第二話 黒き神
ふと鼻に何かが触った。うとうとしていた僕はそのくすぐったさに、おもわずくしゃみをした。
くしゃみで目が覚め、視界に入った緑の草の穂と、小さな手に僕は微笑んだ。
「やあ、こんにちは。チビスケ達」
草地に横になっていた僕を囲んで見下ろしている子供達は、声をかけると嬉しそうにはにかんだ。
僕は伸びをして起き上がり鼻をくすぐった草を手にし、指でもて遊んでだ。
「ナナスさぁ、羊番してたんじゃなかったの?」
村一番のヤンチャ者で、小さい組の子供達のリーダーである少年が呆れた様子をみせた。
「ちゃんとやらないと村から追い出されちゃうよ」
髪を二つに結んだ女の子がにこにこと笑いかけた。
「うん分かっているけど、この陽気だろ?ついつい眠くなっちゃったんだ」
柔らかい日差しとさわやかな風。みずみずしい緑の草と、あちこちに色とりどりの花がが視界を埋めている。春の風景に気分はのんびりしていまう。
「ナナスの事、大人達は良く思ってないんだから」
「はは、そうだね。真面目にやるよ」
この小さな村に来たのは秋の終わり。ここのような閉塞的な村で、僕のような外者はあまり受け入れられない。それでも子供達は子供特有の好奇心で、旅人の話を聞きたがった。
だから子供達とは仲良しになったが、大人達は早く僕に旅立ってほしがっていた。
(悪い人たちじゃないんだけどね)
遠くに見える村の家々を見つめこっそり苦笑した。
集まっている子供達は羊番という仕事を僕に分けてくれた。僕が村に居やすいようにと。朝にこの放牧場に連れてきて夕方まで見ている。それが今の僕の仕事だった。子供達はほぼ毎日、お昼過ぎにやって来てはお喋りをしていく。
「キリーは今日もいないの?」
仲良しの5人組。しかし最近は一人欠けていた。ヤンチャ君と同い年の女の子はここ半月ほど見ていない。
「キリーは冬から調子が良くなかったんだ。冬に流行った病気にかかってから」
「だけどそれは治ったはずだよね?」
「うん。だけど元気ないんだ」
子供達はみな暗く沈んでしまった。
「ねぇナナスは色んな所に行ったんでしょう?キリーを元気にする薬とか知らない?」
真剣な大きな瞳。4対の目に見つめられる中で、僕は肩をすくめた。
「ごめんね。僕は薬師でもお医者でもないから……病気の事は分からないんだ」
すまない気持ちで眉を下げると、元気者の少年は力いっぱいに、僕の肩を叩いた。
「だよなぁ〜。じゃなきゃいい大人が、こんな所でガキにでも出来る仕事をしてないよな」
「やぁそれを言われると何も言えないなぁ」
頭をかきながら笑うと子供達の表情もなごんだ。
「もう少ししたらもっとあったかくなるから、きっと大丈夫だよ」
「ナナスに言われても説得力ないよー」
子供達は声を上げて笑った。
夜遅く、日付が変わろうとする頃、僕は昼間は入らない村の中心へと歩いていた。夜中に村へ行くのは最近の日課となっていた。
『またかね』
静かな声が頭の中に響いた。僕は自分の影を見た。月明かりで出来た濃い影に微笑む。
「なんでもないならそれでいいんだけどね」
歩くのは止めず小声で答えた。
『あの栗毛の子供の事は放っておけ』
「そんな馬かなにかみたいに……」
確かに目当ての少女は栗色の髪をしていた。
『おぬしが何を考えておるかは知らぬが、おぬしは何も出来ぬ』
姿無き声の主に僕は軽く頭を振った。
「大丈夫だよ。僕は君が思うより己を知っているから」
『本当にそう願いたいものだ』
声が不機嫌にうめいたところで、目的の家についた。小さな木造の家はひっそりと眠りについている。暗い窓はぽっかりと開いた、無感情な穴のようだ。
「おや?」
僕はその小さな家の屋根に在ってはならないモノを見つけた。
小さな黒い塊。
「やはり来たね」
『おぬし、先程己が言うた言葉、忘れてはいまいな?』
僕が溜め息混じりに呟くと、姿無き声はさっきより強い口調で囁いた。
しかしそれは無視して、僕は屋根へと飛んだ。
