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幻影金魚
作:takao



第7話 幻影金魚


『……!』

 ――なに、するの!!?とあさぎは思ったが、こういう時に声など出ないものである、と後から思い返す。
 まるで喉に声が張り付いてしまったように、何も言葉が出てこなかった。そして体中が凍り付いてしまい、微動すら出来なかった。

 上から下へと、少女の凹凸の少ない身体を撫でるように、触れられた。
 あさぎの全身がが硬直し、ぞわっと気持ちの悪い感覚が駆け上がる。
 この状況で「感じ」られるわけがなかった。

 あさぎはただ、パニックを起こしていた。
 ――どうしてこのひとがあたしにこんなことするの!??

 その答えは、ひとつだった。
 ――彼が「男」で、自分が「女」だからだ――。

 望むと望まざるに関わらず、その事実を十二歳にして、信じていた相手に突きつけられた、残酷な瞬間が訪れる。
 すぐ近くにいる少年からの、子供の時にはなかった、すこし苦いような汗の匂いが少女の鼻をつく。その息遣いすら感じられるくらい、相手に全てを集中してしまっていた。視覚、触覚、嗅覚、聴覚の全てが、相手が己を「女」として求める「男」であることを本能的にあさぎに伝えてくる。
 真っ直ぐでいつでも澄んでいた彼の眼が、今や濁った「雄」のソレになってあさぎを見つめている。


 その時、あさぎの中で何かがぱりんと音を立てて壊れた。


 ――あ……。

 彼女の眼に映ったのは、金魚――の幻だった。
 真っ赤なソレらが、水槽から飛び出したように、何故か少年の後ろに浮いていた。
 それはまるで生理の血のような、真っ赤な綺麗な金魚、に見えた。

 それは二人の、「最期の」、綺麗だった、愛しかった尊かった、時間の象徴。
 純度の高い透明できらきらした子供たちの聖域に閉じ込められていたのに、それが食い破られ表に溢れ出した、哀しい幻像がぷかぷかと浮かんでいる。
 まるで壊れた少女の心を慰めるように、この残酷な現実にこれ以上心を粉々にしないように、無表情に己を求めてくる少年の後ろにその幻影を見せている。

 ――きれい……。

 あさぎはそれに心を奪われた。
 それに逃避した。
 そちらに集中していれば、変なことをされていてもなんとも思わないでいられる気がしたからだ。

 実際こうしていたのは五分もないことであった。
 ほんの少しの間、清矢郎があさぎの胸と局部を彼が触っていた。しかも服の上から。それだけのことであった。
 逆に言えば、それだけに留まったのが彼の僅かなりに残った良心といえるものなのかもしれなかった。それでも、少女を傷つけた罪に変わりはなかったが……。

 清矢郎は、やがてはっと気付いたようにあさぎから手を離した。それは彼が自ら離したのかもしれないし、あさぎが傷ついたような顔をしていたからかもしれない。
 しかしどちらにしろ、あさぎには今は何も考えられなかった。清矢郎の手が離れたところで、恐くなってその場から逃げ出した。


 もう彼とは、二人きりで居たくない。そう思い、あさぎは近所の神社まで全速力で走った。蝉の声が降りしきる中、少女ははあはあと荒い呼吸を落ち着けながら、誰も居ない神社の柱に手をつく。
 自分は彼にとって「女」となってしまったのだ。彼とはもう二度と、以前のように一緒に笑い合うことは出来ないのだ。そう思うと、寂しくて悔しくて、酷い裏切りを受けた気がして、あさぎは絶望すら感じていた。
 それなのに、何故だろうか。それでもあさぎの心の奥底に、あの金魚の美しさがしっかりとこびりつき、忘れられなかったのであった。
 まるで、胸の奥に小さな小さな熱い火が灯ったかのように。

 恐かったのに、それなのにあの時、清矢郎の後ろに見えた金魚はとても綺麗だとあさぎは感じていたのだった。あんなことはいけないことだと思っているのに、とてもショックな出来事だったのに――それでも、何故かあの金魚をまた見たいと思ってしまっているのだった。
 あさぎはこの時まだ、その願望が後に己を焼き尽くすこととなるのにも気付かず、今はただ、この突然身に降りかかった現実に呆然としていた。


