勇者サラブレッド 田中太郎君の場合
田中太郎君は高校一年生。
本日、十六歳の誕生日を迎えました。
太郎君があくびをしながら部屋を出て階段をおりると、台所で母親が甲斐甲斐しく動いているのが見えました。炊きたての白米と味噌汁の匂いが、育ち盛りの太郎君の胃袋を刺激します。太郎君のお腹が控えめとはいえない音で、ぐう、と鳴りました。台所のテーブルには、新聞を読んでいる父親の背中もありました。
「おはよう、父さん、母さん」
太郎君は年頃の少年にありがちな反抗期とは縁のない、のんびりとした性格でした。きちんと毎朝、両親に挨拶をするのが習慣です。
太郎君の声を聞いて、父親の朝食の用意をしていた母親の動きが、ぴたりと止まりました。そうして太郎君の頭のてっぺんから、だらしないパジャマ姿の足元までじっと眺めると、そっとエプロンの端で目尻を拭いました。
「おはよう、太郎。太郎もとうとう……十六歳なのね」
いつもならば新聞に没頭して生返事のような挨拶を返す父親も、妻につられたように振り返って太郎を見つめ、そしてしみじみと呟きました。
「おはよう、太郎。……誕生日、おめでとう」
田中家の台所に、なんともいえない空気がたちこめます。
これはいったいなんぞや、と首を捻ってから、ああ、と太郎君は思い出しました。
それは、まだ太郎君が小学校四年生だった頃の話です。
田中家は地方都市の住宅地にあり、あまり自然豊富な環境とはいえませんでした。けれども太郎君は身体を動かすのが大好きで、家にこもってゲームをするよりは、公園で友達とヒーローごっこなどをして遊んでいました。
そんな太郎君の十歳の誕生日。田中夫妻はイベントごとを欠かさない、どころか近所のみなさんの生暖かい視線を受けるくらい積極的だったので──あらあら太郎君、そのハロウィンの仮装素敵ねえ。あらあら田中さんのお宅ってば、あのクリスマスイルミネーションどうなってるのかしら。あらあら、お正月飾りだって本格的じゃないの、そういえば田中の奥さんにお節の作り方を聞かれたのよ、外国の方だもの、きっと珍しいのねえ──太郎君の大好物がテーブルに並べられて、大粒のイチゴが乗った真っ白なケーキが現れた時には、太郎君はうわあと歓声をあげました。
ハンバーグ、唐揚げ、ケーキ、ポテトフライ、コロッケ、ケーキ、と目移りしながらそわそわと「お誕生日おめでとう」の号令を待つ太郎君。
しかし、この日の父親と母親の様子は、少し違いました。
「太郎も十歳になったんだ。言っておかなきゃいけないことがある」
そう告げた父親は、いつもの甚平姿でテレビの前で横になってビール片手に野球の攻防に一喜一憂するだらしない姿とも、酔っぱらって子供に向かって妻についてノロケて絡む姿とも、会社になんて行きたくない! と朝から玄関で母親と抱擁する姿ともかけ離れた、ずいぶん真面目な様子でした。
そして母親も、家庭を守るのが妻の勤めって素敵だわ! とこまねずみのように働く姿とも、酔っぱらってノロケる夫にいやんもう恥ずかしい、と嬉しそうに頬を染める姿とも、私だって貴方と一時たりとも離れたくないわ! と朝から玄関で父親と抱擁する姿ともかけはなれた、ずいぶん沈痛な表情でした。
ご馳走を前にしてそわそわする太郎君の前で、父親と母親はしばらく視線を交わしました。そうして、口を開いたのは母親でした。
「太郎、実はね……私は、この世界の人間じゃないの」
太郎君はとりあえず、不思議に思ったことを尋ねてみました。
「この世界ってなに?」
母親の顔がさらに歪みます。そうして返ってきた言葉は、母親が生まれたのは地球ではない別の世界で、ナントカ世界のナントカ国の実は王女でどうのこうの、というようなものでしたが、まだ十歳になったばかりで世界地図すらおぼろげな太郎君の頭では理解しきれませんでした。
そして、と父親が母親に続きます。
「俺は、かつてその世界に召喚された勇者なんだ。そこで魔王と戦い、母さんと出会い、いろいろあって──母さんを連れて、地球に戻ってきた」
太郎君の脳内で、母親イコール宇宙人、父親イコ−ル戦隊ヒーロー.の図式ができあがりました。ちょうど当時放映されていた戦隊ヒーローシリーズが、宇宙から攻めてきた敵と戦う地球人ものだったのです。
