなこと、二度もあるはずないのに。

 クリス様が拾ってくれたあの日、私の運命はたしかに一度、変わった。
 あの時彼と出会えなければ、私はいずれ誰かに捕まって売りに出されていただろう。
 でも、クリス様と別れた今、私の運命はあの瞬間へとまた戻った。ここはきっと、私の本来の人生への回帰点なのだ。
 クリス様が拾ってくださってからの日々は、穏やか過ぎた。周りのみんなは優しくて、よその国から突然連れて来られた私のことを、ちゃんと人として扱ってくれた。
 クリス様も彼なりに、私に優しくしてくれた。まさか夜のお相手まですることになるとは想像もしてなかったけど、好きな人に抱かれたのだからこれ以上の贅沢は望むべくもない。嘘でも、「愛してる」って言ってくれたことが、嬉しかった。

 荷馬車が荒れた道を走っているせいで、揺れが酷い。時々、隣の荷に頭がぶつかって痛い。吐き気もしてきた。気持ち悪い。

 と、突然、大きな音を立てて荷馬車が止まった。聞き覚えのある声が――お屋敷でのヘロヘロした声よりも少し凛とした声が、聞こえた気がした。その声と、もう一人、柄の悪そうな男の、言い争うような声。

 しばらくして言い争いが止むと、荷台に足音が近づいてきた。覗きこんだ淡い緑の瞳が、私を見つける。

「リタ!」

 クリス様は猿轡を外し、縄を解いてくれた。私を抱き起こし、体のどこにも異常がないことを確認すると、力いっぱい抱きしめた。……少し苦しい。

「リタ……無事で良かった」

 よほど急いで来てくださったのか、クリス様からは汗のにおいがした。
 本来はこんな風に甘えられる立場じゃないのに、クリス様の腕の中は、ひどく安心できる場所だった。

「屋敷に戻ったら、ちゃんと説明してもらうからね」

 クリス様は有無を言わさず私を馬に乗せた。
 本当は、もちろん戻りたくなんてない。けれど、一文無しの私には選択肢なんてなかった。結局今また、私は戻ってしまったのだ。クリス様の「所有物」に。

「……ごめんなさい」

 せっかくの結婚前夜に、面倒を掛けてしまった。辞めるなら一日でも早く屋敷を出ようと思ったことが、仇になったのだ。ちゃんと任期を終えてからなら、ご主人様だってきっと探しに来たりしなかったはず。

 ……いや、ちょっと待て。
 そもそも私は「仕事を辞めて欲しい」とは言われたが、屋敷を出て行っていいとは言われていなかったのではないか? 私はご主人様の「戦利品」かつ「奴隷」、つまりは所有物なのだから、他のお屋敷の皆さんとは違って、「仕事を辞める=屋敷を出ていく」ということにはならない、のかもしれない。

 執事さんも女中さんたちも、私を対等に扱ってくれていたから勘違いしていた。……でも、それだけじゃない。
 私は、ご主人様の婚約者さんに会いたくないあまりに、ご主人様の言葉を都合よく解釈したのだ。ご主人様と奥様の幸せな様子を見ているくらいなら、逃げ出した方がマシだ、と思っていたから。今の仕事を辞めても、あの広いお屋敷の中には婚約者さんと接点を持たないような仕事もあったのではないだろうか。

 自分がつくづく情けない。一人旅すらマトモに出来ずにこんな目に遭った上、さらに自分の馬鹿さ加減を思い知らされるとは。
 屋敷までの道中、馬上には重たい空気が漂っていた。



 いつもの、ご主人様の部屋。椅子を勧めてくださるのを辞して立ったままでいようとすると、両腕を掴まれて無理やり座らされた。いつも穏やかなご主人様らしからぬ、強引な行動だった。

「さて、説明してもらおうか。どうして、いきなり黙って出て行ったりしたの? さっきの『ごめんなさい』って、どういう意味?」

 私の両腕を握ったまま、向かい合ったご主人様は神妙な面持ちで問う。

「面倒をお掛けして、『ごめんなさい』……です」
「……面倒?」

 ご主人様がピクリと片眉を動かした。

「だったらどうして、黙っていなくなったりするの? 僕が探さないとでも思った?」

 探すのが当然だということにも、思い至ったのはついさっきだ。
 これはもう頭を地面につけて謝り倒すしかない失態だろうが、腕を掴まれているためそれもままならない。動こうとすれば、逃がすものかと言わんばかりにご主人様の手に力が入る。

「君にいきなりいなくなられて、僕がどんな気持ちになったか分かる? 結婚前夜に、よりにもよって婚約者に逃げられるなんて。僕らの気持ちは通じ合っていると思っていたのに」

 ……ん?

