幻影金魚(6/15)PDFで表示縦書き表示RDF


幻影金魚
作:takao



第6話 動き出す時


 しかし口を開いたものの、何から話せばいいのか分からなくなり、あさぎは再び俯いて黙ってしまった。折角、自分の方を見てくれたのに、これでは何にもならなくなってしまうと、焦りが浮かぶ。
 脳細胞をフル回転させても何を言えばよいのか分からない――と呼びかけたはいいものの、少女は困惑してしまっていた。

 金魚のこと……それを見せるようになった、あの夏の日のいやらしい思い出について話せばいいのか、いや、そんなことをこんな場所で話せるわけもない。第一、驚いたからこちらを見ただけで、清矢郎だってこのまま無視して行ってしまう可能性もある。
 そうなる前に何か話せねば――でも何も思いつかない!
 そう思いながら、あさぎが困った表情で、それでも何か言いたげに再び清矢郎を見上げると、彼と目がまた合った。どうやらあさぎをずっとを見ていたらしい。彼はばつが悪そうに、その視線を窓の外の夕闇に移した。

 その端正な横顔をあさぎは言葉もなく見上げる。
 広い肩幅と大きな手をぼんやりと眺めながら、――ああ、私はこの人で想像してやっちゃってたんだなあと思うと、あさぎは恥ずかしくなり、彼に対して申し訳なくて仕方なくなる。
 こんなこと知られれば、いくら彼が自分にいたずらしたことがきっかけであったとしても、きっと軽蔑されるであろう。あさぎは罪悪感にまた俯いた。
 しかし口を開いたのは、清矢郎の方であった。
「……なんか、言いてえこと、あんの?」
 突き放したような言い方であったが、言葉尻にはどこか腹を括ったような力強さもあった。

 あさぎは再び清矢郎を見上げた。彼はちらりと横目であさぎを見た。その僅かな視線を捕らえて、あさぎはこくんと頷く。
「でも……ここじゃ、言えない……」
 電車の音にかき消されそうであったが、彼にだけ届くように、あさぎは小さな声でそう言った。本当は何を話せばよいのか決まっていないのだが、公衆の面前では出来ない話であることは確かだった。

 しかしその時、電車が駅のホームに止まった。それはあさぎが乗り降りしている駅だった。
 ――え!?もう!?とあさぎは驚く。迷っていた時間や無言だった時間が結構長かったらしい。そしてそれに気付かないほど、切羽詰まっていたらしい。
 ――だけど、今じゃなきゃ――。
 ドアのところに立っていたあさぎが降りることも出来ず困ってしまうと、彼女を押しのけて幾人かの人々が降りていった。
 それに押されて、呆然としていたあさぎは少しよろけた。転びそうになったところ、その制服から伸びた二の腕を、清矢郎の手に掴まれた。

 その手の頑丈さと温かさを、不意にあさぎは意識させられた。
「降りないのかよ」
 清矢郎が耳元近くで呟いたその時、電車のドアが閉まって動き出した。

 少女がこの少年に触れられたのは、あの夏の日以来だった。いや、男性そのものに、久しぶりに触れられた。ただよろけたのを支えられただけのことだったが。
 だがそれは一瞬のことで、周囲に人がいなくなり、電車が動き出したところであさぎも体勢を整えられたので、自然と清矢郎の手は離れていった。
 あさぎがもう一度清矢郎を見上げると、彼は少し呆れたような、困ったような顔で彼女を見下ろしていた。
 あさぎ自身、何故こんな行動にいたったのか、分かっていない。何も言えないまま、何も「覚悟」出来ていないまま。

 清矢郎はまたしばらく何かを考えると、短いため息を吐いて、ドアの横の手摺に凭れた。
 そして携帯電話を取り出すとあさぎの方に向け、じろりと睨むように――これは子供の頃から目が細くて目つきが悪いだけだとあさぎは知っているが――、あさぎを見るとこう言った。
「アドレス」
「は?」
「……今度の、土日あたり、」
「はい?」
「ばーさんちと俺ん家、どっちがいい」
「あの……」
「――何か、話したいこと、あるんだろ?」
 どこか自棄くそのように不躾にあさぎにぶつけられた清矢郎の視線は、そうでありながらも静かでまっすぐな、それこそ竹のようないつものそれにも感じた。