しかし、波打つ金髪に紫の目をした美しい母親は、きっと宇宙人だとしてもお姫様だからいいんだ、と太郎君の中で結論が出ました。それから、またふたりのエンドレスラブラブトークが始まるのかなあ、とちょっと身構えました。両親がエンドレスラブラブモードに入ってしまうと、太郎君とてさすがにうんざりするのです。
しかし、今日の両親は違いました。真面目な表情のまま、話は進みました。
「実は、俺の父さんも、かつて勇者として召喚されたことがあると言っていた。お前もその血を強く受け継いでいる可能性が高い」
「レディエン王家も、もとをたどれば勇者の血筋。初代国王は召喚されたままミィゾールに留まり、建国した勇者様だと言われているの。つまり太郎、あなたは勇者のサラブレッドなのよ」
この辺りで、そろそろ太郎君の脳味噌は飽和状態になっていました。ヒーローかっけえ! 勇者かっけえ! という気持ちは、もちろんありました。しかし、ちょっと変なところもあるな、と思っていた両親は、とても変だったようです。それにしても早くご馳走が食べたいと、太郎君はうつむくふりをしてテーブルを盗み見ました。
「俺が召喚されたのは十六の時……父さんは十七だと言っていた」
「ミィゾールで召喚される勇者様は、あの世界で成年に達している……つまり、十六歳以上という記録があったの。だから、太郎」
このようなことを知らせなければいけない苦悩を抱えて、父親と母親はうつむく息子を見つめました。齢十歳にして、それはどんな重荷でしょう。しかし、日本には「転ばぬ先の杖」という先人の言葉があります。だからこそ、父親は重い口調で、しかしなだめるように、太郎に告げました。
「お前は、もしもの時に備えて、身体を鍛えなければいけない。空手と柔道と合気道と剣道と居合いの道場に申し込んである。明日から、通いなさい」
「あまり遊べなくなってしまうけれど……これも、あなたのためなの。ごめんね、太郎」
息子の身体はまだまだ華奢で、両親の心が痛みます。
しかし太郎君はもはや話半分にしか聞いておらず、早くケーキが食べたいなあ、と思っていました。
あの与太話、まだ続いてたんだ。あちこちの道場で鍛えられて、もはや型などしっちゃかめっちゃかになってしまった太郎君は思いました。とはいえ根が真面目な太郎君ですから、どの武道も懸命に鍛錬しました。体質ゆえか筋肉ムキムキのマッスル! にはなりませんでしたが、実は脱いだら細マッチョ。喧嘩をしても楽に勝てるくらいの技量もあります。もちろん真面目でのんびり屋の太郎君ですので、今まで喧嘩などしたことなどありませんが。
気を取り直して、このなんともいえない空気をどうにかしようと、とりあえず太郎君は両親に向かって頷いておきました。母親のエプロンの裾は完全に湿っていました。父親は、なにかを堪えるかのような面持ちで頷き返してきました。
制服に着替えて家から出るとき、父親が大慌てで太郎君を呼び止めました。その手には、布で包まれた棒状のものが握られていました。
「これから先、いつ不測の事態があるかわからない。常に持ち歩きなさい」
その後ろから顔を出して、母親もうんうん首を縦に振っています。
取り出してみると、それはなんとも見事な日本刀でした。陽光を浴びてぎらりと刀身が輝きます。太郎君は溜め息をついて、
「気持ちは嬉しいけど、銃刀法違反だから」
と包みを父親に押し返しました。そうしてまるで今生の別れとでもいうような悲壮な表情をしている両親に告げました。
「行ってきます」
「行って……らっしゃい」
またしても、母親はエプロンの裾に顔を埋めました。
そうは言ってもなあ、と太郎君は思います。勇者かあ。召喚かあ。
「ないない」
ひとり呟いて、うん、と頷きます。てくてくと歩く通学路は、なんの異常もありません。小学生の頃からずっと見てきた、そのままの住宅街です。
「ないない」
もう一度呟いて、ひょい、と太郎君はマンホールを跨ぎ越えました。
「よう、太郎!」
