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お世話になったK様へ贈らせていただいた作品です。
月影の契り
作:鈴麗


「…っ姫様!」
「嫌じゃ、来るなっ! 来るでない!」
 そう発しながら短刀を胸元に当て、天守の端ギリギリまで後ずさった稀梗ききょう
 目を真っ赤に腫らし、泣き濡れた頬を拭いもせず……
「それ以上……近寄るなっ!」
 震えながらそう叫んだ。

 若干九歳で国の主になったのは、稀梗が望んだものではなかった。先の戦の際、国主であった父が暗殺されたことにより、嫡子である稀梗が跡目を継ぐこととなったのだ。
 しかし、年端のいかない幼子の稀梗にとってそれは苦痛としかいいようのない事態でもあった。国事など何一つ知りもしない稀梗が精神的に追いつめられるのに、そう時間はかからなかった……

「姫様っ、危のうございます! 刀をお放しくださいっ!」
 稀梗が壊れはじめていることに誰も気付いてはくれなかった。心身ともに疲れ果てた末、自害に走ろうとする稀梗…。そこまで思い詰めていたのだと、重臣達は今初めて知ったのだ。
「もう嫌じゃっ! 何もかもが嫌なのじゃ! わらわは……もう何も考えたくはない。…っ、死にたいのじゃ」
 短刀を持つ手が震えながら、その先端が稀梗の首筋に薄く赤を引いた……
 その様子に臣下の者たちは狼狽しながらも、成す術を見い出せなかった。
 稀梗の死ぬ瞬間を、頭の中に誰もが描いた……もう駄目だと、思った…

「……っ!」


 それは……
 一瞬の風。


 稀梗はその風が自分の身体に纏う秋風だと思った。そして次の瞬間、掴まれた手に当る熱と頬に走る痛みを感じた……
 誰もがその行為に目を見張り、動けずにいた。
 頬を打つ乾いた皮膚の音……それが自分に与えられたものだと感じたのは、目に映る人物のこんな声を聞いた後だった。
「死にたければ死ねばいい」
 瞬間。ゾクリと足元から這い上がってきた死の恐怖。
「この刃をその喉元に突き立て。一気に…」
 男はそう発し、重ねた手にグッと力を込めた……
「っ…」
 冷たい刃先が稀梗の喉元へと貼り付く……

(わらわは……死ぬの…か?)

 確かにそのつもりだった。狂言ではないと思っていた。本当に自害をするつもりで……だけど…

 今、死の恐怖に立たされている稀梗はその意に反し、死ぬことを否定する自分を認めた。
「出来ないのなら俺が手伝ってやろう。お前の死に、潔い餞別として」
「…っ、や……嫌…」
 稀梗は無意識のうちに絞り出すような声を発していた。短刀を持つ震える手が、男の力を押しのけるように動いた……そして…


 カツッ…。
 鈍い金属の音と共に、ギュッと閉じた目から涙が零れ落ちた……

「死にたいのでは、なかったのか?」
「……」
 涙で溢れるその目を開けた稀梗。手から離れた短刀の存在を感じていても、まだ恐怖はそこにあった。近くに感じるその男への…恐怖。

「…そなた…は…」

 死へと誘う死神かと思った。このまま自分は死ぬのだろうと一瞬でも思った……のに…
 稀梗の耳に聞こえたのは……
「お前が望むままに。俺は生きる」
 そんな穏やかな声。

 そしてたった今まで持っていた恐怖が……消えた。

 稀梗を見つめるその男の目がとても哀しく見えたから…。


「そなたは……何者じゃ…?」


 稀梗の言葉に男はフッと微かな笑みを見せ…
十夜とうや。…お前の影だ」
 そう言って、天守の外へと姿を消した……

 とても優しくて…温かな瞳をした……


(…十夜……。)


 稀梗はその名を心の中へと刻んだ。
 そして、まるでただの風が吹いただけかのように月影へと吸い込まれ消えていった方向にその目を向けた……見渡す四方が空である最上階の天守。
 その何処からやってきて…何処へ去ったというのか…。

「姫っ…姫様っ!」
 今更になって我に返った臣下達がこぞって稀梗を取り巻いた。


 落ちた短刀……
 そして吹いた一瞬の風…。

(十夜…)

