月に住む者
戸を叩く音がする。後生一生のお願いだ、鳴り止んでくれ。夢で
あってくれ。そう神頼みをした。
その後、いつもの静かな平和が戻ってきた。しかし、それはほんの
一時でしかなかった。胸を撫で下ろし、安堵の溜息をついた瞬間、
「テニエル、時間だ。フォセカ様の手を煩わせるなっ!」
と苛立たしい声が飛んできた。
フォセカ、その名を耳にした途端、全身に寒気が走った。おまけに
鳥肌まで立った。
その後、勢いよく上半身を起こす。薄い毛布を蹴飛ばし、顔の汗を
拭いながら
「クソッ、あの女っ」
と悪態をついた。これほど時が止まって欲しいと思ったことがあった
だろうか。
鳥のさえずりが聞こえる。そして、戸を叩く音がする。
ある朝、うっすらと柔らかな日差しが現れ始めた頃。壮大な
とき色の湖心にある古城の、壁に絡みついた蔓植物の花々が、一斉に
開花し始めた。早朝の冷ややかで清澄な空気が、とても気持良い。
ゴシック式の古城の、謁見の間。どこもかしこもありとあらゆる
珠玉で、きらびやかに装飾されている。そこに玉座に座る者と、
玉座から十メートル離れた正面で立つ者がいた。
「どうした、せっかくの初仕事だというのに浮かない顔をして」
はきはきと自信溢れる声。立っている者が、返事の代わりに
真正面を睨み返した。
「もう手配は済ませてある。詳しいことは配下から聞かされる
はずだ。もう下がっていいぞ」
何事もなかったかのようにたんたんとそう言う。
「失礼しました」
一礼して誠意に欠けた返事とともに、少年はその場からさっと
立ち去った。
本当に気に食わない女だと、少年はある場所に向かいながら
思った。委細構わず命令するような傲慢な態度。そして何よりあの
女に対する、情けなく後ろめたくも込み上げてくる、一種の怖れの
ようなもの。
周りの大人の男は皆、凄艶な美人だと絶賛する。見ているのが
恥ずかしくなるような顔で、皆あの女を見る。お前はまだガキだから
あの良さが分からないといわれる。分かりたくもない、少年は心の
そこからいつもそう思った。
ぞっと背筋が凍りつき、自分の心臓を握られているような圧迫感。
それを引き起こす鋭い視線、雰囲気。苦手、嫌悪といった域を超えて
いた。
少年は深々と嘆息をこぼし、眼前の冷ややかなコンクリート造りの
部屋に入っていった。
ヤグルマソウがどの家々の庭でも咲き誇り始めた。紫・青・ピンク
といった上品で色鮮やかな花々。そんな御高い感じが、松代菘は
好きだった。
菘は今、自分の部屋で大の字になっていた。頭の上辺りには、
原稿用紙が散らばっている。先生から作文を頼まれていたのだ。
しかし、作文は途中で止まっている。菘は、断らなかったことを
後悔した。優柔不断で引っ込み思案な自分に嫌気がさす。
その夜、団々たる月が出ていた。赤みがかった黄金色。何故か
その夜、家の周りで猫の鳴き声が鳴り止まなかった。明澄な響きで
不快な感じはしない声だが、こう鳴き続けられると鬱陶しい。結局
鳴り止んだのは、日が変わってからだった。
翌日、菘は何とか書き終えた作文を先生に提出した。
しかし、不運なことに、友人からの厄介な頼みごとをまた
引き受けてしまった。菘は肩を落として溜め息一つ。
授業も身が入らず、ふと窓から外を見た。
すると、偶然木に登っていた黒猫と目が合った。両者視線を