「結婚したくないなら、もうそれでもいい。頼むから、ずっと僕のそばにいてくれないか」

 ご主人様の瞳は潤んでいる。声も少し、震えていた。
 彼は真剣だ。真剣に…………なんだかよく分からない話になっている。
 私が出て行った話が、なんで婚約者に逃げられる話に……?

 ――――……ええっ!?

「ご主人様、婚約者さんに逃げられちゃったんですかあ!?」

 至近距離でいきなり大声を出したため、ご主人様が面食らう。私は思わず立ち上がっていた。

「大変じゃないですか! 私のことなんて構ってる場合じゃないです!! 早く婚約者さんを追わないと!」

 すぐにでも駆けだしたかったのに、ご主人様は私の手を放してくれない。その顔は、色を失くしていた。

「……リタ、それ、本気で言ってるの…………?」
「何がですか?」

 ああそうかしまった私は婚約者さんの顔を知らないんだった!

「ご主人様! 婚約者さんってどんな方ですか!?」
「……リタ」

 再び強引に、椅子に座らされた。穴が開きそうなほど私の顔を見つめるご主人様。その目に浮かぶのは、困惑の色。

「リタ、君は、結婚を承諾してくれたんじゃなかったの?」
「それはもちろん。ご主人様が誰と結婚なさろうと、私が反対する理由がありますか?」

 反対する個人的かつ心情的な理由はあっても、それを口にする権利はない。
 貴族様かつ騎士様の結婚に反対する権利なんて、一介の奴隷風情になどあるはずがないのだから。
 そんな当然のことをどうして確認されるのか。
 首を捻っていると、ご主人様が哀しそうに衝撃の一言を口にした。

「あのね、リタ。僕は、君と結婚するつもりだったんだよ……?」

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

「誰と誰が結婚するとおっしゃいましたか?」
「……だから、僕とリタが」
「あり得ないですよね」

 常識的に考えて、貴族と奴隷の結婚はあり得ない。
 しかしご主人様は、

「なんでそんなこと言うの? 僕のこと好きだって言ってくれたのは嘘だったの? 君の伯父さんに結婚の意志があることを伝えた時だって、君は笑ってくれたのに! あれも嘘?」

 はい?

 ちょっと順番に整理してみよう。

「ご主人様に好きかと訊かれて、下っ端が嫌いだと言えるわけありません。でも、まあご主人様のことが好きなのは本当です。嘘は言ってませんでした」

 ご主人様が一瞬唇を尖らせた後、すぐに少しだけ頬を緩ませる。
 今日のご主人様は百面相だな、などというノンキな考えが頭の隅を過った。

「だけど、伯父さんに結婚の意志があることを伝えたって言われても……知りませんが」

 また不機嫌な顔に戻ってしまった。そんな顔をされても、知らないものは知らない。

「はっきり言ったのに。『いずれは伴侶に』って」

 やっぱり覚えがない。

「聞き流しちゃったかな……」

 私の呟きに、ご主人様が力なく項垂れた。


 項垂れたご主人様の姿を見ながら、私は必死でこの状況について考えた。
 ご主人様の言うとおり、本当に『いずれは伴侶に』宣言があったとしよう。しかし、そもそも貴族が奴隷と結婚するということはあり得ない。ご主人様は、一体どういうつもりで結婚などと口にしたのか。

 一番考え得る可能性は、やっぱり妾だ。この国では確か、一夫多妻は禁じられていなかったはず。
 ということは、ご主人様には私以外の女性とのお付き合いもあるわけで。その『私以外の女性』が、あのひらひらした純白のウェディングドレスを着る予定、だから――。
 出すぎたことと知りながら、私はご主人様の手を取った。私より一回り大きくて逞しい手を両手で包みこみ、目を見て宣言する。