 新たな命の息吹を稀梗はその身に感じ、そっとその頬に笑みを浮かべた。




 先代である父が雇っていた忍者のことは稀梗も知っていた。だが、その姿を見たことは一度もなかった。影武者として生き、影武者として死す。それが忍者である者の役目であった……
 けれど、父は暗殺された。
 それが今更ではあるが稀梗の疑問となっていた。十夜の存在を知って尚更不思議に思ったのだ。


 ともあれ死に急ぐことを思い留めさせられた稀梗は、幸か不幸か国務に就いていた……こればかりはいくら嫌だと言っても、死んでこの身がなくなるまではやらなければならないことでもあった。
 だが、今思えば死にたくなるほど辛いことでもないような気もした……あの一瞬で稀梗は少しだけだが、成長したのかもしれない。

 そしてふと筆を止め思い出す……

「十…夜…」

 日を重ねれば重ねるほど、稀梗の心の中で大きくなる十夜の存在。自分の影だと言って目の前に立った十夜は、風の匂いがした。秋の風……稀梗の知らない世界をその匂いに感じた。
(まだ青年の顔じゃったが。いくつなのであろうか……)
 いつもすぐ近くにいるはずなのに……その姿を現すことはない。十夜は稀梗の影……なのだから…。

「のう、十夜…? いるのであろう…?」
 静まり返った部屋で一人つぶやく稀梗……
 居るはずだと思いながらも、その気配が全く感じられないゆえに多少自分でも疑問形になる……
(いないのじゃろうか…?)
「十夜……」
 部屋中を見回してみても…。やはり何の気配も感じない……
(わらわの死の瞬間でないとその姿を現すことはないのかもしれぬな…)

 稀梗はふっ…と、ため息をついた。
 何気に触れた自分の頬を、そっと指が滑りゆく……あの時感じた痛み。十夜の手の圧力に熱を発した頬…
「そうじゃ…そなたは、わらわの頬を叩いたであろう。痛かったのじゃぞ? それ故そなたは謝りもせぬのか? わらわが死ねばいいと…そう思ったのではないのか? このような無価値な仕事など好かぬと、そう思うたから。故に…」
 何ゆえ……
 あの者に気を削がれて仕方がないのであろうか…?
 あの時の十夜の様子……わらわを殴った手と。死を誘った手。そして…
(わらわの命を救うた……)
「どっちなのじゃ? 十夜の本音は……どっちだったのじゃ?」

 本当は自分が死ぬことを望んでいたのかもしれない……と、そう思うほうが勝っていた。
 稀梗が望むままに十夜は生きると言った。その言葉を思い出した……
「十夜。ここに来ぬか? わらわにその姿を見せてはくれぬか…?」

 そしてふと感じた……

「……十夜」
 振り向いた稀梗の目に、十夜は映った。
「俺はお前の影だ。生きるのもお前と共に。そして死すのも」
 それだけ言ってすぐに消えてしまうのだと思った……だからこそ
「影は決して…」
 言わなければならなかった……
「わらわに痛みは与えぬ」
 影は決して、触れることも叶わない…

 稀梗は十夜の腕をギュッと掴んでいた。消えてしまわぬように、力を込めて…
「そなたの手は痛かった。……痛かったのじゃ」
 そう言って、十夜の胸に顔を埋めた。
「刀で刺すよりは痛くない」
「……」
「あれは刺す前の予行練習だ」
 確かに…。
 あの痛みで我に返ったようなものだった……あの痛みがなければ、もっと辛い状態だったかもしれない…
「じ、じゃがっ……十夜はわらわを殺そうと…」
「お前が望むのなら。躊躇い、苦しむ死よりはその方がいいであろう? 素人の自害より俺なら確実に一刺しで逝かせてやれる」
「っ……」
 十夜の胸元をギュッと握り締めたまま、唇をかみ締めた。
 言ってることは何一つ間違ってはいない……確かに十夜は稀梗が望むまま生きてる…

「しかれば。わらわが望むのなら……十夜は何でもするのか?」
「影としてならな」
「影……」
「俺達隼党隠密衆はこの国に代々仕えてきた忍者集団だ。主を影で守り、危険なものは全て抹殺し、国の繁栄を影から支えてきた。先代に仕えていた忍は、隼党で一番腕の立つ人間だった。俺が一番、信頼しているヤツだった…」
 稀梗は十夜の胸元から顔を上げた……
「影として生き、影として死す。その宿命をそいつは破ったんだ。先代は…お前の父親は……影に滅された」

