第5話 出目金コンプレックス
ふわふわとたゆたう心が、あさぎには自分でも掴めないでいた。
――自分は「何」を探しているんだろう。少女は迷い、悩んでいる。
その姿を追いかけていた、自分自身でもおかしいと思うほどに。
『会いたい』
彼のその視線をこちらに向けたい。そう、渇望している。
この執着は、一体自分の何処から生まれてくるのか。我に返り、少女は恐怖を感じる。
学校で友達と笑い合い、家で両親に叱られたり優しくされたり、という「普通」の女子高校生らしい幸せな日常を送っているのに。それなのに、心の中ではなんて罪深いことを考えているのだろう――と、あさぎは密かに落ち込んでいた。
しかし七月に入って、二人のこの変な関係に少し変化が起きた。清矢郎が週に三回くらい、あの電車に乗るようになったのだ。しかもあさぎと同じ方向のものに。
それは少し嬉しかったものの、どうしてなのか謎であったが、
「ああ。予備校でしょ?」
とその日たまたま一緒に帰った同級生が、あさぎが視線を送っていた清矢郎を含む北高の生徒の一団に気付き、解説してくれた。
言われてみればこの電車も終点まで行けば中核都市になり、そこにはそうしたものも何校かある。清矢郎も受験生なので、それにはあさぎも納得した。
この時間の電車は十両編成である。あさぎもいつも同じ車両に乗るわけではなく、友達に流されるままに適当な場所から乗っている。それは清矢郎も同じようで、だから一緒の車両になったり別の車両になったりするのだ。
しかし階段からホームに下りて来る時など、彼に遭遇できる率は確実に上がっていた。
頻度が増えた分、あさぎはもう癖になったように、きょろきょろとその姿を探してしまう。
これじゃ本当に、電車の君に憧れるナントカだよ……と内心ため息をつきながら。
清矢郎と同じ高校の生徒も大勢通っているのか、あさぎが見ていると、彼は男の子の友達二、三人といることが多い。ふとそちらを見ると無表情の彼だが、時々笑みを浮かべる。
自分には見せない笑顔に、一体何を話しているんだろうと気になり、あさぎの胸はちりりと焦げたような感じがした。
そして稀に、清矢郎は女の子と一緒の時もあった。二人きりではなく、友達の男の子も一緒なのだが。相手の女子生徒は三年生だから、中学を卒業して四ヶ月目のあさぎと比べて、とても女らしく見えた。そして彼はその人の前でも、たまに笑っていた。
そんな光景を見ると、あさぎはまるで子供のように拗ねた気分になる。
――いいなあ。私にも、あんな風に笑って欲しいなあ。
つまらないつまらないつまらない。
前よりも近い距離に居るのに、見たくないものまで見えてしまって、あさぎは余計につまらない気がしていた。今日も眼が合わないまま、いじけた気分で少女は電車を降りる。
明るい電車の中から、逢魔ヶ時の藍色の世界に足を踏み出せば、電車はそのまま夕暮れの中を滑り出していった。あさぎは自分ひとりだけ、取り残された気分になる。
夏の水草の匂いがする川沿いの道を、ひとりで歩きながらあさぎは考える。
でももしも、清矢郎に既に彼女とか――好きな人が居たら、自分はどうするんだろう……と。
確かにそうだったら、あんな秘密を共有する自分なんかとは目も合わせたくない、忘れたいと思うのではないか?そうなったら、この気持ちはどうすればいいんだろうか。
「それ」を仮定した時に――、あさぎに見えた金魚は赤くなかった。
闇と同じ、出目金のような真っ黒い色だった。
――嫌だ!いやだいやだいやだ!!
また子供のようなわがままを心で叫ぶと、泣きそうな顔をしてあさぎは首を振る。
そんなのは、嫌だ。あの人がその人のことを見て、その人には笑顔を向けて、その人のことばかり考えて、その人のことを大事にする――そんなのは、嫌だ!
