「月はどっちに出ている?」
部屋が見つかるまで、美咲ママのところに居候している。
今は、おっちゃんのマンションで荷造りをしているところ。
おっちゃんは昨日から泊まりでいないそうだから、今日中に終わらせといてって電話で言われた。
まあ、あたしと顔を合わせないようにしてるんだとは思うけどね。
瑞樹さんのダンナさんが、ワゴン車を借りて手伝ってくれたからすぐに済んだ。そんなにたくさん荷物があるわけじゃないし。
でもひとり暮らしになったらいろいろ必要なんだなあ……なんて今更思ったり。
あたしは最後に大掃除しておこうと思って、再びマンションに戻ってきたのだ。
さてっと………まずはカーテンを洗濯機に放り込んで窓をあける。
掃除機をかけて、窓拭きやサンの掃除をはじめる。
それからシーツや綿毛布のたぐいを洗濯しながら布団を干したり、玄関の掃除をする。カーテンを吊るしながら乾かし、シーツなんかを干して、台所の掃除。
洗濯機の中は、おっちゃんの洗濯物が回っている。忙しいみたいで洗濯物はたまってた。
ゴウン、ゴウンと洗濯機が回ってる間に、トイレとバスルームの掃除をする。
あたしのマッサージジェルやクレンジング、中途半端に残ってるものはどんどん捨てる。
歯ブラシをゴミ袋に入れたときは、少し胸が痛かった。
おっちゃんの下着やパジャマを乾燥機にいれてる間に、玄関とベランダを掃除する。
観葉植物に水もやって、ベットメイクも終わらせる。
雑誌やゴミの分別をして、ゴミ袋をぎゅっとしばって、乾燥機の中の洗濯物を出してたたみ、それぞれの定位置にしまいこんだ。
簡単なおかずをこしらえて、冷凍庫にいれ、扉をパタンと閉じたらもう夜の9時を過ぎていた。
ふう……。ソファに腰をかけてコーヒーを飲む。少し気持ちが寂しくなってきた。
部屋はすっかり綺麗になったし、あたしの少ない荷物が運び出されただけでも、もう別の顔した人みたいに感じる。
おしゃれで広い部屋のぬるま湯生活が、いろいろと思い出されてくる。
こういうのを感傷に浸るっていうのかな。寂しいけど、戻る気は無い。おっちゃんのことだって好きなのに……本当にあたしは変わり始めたのかもしれない。
時計の針は10時を差していた。そろそろ行こう。おっちゃんが帰ってくるかもしれないし……。
あたしはコーヒーカップを洗い、乾いたふきんで拭いて戸棚にしまう。火の元を点検し、灯りを消して、玄関に向かった。
──カチャ。
突然ドアが開いて、おっちゃんが入ってきた。びっくり顔のあたしを見て、おっちゃんは一瞬目を見開いたけど、いつもの感じで、やあと言った。
玄関先に突っ立ってるあたしに向かって、靴を脱ぎながら「そんなとこ突っ立ってないで、せっかくなんだからワインでも飲もう」と言う。
「え……と、でも……」
返事に困ってもそもそしてるあたしのことは見ずに、さっさとキッチンでグラスを出し、ワインの栓を開けているおっちゃんは、大人の男って感じだ。
あたしがもたもたしてる間に、冷蔵庫からチーズとハムを切り分け、フランスパンとレバーペーストをお皿に載せ、リビングへ運んでいく。
全く自然で無駄のない動きは、思わず見とれてしまうほどスマートだ。
「どうしたの? 座りなさい」
あたしは雰囲気に呑まれて、言われるがままソファに腰掛けた。
「ずいぶん綺麗にしてくれたんだね、ありがとう」
おっちゃんはあたしにワイングラスを手渡し、部屋を見渡しながら座り込む。
あたしは首を横に振りながら、ワインに口をつける。何を話したらいいのかな……。
「どう? 少しは落ち着いた?」