 ……あの、「せいちゃん」が、あんなえっちなことするなんて、思わなかった……。

 あさぎはそのまま神社の軒下に腰掛け、短パンから伸びた細い足をぶらぶらとさせた。
 清矢郎のイメージとして思い出すのは、笑わないのに優しさが伝わるあの眼と、ぐっと何かを堪える時の意志の強そうな眼である。その裏に、あんな汚いものを抱えていたのかと思うと、あさぎは再びぞわっとするような、変な感じがしていた。

 しかもその相手が、どうしてまだ小学生の「自分」だったのだろうか……。

 困惑とショックは尽きなかったが、あさぎは意外と冷静に頭の中でこの事件を受け止め、どうにか処理しよう、立ち直ろうとしていた。姉と年が離れていたり、親戚など大人と接することが多かったからだろうか、やんちゃでも少し大人びたところがあった。
 逆にあの美しい金魚を己に見せることで、その心が壊れないよう無意識のうちに守っていたのかもしれなかった。

 あの綺麗な緋色の金魚は、それこそ心の奥底に灯った小さな炎のようだった。
 それは四年経って思えば、「女」の本性――と呼べるものなのだろうか。
 この日のことが少女に「性」というものを初めて意識させ、二年後に覚えたひとりでの行為への興味にも繋がっていったのかもしれなかった。

 そしてそれを予言するように、この時あさぎの胸の内は、信頼していた相手からの裏切りは苦しかったにも関わらず、どうしてか熱かった。
 もし相手が違う人だったら――そうしたらもっとずっと嫌だった、まだ清矢郎でよかった。これもどうしてか分からないが、あさぎはそう確信していた。

 いずれにせよ、これは「誰にも言えないいけないこと」であることだけはあさぎにも分かった。
 いくらショックでも、これが清矢郎の家族に知られれば、あの恐い伯父さんに彼は殺されかねない。何より自分が「女」になってしまったのか、という同情の眼で周りから見られることに嫌悪感があった。こんな変な秘密を強要されて、あさぎには清矢郎を恨みたい気持ちもあった。
 しかしそうするしかない。あさぎは自分でも驚くほど、昼間の恐ろしい出来事を隠し通し、何もなかったかのようにその晩の夕食を家族全員で食べた。
 清矢郎も同じ席に居たが、決してあさぎと目を合わせはしなかった。意識されても困るくせに、その態度に彼女は少しむっとした。
 
 そしてその日からだった。
 清矢郎があさぎと絶対に眼が合わせなくなったのは。
 あの日のことを、二人して必死になかったようにしようと躍起になっているのは。


 そんな夏の嫌な思い出から、四年が経った――。


 ・・・・・・・・・・

 電車で清矢郎に思い切って話しかけてから、五日後の金曜日の夜。
 あさぎは窓を開けた暗い部屋の中、ベッドの上で寝そべりながら、あの日のことを思い出していた。

 だが今夜は自慰行為はしなかった。いつもは「触られちゃった」という甘苦い部分と、今の清矢郎を思い出し重ねながらするのだが、今夜はそもそもどうしてあのようなことになったのか、次会った時、彼に何を言えばよいのかを考えていたのだ。
 もちろん、思い出している途中に本能的に胸や局部やらが疼き出したりはしたのだが……。しかし身体がそれだけ反応するということは、やはりあの行為で自分は「女」として目覚めさせられていたかもしれない、と思うのだった。
 理性の手綱をどうにか握り締めたまま、一生懸命あの日から彼に対してぶつけたかった気持ちを、この苛立ちを、どう伝えればいいのか考える。

 赤い金魚が、天井をゆるやかにふわふわと数匹飛んでいるのを、あさぎはぼんやりと見ている。――自分は、彼にどうして欲しいのだろうか。

 ――『「私」を見て、認めて!』――

 あさぎはあの日から自分を居ない者のように扱う清矢郎に対して、そう思っていたのだが、本当は「彼」は関係ないのかもしれない。
 あの日の悪戯は確かにショックだったが、それとは関係なく今、誰にも認められていないという欲求不満から、清矢郎に八つ当たりのように自己の存在を認めさせようとしているだけなのかもしれない。
 逆に、具体的に清矢郎がどうしてくれたら満足するのか?――少女は自問自答する。
 意味不明なことだけを言われても、彼だって困ってしまうだろう。しかし最初に悪いことをしたのは、彼なので、遠慮することはないと思うあさぎであったが…。

