礼陣鬼物語 裏 ‐大助の節分‐
礼陣の町の節分は、どうやら他の地域とは違うらしい。
他の町から来た者や、テレビ番組などの情報によると、よそでは豆を撒きながら「鬼は外、福は内」なんて掛け声をかけるようだ。さらには鬼を追い払うために、玄関に柊の小枝と焼いた鰯を置くなんて風習がある地域も存在するという。どれも、鬼イコール邪気、という考え方に基づくものだ。
けれども礼陣はそうではない。ここでは、鬼は人間と共に暮らしているものであり、さらには人間を守ってくれる神様のような存在だ。人間は鬼に親しみ、鬼は人間に親しんでいる。そんな関係だから、節分でも「鬼は外」なんて言わない。
けれども、豆まきはする。この風習が伝わってきたのは、ここ二、三十年のことらしい。掛け声はこうだ。――春よ、来い。
そんな鬼を愛する土地である礼陣だが、節分の邪気祓いはきちんと行なっている。季節の変わり目には悪い気が溜まりやすいのだと、大助は姉から教わった。この邪気を祓わなければ、礼陣に暮らす陽気な鬼たちも気分が落ち込みやすくなる。そうした結果、暴走して人間や他の鬼たちを傷つけてしまう鬼も出てくるのだ。
だから節分の日には、町の見回りをして、暗い気持ちを抱えている鬼を元気にしてやる必要がある。大助もここ何年か姉を手伝って、その見回りをしていた。これは大助たちのような、「鬼の子」にしかできないことなのだ。
片親もしくは両親を喪った子供には、鬼が親代わりをつとめるようになる。そういった子供たちは、礼陣では「鬼の子」と呼ばれている。鬼の子には、普段は人間と共生しながらも姿を隠している鬼たちを、見ることができる。それがこの町の不思議な仕組みだ。
大助たち姉弟は、両親を飛行機事故でいっぺんに亡くした。遺された三人兄弟のうち、長子である兄はすでに「大人」とみなされていたのか、鬼を見ることはできなかった。しかし、当時まだ中学一年生だった姉と、小学生にもなっていなかった大助には、鬼が見えるようになった。
特に姉はもともと第六感が強かったせいか、大学を卒業しようかという今になっても、鬼たちを見、彼らと接することができる、特別な存在だ。大助はそれに比べると平凡なもので、中学三年生である現在は、全ての鬼を見ることは難しくなってきた。相手が力の弱い鬼であれば、ぼんやりとその存在を確認できる程度だ。
姉弟間の差はあれども、まだまだ鬼を見ることはできるので、大助は姉と共に「鬼追い」という役目を持っている。
礼陣の鬼は、不思議な力を持っているといえども、その性格や心の動きは人間とそう変わらない。あえていうなら、長生きできる分だけ、ほんの少しだけ寛容だ。しかし、どうしても抑えきれないほどの強い悲しみや怒りを持つと、それを爆発させ、力を暴走させる。そういった鬼を「呪い鬼」という。呪い鬼は我を忘れて、人間や他の鬼を傷つけてしまうおそれがあるため、暴走を止めてやらなくてはならない。それを行なうのが「鬼追い」という役目であり、行為そのものも「鬼追い」と呼ぶ。
鬼の子になってすぐに鬼追いをするようになった姉を、大助は途中から手伝うようになった。姉は年上ではあるが、か弱い女であることには変わりない。何の武道も心得ていないし、運動するよりも静かに読書をすることを好む。そんな姉が、狂暴化してしまった鬼と真正面から渡り合えるわけがない。ある日、怪我をして帰ってきた姉を見て、大助はそう思ったのだった。
もっとも、姉は鬼に触れるだけでその心を癒す力を持っているらしく、あまり大事に至ることはなかったのだが。
ともかくそれ以来、大助は姉と共に鬼追いを続けている。人々から敬われ親しまれている鬼が、まれに狂暴化してしまうということを可能な限り伏せるために、その行動は密やかに行なわれている。だがそれが同じ鬼の子である後輩に知られ、さらにその後輩にもばれ、今や鬼追いを行なう人間は大助自身を含め四人になっていた。
