時を復する女
戦で痛手を負った顔を持つカルドナ国王のエルナンドは、怪我する前の顔を取り戻し、復顔を施したラウラを自ら迎えに行った。
女――ラウラを余人からは見えない不思議な家から連れ出して、エルナンドはラウラと共に馬上の人となる。急に視界から消えて再び現れた主と、その主が抱きかかえて馬に乗せた女性を詮索はしないながらも注視を止められない近衛を従えて、エルナンドは城へと戻った。
腕の中に居る女は文字通りの恩人だ。仕事で接しただけと言い切られても、この女以外ではどうしようもないのだから仕方ない。
エルナンドはラウラの腰に回した腕に力をこめた。
「客人、痛い」
「もう客人ではないだろう? エルナンドと」
「エルナンド……様」
「敬称も不要だ」
囁くふりをして耳に唇を押し付けると、ラウラが迷惑そうな顔になる。
この女は変わらない。身分を知っても崩れた顔を見ても、それが元に戻っても。男言葉は粗野な印象になりがちなのに、きりりとしたりりしさに繋がっているのがいっそ小気味よい。
「ラウラ」
甘く名前を囁き髪の毛に口付ける。それだけで充足感が湧いてくるのが不思議だ。
ラウラの方は、逃げられない馬の上で抱き込まれているのでどうしようもない。必死に顔を背けるが、耳からうなじがほんのりと赤くなっているのをエルナンドにさらしている。
「けして逃がさぬ」
「脅しか?」
「何を言う。全身全霊をこめてお前を求めているのだ」
外套で後ろの近衛の視線からラウラを隠し、エルナンドは陽光下での道行を楽しんだ。ラウラの黒い髪は艶めいていて、よい香りもする。はるか先から存在が確認できるほどのきつい香水には辟易しているエルナンドには、むしろ好ましい。
しばらくは腰に回していただけの手が次第にうごめくのをラウラは感じて、眉をひそめる。片手は手綱に、もう片手は腰に回したエルナンドは、ラウラがもの問いたげに見つめると口の端をあげた。
「どうした、ラウラ」
「手が、な」
さわさわと腰のあたりをなでていた手が、じわりと上に上がってくる。
「そこは腰ではない、エルナンド」
「量感を確かめたかっただけだ、気にするな」
「するに決まっているだろう」
不埒な手を引き剥がそうとするラウラと、体格差と力の差でもってそれをさせないエルナンドの攻防は城まで続いた。
最中にも隙あらばいたるところに口付けされるは、腰の辺りにはなんだか嫌なものが触れてくるはで、城に到着した頃にはラウラは精神的に消耗していた。そのためエルナンドに抱き上げられてもさしたる抵抗もできずに、城に連れ込まれてしまう。
階段を上りどんどん廊下を歩いて行った先の部屋に、ラウラはエルナンドに抱かれたまま連れて行かれた。
広くて天井の高い部屋。この部屋だけで自分の家が納まってしまうだろうと思えるほどだ。重厚な色合いでがっしりとした調度が置かれている。
「陛下、お帰りなさいませ。こちらの方が?」
「妃に迎えるラウラ・ベラスコだ。見知りおいてくれ。湯の用意と軽食を隣の部屋に。後はこちらから呼ぶまではけして邪魔をするな」
「心得ましてございます」
よく訓練されているらしい年配の男性は、恭しく頭を下げるとそのまま後ろに下がって、外から部屋の扉を閉めた。
残されたラウラはいまだにエルナンドの腕の中で、状況がよくのみこめないままでいた。
「この部屋は?」
「私の部屋だ」
首筋に唇を落としながら、エルナンドは熱をこめた口調でラウラに教える。下ろされたのは天蓋を有する豪奢な寝台で、ふかりと沈み込みそうな感触にラウラは目を瞬かせた。そんなラウラの足首を持って靴を脱がせたエルナンドも、外套や剣を外すと靴を脱いで寝台に上がってきた。
