第4話 竹と金魚
「悪いな」
「いえいえ」
国語準備室にて。荒芝に呼ばれたあさぎは新しく届いた国語便覧に訂正版のシール貼りをするといった作業をしていた。
別に部活といっても大したことはしていないし、あさぎはこういう単純作業は嫌いではない。何より、どう答えていいのか分からなかったあの話が途切れたことには、ほっとしていたのだった。
最初は夕映と三人で作業をしていて、彼女がぺらぺらとお喋りをしていたのだが、四分の一ほど終わったところで彼氏から電話が来たと言い、彼女は外へ出て行ってしまった。
そもそも暇だったので、別にこうして取り残されてもなんとも思わないものだ。寧ろあさぎとしては、こういうちまちました作業はやっているうちに段々楽しくなってきてしまう性分なのである。
それに、ちょうど荒芝と二人になったところで、ふと聞いてみたいことがあさぎの胸にはあった。
――聞こうかな、やめようかな。
そう思いながら、あさぎはブラックの缶コーヒーを自分だけ飲んでいる荒芝をちらりと見た。口がうずうずするがどうにも言い出せない。
その視線に気付いた荒芝は、机の引き出しを開けるといちごみるくの飴玉をひとつ取り出し、「駄賃」とあさぎに放った。あさぎはお礼を言うとそれを受け止め、包みを破って甘い飴を口の中に放り込んだ。そしてそれをきっかけに、思い切って口を開いた。
「あの、この前の……せい……加納、先輩って……」
荒芝は、「ん?」と言うようにあさぎに顔を向けた。恥ずかしそうに、もごもご呟く女子生徒を彼は一瞬目を細めて見ると、この前のおかしな様子と合わせ、何かが分かるような気がしてきた。
「あー。おととし部活見てたからなー。俺は何もしとらんけど、強かったから覚えてた。あと教科も見てたし。……今のお前さんと一緒だな」
荒芝はあえてあさぎから目を逸らして、そう話を拾った。
あさぎはほっとしたように身体の力を抜く。過去の秘密や自分でも分からない感情の説明が出来なくて困ってしまうので、恋愛事に関心を示す友達よりも、自分に関心のない相手の方が正直、話しやすいからだ。
しかもこの男がむやみに価値観を人に押し付けてこないことは、あさぎにもなんとなく分かっていた。
それにしても、「彼」を苗字で呼んだのは初めてなので何故か緊張した。そう呼ぶと「生身の男の人」のような実感が湧き、妙に胸が高鳴る。
「……どーゆー人、だったんですか?」
緊張が少し解けたあさぎは飴を舐めながら、シールを貼る手を再開し、やや無理があったが何でもないようなふりをして尋ねてみた。「外」での彼を自分は知らないから、と少し興味が出てきたのだ。
「んー……、サムライ? みてえなヤツ?」
荒芝は腕組みをしてしばらく考えた後にそう言い、その言葉にあさぎは「はい?」と突っ込みたくなった。
「いや袴穿いてるイメージあるからなんだろうけどさ、古風というか頑固というか、一徹っつーか……そんな感じ。でも人には信用されてたし、中々いー男だぞ。実力もあったし」
「……」
なるほど、とあさぎは思わず納得して頷きそうになった。子供の頃の彼しか知らないが、あのまま成長すればそういう感じになるかもしれない、と思ったからだ。
でもそれは、とても彼らしいなとも思った。
――なんだか彼には竹が似合う。あさぎはそう思っていた。
それは多分、それこそ袴を穿いて竹刀を振るところを見たことがあったからだと思うのだが、それだけではない。いつでも背筋が伸びていて、心も簡単には折れない、静かだけど強靭に撥ね上がる、そんな精神的なイメージも彼には抱いていた。
子供の頃、夏休みに親戚と一緒に祖母の家に泊まった時のこと、清矢郎は厳しい父親に、勉強や剣道の成績のことなどでよく怒鳴られていて、時にはぶっ飛ばされていた。一人っ子だった彼は、その厳しさを一身に受け。
あさぎの父親が対照的に優しくおっとりしていたのもあり、子供心にそんな光景を見てはあさぎの方が半泣きになってびくびくしていたが、彼の母親や死んだ祖母が優しかったのには彼も救われていただろうとあさぎは思っているし、実際、彼が庇われるところを見てはほっとしたものだ。
だが彼が泣いたところを、あさぎは見たことがなかった。これも父親に言われて泣かなくなったらしいが、彼は何を言われても口を横一文字に引いて、黙っていた。
心配して後からこっそり自分の分のお菓子を持って行くと、大丈夫だと彼は少し笑った。それを見て更に安心した。
――そんな、子供の頃の夏の日を少女は思い出す。
そうか、あの時の男の子はあれから、そんな風にしっかりと成長していったんだなと、あさぎは荒芝の言葉に、どうしてか嬉しい気持ちになる。最近よく思い描くようになった、あの青年に近くなってきた少年の残像が、段々と実体を持って彼女の中で大きく色づいてくる。
そんな立派な彼は、ちっぽけで弱くて口をぱくぱくしている金魚のような自分とは全然違う――とあさぎには思えた。
そのように嬉しいような自分と比べて悔しいような、不可解な気持ちに陥っていると、意味ありげに笑っている荒芝の眼と彼女の眼が合った。
「――」
そこであさぎは、はた、と気がついた。やばい?誤解されてる??と途端に焦り出す。
「いやいやいや、ただの従兄ですから」
あさぎは慌ててそう言うと、いつの間にか緩やかになっていた作業の手を慌てて速めた。
「ふ、うぅーーーん」
荒芝はわざとらしく語尾を延ばしてそう言った。
言いながらあさぎはまたふと気付き、心の中で突っ込みを入れてしまう。
――従兄なら尚更、何わざわざ聞いてんの、と。
「………」
そんな少女の目の前に、金魚がふわりと現れる――。
いやいやいやいや!