 その言葉で稀梗の中の疑問がやっと晴れた。
 暗殺者が入れるわけがないのに……殺されるなんて有り得ないはずだったのに。
(そうじゃったのか……父様は忍の者に…)
「代々続いた関係を壊したのは俺達の方。金の為に敵国に内応し、あってはならない罪を犯した」
「…だから、なのか?」
「……」
「だから……十夜も共に逝きたいと思うたのか? あの時、わらわと共に…」

 十夜の腕が稀梗をそっと引き剥がした……そして…

「党の訓えに背き禁忌を犯した忍。それはヤツを消しただけでは償いきれぬものだ。その重責として党を解散し、抱えの忍は全て他の流派に分散させた……俺は隼党最後の頭領として、主となったお前に従事し、この身を清算するだけ。お前の望むままに生き、お前と共に死す。ただそれだけでいい」

 その声は淡々とそう言った。
 明らかにされた父の死。影としての十夜の思い……

「ならば……わらわが死なない限り、十夜は死なぬのだな?」
 稀梗の吐いたその言葉に、十夜からは何も返っては来なかった。
 だからこそ……
「わらわが生きている限り、十夜も生き続ける……そうであろう?」
 だからこそ、その腕を取った。
 十夜を生かし、共に歩むことを望んだ……

 稀梗を見下ろし、十夜はフッと微笑んだ。その笑みではじめて歳相応の感覚を得たような気がした。稀梗よりも八つ上の…
「お前はもっと弱い人間だと思っていた」
 その笑みに稀梗はキョトンとした顔を見せている…
「最期だと思い、姿を現した俺が……滑稽に思える」
 そして十夜の大きな掌が優しく稀梗の頬を撫でた。その感触で思い出す…

 十夜とはじめて逢った時に感じた風の記憶と、頬に走った愛という名の痛みを……。

「いいだろう。お前の望むまま付き合ってやる。生も……死も、な」

 稀梗の心の中に吹いた温かい風…。
(こんな風に生きる者もいるのだ……誰かの影となり、一生を終える。そんな者が…)
「約束じゃぞ、十夜。ずっと……わらわの側で生きるのじゃと」
 その言葉にそっと微笑んだ目が稀梗の心へ安らぎと優しさを植えつけた。そして一生、その目の中に居たいと……思った。




「十夜っ! 十夜よ、返事をせえっ」
 毎日のこと。その言葉は稀梗の口から日に一度は必ず出る……
 そして音も無く姿を現す…
「…お前、煩い」
 従者として仕える稀梗専属のやたら偉そうな忍、十夜…。
 本来なら露見しないはずの影、十夜の腕を当たり前のように掴んだ稀梗は…
「聞いてたもうっ。わらわの兄様が見つかったのじゃ! 母方に預けられていた嫡流だそうじゃ」
 まくし立てるようにそう言って、興奮気味に十夜の身体を揺すった。
「喜んでくれるであろうっ? わらわが国主にならずとも済むのじゃぞ? この国を背負っていかなくともよくなるのじゃ!」

 主が亡くなり、年若き稀梗が跡目を継いでから約三年……
 毎日を国務に追われ、遊ぶことも。誰に甘えることもなく過ごしてきた稀梗。望みもしない大きな荷を背負い、その重みに何度膝を付きそうになったことか…。
 そんな稀梗に訪れた夢に見紛う運命…
「これぞ至福じゃ……身を粉に尽力してきたわらわへ、神が遣した賜り物じゃ」
 心の底からその喜びを放出する稀梗……だが、十夜の顔にはその色は見られなかった。

