序夜〜第二幕『茨の魔女』
月が出ていた。赤く輝く月。夜空に唯一つ浮かぶ其れを視て私はわずかに唇の端をゆがめる。
赤い月を見るのは随分と久しぶりだ。何時以来だろうか。もう思い出すことも出来ない。
私は月へと注いでいた視線を再び地上へと戻すと、再び歩みを再会した。
歩き慣れた住宅街の路地。かすかにうなりを上げる街灯と夜の闇が非対称的な陰影を作り出している。私の影が街灯に照らし出されて光から光へと刻々と大きさを変えながら移っていく。
夜気を切り裂いて歩く。私の唇から漏れた白い息が後ろへと消えていくのが眼の端に映った。
――唐突に思い出した。そうだ、あの日だ。赤い月を見たのは。確かにあの日私は見たんだ。あの血を啜ったように赤い、殺意のように紅い、怒りのように緋い、この月を。
「………はは、」
私は笑った。滑稽だ。まさかこんなことまで忘れてしまっているとは。……忘れはしないと誓ったはずなのに。あの日の惨劇に、そう盟約を交わしたはずなのに。何をしている?酔うな、甘えるな、独りであれ、私は――――咎人なんだ。
――漆黒の魔女
私の最初の盟約にして、私の背負うべき咎の名称。
誰よりも罪深き、黒衣の魔女。神に逆らう反逆の大罪人。其れが私。謎を解く者の背負うべき原罪。
北風が凪ぐ。風の吹かない真冬の路地を私の足音だけが席巻する。
紅い月を背に私は歩いていた。
そして、角を曲がり。
私は絶句した。
其処は、血の海だった。
道路一面に広がる血の海。地面を舗装したアスファルトを余すことなく覆いつくす其れは周囲の民家に咲いた薔薇にまで飛び散り、地獄絵図を描き出していた。ムッとする程濃厚な鉄の匂いが鼻につく。原材料、人間。そんな場所の中心点に、その人物は立っていた。返り血にぬれた紅い外套。顔にはご丁寧にも髑髏の仮面をつけて、足元に有る物体を見下すように其処に立っていた。
私の全身から奇妙な汗が噴出した。おそらくは氷点下に達するであろうこの気温にも関わらず私の頬を汗が伝った。
―――、落ち着け。殺人現場も殺人者もこれが始めてじゃない。何時もやっていることだ。落ち着け。
私は自分に呼びかけながら、しかし指先が震えるのをとめられなかった。其れはきっとこの状況への恐れからではなくきっと、この仮面の殺人者への恐れだ。
この殺人者はおかしい。
何が?
死体を前にして動じていないから?
違う。そうじゃない。
でも、なにが?
私はここ数年で一度も無かったほど狼狽し、混乱していた。この殺人者は何かがおかしい。其れだけを私の勘が告げていた。
にやり、と髑髏の仮面が笑った。
無論、仮面に表情などあるはずが無いのだが私はそう感じた。
そして、狼狽する私を尻目に踵を返して逃走した。
闇に消えていくその人影を見ながら私は其れを追えなかった。
やがて、其れまで響いていた足音が消える頃になってようやく私は自分の体がぐっしょりと汗でぬれているのを自覚した。
心臓が痛いほど鳴り響いていた。
そして、私はその時になって私の恐れの正体を初めて知った。私が恐怖を感じたのは仮面の殺人者ではなかった。其れは死体だった。
私は靴が血でぬれるのもかまわずに其の死体に近づいた。
傷跡を見る。
頚動脈、手首、足の付け根。大きな血管が通っている場所ばかりを狙った傷口。それでいて心臓には――心臓の存在する胸の辺りには――傷一つない。
「血液……」
これは血液を故意に流させるための傷だ。血を流させ、失血死させる。おそらく、あの犯人は最後まで見届けたのだろう。傷つけられ、もだえ苦しむこの人の姿を。
――血液狂いの殺人鬼
私は携帯電話を取り出して、知り合いの刑事に電話した。
紅い月の元、私と、血を流しつくした死体と、血にぬれた紅く、赤い、緋い、真紅の薔薇だけがただ静かに佇んでいた。
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