姉の愛と、後輩である海と八子。彼らと共に、大助は日々、鬼追いとしての役目を果たしていた。仲間ができて随分と楽にはなったが、大助のやり方が良くないのか、生傷は絶えない。他の鬼追いたちは無傷なのに、大助だけがぼろぼろになるということもしばしばだった。
もともと喧嘩ばかりしていた大助だ。傷ができても気にしない。おそらくはその考え方が、一人だけ傷だらけになる原因でもあるのだろう。
ただ、大助の左頬に貼ってある絆創膏は、怪我のせいではない。これは彼にとっての、お守りのようなものである。
さて、鬼追いにとって節分というのは大切な行事だ。鬼たちが邪気にあてられていないかどうか、町中を見回って確かめなくてはならない。もしも気分が沈んでいる鬼がいれば声をかけてやり、すでに呪い鬼と化してしまった者は、鬼追いによって暴走を止めてやる。それがこの日の大切な仕事であり、しかしながら日々のそれとほとんど変わらない行動なのであった。
節分当日、大助も、姉から言い渡された見回り担当区域である北市地区をうろついていた。ポケットには鬼追いに使用する札と、姉と連絡を取るためのアイテム。そして手には単語帳を持って。
鬼の子であり鬼追いである大助だが、それ以前に高校受験を控えた中学三年生なのだ。本来なら、家でおとなしく勉強をしていなければならない。ことに大助は勉学というものが苦手であり、そのおかげで志望校への合格が危ぶまれている状態だった。なんとしてでも合格しなければならないのだが、町の平和も重要だ。……というのは建前で、実際のところ、この見回りは今日一日限り許された現実逃避である。
一応は単語帳を見ながら歩いているが、どちらかといえば路地に屯する鬼たちへと目が向いている。元気がなさそうな鬼を見つけてはすぐに飛んで行って、その話を聞いてやる。それこそが今日の役目であり、受験よりも優先すべきことなのだと、自分に言い訳をして。
しかしその状態は、鬼の側には筒抜けである。通りすがりの鬼が、大助に冗談めかして声をかけた。
『おうい、大助やい。お前さん、受験勉強は大丈夫なのかい?』
礼陣の鬼は、頭に二本のつのがあるという共通点以外は、姿形が様々である。こうして話しかけてきた鬼も、炭のように真っ黒な体に、地面に着くほど長く細い腕が生えているという、人間とは程遠い姿をしていた。だが、大助はそんな鬼たちを見慣れているので、臆することなく返事をする。
「あんまり大丈夫じゃねえよ。でも絶対合格してやる」
『そうかい。まあ頑張れや』
鬼は長い手を振りながら、大助の進む方向とは逆の方へ向かっていく。あれだけ陽気なら、呪い鬼になる心配もないだろう。
大助は再び単語帳と鬼を交互に、しかし鬼を見る割合を多めにしながら、見回りを続けた。
北市地区は昔ながらの住宅街で、古い建物が多い。その雰囲気を好んでか、鬼たちもよくここに集まっている。銭湯の前などは特に顕著で、人間と一緒に風呂に入りたがる鬼たちがずらりと並んでいる。鬼にも性別があるらしく、ちゃんと男女分かれているようだ。
『おうい、大助じゃないか。今日の幸の湯は、男は酒風呂、女は豆乳風呂らしいぞう。お前も温まらないかい』
銭湯に入って行こうとする鬼が、こちらへ手招きをする。大助は苦笑いをしながら返す。
「そんな暇ねえよ。こっちは節分の見回りと受験勉強で忙しいんだっての」
『お前が勉強なんて、おかしいねえ。まあいいや、どっちも頑張ってくれ』
どうやらここの鬼たちも、落ち込んでいる様子はない。これから風呂で温まろうというのだから、暗い気持ちの奴はいないだろう。銭湯も通り過ぎて、大助は次へ向かった。
この調子でいけば、今年の見回りは何事もなく終わりそうだ。そもそも北市地区の鬼たちは、懐かしい家並や古風な雰囲気を楽しむためにやってきている者が多い。いわば、観光気分だ。意気消沈して今にも呪いを爆発させそうな鬼など、このあたりにはほとんどいない。それは大助も、何度も見回りをしていてよく知っていた。