体を起こす間もなく、体をまたいで馬乗りになったエルナンドに見下ろされる。
見つめ合えばエルナンドの目には隠しきれない感情が見て取れる。
「強引だとは思わないか? エルナンド」
「お前によって拾った顔と命だ。私の魂にお前が食い込んでしまったようだ。他の誰も考えられない」
熱と懇願と、拒絶への恐怖をない交ぜにした目は、まっすぐにラウラに向けられる。
ラウラは内心で溜息をついた。復顔に来る者達は絶望に彩られ、一筋の希望にすがってやってくる。その誰もがいじらしく、愛おしい。
顔を復することで希望を、生を取り戻す助けになるのを誇りにもしてきた。
「物好きとは思わないか? 私は得体の知れない女だぞ」
「素性もなにもどうでもいい。今、ここにいるお前で充分だ」
さっきまでの強引さとは裏腹にそっと触れてくる指先から、エルナンドの怯えが伝わってくる。見捨てられるのを恐れている、そんな怯えだ。
ああ、仕方がない。褒美などと言って唇を重ねたのは自分だ。他の客にはやらなかったことをしでかした時点で、自分もこの男を気に入っていたのだろう。
「エルナンド」
頬を包む手を外側から重ねれば、エルナンドの顔がくしゃりと歪んだ。
ゆっくりと顔が下りてくる。ラウラはエルナンドの首に腕を回して、重みを受け止めた。
「昼日中からその気になるか」
「何年ぶりだと思っているんだ」
「知るか。しかも体中に痕はつけるは、何だ、この歯型は」
「気にするな。第一お前だっていい声で啼いていたでは……」
指一本動かすのも大儀な、疲労の極致にやられたラウラは、恨みがましい目を向けた。
エルナンドは余裕で、そんなラウラを腕枕をして抱きこんでいる。蕩けそうな笑顔を向けられて、ラウラはこの日何度目かの溜息をついた。
「体中が痛い。あと、べたべたして気持ちが悪い」
「なら、湯浴みだな」
また抱きかかえられて浴室へと移動したラウラは――実の所、自分では歩けなかった――甲斐甲斐しく体を洗うエルナンドにぐったりしたまま身を任せる羽目になり、ついでにそこでも、まあ、な仕打ちを受けた。
喉の渇きは口移しで飲まされる飲み物でいやし、抱きかかえられて果物など喉越しのよいものを食べさせられて、時間の感覚はとうになくラウラは寝台で長い時間を過ごした。
妙に晴れ晴れとしたエルナンドは、名残惜しそうにラウラに口付けた。
「さすがに政務に戻らなければならない。ゆっくり休め。できるだけ早く婚儀は挙げるようにしよう」
「エルナンドの体力は底なしか?」
「相手がお前だからだろう」
さらりと物騒なことを言い放ってエルナンドは寝台を離れた。
ラウラは国王の寝台を占領しながら、すぐに眠りにいざなわれる。厄介な人物に目を付けられてしまったと後悔しても、もう遅かった。
エルナンドとラウラの婚儀は、祝賀の雰囲気の中で行われた。傷ついた国王の顔を癒したということでラウラへ向けられる人々の目は驚くほど好意的だった。中には不気味がる人も、猜疑の目で見る人もいたことはいたが、面と向かって反対できる空気ではなくラウラはエルナンドの妃となった。
早寝早起き、自分のことは自分でというのが信条だったラウラだが、エルナンドのせいで朝は起きられず体は満足に動かずで人の手を借りる、屈辱的な生活を送ることになる。
何度控えてくれと頼んでも、エルナンドは分かったと言いながら別の行動をとる。
むしろ真顔で何故こんなに誘惑するのだと聞かれた時には、軽く殺意が湧いた。
エルナンドから贈られた薬草園と温室でできた薬草で薬を作って服用するようになると、体調は少しはましになった。
徐々に妃としての公務も行うようになり、ゆっくりとだがラウラは城と妃の地位になじみ始めた。そうなると次の関心は子供のことだ。それも、エルナンドの努力のせいか割に早く実現した。