「お前は本当にそれを信じているのか?」
 その言葉は決して疑問形ではなかった。しいて言えばそれは…怒り。微かな怒りがその言葉には込められていた。
「先代が大切に守ってきたこの国を。お前はそんな簡単に譲るのか」
 稀梗にはその言葉の意味が分からなかった……
「譲るとは異かなこと……兄様は元々この国の嫡子じゃぞ?」
「何故そう言いきれる?」
「それは…母様の形見をわらわに見せてくれたしのう…。父様のこともよう知っておって…」
 十夜は忍である。そしてその任務は何も稀梗の身を守るだけではない。様々な情報を取り入れ、最善の方向へと導く影。当然稀梗の今の話は、聞く前から全貌を把握している。逆に当の本人以上に真相を掴んでもいる……そんな十夜から放たれた言葉…
「言っておくが、お前以外にこの国を正式に継ぐものは存在しない。もしいるとしたなら、それはお前が婿を取った後だ。それ以外には決して有り得ないのが真実だ」
「し、しからば……あの者は何とする? わらわのことを血縁と喜び笑顔を向けた…あの者は」
「どこぞの雇われ浪人であろう。この国を乗っ取る為。あわよくば邪魔なお前を殺してでもな」
「…っ、非道な……」
 急速に憂いゆく稀梗の表情……
 喜びの頂点から一気に叩き落とされた気分だった。
「何故じゃ? 何故に…そのような無慈悲なことが出来るのじゃ? わらわを傷付け苦しめるのが愉快であるのか? 懸命にこの国の為と。民の為にと。わらわは励んできたのじゃぞ? のう、十夜よ……訓えて頼う。何故に大人はわらわに酷な仕打ちをする? わらわが邪魔なのかえ? わらわはこの国にとって要らぬ存在なのかえ…?」
 自分に兄がいたのだと心から喜んのに…。この世で一人ぼっちではないのだと…そう思えて嬉しかったのに……

 走り続けてきたその疲れが一気に稀梗の肩に圧し掛かってくるような錯覚がした。先の見えない道を何処まで進めば報われるのだろう、と…。
「っく…」
 うつむいた稀梗の目に涙が滲んだ。それをグッと押し留めるようにかみ締める唇…。
 大人びた表情をしていてもまだ稀梗は十二歳……その小さき身体に背負う運命という名の重き荷が…

(重くて重くて…。幾度投げ出したいと思うたか知れぬ……)

 ふと……。
 温かな風が稀梗の身体を包み込んだ。

「……」

「泣けばいい」

 十夜の腕が稀梗をそっと抱きしめた……
 その温かさ。その…優しさ。
「…十夜…」
 ただそれだけで。癒されてゆく尖った気持ち…
 広い胸の中で込み上げてくる憂いの感情が、涙と共に吐き出されていく。

(いつもこうして側に…。十夜が居ったからこそ……もしも十夜が居らぬなら…)

 嗚咽しながらしがみつく稀梗をただ黙ったまま抱きしめる十夜。本当なら父親にでもこうやって甘えていたかもしれない。生まれてすぐに母親は亡くなり……唯一のぬくもりであった父親を奪ってしまったのは、自分の責任だった。
 だからこそ、本来なら影として生きるべき忍の姿を稀梗に晒し、望むまま付き合おうと思った……懺悔の、つもりだった。

 けれど……


 今、稀梗を抱きしめている十夜の顔は影ではない。従者でもなく忍でもなく…父親でもない。


 一人の男だった。


 その想いを認めたのは、稀梗が死なない限り自分が死ねないと思った時だった。
「わらわが生きている限り、十夜も生き続ける……」
 そう、稀梗が言った時だった。
 あれから……十夜の心は稀梗に囚われていた。
 主の為にこの命を投げ出す宿命を背負い生きてきた忍が、はじめて誰かと共に生きたいと思ったのだ……稀梗がこの世からいなくなるまでは、この命も捨てるわけにはいかないと。




「十夜よ」
「……」
 縁側に座って庭を眺めている稀梗の声に、十夜は耳をそばだてた。
「わらわの兄だと名乗った虚偽の者…。あの者の消息が途絶えたと聞いたのじゃが……どうなったのか、知っておるか?」
 わざわざ聞かなくても分かっていた。
 きっともう二度と……会う事はないだろうことも…。
「さあな。良心の呵責に苛まれたんじゃないか?」
 そんな言葉に稀梗はクスッと笑った。そして音も無く側に降り立った十夜を見て…
「十夜には無縁の心じゃな」
 そう言ってまた笑った。
「ふん。元々俺に心は必要のないものだ。そんなものを持っていたら忍は務まらん」
(忍……か)
 稀梗は一つ、小さく息を吐き出し庭に舞う風の行方を目で追った……
(十夜は忍者で……わらわの側にいるのは、その従順な責務の為。じゃが……もしも…)
「のう…十夜? もしも……もしも十夜が、忍でなかったのなら。十夜はどうしておった…?」
 そんな問いかけに十夜は稀梗の横顔に目を向けた。
(忍じゃなかったら…?)
 稀梗の長い黒髪を撫でてゆく秋風。ふわりと風になびくその艶やかな髪に、十夜は視線を奪われたまま考えていた…
(俺は生まれた時からずっと忍として育ってきた……隼党の跡目を継ぐ為に。ただそれだけの為に……でも、今はもうその役目を負う必要は…ない……)
 ふと、顔を向けた稀梗の目が十夜と繋がった。