だんだんと陽が落ちてきて、空気が冷え込んでくる。見回りをさっさと終わらせて、神社に戻りたい。見回りが一通り済んだ後は、この町のシンボルである礼陣神社で他の鬼追いたちと合流し、報告がてら夕食をとる手筈になっているのだ。きっと姉が、温かい汁物などを仕込んでおいてくれていることだろう。
鬼を見て、単語帳を見て、また鬼を見て、声をかけて。それを繰り返しているうちに、いつのまにやら大助は、巨大な建物の前にいた。ここは、学校である。私立北市女学院という、幼稚舎から大学まで一貫して教育を受けられる、女子のための学校だ。ここに通うために、わざわざ町の外からやってくる者も多い。
ついでにいうと、ここの高等部は地元の女子が必ずといっていいほど受験する。レベルが高いので、公立高校を第一志望校にしている学生も、ここで力を出すことができれば本番は余裕を持てるし、うまくいかなくても公立入試までにできなかったところを復習しておけばいい。もちろん北市女学院を第一志望校としているのなら、合格すればそのまま入学する。男子には縁がないが、女子にとっては大切な力試しの場であった。
大助が校舎を眺めながら、ここには女子しかいないんだな、などと考えていると、不意に肩を叩かれた。振り向いてみると、そこには金髪の女子がにんまりと笑って立っていた。
「何やってんの、大助。いくら眺めても、大助はここには入学できないよ?」
「いや、入る気ねえし。亜子こそ何やってんだよ」
「散歩がてら下見。一応、ここも受験するわけだしね」
この金髪女子は、大助の幼馴染で、亜子という。母親が美しい金髪を持つ外国人であり、彼女はその血を濃く継いだらしい。したがって、この髪の毛は地毛である。背の高い大助と並ぶと随分と小柄な彼女は、大助の顔を覗き込むようにして話す。
「お前、ここ受かるのかよ?」
「模試はなかなかいい線いってたよ。第一志望じゃないから、受からなくてもいいけど」
亜子も他の多くの女子と同じように、北市女学院を受験する。しかし、第一志望校は公立の礼陣高校だ。本当はもっと上を狙えるはずなのに、それをしないのは、彼女が「大助と同じ高校に行く」と決めたからだ。進路志望調査票を提出しなければならない段階になって、そう宣言された。
だからこそ、大助は自分の志望校である礼陣高校に受からなければならない。それより下にランクを落とすことはできないし、それより上は無理がある。春からも幼馴染と一緒に過ごせるよう、今のうちに努力しなければならなかった。
「あ、単語帳。見ながら歩いてたの? 危ないよ」
「持ってるけどほとんど見てねえ。今日は鬼の見回りで忙しいんだよ」
「そっか、今日って節分だもんね」
亜子は納得して頷く。彼女は大助が鬼の子であり、鬼を見ることができるということを知っている。鬼追いをしていることは話していないが、どうやら節分には見回りをしなければならないらしいということは把握している。
そんな彼女だが、両親が健在で鬼の子ではないため、鬼を見ることはできない。ただ、大助やその姉が「鬼が見える」と言っているので、見えなくても信じている。子供の姿をした子鬼などの話をすると、「可愛いんだろうなあ、見たいなあ」と羨ましがる。
大助は、そんな亜子のことが好きだ。あわよくば付き合いたいと思っている。だが、今の「幼馴染」というゆるく長く続いてきた関係を壊したくないという思いもあって、気持ちを打ち明けられずにいた。
そんな大助の思いを知ってか知らずか、亜子は無邪気に絡んでくる。今だって自然に腕を組んで、「あのあたりに高等部の教室があるんだよねー」などと目の前の校舎を指さしながらはしゃいでいる。昔からこうなのだ、今更やめろとは言えないし、やめてほしいわけでもない。だから大助は、亜子に相槌を打ちながら、密着するぬくもりにひたすら胸を高鳴らせていた。
「……あ、鬼の見回りしてるんだっけ。邪魔しちゃったね」
亜子が離れると、二人のあいだに冷たい風が吹いた。