違う違う違う違う!
それ困る困る困る!
あさぎは心の中で必死に否定する。
「それ」はよくない。「それ」はすごく困る。変に血が繋がっているから後が大変そうだ。たとえ「彼」で想像して、いやらしい秘め事をしていたとしても、だ。
――って、それこそ従兄相手に何やってんだよ、私!そんなの、ただの変態じゃないか!!
と、あさぎはパニックに陥り、ひとりで右往左往し始めた。
荒芝は既に興味を失ったのか、これ以上突っ込むのは可哀想だと思ったのか、あさぎから視線を逸らし、かといって修正作業も飽きたらしくインターネットで遊び始める。
「すみませーん! もう終わった!?」
そこへ天の助けか、夕映が戻ってきた。
「ごめんねー……って、あさぎ!?」
珍しくあさぎの方から夕映にひーんと泣きつくように抱きついてくるので、夕映はきょとんとして、はっきりとした目を更に大きく見開く。
「どしたの!? 荒芝先生になんかされた!?」
「してねえよ。……たぶん」
荒芝は頬杖をついてパソコンの画面を見たまま、鼻で笑って呟いた。
「ちょっとー大丈夫なのー!?」と夕映は騒ぎ、お喋りのネタが尽きた部員たちも、なになに?とこちらを覗き始める。
しかしこの状況を説明しようにも、恥ずかしいやら自分の気持ち自体がよく分からないやらで、あさぎはどうしようも出来ず、ますますぎゅうっと夕映に抱きついた。
・・・・・・・・・・
その日あさぎは夕映と一緒に帰った。
先程の誤解は解けたものの、清矢郎のことについては、あさぎはまだ仲のよい彼女にも話すことが出来ないでいた。
女の子は色恋の話が好きである。自分のことも話したいし、人のことも聞きたがる。あさぎは「今度ちゃんと話すから」と夕映に約束した。浮いた話を彼女にまだ聞かせていないので、逆に興味を持たれたり、突っ込まれたりしてしまうのだ。
それでも駅に着く頃には、話題がテレビ番組のことに移り、あさぎは内心ほっとしていた。しかしそれに反比例して、その心は騒ぎ始める。
――今日も居ないかな?とこうして、明らかに「期待」をしているのだ。そして、
――あ……、いた。
と、その期待が叶った瞬間、馬鹿みたいにあさぎの胸には幸せが広がり、甘いもので満たされていく。
大都会でもなければ県庁所在地でもないこの駅では、大きな駅でもそれほど人がいないので、こうやって見渡すことが出来る。あさぎの視線の先には、背の高い少年が、丁度改札を通っていったところだった。
その後ろ姿にこちらを振り向かないかと、あさぎは願う。
――こっちを見て!振り向いて!と、夕映と言葉を交わしながらも彼女の視線は彼ばかりを追っていた。
一瞬、彼が振り向いたような気がした――けれどそれは、あさぎの気のせいかもしれない。結局、清矢郎の姿はまた人混みに消えていった。
あさぎは夕映に気付かれないように、小さくため息をついた。
親戚だから会える手段はないわけでもないが、だからこそ互いの両親の目をとても気にするものであった。近所に住んでいるわけでもないし、機会を作らないと会えない。
あさぎとしては自分でもこの気持ちがよく分からないのに、そこまで無茶をしたいとは思えなかった。
ただあさぎは彼が、あの夏の日のことを無かったことにしているような態度が許せなかっただけなのだ。
己を見ず、言葉を交わさず、「あさぎ」として認めてもらえないことを、恨みがましく思っていた。
しかしその気持ちを解消するためには、会わないと何も始まらない。この苛々に踏ん切りがつかず、いつまでも悶々としていなくてはいけないのだ。
となると、家族をとおして会えるのを待ってなどいられない。
よって唯一奇跡が起こり得るこの駅で、あさぎはそのチャンスを待ってしまうのだ。
そうするようになったのはこの前、ここで言葉を交わす偶然があったからだ。だからもう一度起こらないかと、少女は欲深くも期待してしまう。
気がつけばあさぎはたったひとりの人物のことばかりを、愚かなまでに考えていた――。
「ほんと、あさぎ、最近、変」
夕映がそのまま駅のホームを歩きながら携帯電話をいじりつつ、唐突にそう言った。
「そ、そうかな?」
「うん。でもまあいいや、また聞かせてね」
「……うん……」
何を話していいのか、今はまだ自分でも分からないのだが、この気持ちがすっきりする日はくるのだろうか……。そう思いながら、あさぎは曖昧に返事をした。
・・・・・・・・・・
しかしそれから、毎日ではないが週に一回、多くて二回。向こうもこの時間に帰るようになったのか、清矢郎とあさぎの電車の時間が一緒になるようになった。
