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Clump,Clump 作者:モロクっち

第5章 11月20日、明け方

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〔3〕




 地響き。
 足元も、視界も大きく揺れた。傾いだ。
 どこからか、砲撃の音が聞こえてくる。
 第五ワンダーランドも、何もしていないわけではないようだ。第二ウェンガンがよろめいて、怒り狂い、腕を振り上げた。
 ソロにはこの町が今取った行動が、わかったような気がした。まるで自分が、この町の意思と融合したような一瞬だった。
 自分の身体が自分のものではなくなった一瞬でもあった。ちゃんとネイダの手を握っているのか、わからなくなってしまった。びりりと、痺れるような痛みが頭の中を走る。
「ソロ!」
 ネイダが呼びかけてくれているようだ。が、その声が、遠い。
 赤い。
 見えるものすべてが錆びた。
 耳の奥が、鼓膜よりも内側が。震えた。
 ギチギチギチギチギチと、あの、音が。
 頭の中で、スナッチがささやく。


   一同は指ぬきと注意を駆使し
    フォークと希望をもって探した
   鉄道の株で命をおどし
    微笑と石鹸で金縛りにした


   ソロ
   あなたは指ぬき
   シンブルとは
   指ぬきのことだと言われているの
   ソロ
   また会える?
   また助けに来てくれる?

   なにも恐れることはないのよ
   でも
   忘れるということが
   あなたの生き抜くすべだというのなら――


   そはゆうとろどき ぬらやかなるトーヴたち
    まんまにてぐるてんしつつ ぎりねんす
   げにもよわれなるボロームのむれ
    うなくさめくは えをなれたるラースか