ずらさない。黒猫は鋭い視線を菘に投げかけてくる。
菘は折れて、少しの間猫から目を離した。もう一度外を見ると、
黒猫はいなくなっている。近所の猫だろうかと思いながら、菘は
授業に戻った。
その晩。両親は出かけて、家には菘一人。自分の部屋に入ると、
また猫の鳴き声が聞こえる。それもかなり近い。菘は追い払おうと
窓を開けた。
案の定、視線を落とすと猫はいた。驚いたことに、今日学校で見た
黒猫である。
黒猫はにゃあと一鳴きして
「嫌なら嫌って言うのも大切だよ、菘」
といった。いや、そう見えた。そういったように口が動いたが、猫が
喋れるはずがない。菘は辺りを見回すが、誰もいる気配はなかった。
「猫が喋るのって、そんなにおかしい?」
また猫の口が動いていた。菘は
「おかしい。だって猫は喋れないもん」
独り言のように呟いた。
「正確には猫じゃない、月の化身だよ」
確か昨日は満月だったことを、菘は思い出した。もしかして
本当にと菘が思った瞬間、
「うそ」
衝撃の一言。
「兎のほうが良かったかな。でも俺兎って感じじゃないし、動き
にくいしな」
間髪を入れず、眼前には端正な顔立ちの少年がいた。高校生ぐらい
だろうか。確かに兎ではない顔だ。
「知ってる? 月光って魔力持ってるんだ。俺はテニエル、テルで
いい。月から来た。単刀直入に言うと、君の願いを叶えに来たんだ」
爽やかに少年は言った。
「あっちまで長いぞ。覚悟しとけ。着くまでに読み終わせよ」
乱暴に胸に突き出された分厚い資料。テニエルはそれを受け取り、
部屋の中央に立つ。足元は、円形のガラス造りになっていた。そこ
以外はコンクリート造りになっている。
標的マツシロスズナ。資料はすぐに読み終わった。
地上に降りた初日、標的を一人でおびき寄せようとするが失敗。
彼は正真正銘の魔術師らしい。何でも、修行のために人の願いを
叶えなければならず、偶然選ばれたのが私。出来すぎている気がする
話。
「しばらく近くにいるから、叶えて欲しいことがあったら呼んで」
そう言い残し彼は消えてしまった。
数日後。夢だったのではと思い始めたとき、
「何か食べ物ない?」
家の中に当然のようにいる黒猫を見て、愕然とした。呆れて
「母や父に見つかったら大変ですよ」
その返事に猫は
「大丈夫、菘以外には見えないから」
満面の笑顔を浮かばせる。
家族以外の人に、名前を呼び捨てにされると変な気分になる。でも
嫌ではない。
この猫に対しては、何故か素直になれる。他の人には気を使って
ばかりなのに。まぁ、猫の姿ならの話で、人の姿は少し構えてしまう。
何て言っても、あの容姿なのだから。
ある日。
「すずっ、一緒にあっち行かない?」
よくある班分けのとき。いつもなら、いつもなら友達を優先して
しまった。でも、その日は違った。
「ごめん、あっちはちょっと」
勝手に口が動いていた。
「嫌なら嫌って言えばいいんだよ」
彼の声が頭の中に響いた。私の気持を悟ってか、彼が魔法を
使ってくれたのだ。
その後、彼は様々な面で私を助けてくれた。忘れ物をしたとき、
体育でけがをしそうになったとき。些細なことをたくさん助けて
もらった。もう十分願いを叶えてもらったのではないか。
もう一つ気がかりなことがあった。夏休みが近づくにつれ、時間が
やけに早く感じる。どうしてだろう?