三人の男の子、二人の女の子に恵まれてラウラの地位は揺るぎのないもののように思われる。ラウラが市井の出であることなどさしたる問題ではなくなっていた。
ラウラ以外に妃を迎えるつもりがないと宣言したエルナンドは、その言葉を守り通す。
子供の前でもラウラを抱きしめようとするエルナンドに、子供が醒めた目を向けることもしばしばだった。
「父上は本当に母上がお好きなのですね」
「当たり前だろう、見て分からないか」
「……もう、いいです」
ラウラは内心悪態をつきながらも、エルナンドの腕の中は心地が良いと目をつぶる。
今まで自分が復顔を施した人物で、これほどまでに生を謳歌した人物はいなかったのではないかと思えるほどに、エルナンドは幸せそうだった。そう伝えると、エルナンドはラウラをぎゅっと囲い込む。
「長い闇に光がさしたのだ。それがどれほど貴重でありがたく嬉しいか。感謝と愛情は尽きることを知らん」
「……エルナンド」
臆面もない愛情表現にラウラは諦めた。エルナンドに出て行くように合図され、侍従が子供達を連れていく。
あとは顎を持ち上げられて抗議の声も途中で塞がれるラウラが残るだけで、追い上げられてきれぎれの甘い声をエルナンドによって引き出される。
二人で歩んだ時間もかなりすぎた頃に、エルナンドが病を得た。子供達は成人して憂いもない。寝台の側でエルナンドを看病するラウラに、眠りからさめたエルナンドが視線を向けた。
「こうしていると治療をしてくれていた頃のことを思い出すな」
「あの時は狭い、粗末な寝台だったがな」
見つめ合って、ふ、と笑う。年月が顔に皺をきざみ、髪の毛の色もぱさついたものにしても、目に宿る力は変わらない。
どこまでもまっすぐに気持ちを伝えてくる。
エルナンドに薬を飲ませると、苦かったのかなんともいえない表情になる。水で口の中をすすぐようにして、エルナンドは枕に頭を乗せた。
「早く良くなって、お前とゆっくりしたいな」
「そうだな、庭が綺麗だぞ。一緒に散歩しよう」
「ラウラ」
差し出された手を握ると、エルナンドはふっと相好を崩す。
「随分長い間、一緒にいてくれたな」
「夫婦というものはそういうものだろう?」
「口調も変わらなかった」
「……すまない」
どうしてもエルナンドといる時には、なじんだ話し方になってしまう。謝るラウラに、エルナンドは首を横に振る。
「顔を失った時には絶望しかなかったが、お前と出会えるために必要なことだったと考えてからはあの傷にも感謝している。私のわがままに付き合ってくれたお前にもな」
「私のほうこそ感謝している、エルナンド。私に居場所と家族をくれた」
エルナンドの胸の上に頭をのせれば、規則正しい心臓の音が響いてくる。
極上の子守唄のようなそれに耳をすませるラウラの背中を、エルナンドの手がなでおろす。
「愛しているよ、エルナンド」
「ラウラ……」
肩を抱かれたラウラはエルナンドの心音に集中する。少しずつ間隔が間遠になり、鼓動が弱まっていく。
寝台の側に子供達、侍医、重臣が集まる。エルナンドは口元に笑みを浮かべ、目を閉じた。ラウラの肩においた手が力を失って寝台に落ちる。すすり泣きがもれた。
国王の崩御が伝えられ、準備に追われる最中にラウラは長男を呼び出した。
「母上、なにごとですか」
エルナンドによく似た風貌のマルティンは、母親が手ずから淹れたお茶を飲んで顔を上げた。その途端に視線が釘付けになる。
「誰、だ」
「お前の母親だ、マルティン」
「ふざけるな、そんな若い顔で母上などと」
「声は誰のものだ? それに肖像画に描かれているだろう? 若かりし頃のエルナンドと私の姿が」
