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新月の夜その2

そこには小さな泉があった。
新月の闇世の中で蒼く淡い光を放つ水蛍が舞っていてほの明るく水面を照らしていた。
そして奥から水が流れ落ちる音も聞こえるところを見ると滝もあるようである。
木の陰に隠れて様子を伺う。
歌はその奥のほうから聞こえてきた。
まだ、木陰に隠れてその人物は聞こえないが、歌ははっきりと聞こえてきた。
聞こえる歌にメントスはやはり聞き覚えがあった。
それはオルフェシア王家に伝わる子守唄だ。
幼子の安らかな眠りを祈る聖母の歌。
かつてメントスも兄弟達と眠る際に母親に歌ってもらったことがある。
忙しくあまり子供に構うことの無かった母親だったが、それでも偶に枕元に来ると歌ってくれていた。
だが、もうメントスと十五も離れた長子を持つほどの年の王妃とは違い、この声はまだ若い。
メントスとそうあまり年の変わらない少女のような声だった。
若く瑞々しい歌声は夜の森に涼やかに流れる。
メントスはその人物を確かめようともう少しだけ泉に近づいた。
木の葉の位置がずれて泉の奥が見える。やはり奥には小さな小滝があり、白いしぶきを上げていた。
そこには果たして少女がいた。
メントスは息を呑んだ。

年のころはメントスより少しだけ年上だろうか。
白い肌の多い大陸において珍しい濃いチョコレート色の肌をしている。
長い睫に縁取られた瞳は閉じられ、歌をつむぐ少女らしい瑞々しさとどこか艶かしさを漂わせる唇。
足元まで伸びる髪は白く、だが水蛍の柔らかな蒼い光を受け、真珠のような光沢を漂わせている。
そして少女は全裸だった。
おそらく水浴びの途中なのだろう。
もう少女と呼ぶには少し抵抗があるくらい成熟の兆しの見られる緩やかな美しい曲線の体は初々しさと同時に艶かしさも感じさせる。
その造作はとてもこの世のものとは思えないほどの美しさだ。
なぜ少女がこんな夜の森の中で一人水浴びをしているのか。
疑問に思ったが、あまり考えは回らなかった。
呆然とその幻想的な光景に見入っていた。
不意に少女が振り向く。
緩やかに少女の相貌が開いた。
アーモンド形の大きな瞳。その色にメントスは母親がつけていた大きな宝石の色を思い出した。
それは美しい濃い紅い色だ。鳩の血(ピジョンブラッド)と呼ばれる母親のそれを初めて見たとき、その美しさに目を奪われたが、今はその比ではない。
生の光を宿す瞳は星を散りばめたように輝いて見えた。
呆然と見惚れるメントスに、初めてその少女の顔が変化した。
目を見開き、驚いているような…。
そこまで考えて、気がついた。
木の陰に隠れるようにしている自分、水浴びをしていて裸の少女。この構図は。

「っちょ!ごめっ!!のぞきじゃっ!!」

慌てて言い訳しようとして一歩前に出たときだった。
踏み出した足の先は泉の淵で濡れた地面にメントスの足はすべり思いっきり泉に落ちた。

「うわっ!」
「!」

さらに悪いことに落ちた場が深みになっていたらしく、足のつかない体はどんどん沈んでいく。
森の中の泉の水は冷たくそれに驚いて口をあけると大量の水が口に入って呼吸が出来ない。
冷たい水がメントスの体から容赦なく体力を奪っていく。
普通の状態であれば、泳いで浮上できただろうが、その日のメントスの体は残念ながら昼の酷使と先ほどまで森を彷徨っていたことで極限まで疲れ切っていた。
とても自力で浮上できるだけの体力は無かった。

(…苦しいっ…)

メントスの体は水に引き摺られるように水底に落ちていく。
頭上に小さな蒼い光が舞っているのが見える。
それすら霞み始めて目を閉じた。
もう体が動かない。
人生の最後が女の子の裸を覗いて、慌てた拍子に泉に落ちて水死などなんと情けないことだろうと思う。
だがその意識すらやみに飲み込まれ始めた。
その時腕に何か暖かなものが触れた気がした。
それは柔らかく、そしてとても華奢な細い感覚。
それから頬にその暖かさが移ったかと思うと口に何かが吹き込まれる。
それが空気だとわかった瞬間、わずかにメントスは目を開いた。
目の前には先ほどの少女の顔があった。
彼女が口移しで空気をくれているのだと。
だがなにか考えられたのはそこまでだった。
そのまま、メントスの意識は暗い水底に落ちていった。


******


メントスが随分幼かった日のことだった。
メントスは母親に見せてもらった紅い宝石がどうしてももう一度見たくて、王妃の私室に忍び込んだ。
それを見つかりこっぴどく怒られた。
そのときのメントスは兄弟の仲でも一番優秀だと思われていた時期でとても甘やかされていたが、それでもお仕置きに城内で一番古い塔の一室に閉じ込められた。
一晩そこで泣き明かし、その後許されて外に出されると王妃の私室に連れて行かれた。
そこで母親の姿を目にし、また怒られるのかと怯えたメントスに、王妃は静かに室内に入るように命じた。
断罪を待つ死刑囚のような気持ちでメントスが王妃の前に出る。
だが、逃げるようなことはしない。
もう一度あの暗くて汚い塔に戻されるくらいなら母親に怒られたほうがまだましだった。

