幻影金魚(9/15)PDFで表示縦書き表示RDF


幻影金魚
作:takao



第9話 すれ違い


 杉の木が鬱蒼と生えている神社に、あさぎは清矢郎を追いかけ辿り着いた。この景色は、四年前に見た時と変わらないと思った。
 多分、あの時があさぎがここを訪れた最後だろう――彼に触れられ恐くなって逃げ出してやってきた時が。

 蝉の声が上から注ぐように降ってくる。この場所ではたまに子供が遊んでいたり、氏子の役員である年配者が集まったりしていることがあるが、今日は誰もいなかった。
 神社と言っているが、土地の神様が祭られているだけの小さな規模の建物である。そうは言tっても社は、古いながらも改修もしてあり、未だにしっかりと立っている。
 二人は誰も居ない神社に近づくと、鳥居からは死角となる軒下の石の上へと、暗黙の了解のうちに腰掛けた。

 気まずい沈黙の中、あさぎは足をぶらぶらとさせた。
 木陰の下にいるのでそれほど暑くは感じられず、ざわざわと枝を揺らす風と音が少女の身体にも心地よい。
 社の後方には竹が植えられている。高いところで枝を鳴らすそれを、あさぎは斜め上に見上げた。その目には竹の枝の中、赤い金魚が遠くを飛んでいる様子が映った。
 そしてあさぎにはこの静かな風景に、隣の彼はとても馴染んでいる気がしていた。

 そうは言っても話したいことがあると誘ったのはあさぎの方である。受験生の時間を無駄に割くわけにもいかず、何よりこれ以上鬱陶しがられたくないものである。
 清矢郎はまたあさぎの方を見なくなった。どっかりと足を開いて座り、頬杖をついている。
 取り付く島もない様子に、どう話しかければいいのやらとあさぎは困るが、幼い頃から彼はこんな感じだったようなことを思い出していた。こんな彼に一方的に、甘えん坊のあさぎがぺらぺらと話しかけていたものだった。そして彼も無愛想ながらも優しくその相手をしてくれていた。
 あさぎはなんとか会話の糸口を探そうと、清矢郎の方を覗き見る。

 あさぎは己の持っているどろどろした恐ろしい感情を自覚してしまったものの、言葉に出来ず困っていた。ただ恋の告白をすれば終わり、ではないから余計に難しい問題なのである。この四年間の膿は。
 しかしそれは、「彼」が居ないことには始まらないのも確かであった。彼が自分を避けていたり、誰かのものになってしまってはどうにも出来ないことなのである。
 あさぎはそこでふと気になったことがあったので、ぽつりと問いかけた。
「大学……」
 その言葉に清矢郎の腕がぴくりと反応した。あさぎの方は見ないままだったが。
「どこ受けるの?」

 あの地区内一の進学校で成績がある程度上位ならば、日本全国何処でも好きな大学を受験出来るレベルである。だからここでいきなり、北海道など遠い地方に行きたいと言われたら困ってしまう。
 本当は「彼女いるの?」とか「好きな人いるの?」とか、そういったことを少女は聞きたいのだが、いきなり聞けるわけもなくまずは外堀から攻めているのであった。
 急に何だ?と清矢郎も思ったらしいことが、空気で伝わってきたが、
「N大……」
と彼は隣県にある国立大学の名前を呟いた。しかもそこは、清矢郎の家から通えない距離ではない。あさぎは内心ほっとした。
「行けるとは限らんけどな」
 清矢郎は、「ダメなら」と別の大学の名前を二つ三つ上げた。
 その学校名を聞き、近場の県の大学を挙げてくれたことには、あさぎはやはり安心した。滑り止めの大学の場合、下宿をしないと無理だろうと思うが、滅多に会えないほど遠い距離だというわけでもない。
 もちろん第一志望に受かってくれればそれにこしたことはないが、まあなんとかなるかな、とあさぎはこっそりそんなことを考えていた。