 そこで先日電車の中で、自分の細い腕を掴んで立っていた彼の表情を、少女は思い出す。
 少し困ったように自分を見ていたが、結局はあさぎが彼に気持ちをぶつけたがっていることを受け入れてくれた。そういう責任感が強くて少し優しいようなところは、昔とちっとも変わっていない気がした。
 そしてあさぎはそのことには安心させられた。だから不安でも、彼に賭けてみたいという気持ちにさせられたのだった。

 しかしこの気持ちは、駅で彼を毎日探したような行動に現れているような、恋心――なんて甘いものではない、もっと恐い何かだとあさぎの心が前から叫んでいる。

 見えそうで見えない答え――自分の気持ちが、考えても中々上手くまとまらないので、あさぎは思わず携帯電話を開けた。暗闇の中それはまぶしく光った。
 その光の中に、彼から初めて届いたメールが浮かび上がる。


 ・・・・・・・・・・

 昨日の夜のことだ。突然携帯電話のメール受信の音楽が鳴り出し、あさぎの胸が高鳴った。
 アドレスを交換し、会って話そうと約束し――まだ着信メロディは個別にしていなかったが、それは清矢郎からだった。

 本当に来た……とひどく安堵して、思わず少女の頬が緩んでしまう。あれから四日経っていたが、待てどもメールが届かなかったので、こちらからしようかどうか迷っていたところだったのだ。内心では諦めかけていたので、嬉しさもひとしおである。
 すぐに返信しようとしたが夕食の直前だったので、母親に怒られてしまい出来なかった。しかし嬉しさにドキドキしているような胸では、食事の味など分からなかった。

 夕食後、あさぎは部屋で、メールをじっくり確認した。
 絵文字など使わない、彼らしいぶっきらぼうで短い文章だった。こんな短文では件名だけで事が済んでしまいそうである。
 もう少し色々書いてくれればいいのにと、メールをもらえばもらったで、勝手なことを思うのが乙女心。後で一番好きな曲を彼の着信にしようと思った。彼に聞かれても恥ずかしくないようなのがいいな、と。

 それはさておきメールの内容は、『日曜日 午後一時』とだけあった。

 「午後一時がなんだよ!」とあさぎは突っ込みたくなったが、都合はまったく悪くなかったのでそれにOKの返事と場所はどうしようという返事をした。
 二度目のメールが来るのを、あさぎはまた緊張してベッドの上で正座までして待っていたが、中々返信がこなかったので、苛々しても仕方ないから風呂にでも行こうとあえて無視した。
 風呂から上がったら……律儀に返信が来ていた。

 向こうが提案してきた場所は前言ったとおり、二人の祖母の家のあたり……と言っても今はもう取り壊されているから、外で話をするということだ。
 二つ目は彼の家……と言っても、清矢郎の両親がいるかもしれないし、居るか居ないか聞くのもあさぎにはためらわれた。
 どちらも嫌ならそれ以外の場所でもいいと言われ、一瞬あさぎは喫茶店なども考えたが、如何せん、どんな話になるか分からないので公衆の面前では話しづらい。

 よって懐かしいことと、はじまりの場所でもある、祖母の家の跡に行こうとあさぎは返信した。
 はじまりの場所に戻れば、何か大事なことが取り戻せるかもしれないような気がしたのもある。その待ち合わせが今度の日曜日。梅雨も明けた、夏休み直前の日曜日にあたる日だった。


 ・・・・・・・・・・

 そして一晩が過ぎ、金曜日となった現在に至る。
 昨晩のメールが来た時のときめきは少しばかり収まってきたが、会う時のことを想像するとまた別のことで胸がはやってくる。あさぎは忙しい。