 何の為に俺は存在している?
 何故俺はここにいる…?


 隼党が壊滅した後、この国に新たな隠密衆が雇われた。だが、十夜はその忍達とは関係なく単独で稀梗の専属の地位を退かずやってきた……
(もう既に俺は必要ではない……なのに、いつまでもここから離れられずにいる…)
「十夜…?」
 稀梗の目からフッと視線を逸らせた十夜……
(いや、俺には責任がある。コイツの父親を奪った責任が……)
 そう言い聞かせる自分がいた。
「俺が忍じゃなかったら。俺は……とうにこの世にいないだろう」
 稀梗の問いかけにそう答えながら必死に自分へと言い聞かせた。
(それに約束をしたんだ。生も死も共にすると……ただ、それだけの為に俺は…)
 湧き上がるその想いを封じる為に……そう言い聞かせなければいけない。
「忍として生き、忍として死す……そう教えこまれて生きてきたから」
 決して邪道な想いを持ってはいけない……

 愛する者の為に生きたい……なんて…。忍じゃなかったら、稀梗を娶り共に余生を過ごしたいなんて…

(お前を幸せにしたいとは……言えはしない。所詮今の俺は何の肩書きもない、ただの浪人……)


 夢のまた…夢。


 稀梗とは身分が違い過ぎるのだ……生きるべき道が、違い過ぎるのだから…。




「……え…?」
 いつまでもこのままでいられると思ってた。
 恋人同士でもなく、血の繋がった家族でもなく、ただの男と女が……
「姫様も御歳十五となり、縁者を募る好い時期と相成りました。同盟国との絆をより深くする為にも国主であらせられる姫様にとって成すべき国事かと」
 腹心である老臣の言葉に稀梗は改めて自分の立場というものを実感したかのようだった。
 国の代表に立つ稀梗。その重みを今まで重要視しなかったのは、周りの臣下達が年若き稀梗を支えてくれていたから……だが…
 今、その見て見ぬふりをしてきた現実を目の当たりにした稀梗…
(わらわはこの国の……)

 自分自身で気がついていた。
 いつ頃からだろうか? いや、多分初めて出逢ったあの時から…。そうだったのだと……気付いていた。そして確認せずとも分かっていた。十夜の気持ち……そして自分の気持ち。それが同じだということに…。
 だが互いにそれを口にすることはなかった。吐き出してしまった時点で壊れることが分かっていたから。一国の主である立場の人間と、一介の名も無き浪人。敏腕な忍ではあったが、世間的には認められていない現実……それはいうなれば稀梗の為でもあった。しかし現実は厳しく、二人の想いが実ることは無い。
(この国の為……わらわの想いは消さねばならぬのか…)
 想いのままに生きることは叶わない。
(十夜を……好きでいてはならぬ…のか…)


 十夜……


 その密かに胸の奥で温めてきた気持ちを…
(わらわは十夜のことが…)
 壊さなければならない。

 稀梗はうつむき、ギュッと目を閉じた。
 その様子を影から見つめる忍の十夜……二人の想いは同じであって、同じではない。
 成長した稀梗。
 はじめて影の存在を表の光にかざしたあの時から、六年経った。
 十夜は二十三歳となり、その消息を知る元配下の忍達がいつ頃からか十夜のところへ集まりだしていた。そして隠密部隊を建て直しながら、隼党を再結成させる動きが活発化していったのだ……だが、十夜はそんな仲間達の申し出を断り続けてきた。
 それは、稀梗と交わした約束があったから。