しかしそれは遠目に見るだけ、探すだけの逢瀬だった。言葉も視線も一切交わさないままに。
清矢郎があさぎに気付いているのかも分からない。
だが気がつけば、用事のない日でも出来るだけこの時間に電車を合わせようとしている不自然な自分にあさぎは気がついた。
――こんな馬鹿なことやめてしまえばいいのに、会ったって目も合わないし、苛々するだけだ。
あさぎ自身、そう思っていた。だからこんなことやめようとするのに、いざその電車に乗らなければ、今度は心がはやって落ち着かなくなる。そしていつの間にかこうして探している。
これでは彼の追っかけである。しかも、口も利けない名前も知らない電車の君に憧れるような……。従兄に対して何をやってるんだ、とあさぎはほとほと情けなくなる。
だが、会えるとそれだけで嬉しくなってしまうのだ。それなのに彼はちっともこちらを見ない。
金魚は飛んでいることが尚更、それが自分だけの欲求だよと、あざ笑われているようで、それがちらつくことに、あさぎは益々焦りを感じる。
自分は何のためにこうしているのか分からない――だけどこうせずにはいられない。自分でもよく分からない心境に少女は陥っていた。
「いっつも誰か探してるね」
また何日か後の帰りの電車の中で、あさぎは夕映にそう指摘された。視線は彼を探しつつも、ちゃんと会話はしているつもりだったが、どこか上の空であることがばれていたらしい。
あさぎの様子がこの前からおかしいことと合わせて、夕映は鋭く「何か」に気付いているのだろう。
あさぎがまた困ってしまい口ごもって俯くのを見ると、夕映は笑った。
「いや無理に言えっていうんじゃなくて、私でよければ相談にのるよ?」
茶色くふわりとした長い髪、顔立ちもあさぎより大人びていて話によれば既に……セックスの経験もしていて、かつ優しく気を遣ってくれる。
同じ高校一年生でも、夕映は自分とは全然違う、とあさぎは思っていた。そんな子供っぽい自分を恥じながら少女はこくんと頷いた。
夕映は十分ほど行った駅で降りるので、あさぎはそのあと更に十分ほどひとりで電車に乗っている。
黒とオレンジが混ざり合った夏の始まりの夕闇を見つめながら、少女は自分でもよく分からない気持ちを持て余す。
あの夏の日の出来事から四年の時が経っていた。大人に近くなる今、少女は自分でも自分の心と身体のバランスを掴みかねていた。
そう思うとこれはただ単にこの成長途中の不安と欲求不満に、「彼」を巻き込んでいるだけかもしれなかった。
しかしそもそも彼が「あんなこと」をしなければ、彼をこんな対象にすることはなかったのだ――。
周りや彼に認めてもらえない欲求不満を抑えるために、あさぎはひとりで己を慰めてしまっている。
あさぎにはセックスの経験はない。相手もいない。性的な体験は、あの日少し触られたことだけ。だから「それ」をする時は、あの日のことばかり思い出して、乱れて達してしまうのだろうと思っていた。
そしてあの日の相手であったあの男の子よりも、自分がもう年上になってしまった。だから今切ないくらい追いかけている幻が、あの広い背中の持ち主になってしまっているのだろうとも。
あさぎにしてみれば、こんな汚い気持ちを身内に抱いているなど、たとえ友達でも知られたくないのだ。たったひとりで抱えなければならないこの悩みに、あさぎはまた切ないようなため息をつく。
この名前のついていない、やるせない気持ちは、認めるのは恐いが、「恋心」だと言ってしまうのが、本当は一番早い。
しかしただの「好きな人」だったら友達に話してすっきりすればいい。本人に告白して玉砕してすっきりすればいい。それで済むのである。
――だがあさぎには、この気持ちはそれくらいでは解決しないような気がどこかしていた。
緋色の金魚が、燃えるような赤い色で今も少女の心の奥を泳いでいる。
この気持ちの先を考えることが、あさぎは恐くなってくる。
その先に何か底の見えない、深くて暗い恐いものを感じるのだ。それは想像の中の甘い「恋」とは違い、もっと痛くてもっと苦しい、けれど煉獄にも似た……子供の自分には不確かで、いまだ認識したことがない、モノを。
しかし考えるだけでぞくりとするような恐ろしい感情であるにも関わらず、あさぎには「それ」以外の答えでは有り得ないような予感も同時にしていたのだった。
あさぎはもう一度、最後に言葉を交わしたあの二週間前のことを、胸の中に虚しく思い返しながら、電車のガラス越しに遠い雲を見ていた。
窓の外で泳ぐ金魚がいつもよりも息苦しそうに見えた。
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