その仮定にあさぎは心の中で、必死で抗う。
しかし清矢郎とて、十八歳の男性なのだ。きっとそんな相手が居れば、あの夏の日の続きを……その人と、するであろうことは、ほぼ必定であろう。
あさぎはそんな嫌な想像をすると、セーラー服の胸元をぎゅっと握り締めた。
裸の彼に愛される裸の女を、想像しただけで胸が肺の病気のように、痛くなってくる。ぎゅうっと強く締め付けられるように、息苦しくなる。
口も利けないのに、求められない相手なのに、血も繋がっているのに、どうしてこんな想いをしなくてはならないのだ、とあさぎは泣きたい気持ちになる。
いっそ、あの夏の日にあんなことをしたあの相手が憎く、もう清矢郎のことなど忘れてしまいたかった。
その存在を、過去ごと消してしまいたかった。
その晩、あさぎはノートに文章を書いた。一応、部誌の今月分の締め切りが近いからだ。
かねてからのように金魚のことを書こうとしたが、今夜は黒くて恐い金魚しか見えてこない。少女は頭の中も真っ黒で何も見えない状態であったので、何度も何度もノートをぐちゃぐちゃと鉛筆で塗りつぶした。
結局少しだけ書いた下書きは、タイムマシンを使って過去に戻って自分の生まれたことから無しにしてしまうような内容の、やけに悲観的で厭世的な文章となってしまった。
・・・・・・・・・・
それから少し経ち、部活で今月分の部誌を印刷することになった。印刷機を使って製本という意外と地道な作業であるが、これを活動として毎月行っている。
ちなみに文化祭で発行する部誌はまた別だ。これは一年に一度、ちゃんと印刷屋に発注してきちんとした装丁の本にして、文化祭で販売している。文化祭は九月にあるので、こちらの締め切りも迫っていた。
あさぎは今月分の部誌の原稿として、結局そのタイムマシンの未消化な文章を出すには出したが、皆の文章を読み、出さなければよかったとやはり後悔した。何も出さないのも、部活に参加していないようなので、無理やり提出したものの。
いつものようにお喋りをしながらだらだらと進む製本作業の合間に、部員たちは刷り上った他人の原稿を楽しそうに読んでいる。
一見派手で文章を書くようには見えない夕映でも、あさぎからすれば立派な文章を書くのであった。秘訣は本を読むことだと言われた。彼女はきっと恋もセックスも本もアルバイトもみんな同列にして、楽しんでやっているのだろう。
あさぎはそれを羨ましく思っていた。もちろん彼女なりの苦労や努力もあってのことだが。
自分には何が出来るんだろう。自分は一体「何」なんだろう――その迷いに「彼」が自分を認めてくれないということが合わさって、あさぎは不安定な状態になっていた。
思春期特有の、「自分」という存在が分からない不安と劣等感に、消えてしまいそうな気分になる。
そんなことを考えていたら、楽しそうなみんなの顔を見ていられなくなり、美人部長を先頭に各教室へ部誌を配りに行くと言っていたが、あさぎはあえて印刷室の鍵と製本テープなどを片付ける作業を選んで、ひとりで歩き出した。
荷物を置きに国語準備室に戻ると、今日も荒芝が暇そうに座っていた。彼は一体いつ仕事をしているのか分からないが、また競馬新聞を広げていた。
「終わりましたー」
「おーご苦労」
読むかどうかは分からないが、一応一冊彼に提出するのも決まりごとである。
「なんかいーの、書けたか?」
荒芝は部誌が机の上に置かれた音に反応して、新聞から僅かに目線を上げてあさぎを見た。適当に言ったひとことであると思っていたが、彼はどうやら覚えていたらしい。
「ダメダメでした」
あさぎは大きくため息をついた。
「そっか。スッキリしなんだか」
荒芝は再び新聞に目を落とした。一ヶ月前くらいの会話を思い出し、あさぎは赤くなって頬に手を当てる。
「……そんな、顔に出てますか?」
荒芝は何も言わずに鼻で笑った。
……出ているんだ、とあさぎは恥ずかしくなった。この欲求不満と劣等感が。
それはしっかりと自分を持っている夕映から見れば、こんな顔をしていれば突っ込まれる筈である。清矢郎には……遠目だし自分なんか見ていないだろうし、こんな自分の醜くぎすぎすした顔は見られていないだろうか。
そんなことを考えていたら、あさぎは益々落ち込んできた。
いじけたように口を少し尖らせ、セミロングの黒髪の先をくるくると巻いた。ストレートの髪はすぐに指からすり抜けた。
そして、大きなため息とともに、あさぎは唐突に呟いた。
「――私、幻覚が見えるんです」
「はあ?」
荒芝は素っ頓狂な声を上げた。あさぎは何処に向かって吐き出したらよいか分からない感情に揺らぐ双眸で、彼を真っ直ぐに見た。
「昔のちょっとしたことがきっかけで、ある感情になると見えちゃうみたいな……」
「……」
荒芝は小さい目を丸くしてあさぎを見ていた。
「ほんと、高校生にもなって子供みたい。……夕映とかはあんなに大人っぽいのに」
あさぎはわざと自嘲的に笑った。荒芝は突然そんなことを言い出した女子生徒に何を言えばよいのかと、しばし悩んでいたようだったが、
「カウンセリング、紹介するか……?」
至極普通に心配されてしまって、あさぎはまた苦笑した。
「大丈夫です、たぶん。いつもすぐに消えるし、原因は……、分かってるし」
原因は、あの、眼鏡の少年だ、とあさぎはとうに自覚している。
きっと彼が自分を満たしてくれた時に、この呪縛のような幻影から解放されるのだろう……あさぎはそんな気がしていた。そんな日がくるか分からないという不安に、今は押しつぶされそうなのだが。
前からちょっと変わった子だなとは思っていたが、生徒にこんなことを告白されて、対応に少々困ってしまった荒芝だが、やがて競馬新聞を机に置くと頬杖をついてぽつりと言った。
「……きっと、お前さんは感受性が強いんだろーな」
「?」
あさぎは首を傾げた。逆にそれだったらいい文章が書けたりするのではないだろうか?