 稀梗と共に生き、稀梗と共に死すと…。

「十夜……」
 その声にすぐさま降り立っていた十夜。稀梗の影としていつもその成長を見守り、稀梗の笑顔を壊さぬよう自分の気持ちを抑え続け大切に接してきた……


 どんな時も……どんな時でも…。


「…十夜…」

 震える微かな稀梗の声……

(稀梗…)
 十夜はその姿を視界から外した。
(俺はもう……お前の側にはいられない…)


 これ以上側にいたら……俺はいつかお前を壊してしまう。己の欲望のまま突き進み、取り返しのつかない過ちを犯してしまう…


「っ、…十夜ぁ…」


 ギュッと閉じた瞳。耳にこびりついて離れないその声を、十夜は五感から遠ざけた……

(約束したのにな……すまない、稀梗…)

 すすり泣き、何度も十夜を呼ぶ稀梗……だがその声はもう十夜の元へは届かない。


「十夜っ! ……十…夜…」


 その日を最後に、影の存在は稀梗の側から一切の痕跡を……消した…。




「稀梗」
「…はい」
 あれから十年という歳月が流れた……
 稀梗は十六歳の時、婿を受け入れた。国事として。国の主として。感情を抜き生きることを決意したのだった……子宝には恵まれなかったが国主となった夫を支え、良き妻として日々暮らしていた。

 まるで…
 十夜のことなど忘れてしまったかのように……。

「隣国で先日起こった戦のこと、そなたは存じておるか?」
「……いえ。存じませんでしたが…」
 落ち着いた気品を身に纏い夫の顔を見つめる稀梗にこんな言葉がかけられる。
「では覚えておいたほうがよいであろうな」
 いつになく夫の目が厳しく感じられた……
「わが国の防衛を担っていた隣国が降伏し、居城を開け放ったのだ」
「……」
「間もなく。この国にも敵軍が攻め寄せてくるであろう」
 稀梗はその言葉を聞いても、戦という概念はもてなかった。現実に、戦火を体験したこともなければ、兵達の生活すら知ることもなかった。国の代表格として名を馳せているわりに、まったく狭い世間しか見ることはなかった人生……それはとても安泰した生き様。逆にいえば、お飾り程度のつまらない生き様…
「稀梗」
「……」
「この国は元々そなたの家系からなる由緒ある母国。そなたとの縁で私は主となったが、国を支えてきたのはそなたらの絆があればこそだ。ゆえに……決めるのはそなたであるべきだと。私は思うのだ」
 稀梗は夫の言葉に戸惑った……
 要するに戦をし、徹底して敵に対抗するか。あるいは無血開城で敵国の傘下に堕ちるか…。その選択を稀梗に任せるということ…
「わたくしは…」
(分からない……どうしたらよいのか…。無駄な血を流し、戦うことは…出来れば避けたい。けど…)


 「先代が大切に守ってきたこの国を。お前はそんな簡単に譲るのか」


 そんな声がふと、蘇った。
 それは昔、十夜が言った言葉……
 自分が憐れに思えて。何度も…何度も逃げ出したいと思ったこと。

 それをいつも力強く支えてくれた、声…。


 稀梗は夫の顔に目を合わせた……
(そう……逃げてはいけない。わたくしには守るべきものがある)

「戦いましょう」




 間違えていたのかもしれない……勝てぬ戦だと分かった時点で最善の配慮をするべきだったのかもしれない。稀梗は今、戦火まみえる天守の最上階で目を閉じ、その訪れを静かに待っていた。
 全ては自分の責任だった。
 多大な命を失った重み……民も兵も。重臣たちも。そして…夫も。

 その全ては自分が下した命のせい……


 稀梗は天守の中央に座したまま、そっと目を開けた。

(また……一人ぼっちになってしまった…)



 いや…。
 一人ではない。


 胸元から取り出した短刀。
 鞘がゆっくりと刀身から離れ、今……月明りを纏い、稀梗の目にその刃が映し出された…


「…十夜…」


 そのつぶやきは愛しい人へと届く…
 ふわりと。
 吹いた風……約束の、瞬間。

「お前が望むままに俺は生きる。死すのであれば、それもまたお前と共に」

 刀身に映ったのは共に歩んできた影、十夜…。
 その影にそっと稀梗は微笑んだ……



「約束よ、十夜…」






筆者:鈴麗














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