音も無く屋根に降り立った僕に、ソレは驚きを見せた。僕の膝ほどまでの大きさの、人の形をした生き物。人形に近いと言ってもよいソレは、黒いボロ布みたいな装束をまとい、漆黒の髪を体に巻き付けるように長く伸ばしている。
一見して気味の悪い物体だった。
「お前は何なんだ?」
かんだかい声がソレから発せられた。
「何者だ!?」
「通りすがりの人間だよ」「人間だと?」
ソレは胡散臭そうに僕を見た。大きな瞳が前髪の下で、爛々と輝いている。
「そんなはずは無い。人間に我の姿はみえない。見えるとすれば死に近づいた者だけだ!貴様は違う」
「それは世間を知らないというものだよ。黒き神」
ソレは更に驚いた様子で息を飲んだ。
「貴様は人の魔法使いか?」
「そうかもね。――ところで黒き神。この家になんの用だい?」
「我の存在を知っているのなら、我が何をするのかも分かっているのではないか?」
「そうだね」
僕は屋根の上に手をついた。その途端、黒き神は青白い顔色を更に青くした。
「何をした!」
「君をここに入れないようにしただけだよ」
何でも無いことのように言ってやると、黒き神は怒りをもって僕を睨み付けた。
「入れないだろう?直接手を触れなければ、君の仕事は出来ない」
「こんな馬鹿な。人間の力が神である我を防ぐなど、信じられない」
「やはり世間を知らないな。それに神と言っても君、下っ端だろう」
僕の言い方が気に入らなかったのだろう。――僕も言葉を選んでいるが――黒き神は唇を噛んで悔しそうにしていた。彼はこの家に入りたくて仕方がないのだろうが、僕がそれをさせないようにしている。
そうしなければこの存在は、小さな命を奪っていく。
「貴様こんな事をして、ただですむと思っているのか」
「思っては無いけど……」
コートの内ポケットから懐中時計を取り出し、時間を確かめる。既に日付は変わって数分が過ぎていた。「残念だったね。今日はもう君の時間は終わったよ」
僕はもう一度屋根に触れて、先程施した魔法を解いた。それから改めて黒き神を見据える。
「決められている時間を過ぎたから、もう仕事は出来ないはずだよ。さぁ帰って上の指示を待つといい」
「貴様」
黒き神の手に銀の刃を持つ長い鎌が現れた。それをしばらく見つめてから、僕は自身の手をそれに向けた。
鎌は一瞬にして砕けた。
「馬鹿な!」
「抵抗せずに帰るんだ。でなければ存在ごと消す」
僕の脅しが本物だと分かったのか、黒き神はわずかな間を置いて消えた。
それを見届けてから僕は息を吐いて、肩の力を抜いた。下っ端とはいえ神族に逆らうのだから、緊張しないわけがない。
「愚かな事を」
低い聞きなれた声がすぐ側から聞こえた。目を向けると白銀色の狼が立っていた。頭の中に語るのではなく、空気を震わせて耳に声が届いていた。僕は相棒に薄く笑った。
「怒っているね?」
「当たり前だ。おぬしは何故、そう愚かな事をするのだ。これは神の定めた運命。それに逆らう事は誰にも許されてはおらぬ。おぬしも例外ではないのだぞ」
「分かっているよ。でもね僕は人間だから、目の前で消えかかる命を無視出来ないんだ。愚かだと分かっていても僕は止めない」
白銀の狼は目を細めてから溜め息をついた。その姿はやけに人間臭く見えた。
「仕方がないのう。また逃げ回らねばならぬぞ」
「そうだね。――嫌なら当分僕から離れて隠れていると良いよ」
正直、この相棒を僕の無謀な行動の後に続く騒ぎに、巻き込みたくは無かった。寂しくはあったが、それが彼の為にはいいと思った。
「おぬしはつくづく、ワシをみくびっておるな。ワシが神族を恐れておぬしから逃げ出すとでも思うたか?」
「だけどね」
「良いのだ。もう慣れてしまった」
狼はツンと明後日を向いた。素直ではない相棒のそんな様子が僕にはおかしく、嬉しかった。
「ありがとう、ナナス」
「お、やっと我が名を返す気になったか?魔法使い」
「奪ったつもりは無かったんだけど?借りていただけで」
「何故、おぬしはワシの名を勝手に使う?いい加減に己の名を定めよ」
「そうしたいんだけどね」