 ――何着ていこう……。

 何を話すのか、自分が清矢郎のことをどう思っているのか、本当は先にそちらを考えなくてはいけないのに、考えてもまとまらないからと、あさぎはどうでもいいことを考え始めた。
 ――どう思う、金魚。と思わず幻覚に話しかけそうになる。やばいやばい、とそれはどうにかとどまった。
 しかし「明日の服」はどうでもいいようで、女の子にとっては実は重要なことであるのだ。
 だが、相手は清矢郎だ。パジャマ姿からジャージ姿から、はんてん姿から、子供の頃の話であるがあらゆる恥ずかしい姿を見せている。それこそこの前のように頬にクリームをつけたような間抜けな顔もあさぎは見せてきた。
 今更飾ることはないのだが、やはり気になるのがこれも乙女心というものだ。

 机の電気スタンドだけをつけて、あさぎはタンスをひっくり返し始めた。今年夏物はまだほとんど買っていないが、アルバイトをしていないのでお小遣いからであり、贅沢は言えない。
 去年のもので今年も着れそうで、それで……。あああまず、パンツがいいのかスカートがいいのかという問題から始まって……。ごそごそと服を取り出しながら、あさぎはうぬぬと考える。

 Tシャツはこの白いのがあるとして、下着は――………って!!

 そこではたと、あさぎは気付いた。
 心にふと浮かんだ、妖しい仮定を。
 彼が「前科者」で、高校生同士で、二人きりで会って――。

 ……まさか、……ねえ?「そんなこと」、にはならないよねえ……??

「……ならないよ、ね……」
 そう呟く少女の目の前を、赤い金魚がふわふわと、からかうように通過していく……。

 その瞬間、あさぎは彼との具体的な「その行為」を思わず想像してしまい、急に全身が熱くなった。
 妙に恥ずかしくて叫びだしたくなり、とりあえずばたばたと一階に下りて麦茶を一気飲みしてがはがはと咽、母親に「何時だと思ってんの! 静かにしなさい!!」と怒鳴られながらまたどたどたと二階の自分の部屋に戻ってドアを閉め――、はーっと大きな息をついた。
 そして先ほどの恥ずかしい仮定をもう一度、考える。

 ――「そういうこと」も、あ、有り得るの!?

 しかしあさぎは首を振って、この突然の思いつきに動揺した心を、とりあえず落ち着かせる。風呂上りの湿った長い髪が首や頬にまとわりついた。
 まずそれ以前の問題で、清矢郎はあさぎのことを無視しており、彼女のことを嫌っているという可能性があるのだ。
 それに彼には、他に誰か好きな人がいるかもしれない。自分が「話したいことがある」と頼んだから、きっと仕方なく会ってくれるだけだろう。だから、そんなことをされる筈はない――あさぎはそう思うことにした。
 第一、彼氏でもない人とそんな関係になることはよくないことだと、あさぎは思う。何より、血の繋がりもあるのだし、そんな関係になってしまえば後が大変だということも分かっている。
 それこそ子供が出来るかもしれない行為であり、何より相手に身を預けたのに、一回限りで終わり――ということになっても、あさぎは耐えられない。

 未経験のことに興味はあっても、やはり実際に「それ」……自分がセックスをすること……を考えると、あさぎはまだ恐くて仕方がないのであった。
 それに清矢郎がなんであの日あんなことをあさぎにしたかは分からないが、基本的に真面目で、荒芝の言葉ではないが、一徹な男だ。間違ったことや不実なことはしないだろう、ともあさぎは思っていた。
 そこであさぎはもう一度はーっと大きく息をつき、自分の考えた恥ずかしい仮定をおいやった。

 そんなことになるわけないんだから、下着は普通のをつけていこう。スカートも……誘ってるみたいだから、やめておこう。あさぎは心の中でそうごにょごにょと言い訳のように呟くと、散らかっていた服をまたタンスに押し込んだ。
 金魚が二匹ダンスをしている。金魚の数はそれ以上、増えなかった。自分が理性を失わなかったことには、彼女は少しほっとしていた。

 しかし、そこで素朴な疑問が心に浮かぶ。
 ……そもそも自分は、彼と「したい」のだろうか?


 ――運命の日まで、あと二日。







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