「メントス。そこにお座りなさい。」
「…はい。母上様。」

神妙な顔で用意されていた子供用の椅子に腰掛ける。
王妃は少しきつめの美貌の持ち主で、メントスは少し苦手だった。
メントスより十五も年上の長子がおり、メントスは彼女にとって二人目の子供だった。
メントスには、異母兄弟を合わせると十人を超える兄弟がいたが、同じ腹から生まれたのはこの年の離れた兄だけだった。
王には何人かの王妃がおり、その筆頭王妃である彼女は皇太子の母として権力を持っていた。
その手腕はやや強引で薄情だとされ、彼女の前に出たものは無事に戻ることはないとされていた。
少なからずその氷のように冷たい表情をたとえて氷の女王と揶揄されてきたような女性だった。
だがメントスは彼女にとって末子にあたり、可愛がられていたためそうは思えなかったが、時折見せる今のような表情がその噂のものなのかと思うことがあった。

「さて、メントス、なぜお前がここに呼ばれたかわかりますか?」
「はい。母上様。僕が母上様のお部屋に忍び込んだからです。」

正直に答えると王妃は深く頷いた。

「そうですね。そしてお前はこれを見ようとした。」

そう言って王妃が手に持っていたものをメントスの前に掲げて見せた。

「…わあ…。」

メントスの目が輝く。
それはもう一度見たいと思った宝石の輝きだった。
だが、それはすぐに王妃の手の中に握られ、姿が見えなくなる。
メントスはがっかりした。

「どうしてこれを見ようとしたの?」

王妃が理由を聞くと、メントスは子供らしい簡潔な言葉で言った。

「きれいだったから!」

その子供の可愛らしさに一瞬王妃の目が柔らかく微笑みそうになったが、怒ろうとしていたことを思い出し引き締めた。

「…そう、綺麗ね。だけどこれは綺麗なだけじゃなくてとても大事なものなのよ。」

大事?と首を傾げるメントス。

「これは初代が代々の王妃に受け継がせた剣聖の遺品と言えるべきもの。気軽にさわっていいものではありません。」

他の五王家では、初代は六英雄そのものを指す言葉だが、オルフェシアにとっては初代と先祖たる英雄は異なる人物を指す。
国にとっての建国者たる初代はオーリードの弟であるフィスフィアルス。
そして、メントスたちはオーリードの直系ではなく弟の血筋だった。
オーリードは魔物を封印したとされる最後の聖戦で唯一生きて戻ることの無かった英雄だった。
子も無く亡くなってしまったため、英霊を祭るために弟であるフィスフィアルスが国を起こしたのが始まりとされている。
そして王妃は手に持つ宝石がオーリードが残したものだと言うのだ。
剣聖ファンのメントスはさらに目をきらめかせた。

「剣聖の!」
「そう、あの最後の聖戦で五人の仲間達がフィスフィアルスに形見として渡したとされるもの。剣聖がかつて一生のうちでただ一人だけ愛した女性に送ろうとしていたものだと伝わっているわ。」
「…愛した?」
「誰だかはわからない。渡す前に亡くなってしまったから。けれどそれ以来、これは代々の国王がその最愛の女性に送ることが慣わしとして決められました。」

だからお前には手にすることは出来ないのよ、と皇太子より数えて十番目の王位継承者に王妃は語りかける。
王位継承はどの王妃から生まれようが年功序列で決まるため、兄弟の中でも特に低い年齢であるメントスはほぼ王位を継ぐことはないとされていた。
メントスはがっかりした。

「…そう。それは次はメリスにいさまの奥様のものになるのだね。」
「ええ、そうね。」

メリスは皇太子でメントスの同腹の兄だ。
強く優しく頼もしい兄で、あまり知られていないが体の弱い母たる王妃を支えて立派に皇太子としての責務を全うしている。

「わかりました。僕が悪かったです。それは大事なもの。もう二度と見ようとして持ち出したりしないよ。」

そう言うと漸く王妃の顔が綻んだ。
母の嬉しそうな顔にメントスも嬉しくなった。
それから王妃はメントスを手招きし、近づいたメントスをぎゅっと抱きしめた。

「えらいわね。メントス。ご褒美に貴方が結婚するときにはあれに似た宝石を用意しましょう。」
「本当?」

メントスもその小さな手で王妃の体を抱き返した。
本当はあの宝石がよかったけれど、でも抱きしめてくれる母のぬくもりが嬉しくてただ嬉しいとだけ伝える。

「約束だよ。」
「ええ、約束ね。」

親子は笑い合い互いの小指が絡ませ指切りをする。
それはとても微笑ましい光景だった。暖かな記憶だった。
そんな光景はそれほど長くは続かなかったとわかっていても、いやわかっていたからこそ暖かくそして悲しい記憶にメントスは知らずに涙を落とした。