僕は苦笑しつつ空を見上げた。ちらちらと小さな輝きをつくる星が、暗い色の中にばらまかれていた。
「この子供を護るか?理を歪めても」
「護るよ。こんな小さな命がなくなる事を見過ごせない。例え僕の自分勝手なエゴでも……代わりに僕を連れて行けば良いのに」
「それはせぬだろう。分かっておるだろう?」
ナナスの声が僕の中で重く沈んだ。
翌日も僕はいつものように羊を村の門まで迎えに行き、放牧場まで連れて来てから、地面に転がった。すると僕の顔を羊達が覗き込み舐めだした。僕は羊の下に埋もれかけて慌てて半身を起こした。
「僕を心配してくれているのかい?」
ふわふわの羊毛に被われた体を次々と撫でてやる。
「大丈夫だよ。君達の大事なあの子も護るし、僕も頑張ってみるからね」
羊達は気持よさそうに目を細めた。
午後になっていつもなら子供達が集まってくる時間に、今日は誰も来なかった。そういった事は今までも無かったわけではないので、僕は気にせずすごし、夕方羊を送ってからまた木の下に戻って座る。
「やぁ、久しぶり。君が来たのか。カリス」
顔を上げるとそこには一人の男が立っていた。人間ではない。漆黒の衣装を身につけた男。彼も死を司る黒き神。死神だった。
「呑気に挨拶などしている場合ではないぞ。はぐれ魔法使い」
男は紫の瞳に不機嫌な色を見せていた。
「お前はなぜいつも、我らを怒らせる真似をするのだ」
「僕は僕の心に従っているだけだよ。人間としてのね。それが神族の怒りに触れてしまうのは――仕方ないかと思うよ」
彼はしばらく僕に鋭い視線を向けていたが、溜め息と共に力を抜いた。
「お前はまだそんな事を言っているのか?」
「ええ。僕が人間である以上は、僕が何をしてもあなた達には僕を裁けはしない」
「今まではそれで済んでいるが、この先は分からんぞ。私はお前を気に入っているからな。私や私の眷族の邪魔をしても庇ってやった。だがなそろそろ大目には見てやれんし、庇いきれん。そしてお前が人間で在ることを望み続けるなら、お前は神族には勝てぬよ?」
それには答えずただ微笑んだ。
「だからこれは警告だ。今夜私が仕事を行う。邪魔をするな。もし私の声を聞かぬなら――審判神が動く事となるぞ」
顔見知りの死神は警告を残し去った。僕は木にもたれた格好で相棒の背を撫でながら時間を待った。
「どうするのだ?審判神などでてきたら、おぬしは太刀打ち出来ぬぞ」
ナナスが素っ気ない声で聞いてきた。
「そうだね」
「今回栗毛の娘の死をおぬしはたまたま感知したが、できなかった確率の方が高かったのだ。知らずにおればあの子供が死ぬこととなっても、それは定められた事としとおぬしは受け止めただろう」
「そんな事はない」
「いや、そういうものだ。――おぬしが自分で気付かぬとも、世界はそういう風に流れ、それが当たり前なのだから」
「だけど僕は知ってしまった。それを見てみぬ振りは出来ない。そして僕にはあの子を救える力がある」
「だがなカリス相手ではそうは言えぬだろう。あの黒き神は最高位神なのだからのう」
「出し抜くよ」
そんな自信はどこにも無かったが最善を尽くす。その心だけはあった。
「行こう。時間だ」
村に着くとそこには思いがけないことが待っていた。村の大人達。彼等が僕を村の中に入れないように壁を作っていた。手には武器や野良道具を持っている。
「こんばんは。何の騒ぎです?」
僕は警戒心を持った村人に緊張感の無い顔を向けた。
「村に入り何をするつもりだ」
大柄な男が槍を手に一歩前に出た。僕を睨んでいたがその目には濃い恐怖心が見て取れた。それに気付かなかった振りをし、僕は首をかしげた。
「何って僕は……」
昼間近寄らない僕が夜中にやって来たのだから、疑われても仕方がない。上手い言い訳も思い浮かばず言いよどむと、左側から石が飛んで来た。それがこめかみに当たり痛みを作った。
「この魔物め!」
僕は石と声が飛んで来た方を見た。
「オレイルの家で何をやっていた!」
「オレイル?……ああ、キリーの」