 しかし、無いようで二つの年の差がしっかりとあることを、あさぎは改めて実感した。
 彼の方が一歩先に社会に出てしまうんだな、と改めて少し寂しい気分になり、やはり自分がどれほどちっぽけで彼には足りない存在なのかと少女は不安に駆られる。
「そっかー」
 あさぎはまた足をぶらぶらとさせながら、そう呟いた。
「それが、なんだよ」
 頬杖をつき、あさぎと一緒に目の前の宙を睨んだまま、清矢郎はつっけんどんに尋ねた。
「べつに……」
 しかしあさぎは曖昧な返事をした。

 「こっちを見て」「傍にいて」「誰のものにもならないで」、多分この三つくらいの言葉であさぎの望みは表現出来るだろう。
 しかしそれを要求する勇気があさぎにはまだなかった。

 ――折角のチャンスなのに、これ以上悶々としていたくもないのに。どうしよう、どうしよう……。

 困り果てたあさぎは、もういっそ、理性も何もなぐり捨てて、金魚が飛ぶ時のこの汚らしい感情を彼にぶつけてしまおうかと自棄くそな気持ちになるが、そんなことをして清矢郎に引かれてしまえば、何にもならない。
 あさぎはぎゅっとワンピースの裾を握り締めた。何か、何か――と、あさぎがとりあえずまた口を開こうとした時、
「話してえことってさ、」
突然、少し乱暴な口調で清矢郎が口を開いた。あさぎが弾かれたようにもう一度清矢郎を見上げると、彼はゆっくりと彼女の方を振り向いた。
 そして彼は観念したように、おもむろに眼鏡の奥の眼をあさぎに向けた。その唇がゆっくりと動く。

「四年、前のこと?」

 少年の低いその声に、まるで心臓が抉られたかのような衝撃が少女に走った。
 少女の世界から全てが遠のき、蝉の声と木や竹の葉が揺れる音が彼女にはやけに大きく聞こえた。そしてその目の前を金魚がざわっと飛び立った。
 あさぎは恐い、と思った。いざとなると、その時の話をすることが。
 それは清矢郎やあの日のことが恐いのではない。眼を向けたくなかった自分の正体不明の感情に、いよいよ向き合わなくてはならないことが恐かったのだ。

 どくんどくんと、あさぎは自分でも自分の心臓の音を感じている。まさか自分を無視し続けてきた清矢郎の方から、こんな話をふってくるとは思わなかったからだ。
 しかもその黒い瞳があさぎを見据えていた。
 求めていた筈なのに、それは少女にとって恐くて仕方ないことであった。
「……うん……」
 あさぎがなんとか振り絞ることが出来た言葉はこれだけだった。清矢郎は小さく舌打ちするとがりがりと頭を掻いた。

 四年前の出来事は二人の間でずっとタブーとされてきたが、触られたあの瞬間を今二人で一緒に思い出しているんだなと、あさぎは思った。そう思うと恥ずかしくなり、少女の身体がかあっと熱くなってくる。
 あの日小学生だったあさぎに触れてきたその手――それは、今、その隣に座って膝の上に置かれている大きな手と同じもので――が、自分の膨らみや下腹部を触っていたことを、あさぎはまた思い出す。
 そしてその手が今の自分に同じように触れることを思わず想像して、またずくんと少女の胸が大きく疼く。

 だが、どうすればいいのか、何を言えばいいのか、あさぎの口からは未だ言葉が出てこない。
 ようやく今、二人してあの時間へと戻ろうとしているが、この瞬間に何を言えばいいのか。少女は急いでそれを考えていた。
 とりあえず彼があの出来事を認めてくれたのは、あさぎにとって嬉しかった。この四年間、彼の中に自分はちゃんと存在していたように感じられた。それは彼女を、とても安心させることだった。
 だがそれでも、彼が自分以外の女性を想っていた場合はどうすればいいのか。結局、そんな恐さも手伝ってあさぎは結局言葉が紡げない。