「ご主人様、私、もうどこにも行きません」

 その瞬間、死んだ魚のようだったご主人様の目に光が宿った。すがるように、私の手を握り返してくる。

「本当?」
「はい」

 ご主人様は、私と結婚するつもりだと言ってくださった。それはご主人様なりの優しさだ。だったら私も、できることをしなければ。

「だから私に構っていないで、早く正妻になる方を追いかけてください」

 ご主人様の顔から、表情が消えた。
 そして再び項垂れてしまった。私の手を握っていた手からも、力が抜けている。

「……なんでそうなるの」

 ご主人様の言葉に、私の方こそ首を傾げたかった。
 なぜだ……せめてご主人様の応援を、と思っただけなのに。



 すっかり落ち込んでしまったらしいご主人様が、涙声で呟く。

「結局、リタは僕と結婚したくないってことなんだよね……」

 あれ? なんでそう受け取られるんだろう。私は、妾でも結婚という選択肢が出ただけで十分だから、ご主人様には幸せになって欲しいと思ったのに。
 そう説明しようとした時、ご主人様が溜息を吐きながらまた呟いた。

「僕を避けてたのも、マリッジブルーじゃなかったんだね…………」

 マリッジブルー? 何だろう、知らない単語が出てきた。分からないことは即確認せねば。

「すいません。『マリッジブルー』って何ですか?」

 純粋に疑問だったから訊いたのに、ご主人様は私の顔を見て再び大きな溜め息を吐いた。

「結婚が嫌なら、はっきりそう言えばいいのに」
「嫌だなんて言ってないじゃないですか」

 仮にも好きな人から結婚しようと言われて、嫌だなんて思うわけがないのに。というか私は、別に結婚も、その結果妾になることも拒絶してるわけじゃないのに。
 呆れたような言い方をされて、少し腹が立ってきた。

 ――私がどんな思いで、ご主人様を応援しようと決めたか知らないくせに。

 気づいたら、ご主人様には言ってはいけないと思って抑えてきた感情が、口を衝いて出ていた。

「そりゃ……私の国は一夫一妻が普通だったので、妾になれと言われるのは抵抗がありますよ。最初は、他の女の人がご主人様と一緒にいるのを見るのも嫌で。……最初だけじゃなくて、今も嫌だからお屋敷を飛び出したんですけど。
 『他の女の人にもこんな風にするのか』とか……抱きしめられる度に、考えたくもないのにどうしても考えちゃうんです。『愛してる』なんてアレの時にしか言ってもらえない言葉に本気で浮かれる自分が嫌だったし、素直に浮かれられない可愛くない自分も嫌でどうしようもありませんでした。
 あのウェディングドレスだって、どんな人が着るんだろうとか、想像し始めたら悲しくなっちゃうし。あんなの私に似合うわけないのに、嫉妬したりして。
 そういうの全部捨てて、逃げ出したいって思ってました。
 でも、今は私、どこにも行かないって決めました。ご主人様のことが好きだから、必要としてもらえるなら、それでいいと思ってます。
 妾でも何でもいいから、私はクリス様のそばに居たいです!」

 ご主人様がしきりに瞬きをしているのを見ながら、一気にまくし立てた。
 言いたいことを言ってすっきりして、着席。支離滅裂だし、かなり恥ずかしいことも言った気がするけど、まあいい。
 ご主人様に何を言われようが、どんとこい!
 と思いつつ、顔があげられない私。小心者……。

「リタ。……どうして、僕に他の女がいるなんて思うの」
「だって、私が……本命? 本妻?? なんて、あり得ません」
「またそれだ。どうして『あり得ない』の?」
「私は奴隷だから、ご主人様とは身分が違うから……です」

 恐る恐る顔を上げてみると、ご主人様はまた、表情がすっかり剥がれ落ちたような顔になっていた。でもちょっと、悲しそうな、呆れられているような……?