 ・・・・・・・・・・

 あさぎは駅のホームで、下り電車を待っていた。
 結局、終点まで乗って折り返しの電車に乗ることにした。清矢郎は最後に彼女を少し心配そうに見たが、そのままホームで別れた。
 ――何かが、動き出してしまった。少女にはそんな予感がしていた。
 そうしたのは自分自身の意志であり、あさぎは決して後悔してはいないのだが、本当はどこかとても恐く感じている。

 あさぎが携帯電話で母親に遅くなると電話をしたら、少しちくりと言われてしまった。だが理由など正直に言えるわけがなかったのである。
 全てを赤裸々に親に話す必要はないものの、今日のことが母親に正直に言えなかった時点で、あさぎは自分の考えていることやしていることが「よくないこと」の部類に入ってしまうのだなと、どこかで自覚していた。
 それはあさぎが身内である彼を、そうとしてではなく、一個人の「男性」として見ているからに違いなかった。この秘密の感情と逢瀬を家族には知られてはならないと、内心ではそれを罪に思うからだった。

 しかしそうして罪悪感を抱いていても、彼女のしている行動はそれと真逆のものだった。
 赤外線で交換した、彼の携帯電話のメールアドレスと電話番号を、あさぎは意味もなく表示させてみる。
 それは近いようで遠い距離だった、彼と彼女をようやく繋いだ、個人的で大事なツール。
 こんな些細なことで、あさぎの顔はにやけそうになる。アドレスのアットマークより前を見て、どうしてそれにしたのかな、と想像しては彼に少し近づけた気がする自分を馬鹿みたいにも思う。

 本当に今度の土曜日だか日曜日だかに……二人きりで、会うのかな?……会ってもらえるのかな?と、あさぎはふと心配になった。
 ああ言ってくれはしたものの、あんなところでストーカーみたいに追いかけた自分を迷惑に思っての口約束だったかもしれない。会ってどうすればいいのかも分からない。確認のためにメールでも送ろうかとあさぎは思ったが、鬱陶しがられることを恐れて、出来なかった。
 そしてそのままただアドレスだけを眺めると、赤と黒の金魚と水草のシールが貼ってある水色の携帯電話を少女はぱちんと閉じた。

 ――これから、どうなってしまうんだろう。

 遂に動き出してしまったものの、あさぎは内心不安になりながら、自分にようやく目を向けてくれた清矢郎の視線と、一瞬頑丈な手で腕を掴まれ支えられたことを今一度思い返す。
 それを思うと「何か」が這い上がってくる反面、それに目を向けることに恐怖を感じる自分がいる。
 考えに収束がつかないまま、やってきた電車に少女は乗り、賑やかな都市の駅から一変して、家の近くの静かな駅へと帰り着いた。
 川沿いの堤防に生える、夏の草の匂いが鼻をくすぐる。

 そして四年目の夏がやってくる――。


 ・・・・・・・・・・

 それは四年前の、夏の出来事だった。

 ビルばかりの地帯よりは涼しいものの、あさぎの祖母の家も同じ県内にあるので「その日」も朝からとても暑く感じられた。お盆や正月などは、この家に必ず親戚の皆で集まっていた。
 とても恐くて厳しかったという祖父は、あさぎが生まれる前に亡くなってしまっていたから、会ったことはない。
 あさぎの母親には兄弟が四人いた。だから従兄姉もたくさんいるのだが、年が上で既に働いている年齢でもあったので、祖母の家にはほとんど来ない。来ても少女と一緒に遊んだりなどしない。実際あさぎの姉ですら彼女よりも十近く年上になるので、遊び相手というレベルではない。