おっちゃんは拍子抜けするくらい淡々としていて、それが返ってあたしを、何を話せばいいのかわからなくする。
「……そんなに固くなることないだろ? 別にけんかして離れる訳じゃないんだから」
おっちゃんは苦笑いしながら、あたしのためにパンにペーストを塗ってくれてる。
「え? あ……うん……」
パンを受け取る。
「まあ、少し乱暴な言い方で悪かったよ。美咲ちゃんのところにいるんだってね」
あたしは黙ってパンをかじり、ワインで流し込んだ。
「てっきり新しい彼のところにいるかと思ったけど、どうやら本当に一人で頑張る気みたいだなあ」
おっちゃんはハムをかじりながら呟いた。
「考え直す気は、なさそうだねえ」
ワインを注ぎながら独り言みたいに言ってる。
「まさか、本当に出てくとは思わなかったよ。そのうち帰ってくるだろくらいに考えてた」
おっちゃんの落ち着いてる態度が、あたしを戸惑わせる。ワインの味もよくわからない。ただ、一緒に暮らしてた時よりっていってもついこの間だけど、その時より《大人》を強く感じる。
あたしってほんとに子供で甘ちゃんなんだってわかる……ちょっと痛いぐらいに。
あたしは三杯目のグラスを空けて、そろそろ行くねと言った。
「そんなに慌てなくてもいいのに。玄関までは見送るよ」
おっちゃんも立ち上がった。
あたしは玄関で靴を履き、おっちゃんに鍵を返す。もう使うことのない鍵……。
「本当にありがとう、ごめんなさい」
おっちゃんの目を見ながら言えた。おっちゃんは壁にもたれながら頷いている。
「じゃあ……」
あたしが出て行こうとドアに手をかけた瞬間、ブルガリ・オムがすぐ近くで香る。
あたしはおっちゃんに後ろからぎゅうっと抱きしめられていた。
「帰ってきたくなったら、いつでもおいで」
おっちゃんの表情は見えないけど、声はとっても穏やかだった。あたしはその手をさすって、後ろを見ないようにしてすり抜け、出て行った。
エレベーターに乗った時、うっすら涙が滲んできた。おっちゃんの声が優しかったから。
少し後ろ髪を引かれるけど、まずは前に進まなくちゃ。
エントランスをでて、ティアラの方へ向かって歩き出す。
青龍軒の前を通ると、にぎやかな声が漏れていたから、歩きながら覗いてみた。
商店街の皆さんが飲んでる、楽しそう。思わず顔がほころぶ。
紺野さんと櫻井さんの顔が見えて、その横に伊集院さんと河合さんが熱く語り合ってるのが見える。ふと視線を動かした。
龍ちゃんがいる。
心臓がドクンと震える。急に口の中が乾いて、喉の奥に苦いものが広がる。
急いで通り過ぎようと思うのに……目は吸い寄せられるし、見入ってしまう……。久しぶりに見る龍ちゃんの姿は、あたしにはまぶしかった。
笑ってる……野球の話をしてる。ますます日に焼けて、半そでから出ている腕が恋しかった。そして急に哀しくなる。
少し前なら迷わずあの中に入り、隣に座って笑うことができたのに……。
今は……あたしの足は竦んでしまう。龍ちゃんが皆に言われて、西田さんに電話をかけているみたい。
あっ……。あたしの目は一点に注がれた。
龍ちゃんの携帯電話に、あのストラップが揺れている。
あたしはしばらく電話している龍ちゃんの横顔を見つめ、その場をそっと離れた。
心臓は相変わらず騒がしい……。
一人、青龍軒を後に歩き出した。さっきとはちがう涙が滲んできていた。
どうすれば、どうしたら、どうやったらいいの? わからない……。なんだか寂しくて寂しくてたまらない。
こんなに寂しい気持ちになるなんて……。龍ちゃん……ねえ、普通に言葉を交わせるのはいつなのかな。
お月様は雲に隠れて出てきてくれなかった。
|