荒芝もあさぎの言いたい事に気付いたようだった。
「あ、それと表現する能力ってのはまた別だから」
きっと夕映とか部長には、「それ」があるんだろうな、とあさぎはまた比較してしまった。
「でもそれは、お前さんなりのモンだから、大事にしな。……親に大事にされて、愛されてる子は見てりゃ分かる。だから、お前さんは大丈夫だ。子供っぽいとかなんとか色々考えてたって、ちゃんと年相応に大人になってけるって。そのうち、嫌でも年とるんだから」
「……」
あさぎはまじまじと荒芝を見た。彼はいつもどおりのやる気のない、薄笑いを浮かべてはいたが、その自分を見ていた目から嘘でない言葉であることは伝わってきた。
それは、「今のままのぐちゃぐちゃの自分」でもいいということだろうか、と少女は首を傾げる。――それでも、大丈夫ということなのだろうか?と、自分の胸に問いかける。
荒芝は言いたいことだけ言うと、また競馬新聞を読み始めた。このやんちゃな子供のような大人の言いたいことはあさぎにはよく分からないけれど、「自分」を見てくれて、今の自分へと嘘のない言葉をくれたことだけは分かった。
・・・・・・・・・・
今日も夕映はアルバイト先に直行していった。あさぎは他の文芸部員たちと駅まで一緒に帰って来たが、バス通学だったり自転車通学だったりと、それぞれに帰っていった。
ひとりで夏の夕暮れのホームに下りたあさぎは、先ほど荒芝に言われたことをぼんやりと考えていた。
ぐちゃぐちゃした劣等感に苦しんでいたが、それも全部含めて「自分」を「自分」と受け止めてみたら、少しは見えてくるものもあるだろうか。
この苦しさから、逃れられることもあるだろうか……?
そう思ったら、あさぎは無性に「彼」に会いたくなった。
駄目でもいい、拒絶されてもいい――今なら――。その強い願いが彼を引き寄せたのだろうか、それともそれは偶然であり、運命であったのだろうか。
あさぎがそう思って顔を上げた時、清矢郎がホームに向かって階段を降りてきた。
しかも、ひとりで。
あさぎの胸がどきんと高鳴った。
――今しかない!
そう思った。
実際彼に好きな人でも居れば、そしてあの夏の日のことも返答によっては、あさぎの心はボロボロに壊されてしまうだろう。彼女にとって、それはとても恐いことであった。
だが頻繁に会えるようになったからこそ、会えるのに無視されるというこの状況の積み重ねが、どうしようもなく苦しくなってきていたのだった。この黒いココロのままでいるのも、あさぎにはもう限界が来ていた。
だったらいっそ、壊された方がいい。そんな風にあさぎは思っていた。
全てが壊れてゼロになって、あの夏の日よりも前にリセットされれば、そこからもう一度やり直せるかもしれない。その方が自分が楽になれるかもしれない。だったら、それに賭けたい――、と。
四年間、あさぎの中で我慢してきた恐さや不安が、今にも破裂しそうな程になってきている。まだ答えは出ていないが、もう、こんな風に醜い想いに苦しんでいる自分は嫌だと思った。自分をこれ以上嫌いになりたくなかった。
そうならないためには、自分をまるごと受け入れるしかないとあさぎは思ったのだ。彼女が羨ましがる友人の夕映たちのように。
受け入れた結果――、気持ちの正体は分からずとも、やはり少女には「彼」のことしか残らなかった。
それが今のこの汚い「自分」の根源となっていることだけは分かった。
「それ」が気になるからこそ、こんな風に狂ってしまったのだ。
この膿を吐き出したければ、もう、真っ向勝負でぶつかるしかないのである。
自分もひとり、相手もひとり。もうこれは、千載一遇のチャンスではないか!
あさぎはそう決意してこっそり拳を握り、うん、と頷いた。
夕方六時の電車は通勤客も乗るので混雑している。あさぎは清矢郎を見失わないように、自分の後ろを通っていった彼をこっそり追いかける。
すぐにホームに電車がやってきた。あさぎは再び気合を入れると、彼と同じ車両に乗った。
この田舎では夕方でもすし詰めになることはない。人は多いが、隙間はあるし彼の姿は背が高いこともあって確認できた。
あさぎの家の最寄の駅に着くまで二十分しかない。この間に、清矢郎が誰か友達に会うかもしれない。
自分を認めて動き出すことは、恐かった。それでも、もう今しかないかもしれないとあさぎは覚悟を決めた。
そんな少女を、赤い金魚が彼の方へと導いている。だからどんな人混みでも、迷うことはない。その金魚が泳ぐ方へと、揺れる電車の中を歩けばいいだけだった。ちょっとふらついて人にぶつかってしまったものの。
――この金魚も「私」なのだ。だから恐いけど恐くない。
あさぎは自分でもよく分からないことを考えながら、遂に自らの意志でドアの近くに立っていた少年の前に立った。
流石に驚いたように清矢郎はあさぎを見下ろした。
そして、二人の目と目が久しぶりに結ばれた。
あさぎの足が震えそうになる。
――金魚が飛ぶよ。恐いよ。
だけど、もう、逸らせない。引き返せない。
引き返さない。
「あの……さ、」
あさぎは遂に口を開いた。
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