マルティンは向かいに座る女を穴が開くほど眺める。髪の毛と目の色は確かに母親と同じ、声も言い方も母親のものだ。
だが、決定的に外見が違う。どう見ても父親と婚姻した頃の母親にしか見えない。
「私がエルナンドに迎えられたいきさつは知っているな?」
「ええ、顔に傷を負った父上を母上が見事に治したと」
おとぎ話のように伝えられている両親の逸話を、混乱しながらマルティンは口にする。
ラウラは頷いて、マルティンに秘密を打ち明けた。
「そうだ、でもな、考えてみろ。いくら凄腕の復顔師だとて失った鼻を元に戻せるかと。無から有を生み出せるかと」
棒でものんだような表情のマルティンにも理解できるように、ラウラはゆっくりと話を始めた。
「確かに私の使っていた薬草は、創傷治癒や新陳代謝を促す成分を含んでいる。しかし、それにも限界がある。私の秘密はな。この姿を見ても分かると思うが、時間を操れるというものだ」
いつからどうしてこの体質が身に付いたかは忘れてしまった。とにかく長い時間を過ごしてきた。
「直接触れればそのものの持つ記憶を呼び覚ますことができたから、傷ついた顔に触れてその顔の持つ記憶どおりの元の顔に復元していたんだ」
かつては戦場で引き取り手が現れるように顔の損傷の激しい死者の復顔もしていたが、死人相手の日々が空しくなって。
小さな家に落ち着いて、生者相手の復顔を行うようになったのだと、ラウラは語った。
「顔が傷つけば大なり小なりその人物は歪んでしまう。歪みはほうっておけば理にも及んで、国や世界まで歪んでしまう。私はその歪みを取り去る役目を果たしていたという訳だ」
にわかには信じられない話だが、生きた証拠が目の前にいるのでマルティンはその話を受け入れざるを得なかった。
黒い髪に緑の目は強烈な存在感を放っている。世迷言と切って捨てることを許さない。
「ここからが本題なのだが、エルナンドもいない今、城に未練はない。私も死んだことにして、エルナンドと一緒に葬儀をあげてくれないか?」
「母上?」
マルティンが名を呼べばラウラはにい、と笑う。
背筋がぞくりと震えるような気がして、マルティンは魅入られた獲物のような状態でラウラの前にいた。
「私の体の内部の時を進めるから仮死状態になるはずだ。その状態で発見されるように計らうので、死亡を誰かに確認させてエルナンドと一緒に霊廟へ頼む。頃合を見て、棺をあけに来てくれ」
「どうしてそのようなことをなさるのですか」
「葬儀が一度で済めば時間と費用の節約になる。それに、エルナンドに付き合いたいんだ」
死出の入り口あたりまでな、と寂しそうにラウラは笑った。
マルティンは途方もない依頼を聞きながら、混乱した頭をどうにか使えるようにと必死に考える。
「また年を取った姿に戻るから、後はよろしく頼む」
「……母上は一体いつからそのような状態なのですか?」
「いつからだろう、もう忘れるほど前からなのは確かだな」
「以前にもどこかで、伴侶や子供を持ったことはおありですか?」
マルティンの質問に、ラウラはまじまじと真剣な表情の息子を眺める。本気で尋ねていると認識して、ラウラは俯いたかと思うと肩を震わせた。
マルティンは母親が泣いているのかと慌てるが、ラウラの口から漏れたのは笑い声だった。おかしくてたまらないのか、涙さえ浮かべている。
「ふ、はは……エルナンドと同じようなことを聞く」
「父上とですか」
「エルナンドの顔を癒している時に口付けたら、他の客にも同じことをしているのではないかと詰問されてな。思い返せばあれは嫉妬だったのだな。――今のお前と同じような顔をしていた」
ラウラは笑うのを止めてひた、と息子を見据えた。
「おらぬよ。エルナンドとだけだ」
