寅の恋路(改)
原稿用紙換算五枚の掌編・主人公による「」の台詞禁止・テーマ「人形」・11/9一部加筆修正
寅には好きな娘がいた。
小柄で色白で、鼻は低いがぱっちりした黒曜の瞳を持ち、頭に着けたサテンの、ピンクのリボンが良く似合う中々の別嬪だ。
娘の家は石畳で造られた常盤坂の上に建つ、白いハイカラな洋館である。寅は毎日塀を乗り越えて忍び込み、庭に立つ古びた燈籠によじ登る。ここから南向の半円窓を望むと、いつも窓辺に佇む娘の姿が見えた。
声を掛けたいが、寅は肥えて歪な黒ぶちで、目付きもガラも悪い。右耳の付け根には喧嘩傷もあるし、女に怖がられるばかりでもてたことなぞないと嘆くと、子分の茶太郎は丸い眼をくりくりと動かし異議を唱えた。
「いやいや、あのお嬢さんはソノ気っすよ。だって兄貴が来るの、いつもあそこで待ってるじゃあないっすか!」
そんな都合の良いわけがあるかいな。
「女が強い男に惚れるのは、お天道さまが初めて上ったその昔からずっと決まってることだって、母ちゃんが言ってました。兄貴が喧嘩強いの、オイラ良く知ってるっすよ。なら、何の遠慮がありましょう?」
いっそ拐って、駆け落ちてしまえ。
そう何度も力説され、春という恋情芽生える季節も相まって、寅はやっとこ娘を口説く気になった。
翌日、朝。
娘への手土産を獲らんと、雀をじっと狙う寅のところへ、茶太郎が慌てて駆け付けた。
「大変っす、お嬢さん家に大きなトラックが!」
突っ込んだのかとびっくりして問えば、茶太郎はふるふると頭を横に振り、何やら家から大きな荷物を運び出し、荷台へ積み込んでいるのだと応える。
もしかして娘まで何処かへ連れて行かれるのか。そうなら一大事と、寅は茶太郎を従え急いで坂を駆け上った。
石畳を五十歩余も駆けると、例の洋館の道路脇にはトラックが停車し、荷台に家財を積んでいるのが見える。寅は急いで塀へよじ上ると、敷地の中へ入った。
裏庭から南へ小走りで回ると、いつもの窓に娘の姿はなかったが、珍しいことにがっぱりと開け放たれている。傍らに積まれた花鉢を踏み台にそっと忍び込むと、がらんとした部屋の中には、寅の背丈ほどの段ボールが一つ置かれていた。
「兄貴っ、任してください!」
茶太郎が縁に手を掛け延び上がり、鼻先を突っ込み蓋を開ける。すると中には雑貨と、ビニール袋に入れられた娘が入っていた。
(マッテタノ、タスケテ)
そう言わんばかりに、黒曜の瞳はただじっと寅を映している。寅は迷いなく袋の端を咥えると、一目散に来た道を逃げた。
袋は大きく、咥えて走ると引き摺ってがさがさと騒がしい音を発てる。だが寅は逃げることに夢中で、娘の様子を確かめる余裕もない。袋の端をがっちりと噛み、ひたすら石畳を駆け降りた。
ところが坂の中程で、後に続く茶太郎が急に怒鳴った。
「兄貴、お嬢さんが逃げた!」
その声にはっと気付くと、袋は擦り切れて大きな穴が空いている。慌てて探すと娘は坂を跳ねながら、斜めに転がり落ちていた。
逃がすものか。寅は全力で後を追い、道路へ飛び出した。
「兄貴ぃ!」
止められたって、止まるかいな。
虎の目にはもはや、娘の姿しか映っていない。だから、黒く四角い車が坂の上から走って来ているのに気付かなかった。
「ああっ!」
──茶太郎の叫びを打ち消す、耳をつんざくような急ブレーキ。どん、と空へ突きとばされる衝撃。
俺は空を飛んでいる。途切れて行く意識のなかで、寅はぼんやりとそう感じた。
◇
ほんの一瞬か、とても長い間か定かではないが、臭い息を残し車が去ってから。茶太郎ははっと気を取り戻し、かなり先へ飛ばされた寅の傍へ駆け寄った。
「兄貴、兄貴ってば」
大きな体はぐにゃりと変に曲がり、いくら名を呼んでも白目を剥いたまま、まったく動かない。茶太郎は困り果て、次に娘を探した。
「あっ」
道路の向かい側、かなり下方の溝に、娘は泥にまみれ浮いていた。その細く小さな体は何故だか寅と同じように、ぴくりとも動かない。まるで人形のようにも見えるが、茶太郎には判然としなかった。
「おーい、お嬢さん!」
とりあえず声を掛けてみたが返事はなく、良く見れば黒曜の瞳には白い傷がたくさん付いている。
助けたほうが良いのだろうが、何が溜まっているのかとにかく臭くて敵わない。茶太郎は鼻の頭に皺を寄せ、再び寅のほうへ戻った。
「兄貴ぃ……」
変わらず返事はなく、それどころか口と尻の辺りから、赤いような黄色いような、変な臭いのする水が沸いて来る。茶太郎は二、三歩後退ると、ひょいと端へ飛びすさった。
動かない寅。
動かない娘。
そしてどちらも、臭い。
「……ま、良いっかあ」
解らないことは考えても解らない。だから考えるな。これも母がくれた言葉である。
茶太郎はふと耳を伏せると、左の肩をペロペロと舐めた。それから辺りを見回しくんくんと鼻を利かせると、ふと流れてきた焼魚の匂いにつられ、何処へともなく姿を消した。
【了】