   ソロ
   あなたは指ぬき
   わたしたちはスナーク



        注意して



「ソロ! ねえ! 返事してよぉ!」
 目を開ける。
 金切り声と温もりを感じて。
 顎や脇の下、そして背中が、すうすう冷える。一瞬で滝のように汗をかいていた。視界に飛び込んでくるのは、ネイダの泣きっ面だ。
 ネイダはソロの両頬を白い手で挟み込み、必死の形相で目を覗きこんできていた。
「……お前」
 ソロの口から、ほとんどひとりでに、寝起きのようにぼうっとした声がこぼれ出る。知らない男の声に聞こえた。
「……何か言ったか?」
「言ってたっていうか、ずうっと呼んでたよ! ねえ、どうしたの? ……あ、鼻血!」
 ソロは鼻をすすった。すすってもすすっても、鼻の中のねっとりとした感覚は消えない。
 とうとう手で拭った。ネイダの言ったとおり、それは鼻血だった。
「指ぬき」
「は!?」
「頭いてえ……」
 鼻血はすぐに止まった。
 だが、視界も意識も、揺れ続けている。こんなところで、こんな状態に陥っている場合ではないのに。身体の中も、頭の中も、ぐつぐつ煮え立っている。
 手をつくと、硬いものに触れる感触があった。
 ミンクの銃だ。
 それが、ずぶずぶと、地面の中に――スナッチの身体の中に――潜りこみかけていた。
 ようやく、ソロは我に返った。まだ意識には薄いもやがかかっていたが、ここで足を止めてはいられないことを思い出す。
 ミンクの銃を引っつかんで持ち上げる。すると銃は、べりべりと音を立て、血管のような糸のようなものを引きつつ地面から離れた。
 危ないところだった。銃を喰われてはたまらない。
「ちょっと、ソロ。大丈夫なの?」
「あんまり。でも、マシにはなった」
 ネイダの顔を見返して、ソロは弱々しく微笑んだ。
「本末転倒だよな。俺が、お前を、護らなきゃならないのに」
「……ハートまで、連れていって。おねがい」
「ああ」
「おかしいよね。わたしにも、おばあちゃんにも、ハートが見えないなんて」
「そうか? 見えるほうがおかしいだろ」
「ちがうの。おかしいんだよ」
 ネイダは唇を噛んだ。
 どすん、と世界が大きく揺れる。第二ウェンガンが何かにけつまずきでもしたかのようだった。
 まさか、第五ワンダーランドの外壁にでもぶつかったか。そう思うと振り返らずにはいられなかったが、見えるのは瓦礫と生物が融合した世界でしかなかった。
 MTPも全員がバランスを崩して、膝をついている。ソロのすぐ後ろにサウンドがいた。彼は顔を歪めて、片手でこめかみのあたりを押さえていた。
 サウンドは鼻血こそ出していなかった……が、顔に刻まれていた傷痕だったはずのものが、生傷になっていた。大きく傷口が開いたわけではなさそうだが、ミミズ腫れのように血がにじんでいる。
 血の中に、砂が混じっている仲だ。彼の身に何が起きたか、ソロにも理解できた。彼がどんな苦痛を味わっているかも、手に取るようにわかる。
「サウンド!」
 彼は応えず、ちいさく何か吐き捨てていたが、ソロの知らない言葉だった。たぶん、大陸北西部の方言だ。
 また、頭に痛み。胸と背中の古傷も、生傷のようにヅクリと痛んだ。
(ダニめ)
 声が、意思が、伝わってくる。
(つぶそう)
 ソロは世界を疾走する『光』を見た。
 その瞬間、目を見開いた自分の顔が見えた。自分の視点が、『地面』になったかのようだった。
 光の道筋を見出したとき、ソロの瞳は、赤錆色に染まっていた。
 首を振る。我に返る。
 サウンドの顔を見た。彼の白銀の目が、一瞬赤錆色に変わるのが見えた。
 ――そうか。
 ソロは唇を噛んだ。スナッチのハートを見抜くとき、自分の目はあんな色に光っていたのか。
 今さらながら、それを知った。他のヴォーパルが自分に寄りつかなくなる理由が、やっとわかった。
 やはり自分は、怪物なのだ。
(ダニ、め)
 抑揚のない町の意思が、また、意識の中に流れ込んでくる。
「うわ!」
 後方で、叫び声が上がった。
 見れば、ガスマスクがひとり、じたばたと暴れていた。直前までこめかみを押さえてうめいていたサウンドが、ものも言わずに駆け出した。
 ネイダのするどい悲鳴が、短く響く。
 ビデオも叫んだ。手を伸ばした。
「メタファー!」
 それが、ガスマスクの、名前のようだ。亀裂に足を一本咥え込まれた男の、名前のようだ。
「ちくしょう! あああ、ちくしょうッ!」
 ガスマスクの奥で、メタファーの悲鳴と悪態が、ひっくり返っていた。
 サウンドが、彼の腕をつかむ。他のガスマスクたちが、次から次へとメタファーをつかむ。引っ張る。
 だが、血が飛び散った。聞くも無残な絶叫が上がった。
 メタファーの片足が食いちぎられて、亀裂の中に消えていった。