返答にマルティンは知らずに詰めていた息をはいた。どこかに異父兄弟がいるのではないかと心配したが、杞憂に終わったようだ。
それにしてもそんな母をずっと側にいる気にさせた父というのは、実はすごい人物だったのだろうか。子供から見ればいつも母親の後を追いかけている、いささか強引でわがままな人だったのだが。
「……それで母上、その茶番を終えた後はどうなさるおつもりか」
「エルナンドと知り合った時に住んでいた家に戻って、元の稼業にと思っている」
ここで栽培した薬草は持っていくぞと告げられ、マルティンはためいきと共に母親の依頼を受け入れた。
母親はわがままではないが、ここぞという時に考えを曲げる人でもない。ここで拒否すれば最悪出奔されかねない。若い姿で城を歩かれても、誰も妃とは思わないだろう。
「母上は死なないのですか?」
「死ねない、のだろう。何度も内部の時間は進めたのだが、仮死までで結局蘇生してしまう」
「私達にその性質が伝わっていることはないのでしょうか」
「おそらく、ないだろう。誰もかれもエルナンドの血が濃いようだから。多少は寿命が長かったり、実年齢より若く見られるかもしれないが」
話はそれだけだとラウラは告げて、立ち上がり後ろを向いた。
マルティンの方を向いたその顔は皺が刻まれた、マルティンの見慣れたものだった。
「母上……」
「頑張れよ」
ラウラは年齢にふさわしい柔和な笑みを浮かべた。薬草園と温室で手ずから栽培した薬草をまとめ、簡単な服を何枚か鞄につめてマルティンに渡して部屋から出した。
ぐるりと長い間自分のものとして使った部屋を見渡す。ゆっくりと寝室へと歩を進めて、エルナンドの看病でしばらく使っていなかった寝台に横たわる。
脳裏に浮かぶ思い出を反芻しながら手を胸の上で組み、目を閉じる。
意識を、鼓動を刻む心臓に向ける。ひとつ、大きく脈打った後、ラウラの心臓は動きを止めた。
侍女の悲鳴と慌しい人のいききの最中、マルティンは弟妹達とともに母親の寝室に駆けつけた。
侍医が手首で脈を確かめていたが、首を振り元のように胸の上で組みなおした。
「お妃様はお亡くなりになっていらっしゃいます」
呆然とする弟達やわっと泣き伏す妹達を横目で見ながら、マルティンは死亡の確認された母親を改めて見つめる。
口元には微笑を浮かべて穏やかな表情をしていた。
全く、なんて親だと思いながらも父と同じように棺に納めて、一緒に葬儀を行うことを周囲に告げる。
葬儀は厳粛な雰囲気の中で執り行われた。妃が後を追ったようにも思える急な死は、最後までおとぎ話めいている。花で囲まれ微動だにしない母親を、マルティンだけは複雑な心境で見送った。
二人の棺が霊廟に納められた深夜、マルティンは鞄を手に棺の蓋に手をかけた。薄気味の悪い作業を行い、蓋をずらすとそこには若い女がほんのりと血の色をめぐらせて横たわっていた。
「母上」
マルティンの呼びかけに目蓋が開き、緑の目が生気を取り戻す。
棺の縁に手をかけてラウラが花をまとわせたまま、起き上がった。マルティンの手を借りて棺から外に出るとぱたぱたと服や髪についた花粉を落として、大きく息を吸い込んだ。
「手間をかけたな。ありがとう。なかなかいい葬儀だったな」
「起きていらしたんですか?」
「うっすら外のことが分かる程度だ。エルナンドは勿論だが、私もなかなか慕われていたのだな」
「どこに自分の葬儀を感心してふりかえる人がいますか」
げんなりしながら鞄を渡すと、ラウラが受け取りマルティンの前に立った。
もう自分より背の高い息子に、こればかりは母親の眼差しを向ける。そっと抱きしめられてマルティンはこみ上げるものを抑えた。
「母上、時を遡ることができ顔の傷を癒せるのなら、体の傷や病すらなかったことにできるのではないですか?」