住宅街を歩いていると、ばったりと同級生に出くわしました。パッと明かりが灯るような笑顔のこの少年は、ご近所さんで幼馴染み、小中高と腐れ縁の続いている、鴻上雅継君です。彼は明るいお調子者で、人懐っこく誰とでもすぐに打ち解けられる性格をしています。戦隊ヒーローごっこをしていた頃からの仲なので、太郎君とはもう親友といっても差し支えないでしょう。
「おはよう、雅継」
「お前は今日も相変わらず平凡だな!」
平凡というのは、太郎君の持ちネタです。なにせ、名前が『田中太郎』ですから、幼い頃からさんざん人にからかわれてきました。武道の道場はさすがにこの住宅地にはありませんでしたので、バスや電車で街まで通っていました。なので、太郎君が脱いだら細マッチョ、ということなどは知らない友人がほとんどです。
なんでこの名前にしたの、と太郎君は母親に尋ねたことがあります。返事は「だって旦那様のお国の伝統だもの! それに、タローならどんな言語でも言いやすいわ」というものでした。
「うーん、やっぱり『田中太郎』よりは『鴻上雅継』じゃないかなあ」
太郎君の言葉に、雅継君は一瞬きょとんとします。それからふと笑って、太郎君の肩をバンッと叩きました。
「なんだよあれか、勇者ネタか?」
「そうそう、勇者ネタ」
雅継君はなにせ幼馴染みですので、小学生の頃にいきなり習い事が増えて付き合いの悪くなった太郎君に、幼いながらのまっすぐさで、「なんで遊ぶのやめたんだよ!」となじったことがありました。そうして素直な太郎君は、まったく信じてはいなかったけれども、両親にこれこれこう言われたからだよ、と包み隠さず答えました。聞いた雅継君はぽかんと口を開けて、しばらくしてからげらげら笑いました。そして、「勇者も大変だな!」と許してくれました。その時から、「勇者」はふたりの間で、冗談としてよく使われています。
「そういや今日、お前誕生日だよな。おめっとさん」
「ありがとさん」
短く答えた太郎君は、朝の出来事について話すか話さないか、少し考えました。その視界、行く先に大きな水たまりがあるのを見て、あれ、と思いました。珍しいな、昨日の夜、雨なんて降ったっけ。まあいいか。
ずんずん進む雅継君の首根っこを、太郎君が掴みます。
「なんだよ太郎!」
じたばたする雅継君に、太郎君はいたずらっぽく言いました。
「ここから走って、あの水たまりをジャンプ。俺が先に着くか、雅継が飛び越えきれなかったら、プレゼントに昼飯おごってくれ」
ふむ、と雅継君が得心しました。彼らはまだ高校生、やんちゃしたい盛りにとってはささやかな賭けなんて日常茶飯事です。それに、雅継君は思います。いつもでしたら太郎君の身体能力の高さを知っているのでハンデを要求しますが、なにせ相手は誕生日。ここはひとつ、花を譲ってやってもいいだろう。
「よっしゃ、行くぜ太郎!」
「よーし!」
そうしてふたりは、そろって走り出し、大きな水たまりを飛び越えました。
成長期の身体のバネを使って、ふたりとも見事な跳躍をみせました。しかし、より遠く、より早く、足がついたのは太郎君でした。
「あーくっそ、やっぱ太郎にゃ勝てねえか!」
そうぼやいた雅継君でしたが、その顔に浮かんでいるのは満面の笑みでした。
「昼休みに購買ダッシュ、よろしくな」
つられたように、太郎君も笑顔になりました。笑い合って再び歩き出したふたりは、気付いていませんでした。後ろを歩いていたサラリーマンが、若いっていいねえ、と彼らを微笑ましく見守っていたことに。そしてまた、ふたりの背後でしおしおと消えていく水たまりに驚愕して、「ゆ、UMA?」などと口走っていたことに。
「ちっくしょー、こうなりゃカツサンドでもコロッケサンドでもゲットしてやるぜ! 有難く思えよ! 俺の俊足なめんなよ!」
「うん、楽しみにしてる」
「おい、本気にしてねえだろ。そりゃ太郎には負けるけどよー、俺だってちょっとしたもんなんだぞ? 陸上部に体験入部したとき、短距離でめちゃめちゃスカウトされたんだからな! 入学届け書いてくれるまで帰さない! なんてネズミ請だか結婚詐欺だかみたいなこと言われたこともあるんだからな!」