「いや、特に異常もねえし、神社に戻って晩飯食わせてもらおうと思ってた。亜子は?」
「わたしは勉強しなきゃいけないので帰ります。もう私立入試まで時間ないし」
ということは、ここで別れることになる。大助は帰りも鬼の様子を見なければならないし、亜子は早く帰って勉強をしたいだろう。もう少し一緒にいたかったが、どうせ明日になれば学校で会える。大助は「じゃあな」と言おうとして、片手をあげかけた。
だが、異変はその瞬間に起きた。周囲から、風や木々のざわめきも含め、一切の音が消え去る。ここは住宅街のはずなのに、人の気配が突然しなくなった。亜子だけは目の前にいるが、彼女もまた、この異様な事態に戸惑っていた。
「何? ……何か、変じゃない?」
亜子は知らない。だが、大助はこの感覚をよく知っている。もう何度もこの状況の中に飛び込み、闘ってきた。このような異様な空間をつくりだす、呪い鬼と。
「亜子、俺から離れるなよ。……それから、初めて鬼を見るかもしれねえけど、怖がるな」
「え、どういうこと?」
大助には、感じ取ることができる。呪い鬼が、その強い感情をまとって、近づいてくるのが。それは、自らの感情をぶつけられる対象を探しているのだ。――やがてそれは、姿を現した。
大きさは二メートルほどだろうか。頭には二本の長いつのを持ち、それが余計に体を巨大に見せている。顔にはのっぺりとした面のようなものをつけているが、目のあたりから覗く眼光は鋭い。体は雪のように真っ白だが、手の指から伸びる尖った爪は黒かった。それはこちらを見止めると、地面に足を滑らせるようにしてこちらへ向かってきた。ここは斜面ではないはずなのに、恐ろしく速い。
「亜子、退いてろ!」
大助はとっさに亜子を突き飛ばし、呪い鬼の動きを止めようと構えた。向かってきたそれは大助に腹のあたりを受け止められると、一瞬動きを止めた。しかし、自分の動きを邪魔されたと思ったのか、大助を引き剥がすと、地面に叩きつけた。雪が薄く積もっているとはいえ、そのすぐ下はコンクリートで舗装されている。全身の痛みに耐えながら、大助はポケットの中をまさぐった。そして、中に入っていた石を握りしめ、念じた。
――姉ちゃん、呪い鬼が出た。急いで来てくれ!
この石は、姉と連絡を取るためのアイテムで、念じて握れば空間の外にいる正常な鬼がその思いをキャッチし、姉に報告してくれるという仕組みになっているらしい。おそらくはこれで、姉が自分の持ち場から駆け付けてくれるはずだ。大助には、それまで時間を稼ぐという仕事が残っている。
立ち上がり、呪い鬼の様子を確認する。呪い鬼はその爪で、地面をひっかいていた。無機物は呪い鬼が姿を消すとともに元に戻るので問題はないが、呪い鬼自身がその手に血を滲ませている。人間や鬼の傷は、簡単には治らない。
「落ち着け! そんなことしても何にもならねえだろ!」
大助は呪い鬼の腕を掴み、その手と地面を離した。しかし呪い鬼は、邪魔をするなとでもいうように、大助を振り払おうとする。必死でしがみつき、動きを止めようとするが、呪い鬼は暴れ続けた。
呪い鬼を抑えながら、大助は横目で亜子を見やった。怯えた目をしてこちらを見ている。彼女のためにも、早くこの呪い鬼をおとなしくさせなければならない。
大助は一瞬、片手を呪い鬼から離した。しかしその一瞬で、呪い鬼の腕に撥ね飛ばされてしまった。地面に背中から落ちたが、すぐに起き上がる。同時に、ポケットから札を一枚取り出していた。
呪い鬼の方は、まずこの邪魔者を排除しなければならないと察したのか、大助に向かって黒い爪を振り下ろしてきた。亜子の悲鳴が聞こえるが、それにかまわず、大助は爪を避けた。そして札を素早く呪い鬼の右腕に貼りつけた。途端に、その腕がだらりと垂れ下がる。大助が使ったのは、呪い鬼の動きを封じるための札だ。貼りつけた個所が動かせなくなる効果を持っている。