 だから此処に来るとあさぎはいつも二つ年上の「せいちゃん」と遊んでおり、彼に懐いていた。唯一の「子供」同士であったからだ。
 「せいちゃん」――こと清矢郎もまた、唯一年下だったあさぎを可愛がっていたのだろう。蝉やカブトムシを取るのにも、プールに行くのにも女の子にも関わらず相手をして、それに付き合っていた。

 今でこそ髪を伸ばして大人しくしているが、昔のあさぎはおてんばなものだった。成長期が早かったので背も低くなく、髪の毛も短く、少年のようだった。
 そのおてんばが原因で中学生の時に男子と喧嘩をし、それがトラウマになり今では大人しくなったのだが……それはさておき、その頃は泣き虫だったがやんちゃで元気な女の子だった。その面影は今の所作にも十分残っているが。
 「せいちゃん」はあさぎよりも年上だったのもあり、あさぎのクラスの男子のように意地悪をしなかった。元々無口で、はしゃいだりもしない少年であるのもあり。
 あまり笑わないが、優しく根気よく面倒を見てくれる少年で、頭もよく夏休みの宿題もあさぎに教えてくれた。

 祖母の家は清矢郎の家に近かったので、彼は時に同級生と遊びに行くこともあったが、喧嘩をして帰ってきたこともあった。しかも相手を泣かしてしまい、相手の親までやってきて、最後には彼は彼の父親にぶん殴られるという凄まじい結末だった(勝つまで帰ってくるなと教えたのは、彼の父親なのだが)。
 その一連の流れを見ていたあさぎの方がびっくりして泣き出してしまったのだが、それでも泣かなずにぐっと堪える清矢郎は、力だけでなく心も強い子なんだろうな、とあさぎは泣きながらそれを見て思っていた。

 つまりそういった色々なことを総合して、彼はあさぎにとって一番の仲良しであり、「憧れの」お兄さんであったのだ。
 「お嫁さんになればいい」という母親たちの冗談も、少しくすぐったい気持ちで聞いていたほどだった。

 「子供」はあさぎと彼だけだったから、お風呂も寝るのも全部一緒だったが、そうは言っても男の子と女の子であることから、あさぎが小学校三年生になるくらいからそういうものは一緒にはしなくなった。
 それからも一緒に遊んではいたけれど、徐々に距離が置かれていくようになる。徐々に一緒に遊ばなくなり、それでも勉強くらいはたまに見てもらったけれど、あまり言葉も交わさなくなってきた。

 そして清矢郎の方が中学生になるくらいには、彼が部活をしていたこともあり完全に距離が置かれてしまった。あさぎにとってそれは、とてもつまらないことであった。
 男と女になるくらいなら、自転車に二人乗りして側溝に落ち、二人で泥だらけ血だらけになって、彼が泣いてしまったあさぎにハンカチで膝を巻いてくれたような、そんな過去の方が楽しかったと少女は思い出す。
 だが無常にも時は流れて、六年生になった春、あさぎに生理がきた。
 胸は少ししか膨らんでいないのに、もう子供が産めるとは、不思議なものであるとあさぎは首を傾げていた。どうやって子供が出来るのかも、習ったものの具体的によく分からないのに。

 だが頭が痛かったり、下腹部が痛いという現象は起きてしまう。その病気でもないのに病気のような感覚は、あさぎにとって不快なものであった。
 そういう日は母親だけでなく周りにも悟られるもので、家族や親戚に「そういう眼」で見られることが、まだ十二歳のあさぎには嫌なものであった。
 ――「女」として見られている。まだ私は子供なのに――相手にはそんなつもりはなくても、そんな風に感じ、子供心に自分自身に対する嫌悪感があった。

 自分は「女」なんかではなかったのに。その頃のあさぎは、嫌なのに未知の、別のイキモノのようにならねばならないような不安と不満を少しばかり抱えていた。
 注意されることも増え、楽しいことなど何もない。それに自分が女であるから、「せいちゃん」だって遊んでくれなくなったんだ、とあさぎがそのようにふてくされていた、そんな八月のある日――「その出来事」は起こった。