 ワンピースの小さな花柄を凝視し、あさぎはひたすらそれをいじくっている。
 困ってしまった彼女だが、蝉の声が責めるように鳴り響くこの重い静寂の中で、それを破ったのはまた清矢郎の方だった。
「俺は、どうすればいい」
 あさぎがまた清矢郎を見上げると、彼は開いた膝の上に肘を置き、その両手を握って宙を睨んでいた。
「あさぎに、何をすればいい」
 それはきっと長いこと彼の胸の中に仕舞われていた言葉ではないだろうかとあさぎは思った。

 無口な彼は、浅はかな言動はあまりしない性分であった。必ず考えた後に言葉を発し、一言一言にじつのある思いを込めている。そう言った後、清矢郎はあさぎを振り返った。
 それは昔と同じ、彼らしい真っ直ぐな視線に戻っているようにあさぎは感じた。だがどこか苦悶の色が浮かんでいるようにも見える。
 その顔は恐いと形容されそうなほどの仏頂面であったが、昔から彼を知っているあさぎにはその表情が自分を憎んでいる意味でのそれではないということは分かった。
 そしてこんな時なのだが、久しぶりに自分の名前を呼ばれて、あさぎは呑気にもどきりとしてしまう。

 緊張はするし困ってもいるものの、それでも彼が今、「自分」を見てくれていることはあさぎにとって嬉しかった。
 その視線が自分に向けられている――そもそも、それだけで本当はよかったのではないか?
 そう思うのに、清矢郎との間に、またふわりと金魚が飛んできた。
 ということは、そう、それでも――己の欲求は、まだまだ満たされていないのだ。きっと、この幻影が見え続ける限り、少女はまだ何か足りずに求めてしまっているということなのだろう。
 
「どうって……」
 しかし、どう言い返すべきか。あさぎは口の中で呟くと、清矢郎から視線を逸らしてしまった。
 清矢郎の言葉から、あんなことをしたものの元来誠実である彼は、あさぎがあのことを怒っている、もしくは傷ついていると思っているのだろう、それを罪に感じて、償いたいと思っているのだろう。
 確かに憎んでいた……のかもしれない、とあさぎは今までの感情を思い出す。だがそれは、彼の態度に、であって、彼の行為に、ではきっとなかった。
 確かに二人の関係をすっきりさせたいとあさぎは思うが、彼の考えていることと、彼女の考えていることは、全く違うようのではないかと思った。

 清矢郎があさぎに対して考えていることは、「償い」である。
 しかしあさぎとしてはそうしてもらえれば納得できるのか、と言えばそうではない。何をされてもこの四年間の想いは消すことが出来ないし、彼の言う「償い」の形が欲しいわけではないからだ。
 だからあさぎは清矢郎の問いに答えられなかった。

 あさぎが何も言えないのも仕方ないことと思っているのか、清矢郎は無口な彼にしては珍しく言葉を続けた。その苦悶の表情が、自嘲的な笑いに変わる。
「確かに、謝って、済むことじゃねえよな。……それであさぎに許されるんなら、いくらでもするけど。もっと前に、そうしたって良かったんだ。――でも出来なかった」
 清矢郎はそこで言葉を区切るとひとつため息を吐き出した。
「いくら謝っても、自分のしたことには変わりない。取り消せない。そう思ったから、謝ることも意味がない気がしていた。それでも、謝るべきだったんだろうな、あの時に」
 あさぎには清矢郎の考えの全ては分からなかった。だから彼が何を言おうとしているのか、必死に集中して彼の声を聞いていた。

「謝りそびれて、時間だけが経った。そうなったら益々謝れなくなった。だってあさぎは忘れてえだろ、あんなこと。無かったことにしたい、思い出したくもない、俺なんかの顔も見たくない、声も聞きたくない――普通、そう思うだろ」
「――」
 その清矢郎の言葉を聞いた瞬間、あさぎの心の中でかちりと鍵が合わさったような音がした。