その数年後、メントスの兄メリスは狩りの途中の事故で死んだ。
そこから学園に送られるまでの日々にメントスの幸せな日など一日足りともなかった。

皇太子の母親ということで権力を握っていた母親の権威は失墜した。
その上有望だと思われていた次男は実は頭が悪く、体が丈夫なだけとわかり母親はメントスを激しく罵った。
もともと皇太子以外には王位継承権のほぼ圏外にいた子供しか持たなかった王妃は、権威の失墜と共に気を狂わせ一人いる末息子に関心を向けることはまったく無くなった。
その存在自体を忘れたかのように。
最初のうちは悲しくて泣いたが、だがどうにもならないことなのだとわかってからは泣かなくなった。
今では家族のことで心を煩わせることが、一番メントスにとって価値の無いことだった。

そしてこのようなかつての記憶など無用のものと思っていた。
価値の無いものと思い込もうとしていた。
そうでなければ苦しいから。
もう絶対の戻らないものを求めるほど、メントスの心は強くは無かった。

「…それなのにどうして今頃。」

こんな記憶を思い出すのだろう。
どうして見せ付けられるような思いを味合わねばならないのか。
メントスは夢の中で泣いた。
夢の中だけしか泣けなかったから。
ただ悲しみだけが、心に澱のように積もっていく。

そのときだった。
不意に誰かに抱きしめられた気がした。
それはとても暖かく柔らかい。
かつて母親が、メントスを抱きしめてくれたように暖かで心地のよい感触だった。

(…泣かないで。)

小さな声が聞こえた。
聞いたことの無い声のようにも、よく知っているようにも聞こえる不思議な声だ。
だが、ひたすらに優しくどこまでも安心できる腕の中だ。
メントスは目を閉じた。

そして。


******

瞬間、目を開けた。
まだ辺りは暗かったが、窓から取れる明かりで室内の様子は見て取れる。

目の前には見慣れない天井が見えた。
そして徐々に頭が覚醒し始めると、そこが休息所として借りたセルバの家の天井であると認識する。
隣を見ると部屋を出て行ったときと同じようにカールとアポロが死んだように眠りこけている。
メントスはベットの上にいた。

「…ゆめ?」

首を動かして体を見る。
そこには寝る前から着ていたシャツとズボン姿がある。
メントスが外に出たり、水に濡れたりした形跡は微塵も無い。

「…〜〜〜〜!!」

メントスは声にならない叫び声をあげてベットに突っ伏す。
直前の幼い頃の夢はいい。あれはただの過去の記憶だ。
夢の中とはいえ泣いたことは不覚だが、まあいい。
それよりその前に見た夢の出来事のほうが問題だ。

(っ〜〜〜〜〜!!!どれだけ欲求不満なんだよ!俺は!)

見たことも無い白髪赤目の少女のヌードを覗く夢など恥ずかしいことこの上ない。
あまつさえその少女におぼれかけた際に、キス、もとい人工呼吸されたなど。
メントスとて健全な男子だから女性に興味が無いわけではなかったが、それでもこんな恥ずかしい夢を見たのは初めてだった。
穴があったら入りたいとはこのことだ。

「…ん…。」

思わず、ベットの上で暴れてしまったためか、同じ部屋で眠るアポロが身動ぎをした。
驚いて、動きを止める。
だが、起きる気配はなくしばらくするとまた静かな呼吸音が聞こえてきた。
起こさなかったことに胸をなでおろし、ふと気付く。
メントスの胸の辺りに何か長いものが付いているのが見えた。
それは白く長い糸のように思えた。
指を絡めてそれを見ると、不思議な真珠色の光沢が見て取れた。

「…夢じゃなかったのか?」

それは少女の髪の毛だった。
ではなぜ、泉に落ちておぼれたはずの自分がまったく濡れた形跡もなくここで寝ているのか。
あんな夜の森にいた少女は何者なのか。
疑問は尽きない。
だが、あの少女は実在する。
そのことはなぜかメントスの胸はざわめかせた。

ごろりと仰向けになって髪を絡めた手を天井にかざして見せた。
窓を見るとまだ村は火を絶やすことなく明るいが、空は真っ暗で夜明けまでにはまだ間があることが知れた。
それから手を握り締め、目を閉じる。
今はまだ何もかもがわからないことだらけだ。
だが、今するべきなのはおそらく考えることではない。
休むことだと思った。
このまま休んで体力を回復させてから、また考えればいい。
今わかっていることは自分がまったくの未熟だと言うこと。
そして、あの夢の少女が実在することだ。
それだけで十分な気がした。
体は休息を欲している。
メントスは体の誘惑に身をゆだねてあっという間に意識を手放した。
恥ずかしい少年メントスその2でござい。
ちょっと今回は幻想っぽくまとめてみたりしましたよ。ファンタジーっぽいでしょうか?
さてはて、一体あの少女は誰なのか?ところで何歳までを少女と称するのか、作者にはわかりません。
あと2,3回でひとまず小説としての一区切りが付く予定です。
まあ、あくまで予定ですが。
では次回。
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