だが、封じられたのは片腕だけだ。呪い鬼は、今度は左手の爪を大助に向かって突き出してきた。それもなんとかかわし、ポケットから取り出した二枚目の札を、呪い鬼の左手に貼りつけようとした。
しかし、呪い鬼はその爪で、札を切り裂いた。真っ二つになった札は、もう使い物にならない。大助は舌打ちをして、三枚目の札を取り出した。動きを止めるためのものは、これが最後の一枚だ。再び突き出された爪をかわすと、その札を呪い鬼の腕をめがけて叩きつけようとした。しかし、呪い鬼はその札をかわすと、その足を高く上げて、大助の腕ごと踏みつけた。呪い鬼の足とコンクリートのあいだで腕を潰され、大助は思わずうめいた。
「大助! ちょっと、あんた! 大助に何するのよ!」
その状況を見ていた亜子が、こちらへ走ってくる。呪い鬼の凶行を見て、怯えを行動力が上回ったらしい。だが、それは危険行為でしかない。何の力も持たない亜子に、呪い鬼を止められるはずがない。
「ばか、こっち来るな!」
大助が叫んでも、亜子はもう止まらなかった。呪い鬼にしがみつき、必死で大助から引き離そうとする。その行動が、呪い鬼の標的を変えた。足を大助の腕から退けると、しがみついている亜子を自由な左手で掴み、投げ飛ばした。
「きゃ……っ!」
幸いにも亜子の体は植え込みに着地した。だが、呪い鬼はなおも亜子を狙い続けている。彼女に向かって進み、左手の爪を向けた。
「亜子!」
大助は起き上がり、呪い鬼に追いつくと、掴んでいた札を叩きつけた。だが、踏まれたときにコンクリートに擦りつけられて破れてしまったらしく、効果はなかった。これでもう、呪い鬼を止める術はなくなった。爪は亜子をめがけて一気に振り下ろされる。大助はとっさに亜子の前へ出ようと、呪い鬼の正面にまわった。
完全に立ちふさがることはできなかったが、呪い鬼の爪は亜子に届かなかった。もう少し遅ければ亜子に突き刺さっていたかもしれない。本当に危ないところだった。
爪は、まわりこもうとした大助の左頬を深くひっかいていた。貼ってあった絆創膏は剥がれ落ちてしまっている。
「大助! こんな、酷い……」
「こんなもん、いつもの喧嘩に比べたら軽い! それより、さっさとここから離れろ!」
亜子をその場から離れさせ、大助は再び呪い鬼と対峙する。残る手段はあと一つ。大助が最も不得手とする手段なので、あまり使いたくはなかったが、仕方がない。
ポケットから、最後の札を取り出す。先ほどまでのものとは、表面に描かれた模様が違う。これは呪い鬼の動きを封じるものではなく、呪い鬼を神社へ帰すための札だ。
鬼追いは、呪い鬼をなだめ、神社へ帰すことで終決する。神社へ帰った呪い鬼は、抱えた心の痛みを鬼の長である大鬼様に祓ってもらい、呪いから解放される。だが、これはただ札を貼るだけでは成功しない。呪い鬼に語りかけ、その心の痛みを抑えてやらなければ、札を貼っても意味がない。呪い鬼を神社へ強制的に帰すことができないわけではないが、そうしてしまうと、呪いが残ってしまう可能性が高い。そうすればこの鬼はまた、呪いを抱えて街に現れることになる。
大助には、それが苦手だった。なにしろ、語り合うには拳が一番という考えの持ち主だ。呪い鬼の持つ心の痛みを優しく癒すなんてことは、これまでに一度だって成功したことがない。それができるのは姉と、後輩の八子くらいなものだった。だからアイテムを通じて、姉を呼んだのだ。
しかし、亜子が危険にさらされている以上、やるしかない。もうこれ以上、姉が来るまでの時間稼ぎはできそうにない。大助は爪を再び大きく振り上げた呪い鬼の胸に、その札をあてようとした。
だが、呪い鬼は突然爪の向かう先を変えた。大助ではなく、その手にあった、札へ。文字通り最後の切り札だったそれは、あっけなく破られた。
「マジかよ……」
札を破る呪い鬼など初めてだ。まして、神社に帰すための札を引き裂くなんて、そんな呪い鬼はこれまでにいたことがない。想像以上に、この呪い鬼の抱える苦しみは深かったということだろうか。それを読み取ることができなかった大助に、非があったというのか。