純銀の懐中時計を見た。遅くなっている。五秒ぐらいたって、
やっと秒針が動く。そろそろ潮時だ。もうすぐ止まる。俺の仕事も
終わる。岩場の上から空を見上げた。そこには漆黒の闇と光があった。
夏休みが始まったある夜。菘の両親は夫婦水入らずの外食に行って
いる。
縁側で二人、空を見上げていた。今日は満月。しかし、雲間の月
しか見えない。
「壊れちゃったんですか? その時計」
テニエルの持っていた懐中時計を見て、菘が言った。
「止まりかけてるだけだよ。たまに秒針動くしね」
少年はすました顔で言う。
「俺らの住む場所はさ、月って呼ばれてる。本物の月じゃないけど」
少年は月を見据えたまま言った。菘は黙って少年を見る。返事を
する気が起きなかった。
実は、菘は最近妙な気分になっていたのだ。自分の周りだけ時が
流れ、自分の時が止まってしまったような。
少年はまるで独り言のように続けた。
「そこは、年をとらなくなってしまう体質の者が多く暮らしている。
個人差はある。年をとらなくなる年齢は多少。赤ん坊で十年過ごした
奴もいれば、十四歳を三十年過ごしてから二十歳ぐらいのときを
五十年過ごした奴もいる。時はゆっくりと流れたり、早くなったり
する。人間以上の早さじゃないけど」
そこで一旦話を切った。
「テルさんもそうなんですか?」
菘の質問に、少年は笑っただけだった。
「こっちにも、たまにそういう奴が生まれるんだ」
話を逸らすかのようにそう言う。同じ時を生きられない。皆、
おいていってしまうんだ。追いつけない自分に容赦なく。少年は
ほんの一瞬回想にふけってしまった。
少年の顔が、真面目な顔つきに変わる。
「俺の知り合いでさ、お前みたいに引っ込み思案で周りに気ばっかり
使う奴がいるんだ。そいつ、本当の両親を見たことがなくて、血縁の
ない養父母に育てられてさ。そいつが、十一、二のときぐらいかな?
そいつが全然背が伸びなくて、体重も増えない。体力も顔、形、何も
かも変わらなくなったんだ。その三年後くらいに、それまで優し
かった養父母の態度が少しずつ変わっていった。いや、そいつの時間
が止まったときから、もしかしたらそいつを引き取ったときから、
心の中ではそいつをおかしいと思っていたのかも知れない。あるとき
聞いたらしいんだ。やっぱり、あの子普通じゃないから捨てられたの
よって、養父母達が話すのを」
菘は少年の横顔を、じっと目を逸らさずに聞いていた。少年は続ける。
「そして、だんだん養父母や自分の知り合いのいるそこから逃げ出し
たくなっていった」
息苦しくて、さみしくて。それは少年は言葉にしなかった。
「楽しさや喜びを全く感じられなくなって、ある日、月の者が迎えに
来た。そのまま、そいつは自分の運命を受け入れて、月へ行ったんだ。
でもさ、月へ来てからすごい後悔してる。あのとき、自分の正直な
気持を言えば、何か変わったかも知れないってさ。そいつ、本当は
ここに、養父母達と暮らしたかったんだって思い知らされたんだ」
菘は、テニエルがこんな話をする訳が分からなかった。それでも、
「その人は、ここに戻ってきたんですか?」
「いいや、気づいたときにはもう遅かったんだ。月とここじゃ時間の
流れが違う。もう、そいつの知ってるものすべてなくなっていた。
でも、一緒にいても辛いだけだったのかも知れないし、今は幸せに
月で暮らしてるよ」
少年の瞳は、ただただ遠くを見つめていた。
「俺もう少ししたら、月へ帰る。それまでに願い事考えておいて」
あの日は、何もかも突然のような気が、菘にはした。テニエルとは、
それきり話していない。
叶えて欲しいことなんて山ほどある。
しかし、菘の頭はテニエルや月のことでいっぱいだった。テニエルが
もうすぐ帰ってしまう。それを考えれば考えるほど、菘にはやるせ
ない思いが込み上げてくる。
菘はそれからのこと、テニエルの名を呼んではしきりに月のことを
聞いた。ピンクの湖があること、初めて魔術が出来たこと。菘には
どんな話も新鮮に思えた。
これから初めての受験もする。どんどん困難がやってくるはずだ。
菘は大の字になって部屋の天井を見つめた。自分の願い。今ひとつ