 町は笑い声も上げようとしない。これで勝ったとは思っていないようだ。
 収まることを知らない憎悪が、煙とともに、亀裂の内部から立ちのぼっている。
(わたしは)
 また、立っていられないほどの揺れが起きた。
(なにをすればいい?)
 町の意思は、この場の雰囲気とはまったく無関係に、冷たく冴えわたっていた。
(ダニがいる……)
 樹木や硬くなった肉が裂けるような音が響き、ソロの足元からも、MTPの足元からも、地面が消失した。一二人の人間を飲み込むほどに、町の地面と肉が裂けたのだ。
「…………!」
 ソロは落ちる直前にネイダの手を握り、落ちるあいだもネイダの手を離さなかった。
 牙が見えた。
 肉壁に、ずらりと並ぶ牙。
 誰かがすさまじい悲鳴を上げていた。見れば、亀裂のへりにぶつかり、滑り落ちているガスマスクがいた。
 無数の牙は、落ちる彼を引き裂いて、あるいはすり下ろしていた。彼が通った縦型の道筋には、服の切れ端と、肉片と、弾薬ベルトが引っかかっていた。
 まずい。
 深淵の底が見えた。牙と鉄片とガラス片だらけの底が。
 ソロはネイダを引き寄せ、抱きかかえて、顎を引いた。背中から地面に叩きつけられた。ガラスが散らばる、甲高い音。
 ジャケットの表面は裂けた。防刃素材の裏地も、いくらか裂けた。背中にするどい痛みと鈍痛を感じた。息が止まる。
 血が飛び散り、体内からあふれ出すのを感じる。
 そして、この町の血と涎が、体内に入り込んだのも感じた。
 すぐ、呼吸はできるようになった。手足も動く。背中から落ちたが、背骨は痛めずにすんだようだ。だが、裂傷は……浅いのか深いのか、わからない。
 膿んだかのような熱く鈍い痛み。体内で聞こえる、ギチギチ音。
「あああ、クソッ、うるせえ、静かにしてろ!」
 ソロは自分の身体の中に毒づき、強引に起き上がった。立ちくらみのようなものに襲われた。
 しかし、貧血に悩む世の人びとも、立ち上がった瞬間、視界が赤と黒に染まる経験はないだろう。
 ソロの叱咤に従ったのか、音も苦痛も、ひと息でなりを潜めた。
 隣で身体を起こすネイダを見る。彼女には、大きな怪我はなかった――ように見えた。
「ひっ……」
 しかし、彼女は大きくその目を見開いて、自分の右足に釘付けになっていた。
 ガラス片が、白いふくらはぎに突き刺さっている。
「落ち着け。深呼吸して。動くな」
 ソロは彼女の耳元でささやくと、そっと手を伸ばした。自分の指も、情けないことに、すこし震えていた。それにかまわず、ソロはすばやく、ネイダの足からガラス片を抜いた。
 ネイダは耳をつんざく悲鳴を上げた。
 思ったよりガラス片は大きく、ネイダのふくらはぎはあっという間に血まみれになった。
 自分の背中もこれに負けないくらい真っ赤だろう――そうは思いつつも、ソロは腰のポーチから止血帯を出して、ネイダのふくらはぎに巻きつけた。
 ネイダは息を弾ませて、ソロに抱きついてきた。
 すぐそばに、ガスマスクが倒れている。うめいていたが、あまり長くはなさそうだった。
 首にガラス片が、腹と足に鉄片がめり込んでいた。おまけに片足がない。
 メタファーだ。
「クソ……」
 ささやくような声で、彼が言う。ソロは彼のそばに屈み込んだ。
「あんた、煙草持ってないか……」
 ガスマスクを外してやった。目つきの鋭い、金髪の青年が、ここに現れた。ごぼっ、と血を吐いて、彼はがたがた震えた。
「なん、で、外すんだ……ビデオに、悪いじゃないか……みんなで、き、決めたことなんだぞ」
「そうか、悪かったな」
「いいよ、もう……うう、さむ……さむい」
 ソロがガスマスクを戻そうとすると、メタファーは拒んだ。
 おぶっ、とまた彼は血を吐いた。彼の目は、もう、ソロもネイダもガスマスクも見ていない。
「後悔してない……オレは後悔してないぞ……後悔なんか……た、……隊長……オレ後悔、なん、か…………さ、さむ……さむい……さむ…………」
 震えが止まった。
 ソロは煙草を一本取り出していたのだが、間に合わなかった。こんなに早く死んでしまうとは。煙草をくわえてひと呼吸するくらい、猶予があってもよかったはずなのに。
 黙って、メタファーの右手に握らせてやった。
 ネイダのすすり泣きが聞こえる。
 ソロは立ち上がった。背中がぬるぬるしている。
 それ以上に、この場のすべてがぬるぬるしている。地面はなく、立っているところは、肉の上だ。息吹のような音と、男たちのうめき声が充満している。
 町の姿は見る影もなく、折れ曲がった電柱や街灯が肉の床や壁に突き刺さってはいるものの、明かりは点いていなかった。
 ガスマスクたちは腰に軽量ランタンを吊り下げている。生存者の光が、異様な空間を照らし出していた。
