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その手を愛す
作:志内 炎



爪を磨く


 九月に入っても暑い事を、私ほど憎んでいる人間も、そうはいないだろう。
 左手で汗を拭きながら、太陽を睨む。長袖のシャツの中で、腕に汗が伝っている。右手の半分まではめたサポーターの臭いを嗅いでみる。
 汗くさい。
「病院では取り替えよう……」
やっと古ぼけた小さな病院にたどり着き、裏口の鍵を開けて中に入った。
 誰もいない、内科の古い廊下は木で出来ていて、歩くたびに軋む。気持ち悪い……とは思わない。ここは私の両親がやっている病院だからだ。私はここで、受け付けや事務をやっている。
 まだ八時を回っていないが、入口の鍵を開ける。常連のお年寄りが挨拶をする。私も笑顔を作り応対する。両親が七十を越えているせいか、お年寄りがたむろする。診察がなくても一時間二時間話しこんでいるが、両親も何もいわない。
 私は両親が歳をいってからの子、というわけではない。いわゆるもらわれっこ、養子だ。
 私は本当の親に虐待を受け、棄てられて施設にいた。二歳の頃には施設にいたから、本当の両親の記憶も虐待されていた記憶もあまりない。
 ここのうちの子になってからも、ずっと無口なままだ。病院にきたのだから、医者になろうと勉強してみたが、到底頭がついて行かなかった。だから事務をやっている。両親には申し訳なく思っている。
 相変わらず、お年寄りで混雑している受け付に、見慣れない人が入ってきた。
「うわぁ、めっちゃこんどるやないか」
入るなりその男はそう言った。
 アロハシャツに白いパンツ。恰幅がよく、六十歳くらいでほとんど坊主の頭は額が頭皮に浸出を初めている。左手をポケットに突っ込んだまま、受け付まで来て保険証を出した。
「こんにちは、初診ですね」
「そや」
「こちらの問診票にご記入ください」
「よしゃ」
男は右手で問診票を引き寄せるとそのまま右手で記入を始めた。左手はポケットに突っ込んだまま。
 さらさらとしたまで書き終えるとペンを置き、聞いた。
「よう繁盛しとるけど、時間かかるんかね?」
「いいえ。十五分ほどお待ち下さい」
「さよか」
そういうと男は開いている席にどかりと座り、テレビの画面に見入っていた。
 「どうぞ」
男は名前を呼ばれると、勢いよく立ち上がり、診察室へ消えて行った。
 三十分後。
 男はでてきて、会計をした。
「お薬はこの処方箋を持って、向かいの薬局でもらって下さい。血液検査の結果は来週です。また火曜日にいらして下さい……」
診察代を告げると、右手でポケットから生のお札を出して置いた。お釣りを受け取りながら、
「ねえちゃん、こんな天気の日に長袖着とって暑くないんか?」
と聞いた。
 待合室が一瞬しんとなる。私は曖昧に笑った。
「美白もええけど、少しはお日さんにあたらんと、病気になるぞ。ほな、また来週。お世話様、おおきに」
男は笑って出て行った。
 私は一年中長袖を着ている。
 右手の肘から、手の甲半ばにかけて大きなやけどの痕がある。本当の両親と繋がる虐待の記録だ。
 学校に通っている頃も体育の時間も制服も、長袖で出来るよう両親が学校に話をつけてくれた。それはそれで色んな目で見られる。プールだけは隠す事が出来ない。なるべく理由をつけて休んだが、夏は本当に苦痛だった。
 ひっそりとしていること。それが唯一、自分を守る手段だった。
 一週間後、あの男はやって来た。この前と同じように、
「ひゃあ、今日も大繁盛やなぁ」
といいながら診察券を出して、どかりと空いた席に座る。今日は朝からばたばたしていて、常連のおばあちゃんが男に話し掛けていることには気付かなかった。
 三十分後、男は神妙な顔をして受け付に立った。肝疾患。うちでは扱えない。多分、紹介先の病院で即、入院になるだろう。
「今日は何時までやっとるんですか」
「六時までですけど……」
「そうですか」
男は領収書を受け取り、出て行った。
 バタバタしたまま六時を回り、入口の鍵を閉めたのは七時近かった。
 カーテンをかけて、事務所に戻ろうとすると、ガラス扉を叩く音がする。
「急患?」
カーテンを開けると、あの男が汗だくになりながら、ドアを叩いていた。
 「どうしました?」
男は息を切らしながら長細い包みを差し出した。
「これをもろうて下さい」
「え?」
「開けて見て」
 中には硝子の爪磨きが入っていた。初診の時、男が着ていたアロハのような鮮やかな布が挟んであり、装飾されている。
「わし、ごめんなさい。やけどの事、今日来てはったおばあちゃんに聞きました。知らんかったとは言え、ごめんなさい」
「……いえ、いいんです」
「よくないんです。見て下さい」
そう言って差し出した男の左手には、小指と薬指の第一間接から先がなかった。
 「働き出してすぐ、機械に挟まれて落としました」
右手と比べて色が白く、肉付きが悪い。
「若かったから、色々言われてぐれたりもしました。せやけどわし、こんなんやから立ち直ったふりして……お嬢さんは同じにされるの嫌かも知れませんけど、似たような傷持ってるのんに、ほんまにすんません」
 私は黙って男の右手を見つめた。
「偉そうな事、なんも言えません。立ち直ったふりしてもずっとポケットに突っ込んだままで……こんなになまっ白い。
 結婚もしてへんし、家族ももうおらんから、入院言われたら逃げよ、と思っとったくらい軟弱なんですわ」
 やけどの痕がきゅっと引き攣る。半分の年齢の私を前に、男は頭をかきかき、言葉を絞り出すように話している。
「わしも……僕も頑張りますから、お嬢さんも頑張って下さい」
 それだけいうとくるりと背を向けて歩き出した。
 私は爪磨きをきゅっと握った。もの心ついてから、ひっそりとする事だけを目標にしてきた爪は、短く切り揃えるだけで一度も磨いた事などない。
 はっとして、外に出た。男の背中は大分遠い。
「入院、ちゃんとして下さいね。確かめに行きますから、ちゃんと、してくださいね」
男は立ち止まり、左手を大きく振って見せて、そのまま振り向く事なく、角を曲がっていった。
 生まれて初めて、大きな声をだした私は心臓をどきどきさせながら、もう誰もいない道をしばらく見つめていた。







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