ニル・アドミラリィ
砲撃がフォッサルタの残壕をこなごなに打ち砕いているあいだ、彼は地面に横たわり、汗を流して、ああイエス・キリストよここから逃がしてくれ、と祈った。
ねえイエス様どうか逃がしてください。
キリストよ、どうか、どうか、キリストよ。
殺されないようにしてくれさえすれば、なんでもおっしゃるとおりにいたします。
僕はあなたを信じますし、あなた以外にだいじなものなんかなにもないと、世界中のみんなに話します。
どうか、どうかイエス様。
砲撃は戦線を向こうほうへ動いていった。
われわれは残壕掘りの仕事にでかけた。
朝になると太陽が昇り、その日は、暑く、湿気が多く、陽気で、静かだった。
つぎの日の晩またメストレへ行った彼は、〈ヴィラ・ロッサ〉でいっしょに二階にあがった女の子に、イエスのことを話さなかった。
彼は誰にも話さなかった。
(われらの時代に/ヘミングウェイ)
ステンレスのシリンダーが不気味な音をたてた。
痛みがないから、飛行機乗りは空に上がってから異常を知る。
そして、空に上がってしまえば、既に手遅れなのだ。
翼の先から、細く、煙を吐いて静かに僚機の墜ちていく様を見た。
実際には、当然のように僕たちを地面に縛り付けておくための何かが其処にあった。
僕たちは、鳥ではない。鳥の手足でもなければ、くちばしでもない。
僕らは鳥の目と耳と心臓であるから、僕らが失われれば鳥は飛ばない。
最初に考えたのは、自殺。次は居眠り。いくら考えても、匹蚊帳が死ぬ理由が見付からなかった。
実際には、理由なんてものは、ほんの少しのキッカケと後押しする何かがあれば十分だ。
生きていることが理由にもなるし、生き続けることが理由にもなる。
僕らは死なない。もうそれだけで死にたいと思う理由にならないだろうか。
僕はまだ、死にたいと思ったことはない。そう思った時には、既に右手を引金に掛けている。
簡単に幕を降ろせるからこそ、簡単に幕を降ろさないことにしている。
トラブルを告げる信号は最後までなく、緩やかに惰性で前に進みながら炎を上げて僚機は墜ちた。
黒い煙がいつまでも不快な臭いを発していた。
決定的に違うのは、ヒツガヤが死んだこと。僕が死ななかったこと。
報告をするのはいつも、リーダーであるヒツガヤの役目だった。
よっぽどの成果やトラブルがない限り、呼ばれることはなかった。
「ってことは、トラブルの信号はなかった訳だね」
若い、よく通る声は、あきらかに不満そうだった。
三回、状況を説明したが。三回とも同じ質問をされた。
「はい、信号はなく。無線にも応答はありませんでした。」
「そうか…事後処理がすんだら、詳しく分かるだろうが、今は待機しててくれ」
報告が終わったのは、日が暮れてからだった。
うんざりするような質問討議の中で、何度も聞かれた事を仲間にも聞かれた。
食堂では、待っていたように本田と神弟波が僕を捕まえた。
「ヒツガヤは最後に何かいってなかったか?」
「いや、何も。」
「信号はなかったのか?無線も。」
「なかった。むしろ電源を切ったのはヒツガヤ自身だった。」
「そうか…」
冷えたビールを持ってテーブルに戻っていくホンダを見て。
こいつはどこまで知っているんだろう、と思った。
正確には、僕は嘘をついていた。報告の中では、無線はなかったと言ったが、ヒツガヤは最後に無線をよこした。
地面からそう遠くない位置だったように思う。
「…俺の私物はできるだけ早く処理しろ。そして、アサギリを信じるな。報告無用。最後に、ホンダの野郎に先に行くと伝えてくれ。」
「了解。」
厄介な仕事。それも命に関わるような。
アサギリの部下になってから、そう早くない内に近くの街で殺人事件があった。
軍は関与を否定したが、ジープが一台なかったことを僕は知っていた。
ヒツガヤが何を知ったのかは分からない。
二段ベットの上にあったはずの荷物は既になかった。たぶん分かっていたのだ。
僕が報告するより早くに、ヒツガヤが墜ちたことを…。
僕はベットのマットを外した。
ヒツガヤのエロ本もなかった。
ヒツガヤが昨日、そこに寝ていたという痕跡はなかった。
そこには何もなかった。
|