 それを見て、ソロはメタファーの腰からランタンを拝借した。
「……わたしが持つ」
「ありがとう」
 ネイダは鼻をすすり、目をこすって、ランタンを掲げた。
 前方に立っていた男が振り向く。薄闇の中、彼の目は猫や猛禽のようにかがやいた。いきなりランタンの光を向けられても、サウンドが目を細める様子はなかった。
 ネイダがすこしだけ驚いている。あれは、白銀の目にみられる特徴だ。それを知っているソロも、実際白銀の目が光を反射するさまを初めて見たので、驚いたかもしれなかった。
「サウンド。メタファーが死んだ」
「パラグラフも死んだ。お嬢さんは、見ないほうがいい」
 サウンドの足元に、ぼろきれの塊のようなものが落ちている。ネイダは言われたとおり見ないことにしたようだ。ソロはまじまじと見てしまった。
 さっき、肉壁に引っかかりながら落ちていたのが彼だろう。腹の中身が、肉の床の上に広がっている。
 肉床がうごめいているせいで、内臓は瀕死の芋虫のようにかすかにのたうっていた。第二ウェンガンが、好物を喰おうとしているのだ。
 ソロは死体から目をそむけ、サウンドに近づく。
 サウンドは無表情のままだった。だが、なぜか、非情には見えなかった。
 彼が深く仲間の死を悼んでいて、今はそれをやっと押し殺しているのが、手に取るようにわかった。
 彼の身体を見たソロは、思わずあっと声を上げる。
「おい、左腕」
「?」
 ソロが指さすと、サウンドは己の左腕に目を向けた。
「ああ」
 ネイダのふくらはぎに刺さったものよりも大きい、ガラス片が突き刺さっている。サウンドは片眉を吊り上げ、事も無げにそれを引き抜いて、投げ捨てた。
「問題ない」
 この男には痛覚がないのだろうか。
 歩き出したサウンドは、すこし右足を引きずっていた。サウンドは、そのとき初めて右足の異常に気づいたような素振りで一瞥していた。
 隊長は不死身だ、とビデオが呪文のように呟いていたことを思い出す。
 光がそこらじゅうを駆けめぐった。サウンドが顔を上げて視線をめぐらせたので、彼にも見えたのだろう。
 襞と牙でできた赤黒い壁が、ため息をついて、大きく動いた。ねじれた。だらだらと、涎のような液体を垂れ流している。
「あーあ」
 サウンドの後ろについたビデオが、これみよがしに嘆息する。
「オレたち、丸呑みにされちまったわけか」
「なんだ文句か、俺たちに」
「誰もそんなこと言ってないだろ」
 少なくともビデオには嫌われているようだ、とソロは判断した。もともと毒舌な性分のようだが、一発殴っているのでほぼ間違いない。
 彼の言うとおり、怪物の腹中にいるという難局に立たされているわけだが、緊急事態なのだし、そろそろ許してもらえないだろうか。
 世界の息吹が、不意に、とまった。
 それは、息を呑んだかのように。大きく息を吸い込んで、吐くのをやめたかのように。
 床と壁の肉が、血しぶきを飛ばして裏返った。瞬時にして、辺りは金属と錆だけで構成された世界に変わる。
 それは凶悪な、悪い夢のような世界でもあった。
 床は主に金網と縞鋼板、針山と剃刀の刃でできていた。壁は、スリットの入った鉄板や鉄格子が、幾重にもネジどめされたもの。
 壁も床も、無秩序な段差や凹凸を織り成し、暗闇の向こうへ、どこまでも、何デメルも続いているようだ。
 加えて言えば、その金属世界は、血なのか錆なのかわからない赤色と茶色に侵され、あちこちが腐食している。
 スリットや金網の奥からは、錆を含んだ血と膿が、いやらしい音を立てながら滴り落ちていた。
 ぢるぢるぢる。
 穢れた床に落ちる血と膿は、目も足もない回虫もどきに進化したあと、ギチギチ呟きながら床の金網の隙間に落ちていくのだ。
 この変化に、いつまでも呆気に取られているわけにはいかない。ソロと同じことを、サウンドも考えていたようだ。ソロが歩き出すと同時に、サウンドが短く、どこか控えめに、号令をかけた。
 すると。
 空間が、
 息を吐いた。
 ソロは、壁のスリットや穴の奥で、きらりと美しい光がひらめくのを見た。
「壁から離れろ!!」
 自分でも驚くほど大きな声が出た。幸い、ソロとネイダは壁から何アダーも離れていた。しかし、壁際で銃を構えていたガスマスクは……3人。
 硬質な、冷めた音が響いた。
 壁のスリットからは錆びた刃が、穴からは錆びた鉄の棒が、0.5秒で飛び出した。
 3つの悲鳴が重なった。
 だが、そのうちのひとりは、近くにいたサウンドがすばやく左手を伸ばし、引き寄せていた。
 最も運の悪かった男は、右の太ももと脇腹と左肘を鉄棒に貫かれ、右肩から胸にかけて、刃が斜めに突き刺さった。ガスマスクの中で彼はくぐもった苦鳴を上げ、血を吐いた。鎖骨や肋骨や肩甲骨ごと、肺も斜めに分断されたはずだ。