「俺は見たぞ。昨日の晩、白いでっかい獣と屋根の上にいたところを!ありゃあ魔物だ」
そこで昨日の僕の姿を見られていた事を知った。一応辺りに気を張っていたが、見落としてしまっていたらしい。それからあることに気付く。
昼間子供達が来なかったのは僕を魔物だと思ったからだ。
(嫌われてしまったかな)
それだけが寂しく思えた。
「はじめから怪しいと思っていたんだ」
「俺達を殺すつもりだったんだ。この冬の病もお前がまいたのだろう!」
「子供を手懐けて、この村に災いを呼ぶ気だったに違いない」
僕はこめかみから流れ出た血を手の甲で拭いつつ、村人の声を聞いていた。
「僕はただの旅人です。信じてはいただけないでしょうが……。僕はやらなければならない事があります。道を開けていただきたい」
一歩踏み出す。ザッと村人は身を退いたが、すぐに武器を持ち直し輪を狭めた。
「聞いてはくれないようですね」
時間がもったいなかった。もうすぐ日付が変わる。僕はそのまま歩を進めた。
「この化物め、来るな!」
村人達が手にした武器を振り上げた。僕は反撃するつもりは無かった。そんなもので僕は殺されはしないから。そして人に向けて魔法を使う気は更々ない。
振り下ろされる鍬を避けて、槍をくぐる。一人の村人の肩に手をかけて高く飛んだ。一瞬だけ村人の包囲から逃れたが数が多い。すぐさま取り囲まれてしまい、腕や肩を掴まれてしまった。引きずられるように地面に倒された。
その時、地面の下から密度の濃い空気が勢い良く吹き上がった。
「うわあああああ」
村人達の悲鳴が足元から聞こえてくる。僕は上空へと逃れていた。相棒に助けられて。
「ナナス」
僕の襟首をくわえて近くの家の屋根に降りたナナス。彼は僕を放すとフイっと踵を返して、僕の影に潜った。
「おぬしはどうしてそうなのだ!自虐的なのにも程がある」
そんな怒鳴り声を残して。
「ありがとう、助けてくれて。お説教は後で聞くよ」
家の下には村人達が集まりだしている。彼等の顔は恐怖で歪み嫌悪が瞳にあった。そんな目を向けられる事に慣れてはいても、傷つかないわけではない。
それらから目を反らせし僕はキリーの家の方角を見、そちらへ飛んだ。屋根伝いに飛んで行く。
「ナナス!」
子供の声が名を呼んだ。本物ではなく僕を。
声の方向を見ると建物の影に子供がいた。僕は彼のもとに降りる。
「どうしたんだい?こんな夜中に」
いつもするように微笑むと、やんちゃな子供のリーダーは手招きして僕を導いた。
「キリーん家に行くんだろ?何をするかは知らないけど、こっち来て。近道があるんだ」
「……君は僕が怖くないのかい?僕は……」
――魔物かもしれないよ?
声に出さなかった言葉を少年には分かったのだろうか。彼は不思議そうに僕を見た。
「怖いもんかよ。父さん達はナナスを魔物だって言うけど、そんなはずねーよ。俺、一緒にいたから分かるんだ」
飾りの無い少年の明るい笑顔に胸が熱くなった。
「あの壁を登ればすぐだよ」
目の前に立ちはだかる石壁に僕は手をかけた。
「気をつけて、ナナス」
僕はありったけの心を向けて微笑んだ。
「ありがとう!」
時間はもう一瞬も無駄に出来ない。急いでかけあがり壁を蹴って飛んだ。少年の言うとおりキリーの家の前に出た。そのまま屋根まで行こうとした。しかしそれはかなわなかった。
「!」
背中に何かが突き刺さる。突然の痛みに僕は地面に転がった。
「魔物め!死ね!」
キリーの家の側に隠れていたのだろう。数人の村人が僕を取り囲み、矢をつがえていた。更に数本の矢が体に刺さる。
「ナナス!」
意識の端で子供の声を聞いた。元気な少年の悲痛な叫び声。
(大丈夫。僕は死なないから悲しまないで)
悲鳴につられて目を上げた所には、放牧場の柵を作る杭を持った男達の姿。そして杭は僕に振り下ろされた。
「ぐわっ……!」
見事に胸を刺し抜かれ地面に縫い留められる。視界が真っ赤に染まった。すさまじい痛みで気を失いかけたが、瞬間、捉えた姿に意識は一気に浮上した。
(カリス!)
