第8話 夏
そして明けて土曜日となった。ついにあさぎと清矢郎との約束は明日に迫る。
今日のあさぎの予定は誰とも約束がないし、土日に部活もない。あさぎはどうも落ち着かなかったので、午後から自転車を走らせ市立図書館へと向かった。
暑くはあったが、その日差しと自転車で切る風が少女にはかえって清清しく感じた。
心がはやって集中も出来ないが、冷房の効いた中で本を漁っては閉じていく。あさぎはしばらく図書館に居座り、久しぶりに二冊本を借りて、コンビニでアイスを買って帰る。家には誰もいなかった。
そして動きやすく涼しいハーフパンツに着替える。今日は髪もサイドでひとつに束ねている姿だ。あさぎは居間の絨毯の上に胡坐をかくと、扇風機の風を「強風」にして浴びながらアイスの袋を開けて、はくりとかじった。
落ち着かず、思わず家から飛び出したが、――あと、二十四時間をきってしまった。
明日清矢郎と会って、この四年間に決着をつける、かもしれないのだ。
昨夜はあのまま考えを中断させて寝てしまった。あさぎは動きを止めて、白い壁をじいっと睨むように見つめながら、昨夜最後に浮かんだ命題を考える。
――私は「彼」と、したいのか?――
ひとつだけ確かなことは、既にあさぎは自慰行為の時に「彼」を想像してしまっているということだ。
携帯電話で手軽に読めてしまう官能小説のようなものも、読めばもちろん興奮してしまうが、その妄想すら彼に重ね、少女の欲求は、結局「彼」に戻ってくる。
一体「それ」が、どうして「彼」なのだろうか?
初めて自分を「女」として見た相手だからか。
だが、では彼と一発性交渉できればすっきりするのかと言われれば、そうではないとあさぎは思う。それはきっと、性欲とは別の感情があるからではないか。
彼と「する」なんてことはとても恐いと思うものの、かといって彼が他の女とそういう関係になるのは嫌だと、あさぎは既に自覚している。
そもそも電車で一生懸命、清矢郎のことを追いかけていたという事実もあり、「自慰の時に想像する」=「やりたい」=「彼のことが好き」、という単純な図式と考えられるのだろうか。
……確かに、嫌いではない、とあさぎは思う。嫌いな男で想像して自慰をするわけがない。それに、子供の頃は少しばかり憧れていた。
――では、今は?
しかしあさぎは何度もしてきた心の中の自問自答に、やはり首を振る。
――違うんだ。これは、「恋」なんかじゃない、と。
これはきっと、誰にでも胸を張れるような優しい感情ではない。
あさぎの想像する「恋」とは、相手を慈しみ大切にするような、自分がそれだけで幸せになれるような、そんなあたたかいものだった。
自分を認めて欲しい、どうしてそれをしてくれないのと苛々するこのどろどろしたこの感情は、それとは全く違う気がしていた。
きっと、もっと――恐いもの。よくないもの、汚くて黒いもの、そう言ったものであると、あさぎはどこかで確信していた。
赤い金魚は何故飛ぶのか。少女の心を慰めるようにそれは飛び始め、今でもふわふわと緩やかに可愛く飛んでいる。
だけどそれは時々、あさぎの眼には揺らめく炎のようにも見えた。これがもしも、普通の感情であったら、普通の純粋な恋心であれば――このような幻影は見えなかったのではないか。
その仮定にあさぎは少しぞくりとする。
あの日、「被害」を受けたのは、女である少女の筈だった。
それなのに、この罪悪感はどうしてあるのだろうか。
性的欲求と共に見えるあの金魚は、何を象徴している?
――自分は一体、「何」を求めて――……。
そこであさぎがはっと気がつくと、アイスはどろりと溶けて、手の上に白い液体となって零れていた。それを慌てて舌で舐めた。甘いバニラの匂いが鼻をつく。目の前を金魚は呑気に飛んでいた。
とても綺麗な赤い色――だが、それを見ている自分の心はどうなのだろうか?とあさぎは己の心に再び問いかける。
きっと、この幻影は自分の心を映し出しているものなのだろう。
ではあの赤い色は何を表しているのか?血の色?それとも炎の色?