「僕はそもそも、リタを『奴隷』として連れて来たつもりはないよ。あくまで『保護』しただけだ。これも伯父さんに言ったんだけど……聞いてなかったんだね」

 はい。記憶にございません。私、あの時、どれだけボンヤリしていたんだろう。

「『保護』しただけの異国の女の子、だから身分が違うなんて思ってないよ。もし本当に奴隷だったとしても、僕も家の者たちも気にしない。僕からすれば、リタを妾にする方が『あり得ない』んだよ。そんなに身分が気になるなら、どこかの養女になるって手もあるけど」

 どうする? とご主人様が訊いてくださるけれど。

「ご主人様が気にしないなら、私も気にしません」

 うん、と一つ頷くと、ご主人様は付け加えた。

「あと、ずっと気になってたんだけどね。『ご主人様』じゃなくて『クリス』って呼んでね」
「はい。クリス様」
「『様』も、結婚するまでには外してね。――それから」

 まだ何かあるのか。

「リタ。君、実はまだ僕の気持ちを信じてないでしょ?」

 泣きそうな顔をしていた人はどこへ行ったのか。
 今のクリス様は、怖いくらい爽やかに笑っている。

「あんなに大事にして、抱く時だって優しくしたのに。あれでも分からないなら仕方ないよね。これから、じっくり教えてあげる……」

 クリス様は軽々と私を抱き上げると、優しくベッドに下ろした。体重をかけないように覆いかぶさってくるクリス様の顔が、徐々に近づいて……

「あ! クリス様、ごめんなさい!!」

 こんなタイミングで、忘れていた大事なことを思い出した。
 気勢を削がれたクリス様が、不安げな声で訊いてくる。

「……何?」
「…………クリス様にもらったドレス、とられてしまいました」
「なんだ……ドレスなら、これからいくらでも買ってあげられるじゃない」

 クリス様は、明らかにホッとした様子だった。
 確かにクリス様ほどの貴族なら、ドレスはいくらでも買えるものかもしれない。
 でも、あれはクリス様が私に初めて下さった、大切なものなのに。同じ素材から同じように作られたものでも、私にとっては替えのきかない特別なものなのに。
 ちょっと視界が潤んできた。クリス様が息を呑んだのが分かる。
 急いで涙を拭おうとした手を、掴まれてベッドに縫い止められた。

「リタ、ごめん。そんな顔されたら、もう我慢するのも手加減するのも無理かも」


 今までどれだけ手加減されていたのか、その日、ようやく悟った。
 と、言ってもやっぱり、途中から意識を失っていたけど。


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 リタは今、花嫁修業の真っ最中。「貴族の妻、騎士の妻として恥ずかしくない女になる」のだそうだ。
 家のことなんて結婚してから覚えればいいじゃない。僕はそう言ったけど、真面目な彼女は聞かなかった。
 彼女のそういうところももちろん好きだし、結婚してくれる気になってくれたのも嬉しい。けれど、早く彼女との確かなつながりが欲しい僕としては、歯痒くて仕方がない。
 屋敷の皆は僕の味方だ。それに、彼女の気持ちに嘘がないこともよく知っている。
 だけど僕は仕事の関係上、家に帰れないことも多い。僕のいない間に、どこかの誰かが彼女を見つけてしまうのではないかと気が気でないのだ。
 現にこの前、家に遊びに来た同僚が、彼女のことを気に入っていたようだし。


 仕事を終えて屋敷に戻る途中、道端に咲く花が目に留まったため馬を下りた。
 彼女の好きな野の花を数輪、自分の手で摘んで帰る。ゆるく束ねただけの少々不格好な花束だけど、これを渡すとリタはいつも微笑みながら受け取ってくれる。そしてその中から一本を抜き取って、満面の笑みとともに僕に返してくれるのだ。

 これが彼女の国流のプロポーズのやり方だと知ったのは、彼女の国の結婚のしきたりを執事に調べさせていた時のこと。僕が最初にリタに『結婚したい』と言った後だ。
 もしも、はじめからこの事を知っていたなら、リタも誤解せずに受け止めてくれていたのだろうか。 ……そんなこと、今さら考えてみても仕方ないことだけど。

 時々、彼女と初めて出会った日のことを思い出す。
 あの場面を何度繰り返してもきっと、僕は涙をいっぱいに溜めた琥珀色の瞳に惹かれる。
 彼女はずっと自分のことを奴隷だと思っていたようだけど、本当に囚われていたのは僕の方だった。
 どんなふうに出会っても、僕は必ずこの恋の奴隷になってしまうだろう。
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