屋根の上にいたのは夕方会った死神。彼を止めなければならないのに、さすがにこの状態では動けない。痛みのせいで集中もできず魔法も使えない。何も出来ず緩慢に意識が混濁していった。
それから動けなくなった僕を死んだと思った村人達は、村から離れた崖に僕を投げ捨てた。
「はぐれ魔法使い。そんな目にあってもまだ我らに逆らう力を使うか?人間の為に」
崖下に落とされて、どれくらいの時間が経ったのか。いつの間にか死神が現れ僕に話かけてきた。僕は目だけを向けると漆黒の男が冷たい目で見下ろしていた。
感情を一切持たない、どこまでも透明な神の瞳。
彼がここにいるという事は、僕は護れなかったんだ。あの子供を。心を突き刺す痛みは、体を今も襲うそれよりも深く、強かった。
僕は答える気力など無くてただ微笑んだ。それをどう取るかは彼次第だ。
「人間は愚かだ。自分達を助ける者と、そうでない者を見分けることも出来ない。己の偏った価値観のみで判断を下す。知らぬこととはゆえ、救い手たるお前を殺したのだ」
痛む胸を手で押さえる。まだ塞がりきらない傷。内蔵まで達した傷は、そう簡単には治らない。
僕は殺された。それは真実。微笑みは自嘲へと変わった。
「人間は愚かだよ。それは分かっていたことだと思っていたけどね。僕を見て」
ようよう出た掠れた声。その声が作った言葉をカリスはちゃんと聞き取ってくれた。
「そうだな」
カリスは膝をつき僕に手を伸ばした。だけど僕はその手を拒んだ。
「構うな。どうせ死なない身体だ」
強い拒否にカリスの指が止まった。彼は少し間を置き神らしくもなく溜め息をついた。
「そんな自虐的な事を言うな。――ナナスが心配している」
僕はすぐ側に寄り添っていた白銀の獣に、今更ながら気付いた。美しい毛並が赤黒く汚れている。ここに落とされた時、きっと助けてくれたのだろう。
「僕が感じ取れ無かった危険を、君が避ける事は出来ない。出来ないんだ。だからナナス、これは気にしなくていい事なんだよ」
沈んだ目をした相棒に手を伸ばし頭を撫でてやる。ナナスは目を細めて僕の手に鼻を押し付けた。
キリーの葬列が村の外れの墓地に行くのを、僕は遠くから眺めていた。その中にはちらほらと、子供の姿もあった。僕と仲良しだった子供達。
僕は声に出さずに彼女の冥福を祈った。しかし祈りながら思う。僕は誰に祈りを捧げているのだろうと。
命を生かすも殺すも世界の定めであり、それは世界を管理する神族達の手の内にある。
「魔法使いとは因果なものだね。こんな世界は見たくは無かった」
どんよりと曇った空の下で陰気な風が吹き抜けていく。
「しかしそれを望んだのはおぬしだ。世界を旅し世界の理を見た。その知識を得たいと望んだ。魔法使いという存在は、それを追求すれば手に入れる事が出来ると知っていた」
「そうだね」
ナナスは僕を見ることなく実に素っ気ない言い方をした。そして僕も。
だけど彼の静かで重い言葉は、僕の中にゆっくりと沈みこんで広がっていく。
「知らなければ幸せだったかもしれないけど、僕はそれを望んでしまった。人が持つには重すぎる知識を」
愚かな若者は手に余る宝をそうとは知らずに手にし、そして自分の愚かさを嘆いた時には全てが遅く、戻れない所まで来ていた。――それはずいぶんと昔の話なのだけど。
「逃げ出したいようだのう」
「逃げ出したいし、終りにしたいと思うけど、出来ない事だよ。この体が滅びない限りは」
胸の傷は既に塞がっていたけど、喪失への痛みはあり続ける。
人ではなくなった身体と人の心が作り出す歪み。いつかこの歪みに僕は耐えられなくなるかもしれない。
葬列は墓地に着いた。灰色の空に響く鐘の音。この寂しい音を忘れないだろう。そう、僕は何も忘れられないのだから。
「行こう、ナナス。旅人に戻るよ」
無機質に告げて歩き出した。そんな僕の足にすり寄るようにナナスが並んで――。
僕はくすっと笑って相棒の目線にしゃがむ。
「どうしたんだい?」
「おぬしが寂しそうだからのう。甘えてやっているのだよ」
「それはどうも」
相棒が見せた珍しい甘さに僕は身を委ねた。柔らかな体毛が覆う首筋を撫でて、そっと抱きしめた。
春の風が僕の髪をさらって過ぎて行くのを感じながら。
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