雅継君と太郎君が一緒だと、基本的に話す役は雅継君、相槌役が太郎君になります。自然に割り振られた役割ですが、どちらも不満に思ったことはありません。ただ、話す役の雅継君は、ヒートアップしてくると注意力が散漫になる、という欠点があります。
曲がり角で、太郎君はぐいと雅継君の襟首をつかみました。
「ぐえっ、なんだよ太郎!」
その鼻先を、唸りをあげて大型トラックが通り過ぎていきました。
「……サンキュー、太郎」
手のひらを返した雅継君に、「パンひとつ追加かな」と言いながら、ふたりはなにごともなく、問題もなく、高校にたどり着きました。
学校に着いてからも、特に問題はありませんでした。
今日が太郎君の誕生日だと知っている友達は、朝から盛大なお祝いの言葉をくれました。それを見ていた女の子たちも、くすくす笑いながら「じゃあプレゼントね」とこっそりお菓子をお裾分けしてくれました。
そうして休み時間には友達とだべり、授業中は──太郎君は根が真面目ですので、授業をちゃんと聞いてノートもきちんととります。雅継君は別のクラスなので、授業態度はわかりません。が、テスト前になるとノートを借りに走り回っている姿から、推して知るべしということでしょう。
三時間目の古文が終わって、次は体育の授業です。男女ともに、休み時間には更衣室に移動します。古文係の太郎君は、先生にプリント運びを任されてしまい、体育着を取りに教室に戻った時には、既にクラスメイトの姿はまばらになっていました。プリントと一緒に体育着を持っていけばよかったなあ、と後悔しながら、入口で教室に残っていた最後の女子生徒の集団とすれ違い、教室に足を踏み込みます。そして、ふと太郎君は気付きました。
「おっ」
素早い仕草で横滑りにかがみ込み、並ぶ机の間に手を伸ばします。しばらく指で探って掴んだのは、可愛らしいシュシュでした。
かがんだままその汚れをぽんぽんと落とし、立ち上がります。そうして廊下を歩いていくクラスメイトに向かって、声をかけました。
「おーい、これ、落とし物?」
シュシュを持った手を挙げると、振り返った女の子のうちのひとりが、あっと声をあげて駆け寄ってきました。
「それ、私のだ! ありがとう、田中君」
そんな青春の甘酸っぱいなにがしかの一ページが始まりそうだったり始まらなさそうだったりするやりとりをしていた太郎君は、まったく気付いていませんでした。
彼がシュシュを取るため移動した瞬間、彼がいた場所にブラックホールのようなものが出現し、しおしおと消えていったことを。
そうして。なにごともなくやってきた昼休み。
俊足を活かして見事大量に人気の総菜パンをゲットした雅継君が、意気揚々と太郎君のクラスにやってきました。
「よー太郎、誕プレだぜい。屋上行って食おう!」
今日はよく晴れています。風も強くはありません。太郎君に異議はありませんでした。会話していたクラスメイトに断りをいれて、ふたりは屋上へ続く階段に向かいました。
「なあおい見ろよこの戦利品。これで俺がやるときゃやるってことがわかっただろ?」
「そうだな、すごいね」
「誕生日プレゼントだぜー。有難く食えよー」
そんなことを言い合いながら階段を上り、ふたりは踊り場にさしかかりました。
そして、あ、と太郎君が気付いたときには、既に遅かったのです。
友達と上を向いておしゃべりをしながら階段を降りて、くるりと踊り場を曲った女子生徒と、太郎君との話に気を取られて前方不注意だった雅継君の身体がぶつかりました。
雅継君が階段から足を滑らせて、太郎君に追突しました。
太郎君も足を踏み外して、ぐるりと視界がまわり、総菜パンが空に舞うのを見ました。
(──くそっ!)
太郎君は。
咄嗟に片方の手で手すりを掴んで。
もう片方の手で、落ちてきた女子生徒の身体を支えていました。
彼女がその場にへたり込み、友達に囲まれるのを確認しつつ、慌てて階段の下を振り向きました。
「雅継!」
しかし。
階段の下、廊下にあったのは。散らばった総菜パンだけでした。
「……雅継?」
雅継君は、まるで掻き消えたかのように、どこにもいませんでした。
田中太郎君は高校一年生。
本日、十六歳の誕生日を迎えました。
12/03/13 誤字脱字修正