呪い鬼の爪が大助に伸びる。亜子の悲鳴が聞こえた。もう終わりだ、と思った。
「待ちなさい」
呪い鬼のすぐ後ろから、聞き慣れた声がした。いつもよりほんの少しだけ厳しく聞こえるそれは、しかし、間違いなく姉のものだった。
姉は呪い鬼の背中に触れているようだった。おそらくその指先には、呪い鬼を神社へ帰すための札があるのだろう。呪い鬼の動きは、ぴたりと止まっていた。
「……あなたは、とてもとてもつらい思いをしたのでしょう」
厳しかった声が柔らかくなり、言葉を紡ぎ始めた。大助と亜子が、幼い頃に彼女から本を読み聞かせてもらったときのような、優しい声だった。
「あまりにつらいから、こんなことをしてしまった。誰かに痛みをわかってほしくてたまらなかった。そうでしょう?」
うう、と呪い鬼がうめいた。まるで、語りかけられる言葉を肯定するかのように。
「でもね、それではいけないわ。人を傷つけてはだめ。自分を傷つけてもいけない。あなたの痛みは、神社で待ってる大鬼様が癒してくれるわ。きっとあなたの苦しみやつらさを、受け止めてくれるから。……だから、神社へ帰りましょう」
最後の一言を受けて、呪い鬼の体が消え始める。ぼんやりとした光に包まれながら、少しずつ。やがてそこには、一枚の札だけが残った。
同時に、周囲に人間や鬼の気配が満ちる。生活の音が、木々のざわめきが、戻ってくる。大助は急に力が抜けたように、植え込みに倒れこんだ。
「大助! ねえ、大助、大丈夫?」
亜子が駆け寄り、大助の肩に触れた。こちらを覗き込む目は、涙で揺れていた。せっかく綺麗なブルーグレーの瞳なのに、これではよく見えない。
「泣くな、亜子。これくらい平気だって」
「平気なわけないでしょ、こんな怪我して! あ、ハンカチ……」
「汚すからいらねえ。姉ちゃん、終わったから神社に行こうぜ」
大助は体を起こし、姉を見た。そして、ぎょっとした。
「この……ばか大助っ!」
姉まで亜子と同じ表情をしている。こんな事態には慣れているはずなのに。女二人を泣かせて戸惑っている大助の腕を、姉が引っ張って、立たせてくれた。
「何よ、この怪我! それに、亜子ちゃんを泣かせていいなんて言ってないわよ!」
「泣かせるつもりはなかったんだって。こんなの大丈夫だから、早く神社に行こうぜ」
「当たり前でしょ、手当てしなくちゃいけないんだから! 亜子ちゃんはどうする? 一緒に来る?」
姉が亜子に尋ねる。しかし亜子は、首を横に振って言った。
「本人が大丈夫だって言ってるので、そういうことにしておきます。……ごめんなさい、わたしも心の整理がついてなくて……」
「いいのよ、びっくりしたでしょう。一人で帰れる?」
「はい。……すみません、失礼します」
ぺこりと頭を下げて、亜子は帰っていった。それを見送ってから、大助は姉に引っ張られて、足早に神社へ向かった。
神社の社務所に到着した大助たちを迎えたのは、すでに持ち場の見回りを終えて帰ってきていた後輩たちだった。
「大助さん、どうしたんですか? そんなにぼろぼろになるなんて……」
海が目を丸くして尋ねる。彼は大助が普段から喧嘩ばかりしていて生傷だらけなのを知っているので、ただいつもより少しだけ大怪我をしていることに驚いているようだ。
「あ? 大したことねえよ、これくらい」
「見るからに痛そうだよ! 大助兄ちゃん、そこに座って。消毒して、ガーゼあてなくちゃ」
八子は小学生なのに、てきぱきと手当の準備を始める。心配そうな表情をしながらも、しっかりしている。
手当てをしながら、姉が後輩たちに今回の一件を簡単に説明した。しかし、亜子のことは話さなかった。余計な心配を彼らにさせたくなかったのだろう。