「だから……無視してたの?」
 驚きと共に呟かれた少女の言葉に、少年は彼女の方を見ないまま、少し沈黙を置いて頷いた。

 ――なんだ……。そうだったのか。

 あさぎはその答えに、急にこれまでにないほどの安堵に包まれた。
 あれだけ、自分に視線を向けてくれないこと、その場に居ないように扱われていたことに、苛立ち、苦しんでいたのに、嫌われていたわけではない、否定されていたわけでもない――ただそれだけの事実に、少女は泣きそうなくらいほっとしてしまった。
 彼自身が、自分の目の前から彼の存在を消そうとしていた、清矢郎がそんな風に自分のことを考えてくれていたことにあさぎは今やっと気がついた。

 しかしそれは、誤解だ、と思ったあさぎは口を開こうとしたが、清矢郎の言葉はまだ続いた。
「だから、お前が電車で話しかけてきた時は驚いた」
 清矢郎は珍しくふっと笑った。それはこの前、あさぎが勇気を持って彼に「話がしたい」と提案した時のことを指していた。
「逆に余程、腹に据えかねたのかとも思ったけど」
 清矢郎は溜まっていた罪悪感を吐き出すことによって、どこか肩の荷が下りたのか、あさぎの方に自然に視線をやった。二人の視線がまた結ばれた。

「――ごめん」

 清矢郎の言葉と真剣な眼差にあさぎは息を飲んだ。
「今更だよな。謝るぐれえなら、最初からするなとか、謝っても何も取り返せねえってことぐらい、分かってる。だからあさぎの望むようにしたい」
 その言葉は、低い声で恐い顔をしているがどこか優しい響きとしてあさぎにも伝わってきた。何よりも、彼なりにあさぎのことを思いやってくれていることが伝わってきたのだ。
 これほど優しい人なのに、彼はひとつの罪を犯してしまった。そしてそれはもう消すことは出来ない。その苦しみの中に彼はいた。
「二度と顔見せるなって言えばそうするし、殴りたいって言えば大人しく殴られるし」
 彼は嘘をつかない。だからきっとあさぎが彼を殺したいと言えば大人しく刺されるかもしれない。命を粗末にするとは別の問題で、彼なりのけじめのつもりでそうするものと思われる。
 清矢郎はあさぎの次の言葉を待っていたようだった。しかし、突如として少女の口から発されたそれは、

「――やめてっ!!」
そんな鋭い声だった。

 あさぎは思わずそう言ってしまった後、はっと我に返り清矢郎の顔を見上げた。彼はそれは当然の反応と言う様な、諦めきったような、そしてとても沈痛な表情をしていた。
 だが、あさぎの要求と自分のした罪の全てを受け入れるような、意志の強い眼光もまた残っていた。
 しかしそれは、あさぎの本当に求めているものではなかった。あさぎが今思っているここと、彼の予想とは全く違うものであるのだった。

 二人の思うことが、すれ違ってしまっている――。
 受け入れてもらえるか分からないが、自分の欲しいものはそれではないのだと咄嗟にあさぎは思った。だから彼の言葉を遮った。
 彼女が四年間抱えていた思いは、今のこの爆発しそうな感情は、清矢郎の想像しているようなものではないのだ。
 彼が罪を償えばそれでいい――そんな簡単なことではない。それこそ、それくらいで済まされるものではない。

 赤い金魚が飛んでいるのが、またあさぎの視界に入った。これは自分の心の内に収まりきれなかった感情の漏れが、幻覚として具現化したものなのかもしれない、と少女は今まさに気がついた。
 そしてその溢れ出した想いのままに、溜まっていた彼への気持ちを、覚悟も何も決まっていなかったが、もう何も先のことなど考えず、あさぎは遂に口にしてしまったのであった。







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