――自分は、彼を、どうしようとしているのだろうか。
赤い金魚が踊る様が、少女には狂った笑いにも見えた。
・・・・・・・・・・
あさぎは短く息を吐き出した。
誰も居ない家の二階で今日は小さな声を上げながら、きっと生理が近いからだと変な言い訳を自分にして、また快楽を貪っていた。
考えているうちに分からなくなってきて、あの日のことと明日彼に会えることを想っていたら、なんとなく「したく」なってしまったのであった。
これはもう、一種の逃避行動かもしれないと、少女は自分でも自分の精神状態が心配になるほどであった。昼間だというのに、情けないくらいその快楽に負けてしまっている。
乱舞する金魚の中に浮かぶ、ひとつの幻像。それがあの男の姿。
『その視線をこちらに向けて!』と、少女が虚しく幻影に呼びかける中、思い出すのは最後に電車で交わした視線のこと。
――その手で、その声で、その……。
ふわふわと身体が浮き上がるような、熱に浮かされたような快感の中で、少女の中で制御出来ない想いが高まる。
それはどれだけの言葉を並べたところで、ただの欲求であり、本能であり、本性でしかないのだ。それが――。
「あ……っ!」
そこで全てが崩れ去り、身体がびくんと跳ねる。
その瞬間、少女がうわ言のように口にしたのは――、今まで唇を噛んで堪えてきた、「あの名前」、だった。遂にその名を、その行為の最中に、呼んでしまったのだった。
いつもの痙攣が収まった後、ねっとりと糸を引く指を少女は虚しく身体から引き出す。
あさぎは自分に絶望していた。何を言えばいいのか、何を彼に求めるのか、言葉に出来るものはまだ何もないのに、身体はとっくの昔に分かっていた。
答えはただひとつだった。たった今、この身体が欲したこと、それこそが「答え」であるのだと、あさぎは遂に確信した。
「私は……」
……のだ、彼を。
金魚の中で、乱れた衣服のままゆっくり起き上がった少女は、ぶるりと震えた。
・・・・・・・・・・・
答えはもう出ていた。ただ少女はそれを認めるのが恐くて、直視できないでいただけなのだった。
生理前の微熱で火照る身体を持て余し、自分の気持ちが整理出来ないまま、あさぎは運命の日曜日の朝を迎えた。
今日も朝から良く晴れた暑い日で、蝉の声が益々温度を高く感じさせる。
結局、あさぎはいつもの格好をすることにした。ブーツカットのジーンズに、安いTシャツ、それに一番お気に入りのノースリーブのワンピースを合わせる。そして足には花のモチーフのついた、歩きやすいヒールのないサンダルを履く。
悩み事の合間に、同じくらい散々悩んだ服装だが、あさぎのこのチョイスは多分無意識のうちに、自分の心の奥底にある「それ」に抗おうとして、あえて色気のある格好を避けたのだと思われる。
太っているどころか寧ろ痩せていて、胸もあまりない自分ではワンピースだけだとかえって貧相に見えそうだったのでやめた、というのもあったが。
あさぎは遅めの朝食をブランチとして食べ、母親には友達と遊びに行って来ると嘘をついて家を出た。また少しちくりと心が痛んだ。
真夏の真昼のアスファルトは暑く、川からの風があるからどうにか汗だくにならずにいられた。少女は眉毛の処理くらいはするが、化粧は日焼け止めを塗るくらいしかしていない。だけど制汗剤くらいは身だしなみとしてしている。
川風に乗って、せっけんの匂いがあさぎ自身の鼻に触れた。
そして電車に乗り、あさぎは約束の場所へと向かった。
いつも通学で乗り降りする駅を越え、今日はもう十分先の駅まで向かう。そこからバスに乗り、保育園の前のバス停で降り、神社を過ぎ、豆腐屋の角を曲がり――、家を出てから約一時間後、あさぎは久しぶりに祖母の家へと辿り着いた。
本当に、彼は居るだろうか?とバスに乗る頃からばくばく鳴っていたあさぎの心臓が、更に大きく波打つ。
「あ……」
「それ」を見た時に、あさぎは思わず声を上げた。それは二つの理由からだった。
本当に、居た。居てくれた――ひとつめはそんな喜びからだった。