 次に運の悪かった男の首は、皮一枚だけで胴体とつながるはめになった。ぱっくりと断面をさらし、首は背中側に倒れた。胴体も鉄棒3本と1枚の刃に貫かれ、おまけに左の足首も切断されていた。痙攣する手から、ごついアサルトライフルが滑り落ちた。彼にとって幸運だったのは、即死できたことだ。
 たいへん運が良かった男は、マーチだった。サウンドに引っ張られたおかげで、左腕をすこし刺されただけですんだ。ブレスレットがひとつ切れて、縞鋼板の上に、緑色の石がばらばら散らばる。
 サウンドの言い分は正しかったというわけか。マーチは運が良い、本当に良い。
「ぉぉぉアアア! クソッ、だぁクソッ!」
 そしていちばん運が悪かった男というのは、大男シンパシーだった。
 足も両腕も、怪物の世界に掌握されている。磔にされている。
 感嘆すべきは、彼の闘争心だった。痛みに泣きわめくでもなく、シンパシーは怒り狂っていた。
「ちくしょう! ア゛ァァァァァ!」
「シンパシー! よせ、動くな!」
「うっせえ! どうせ助からねェよこんなの! だぁぁぁあクソッタレ!」
 ビデオの制止を振り切り、シンパシーは怒りに任せて、後ろに下がった。錆びついた刃が、彼の右の肺を、鎖骨を、ばりばりと破壊する。
 ほとんど全身を血に染めたシンパシーの、左肘を貫いていた鉄棒が抜けた。
「クソッ! うう、クソ……!」
 彼の怒りが、急速に勢いを失っていった。きっと、血といっしょに、流れ落ちてしまったのだ。
 サウンドが近づき、彼の顔からマスクを剥ぎ取った。茶色の短髪の、見るからに豪胆な30代の男が、そこに現れた。
 げぼげぼと、大男は血を吐いた。もう、苦痛が怒りを上回ったのか、顔は歪んでいた。彼はサウンドを見つめて、子供のようにべそをかいた。
「すいません。すいません、隊長。ヘマしてすいません。すいません、オレ……」
「もういい、シンパシー。貴様はよくやってくれた」
「ほんとですか? うう、……ほんとですか、隊長。ねえ、ほ、ほんとですか?」
「本当だ」
「た、……隊長。オレ……、ヘマぉげヒぃッ」
 びくっ、シンパシーの身体に緊張が走った。
 次の瞬間には、その力が残らず消えて、がくりと巨体が前のめりになった。刃と鉄棒が突き刺さったままなので、彼の身体が倒れることはなかった。
 サウンドが左手を引く。
 血まみれのナイフがその手にあったようにソロには見えたが、気がつくと、手品のようにナイフらしきものは消えていた。
 しかし、仮に(・・)、仮にサウンドがシンパシーの心臓にナイフを突き立てたのだとしても、ソロに彼を責めるつもりはない。そうしてやったほうがよかった。しかし自分に同じ真似ができるかどうか、自信はない。とても……勇気と、覚悟が要る行為だ。
 ソロ同様、生き残ったガスマスクも、自分たちのリーダーを非難せず、どこか苦しげに黙って見つめていた。
「マラカイトは魔除けの石だ」
 マーチだけが呟いていた。手首をさすりながら。
「おれを護ってくれたんだなあ」
 即死したガスマスクのそばでは、涙ぐんでいる者もいる。ソロは彼に目を向けた。
「フラミンゴだ。こいつ、フラミンゴだ」
「…………」
「どうすればいい? おれ、こいつといちばん気が合ったんだぞ。フラミンゴなんだよ、こいつ。信じられるか?」
「セラードア。行くぞ。壁から距離を取れ」
 サウンドは無表情のままで、泣いているガスマスクの肩を叩いた。
 セラードアはガスマスクを上げて涙を拭い、すぐに引き下ろした。どんな顔立ちをしているのかもわからなかったくらいの早業だ。
 はあああぁ、と空間がため息をついた。
(ぎゃくだった)
 ため息混じりの意思を感じて、ソロは目を泳がせる。
 いやな予感がした。
 また、凶悪で硬質な音が響きわたった。壁のスリットと穴に、凶器が引っ込んだのだ。引っ込むときも、ほんの0.5秒しかかかっていなかった。
 張り付けられていたシンパシーとフラミンゴの死体が、濡れた洗濯物のように床に崩れ落ちる。
(ぎゃくだった……)
 足元が、大きく傾いた。すぐに、立っていられなくなった。
 床は、空間は回転していた。20度、30度、そして40度。
 ヴォーパルと少女は、なすすべもなく、ごろごろと無様に転がされた。
 90度。回転が止まる。
 ソロは、ごくりと固唾を呑む。
 さっきまで壁だったものが、今は床だ。
 倒れ伏した身体の下に、スリット。穿孔。
 まずい。
 ソロは、壁のスリットや穴の奥で、きらりと美しい光がひらめくのを――


 
+注意+
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