 「その日」は家に誰も居なかった。

 本当につまらない、とあさぎはむくれていた。
 生理が近づいてきており、朝から鈍い偏頭痛がしていたので、余計にいらいらしていた。
 彼女が眺めていたのは、去年のお祭りで清矢郎と掬った金魚であった。
 よくまだ生きてたな、よっぽどおばあちゃんが大事にしていてくれたんだな。そう思いながら、あさぎはそれを白々しいような気持ちで眺めていた。

 あの時は今よりもう少し、普通に彼と喋れていたような気がした――と少女は思い返していた。何よりも彼女自身が意識をせずに、彼に無邪気に接することが出来ていた気がするのだ。
 あれからあさぎの体に変化が起きた。そして清矢郎もまた身長が伸び、声が低くなって「子供」っぽくなくなってきていた。

 そんな「おっさん」のようになってしまった「せいちゃん」とは、今年はもう遊んだり祭りに行く気もしない。それなのに彼女たちの祖母は、二人で掬った金魚だから、今でも「せいちゃんとあさちゃんみたいに仲良しだね」と笑っている。
 あさぎはそう言って笑われるのが嫌いだった。そうやってからかわれることに、いつしか非常に抵抗を感じるようになっていた。
 ――なにも、知らないくせに、と。
 赤い金魚は、ひらひらと美しかった。その綺麗な姿こそが、少女を苛立たせていた。
 それは「子供」だった「自分」と「せいちゃん」の象徴のようであると感じていたから。

 その時あさぎは、部屋に誰かが入ってきたことに気がついた。
 顔を上げると、広い畳の部屋の後ろに、清矢郎が立っていた。
 家での彼はよく走りに行ったり素振りに行ったりするので、大き目のTシャツと中学校のジャージの姿だった。その彼が気がつけばあさぎのすぐ傍にきた。
 ――何しにきたんだろう?と、あさぎは少し不思議に思ったけれど、それまでだった。子供の彼女には何も予測出来なかった。

『どうしたの?』

 あさぎはそう、自分から言葉を掛けた。何も知らないふりをして、あえて無邪気に。
 だけど、その時の彼の空気は確かに違っていたのだった。どことなく本能的に、「何か」警鐘のようなものをあさぎに感じさせた。
 しかし清矢郎はあさぎの言葉に答えない。いつもと違うどこか濁ったような視線の少年に、あさぎは疑念と恐怖を、本当は微かに、確かに感じていた――。

 その嫌な予感を気のせいにしたいように、あさぎは咄嗟に金魚の話をした。まだ子供でいたい少女は、そんな変な空気を認めたくなかったから。
『去年の金魚、まだ、生きてたね』
 あさぎはそれを誤魔化すように、あえて笑ってそう言った。しかし自分の発した言葉自体がとても空々しく、既に「何か」が生じていることは確かなのに、それを焦って隠そうとしていることが、本当はとても嫌だと、気持ち悪く感じていた。

 清矢郎は今度は短く返事をした。しかしその後はまた沈黙が訪れた。
 あさぎにとっては、その沈黙が更に嫌でたまらなかった。彼の方を見ることも出来ず、ただ赤い金魚をじいっと穴が開くのではないかと思うほど凝視していた。
 早くこの気まずい時間が終わって欲しい――少女はそれだけを願っていた。実際、最近では中学生の彼と何を話していいのかも分からなかったから、何も会話が思いつかないのだ。

 どうやって、この嫌な空気から逃れよう――偏頭痛のうえ、まるで酸欠のように息苦しくなりながら、あさぎがどうにか楽しい話題を作ろうとした、その時、

 ――少女の微かな希望は、無残にも打ち砕かれた。

 横に立っていた少女よりも少し背の高い少年が、不意に彼女に触れたのだった。
 少女のその、「女」の部分に。

 両の手で、「何か」を確かめるように。
 膨らみと、無いことを。
 まるで何も見ていないような、濁った眼のままに。
 まるで何かに取り憑かれたように、無言で、無表情に。







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