清矢郎は、彼らしく律儀に先に待っていた。Tシャツに穿き古したジーンズという、彼もまた飾り気のない服装だった。
そしてもうひとつの理由は……、
「ないね……」
清矢郎は、鉄柵に凭れて携帯電話をいじっていたが、あさぎの第一声に電話を閉じるといつものとおり、少し目つきの悪い視線を向け、
「去年くらいにこうなってた」
それを逸らしながらぽつりとそう答えた。
二人が幼い頃、夏休みを一緒に過ごしていた祖母の家は、既に取り壊されていた。それは聞いてはいたものの、そ家があった場所は、借りていた土地の所有者である隣の工務店の敷地となり、駐車場として広げられおり、その光景はあさぎにとって少々衝撃的に感じた。
そこにはあの古くかび臭い家も、遊んでいた広い庭も鬱蒼とした植え込みも何もなく、ただコンクリートが無機質に敷き詰められているだけとなっている。
「無常なもんだね……」
あさぎは今時の女子高校生らしくない感想を口にしたが、彼女らしいものであると思ったのか、清矢郎は特に反論はしなかった。
だがその言葉こそ真であった。二人の身体が、考え方が大人になりゆき、変わってしまったように、もう元には戻れない。時も、この関係も。同じでいられるものなど何もない。流れる水のように全てを後ろに置きざりにして、進化していく。
この手には何も残らない。振り返ることはあってもそれは幻で、もうその中に戻ることは出来ない。
あさぎはその現実を改めて思い知らされた気分だった。
此処に戻ってくれば、元通りの二人に戻れるかな――などと言う、少女の儚い最後の望みは完全に絶たれたのであった。
「……」
休日で無人の工務店の焼け付くアスファルトの前で、炎天下の中、二人は無言になってしまった。蝉の声が近くの神社から聞こえてくる。
清矢郎は黙ったまま手に持っていたペットボトルの水の蓋を開けると、勢いよく音を立てて飲んだ。
その鳴る喉仏を、隣で見上げていたあさぎは、思わず、こう言った。
「一口、ちょーだい」
清矢郎は手を止めてペットボトルを下ろすと、彼を真っ直ぐに見つめたあさぎを意外そうに見た。表情はあまり変わらないながらも、口を少し横に引いたような顔は、驚いたそれなのだろう。
ペットボトルを持つ大きな手、少し濡れた唇と顎、それをとってつけたように拭う少年っぽさを残した仕草、それらが少女の視界にひとつずつ刻み込まれる。
これを提案したのは、「確認」したかったからだ、昨日の仮定を。
――そして、あさぎの予想通り、金魚は舞った。
彼の後ろにひらひらきらきらと見えた。
その時少女の中で、昨日の「確信」がもう一度確かなものにされたのだった。
清矢郎は一瞬何か考えたようであったが、そのままペットボトルをあさぎに渡した。
あさぎはそれを受け取ると、その口を拭わずに、彼の真似をして豪快に音を立てて飲もうとしたが、格好悪くも咽てしまった。
それでもからからになっていた喉に、水の潤いは気持ちよかった。少し頭がすっきりした。
そしてその若干冷静になった頭であさぎは思うのだった。彼にまた口元を拭わずペットボトルを返しながら、――間接キス、しちゃった、――と。
清矢郎は何も言わずに、またペットボトルを受け取った。そして彼もまたそれを一気に口元まで持っていき、最後まで飲み干した。
無言のまま、蝉の声だけが虚しく聞こえてくる。しかし彼がそれを飲み終わった時、その蝉の声に触発されたように、
「――あのさ、」
「神社……」
二人同時に口を開いた。どうやら二人で同じ事を考えていたらしい。思わず視線を交わすと、互いの考えていることが伝わった気がした。
確かに、このような暑くて座るところもない場所で話も出来ないので、それこそ子供の頃、一緒に遊び、そして夏祭りにも行った近所の小さな神社へと二人は移動した。
歩いて五分の距離であるが、これまた無言で歩いていく。
あさぎはぺたぺたとサンダルの音を立てながら、清矢郎の広い背中を追いかけた。
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