「それは死を覆すことになる。だから――私は手を出さないよ」
低い声で胸元から伝わる言葉に、マルティンはふっと力を抜いた。
確かにそれは手を出してはならない、禁断の領域だ。望んでしまう人間には事欠かない、不老不死の誘惑にかられそうになりマルティンは踏みとどまる。この母はけして許すまいと思われたからだ。
抱擁を解いたラウラが感慨深げな顔をする。
「霊廟からの通路から出て行く。元気でな」
「母上も。もうお会いできないのでしょうか」
「お前の戴冠式にはもぐりこむさ」
にやりと笑って、マルティンの頬に口付けるとラウラはエルナンドの棺をそっと撫でた。
棺に唇を落とし、上体を起こした。鞄を手に手を軽く上げて、霊廟の壁際にしつらえてある隠し通路の入り口に手をかける。
振り返ってマルティンにじゃあな、と声をかけてするりと暗い通路に姿を消した。
扉に内側から鍵をかけて、マルティンはしばらくの間俯けた顔を上げられなかった。
久しぶりの我が家に戻り、ラウラは椅子の埃を払って腰を下ろした。
長い間、人の手が入らなかった家はかなり荒れている。時々は掃除や補修をしに戻ってはいたものの、ここしばらくは放っていた。
「まずは掃除からか」
明るく言っては見るものの、久方ぶりの孤独とラウラは気付く。
残っていたろうそくに火をともし、奥の部屋に行く。粗末な木の寝台が視界に入った。
エルナンドを最後の客として迎え、たった三晩だけここで共に過ごした。布を外した青い目、戯れに自分を抱き寄せた腕、悪夢に憔悴した顔、自分から、そしてエルナンドから重ねた唇……。
思い出が一気に押し寄せてくる。城での賑やかな日々も。
はた迷惑なほどの構われようを、周囲は熱愛と誉めそやした。過ぎてみれば迷惑なほどに一途に愛されていた。
「私をこんな気持ちにさせたのは、エルナンド、お前だけだ」
側にいる気になったのも、共に人生を歩む気になったのも。
愛するということを知ったのも。
「どうしたってお前が先だものな」
しばらくの間、布に顔を埋めてラウラは肩を震わせた。
自分の体質と運命を呪ったことはあったが、今回ほど強く感じたことはない。
一緒にいきたかった。生きることはできたが、逝くことはできない。
「まあいい。エルナンドの子供とこの国の行く末を見守る、そんな楽しみを残してくれたからな」
目と鼻を赤くしてラウラは強がった。
木の寝台の埃も掃除して、狭い寝台に横たわる。
マルティンの戴冠式には多くの招待客が参列した。マルティンは黒髪の女をつい探していた。末席にそれらしい人物を見つけ、安堵するマルティンは気を引き締める。
これからは父も母もいない、自分がしっかりと国を動かさねばならないと自覚を新たにして。
深夜、小さな家の扉を叩く音がする。不思議な噂に導かれた、絶望をまとう人物が最後にすがる不思議な家。
扉が開かれ若い女が出迎える。震える声で顔を隠した人物が問いかける。
「あの、あなたが、傷を負った顔を元通りにするという方でしょうか」
「私は復顔をなりわいにする者。――客、か?」
顔を復することで、生を復し歪みを正す。
女は――復顔師。
鞄の底から入れた覚えのない物が出てきて、ラウラは目をまたたかせる。
布で包まれたそれは二つの細密画。一つは家族の、もう一つはエルナンドとラウラが描かれたもの。
「マルティンか」
思い出になりそうなものはわざと持ち出さなかったのに。ただ、これを忍ばせた息子の心情を思い、ラウラは大切に布にくるみ直した。
あとは少なくない額の金貨と、宝石。市井の片隅で生きていくラウラへのはなむけか。
「エルナンド、私たちの子供達はいい子に育ったようだ」
ささやいて、ラウラは微笑む。