だけ、一番後悔しないだろうこと。
菘は決心し、すぐ立ち上がると、窓を開け少年の名を呼んだ。
「私決めた。願い事っ」
少年が現れると同時に言う。少年は少し驚いたが、すぐ少女に
ゆっくりと訪ねる。
「どんな願い?」
「月へ行けば、普通の人間でも長生きできるの?」
願いではなく質問。少し考えて少年は返す。
「まぁ、そうだね。こっちよりは」
「じゃあ、死にそうになったら、行きたくなったら私を月へ連れて
行ってよ。そうしたら、もっと長く生きられるわけでしょ。あ、でも私じゃ行く資格ないかなぁ」
少し自身がなさそうな菘に、少年は微笑み
「そんなことないよ。分かった、やってみる」
そう言うと、すっと消えた。
人気のない岩場。ふと、懐中時計を取り出してみた。
思わず、目を疑った。時計は正確な時を示し、正確な時を刻んで
いた。止まりかけていた時間が動き始めた。こんなことがあるの
だろうか。奇跡としか思えない。
目を閉じ、深呼吸した。
「テニエルか?」
頭に直接響くその声に一瞬たじろいだ。あの女の声だ。
すぐ何とか冷静さを取り戻す。
「暇だったから、直接私が連絡取ってるんだ。何かあったのか?」
「彼女を迎える必要がなくなりました」
「へえ、詳しく聞かせてもらおうか」
委曲を尽くした説明を伝える。
「今回は特別だ。後はお前に任せるよ」
そうして、交信は途絶えた。特別、どちらの特別だろう。おもしろ
がっているとしか思えない。それでも、俺の好きにさせてくれるなら
ありがたい。
淡青色の空を見る。やるなら今日だ。
テニエルに菘が願いを告げた夜。
菘の両親は旅行に出かけている。菘は黒猫と縁側でまた空を見て
いた。満月と一面に瞬く星々。
「俺、今日帰るよ」
菘が横を振り向くと、少年の姿があった。
「いつも、急だね」
「うん」
伝えたいことがたくさんある。それなのに、菘は何を言っていいか
分からなかった。
「久しぶりにここへ来て良かった」
「テルさん、忘れない。私、死ぬまで忘れないから。おばあちゃんに
なっても覚えてる。話してくれた人も、きっと誰かに覚えていて
もらってたと思う。ううん、もらってたよ」
考えなしに涙声で菘は話していた。
「うん」
テニエルは、菘を誰と重ねていたのか分かっていた。似ているのだ。
だから、テニエルは菘にあんな話をしたのだ。
テニエルは立ち上がり、上に何もない場所まで歩く。菘もテニエル
の少し後ろまで歩いていった。テニエルは振り返り、長い腕を伸ばし
菘の頭を撫でた。
「お別れだ」
そう言って、また二、三歩前へ出た。その後ろ姿に菘は泣きながら
言った。
「元気でね」
青白い月の光と同じ光がテニエルを包んだ。空高く続く続く一閃の
光。テニエルはゆっくりと振り向いた。その顔は無邪気に笑う少年の
顔だった。
璧月の夜。テニエルは帰っていった。
気がつけば、ベットの中。起き上がり、自分の足の上辺りの毛布に
あるものに気づいた。
折りたたまれた紙と、その上には紫・青の花々の装飾のブレスレット。
二つを引き寄せる。紙はテニエルからの手紙だった。最初にこう
書いてある。
『こういうのが似合うと思って』
ブレスレットのことだろう。確かに自分にぴったりな気がする。
『実は菘よりも信じられないくらい年上です。これから、話した魔女
みたいな女王様にまた会うのかと思うと気が重いよ。菘は甘いものが
好きですが、食べ過ぎてお腹を壊さないよう気をつけて。作って
くれた料理おいしかったです。そうそう、願い事のことですが、
本当に月へ行きたくなったら、万が一、そうしたければ』
ブレスレットを左腕にはめた。角度を変えるたび、神秘的な光の
ようなものがチラチラと輝いた。
まだ有明の月もある少し肌寒い外へ、勢いよく玄関の扉を開けて
出る。そして、遥か遠くの上空に向かって
「ありがとう」
とつぶやいた。
『月に住むあなたの知り合いの名を、月へ届くよう言ってください』
最後まで読んでくださったかた、ありがとう
ございます。いろいろ未熟な部分がありますが、
最初に投稿したときのまま、投稿させていただきます。
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