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その手を愛す
作:志内 炎



不器用な手


 「痛っ」
お昼ご飯のラーメンにのせようと、白髪葱を作っていたら、包丁の先で指を突いてしまった。
 うっすらと滲んだ血は荒れた皮膚の木目に沿って流れていく。
 唇を近付け、血を止めようとする。口の中に鉄分くさい味が広がる。と、同時にささくれに唾液が触れてしみる。
 「ちっ……」
舌打ちをして再び指を眺める。
 包丁をひっかけるなんて、不器用な私にすれば日常茶飯事だ。なのに今日は特別いらいらする。理由はわかっている。
 旦那の様子がおかしい。
 多分
「浮気……」
呟くように口にしてしまうと、怒りがこみあげてくる。
 結婚して十年。子供にも恵まれた。浮気かも、と疑う事もなかったわけじゃない。だがなんとか円満にやってきた。
 しかし、今回は違う。
 最近、やたら携帯ばかりみている。しかも昨日、決定的な事があった。
 「うん……嫁さんには内緒だからさ、ごめんね、迷惑かけて……」
トイレにまで携帯を持ち込んでこそこそ話していた。
 ドア越しだから、少しは聞き違いがあるかも知れない。でも
「嫁さんには内緒だ」
は、はっきりと聞こえた。
 小学生の娘は今日、母のところに行く。母はここより娘の学校の近くに住んでいて、時々、娘を泊まらせて、私に休日を作ってくれる。
「連休だし、たまには夫婦水入らずで過ごしなさい」
 いつもは感謝するが、今は母の言葉も腹立たしい。
 私たちは職場で出会い、恋愛結婚だったはずだ。私は実家から会社に通っていて、金銭的には自由な方だった。
 お小遣の大半は美容に費やした。顔も手もいつもつるつるで、流行を取り入れたファッションをしていた。
 旦那は元々口数が多い方ではない。
 それでも付き合っている頃は、重い口でも褒めてくれたものだ。
「いつも清潔感のある服装だよね」
「肌が綺麗だね」
「とても優しい手をしてるよね」
口数が少ないだけに、たまに言う、そういう言葉がひどく心に響いた。
 結婚後もあんまり得意ではない私の料理に文句も言わず、家事は手伝ってはくれなかったけれど、仕事の愚痴を家に持ち込む事もせず、日々過ごして来た。
 娘を授かってからは、疲れて実家に頼る事が多くなっても
「行っておいで」
と送りだしてくれた。もちろん娘の事は愛してくれている。
 私たちは上手くいっていたはずだ。
 「どうして……」
OL時代とは似ても似つかない荒れた手を見つめて呟いた。ささくれ、ひび割れ、絆創膏。すべてが積み重なった私たちの記録だったはずなのに……
 ぼんやりとしたまま、気がつくと夕方になっていた。電話が鳴る。
「駅前まで出て来ないか?」
緊張した旦那の声。
「雨、降ってきた?」
「いや……話があるから。歩いてこいよ」
 電話を切ってから、しばらくぼんやりしていた。
「話がある」
そんなに唐突に。私の意見は聞いてもらえないのか。
 今までの日々がぐるぐる回る頭で、結局食べなかったラーメンを流しに捨てる。鏡の前に立ち、髪を整えてスニーカーを履き、家をでた。
 駅までの道程は何も覚えていない。ただ悲しくて、腹が立って、熱くて痛い、喉の奥にぐっと力を入れていた。
 旦那は、駅前で家とは反対方向を向いて立っていた。
 ジャケットの裾が折れてしまって、不自然に曲がっている。少し猫背気味の肩の上にちょこんとのっかる頭は薄くはなっていないけれど、大分白くなっている。
 私は緊張したままかすれる声で、なるべく明るく振る舞った。
「ごめんね、待たせて」
旦那は振り返ると、おどおどしたように
「おう」
と言って私を上から下まで見定め、スニーカーに視線を止めた。
「……飯、食っていこう」
ぽつりというと、くるりと振り返り歩きだした。
 私は旦那の後ろを歩く。
 ジャケットから覗く手は、パソコンに向き合ってばかりいるせいか、骨っぽくはあるが、柔らかそうだ。
 その手で、一体どんな女を……
 入り慣れないレストランのテーブルに着いた時には、私はもう叫びだしそうになっていた。
 「具合でも悪いのか……」
膝の上に置いた手をぎゅっと握り、見つめていた。親指のささくれが乾燥して肌ではないようにさえ思える。
 「話って何?」
震える声を押さえ、聞いた。
「ああ……まあ、飯食ってからでも」
テーブルの上に組んで置いた旦那の手。親指の先を擦り合わせるように世話しなく動く。
「先に……」
「ああ……」
 沈黙の間も動く親指にいらいらする。ささくれはなく爪も健康的につるつるしている。それがさらにいらいらさせる。
 「はあ……」
深いため息。ため息つきたいのは、こっちのほうなのに。意を決したように旦那は鞄を開け、何か封筒を取り出した。私の目の前に押しやる。
「開けて」
 シンプルだけど、しっかりとした白い封筒。浅黒くくすんだ私の指は震えていた。旦那の指も組んだまま、震えている。決定的な瞬間なのか……
 「へ?」
中から出て来たのはエステティックサロンのチケットだった。私の名前が入っている。
「来月、結婚記念日だから」
「……」
「あの、ほら、指輪も予約してあるんだけど、なんかお前の手、いつも絆創膏があるし。
 それならついでに本人も綺麗になればいいかと……」
全身から力が抜けていく。
「嫁さんに内緒……」
「あ、聞こえてたんだ……そういうところって、男子禁制なんだよな。知らなかったよ」
 テーブルの上の手は相変わらず細かく動いている。慣れない事をしたせいか、うっすら赤く染まっている。
 そうだった。プロポーズされた時もあの手は同じようにしていた。
(手を握ってくれたらいいのに)
不器用な人だと思ったものだ。
 私は手を伸ばし、細かく動くその手を止めた。
「お腹すいちゃった」
「そうだな」
旦那は片手をあげて店員を呼んだ。
 帰りは手を繋いで帰ろう。この人には何をプレゼントしようか。ささくれの指に伝わる温度を感じながら、そう考えていた。







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