姉が濡らしたタオルを大助の頬からそっとはずすと、白かった生地はぞっとするくらい真っ赤に染まっていた。大助は改めて、自分が大怪我をしていたことを認識した。そう思ってしまうと、途端に傷が痛みだす。だが、ふと見た八子の顔が蒼白だったので、これ以上心配させないように笑ってみせた。
「そんな顔するなよ、やっこ。このくらいの傷、よく喧嘩をする俺には日常茶飯事だ。それに鬼追いはちゃんと成功した。心配することねえって」
「でも、大助兄ちゃん、痛いよね?」
「こんなのは痛いうちに入らねえ。それに、北市地区を守れて良かった。もうすぐ北市女学院の高等部の入試があるからな」
ふと、亜子のことが頭をよぎる。あんな状態で、勉強などできるのだろうか。今回のことでショックを受けて、何も手につかないなんてことになったら、それは怪我をするなんてへまをした大助の責任だ。頬にガーゼを当ててもらいながら、大助はそのことばかりを考えていた。
翌日、大助がいつものように遅刻ぎりぎりで教室に入ると、すぐに亜子と目が合った。周りが「一力、今度はどこで喧嘩してきたんだよ」「相手は誰だったんだ?」とひやかす中、大助は真っ直ぐに亜子のもとへ向かった。
「おっす」
いつも通りに挨拶をする。けれども亜子は、黙って大助の顔を見ていた。昨日怪我をした、左頬を。そこには今朝姉が貼りなおしてくれたガーゼがある。
「なんだよ、これは大したことねえぞ」
大助が左頬に触れるより先に、亜子の手が素早くそこに伸びた。そして、思い切りガーゼを引き剥がした。
「いってえ! お前、何するんだよ!」
「ほら、痛いんじゃない! 全然平気じゃないでしょう!」
「違う、それは今、お前が剥がしたからで」
言いかけた大助の目の前に、亜子が救急箱を突き出した。クリアタイプで中身が見えるようになっているそれには、包帯とガーゼ、絆創膏に消毒液がぎっしりと詰まっていた。
「座りなさい。貼りなおすから」
「……おう」
剥がしたのはお前なのになんで命令するんだよ、などと、普段ならば言うところだ。けれども、今の亜子には有無を言わせぬ迫力があって、従うしかなかった。
亜子は救急箱から消毒液を取り出すと、液をガーゼに含ませ、そっと大助の左頬に触れさせた。沁みて痛かったのが顔に出たのか「やっぱり痛いんでしょ」と言われた。それから乾いた二枚目のガーゼを当てられ、テープで留められた。全てを終えた亜子は、なぜか満足そうだった。
「なんでそんなに満足気なんだよ」
「わたしのせいで怪我したんだから、わたしが手当てするのは当然でしょ」
どうやら、亜子は自分の手で後始末をしたかったらしい。大助は堪えきれずに、思い切り笑った。頬が引き攣って痛いのも、気にせずに。
「ちょっと、なんで笑うの?」
「いや、お前、昔と変わってねえんだなって思って。……あーおかしい」
「変わってないって、何よ」
憤慨する亜子を見ながら、大助は幼い頃を思い出す。
髪の色や眼の色をからかわれていた亜子を守りたくて、からかっていた相手と取っ組み合いの大喧嘩をした後のことだ。左頬に爪を立てられて血を流していた大助に、亜子はさっきと同じように手当てを施したのだ。自分のせいで怪我をしたからと言って、小さな手で、ぺたりと絆創膏を貼ってくれたのだった。
以来、大助は怪我をしていなくても、左頬に絆創膏を貼り続けるようになった。亜子の優しさを忘れたくなくて、ずっと。
「……で、お前、昨日帰ってから勉強できたのか?」
「しなきゃいけないからしたよ。でもいつもより効率悪かったから、その分責任とりなさいよね」
「責任って、どうやって」
「公立入試が終わるまで喧嘩しないで。怪我しないで。おとなしく勉強してて」
「まだ一か月もあるじゃねえか……」
はたしてそれまで、喧嘩も鬼追いもせずにいられるだろうか。なにしろ、向こうからやってくるのだ。来るものの相手はしなければいけない気がする。
でも、せっかく好きな子が頼んでくれたことだ。極力喧嘩を避けて、勉強に集中する努力はしようと、大助は思った。
まずは、昨日、北市女学院の前に落としてきた単語帳を拾いに行かなければ。