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幻影金魚
作:takao



第3話 たゆたうココロ


 あさぎと荒芝の前に立つ……清矢郎。
 短く言葉を交わす二人を、ひとり気まずくなっているあさぎはちらりと見る。
 この時、この場を去っていればよかった、と少女は後から後悔するのが、しかし今は、どうしてか足が動かなかった。

 当たり前だが、あさぎが知っているのは「家」での清矢郎だけだ。しかも昔の姿しか知らない。
 目の前に居るのは、「北高の三年生の先輩」である彼だった。その相手から紡がれる言葉をどこか新鮮に感じながら、あさぎはただ立ち尽くしていた。
 しかしやがて、そんな呑気なことも言っていられなくなる。
 やはり彼は明らかにあさぎを無視している。こんな目の前にいるのに、決してこちらを見ないのが気に入らない。
 ――四頭身……じゃなかった四親等?なのに……!
 笑わなくとも赤の他人には関心を向け、血の繋がりのある自分を無視するとは、あんなことしておいて!と、再び怒りがふつふつと沸いてきたあさぎは、思わず睨みつけるように恨みがましい視線を清矢郎に送っていたが、その不穏なオーラに荒芝の方が先に気付いた。

 彼は自分の視線に気付かない少女をちらりと見下ろし、そして彼女が視線を送っている元教え子の方に視線を戻した。
 荒芝は咥えていた煙草を携帯灰皿でかき消しながら、ふむ、と言うように頷くと、
「じゃ、俺、電車の時間だから」
と清矢郎に片手を上げ、突如として二人の前から立ち去ってしまった。

 ――え!? ちょっとっ!!

 清矢郎に集中する余り、荒芝の視線には気付かなかったあさぎは、彼の突然の行動に驚き、声を出す間もなく清矢郎と二人でその場に取り残されてしまった。

「………」
 気まずい空気が二人の間に流れる。

 誰か他の人がいて無視されている時は、腹が立って彼を見てしまうものの、二人きりになればそういうわけにもいかない。
 あさぎは俯いて靴の先と、駅の汚れた茶色いタイルを見つめていた。
 さっき先生と話してた時に、行っちゃえばよかった、とあさぎは後悔した。だけどあの時は、どうしても足が動かなかったのだった。
 自分に一度でいい、視線を向けてもらうまでは――、と躍起になっていた。

 俯いているのであさぎには清矢郎が、今何処を見ているのか分からない。
 こちらを見て欲しかった筈なのに、気まずい今は早く何処かへ行って欲しいという矛盾した気持ちを感じていた。だけど自分が動く気にはならなかった。何かを待っているように、佇んでいた。
 あさぎは携帯電話を空々しく取り出して、時間を確認する。あと二十分もあった。

 二人が無言で向き合っていたのはほんの短い時間であったが、やがて神経を尖らせていたあさぎの耳に、相手が小さくため息をついたような音が聞こえた。
 このまま、帰っちゃうかな?そうだよな……。そう思った瞬間、自分でもよく分からない切なさがこみ上げて、あさぎは思わず相手を見上げてしまった。その時、
「……仲いいのか?」
「え?」
「荒芝さんと」
見上げたその先の視線はあさぎを見ておらず、駅の時計を見ているような遠い眼をしていたが、しばらく間を置いてから今の質問が自分に関心を置いたものであることに、彼女はようやく気が付いた。

「いいいやいやいや、全然! ただの部活の顧問の先生だしっ」
 あさぎは妙にうろたえながら、肩を越す黒髪を乱し、ぶんぶんと音がしそうなほど首を振るとそれを完全否定した。
「ふーん……何部?」
「へ? ぶ、文芸部……」
 な、なんだ急に?会話になってる?会話になってる!とあさぎは内心パニックになりながら、落ち着いた声の少年にひっくり返った声で答えていた。

 だが体育会系剣道部の彼に、一歩間違えればオタク集団と勘違いされる文芸部の名前を言うのは少し恥ずかしかったが、清矢郎はそこは気にしていないようにまた「ふーん」と呟き、「俺も顧問やってもらってたから」と付け足した。
「剣道部の?」
 あのやる気のないオッサンからは想像がつかないが、あさぎの問いに清矢郎は相変わらず遠くを見たまま頷いた。
 そしてあんなオヤジに彼との共通点を見い出すとは思わなかったあさぎは、不思議な感じがしていた。そう思ってぼーっと清矢郎を見上げていたのだが、
「あの人も悪い人じゃねーけど……気をつけろよ」
「はい??」
続けて吐き出された彼の言葉に、あさぎは更にひっくり返ったような大声で聞き返してしまった。清矢郎の口から意外なことを言われたからであった。
 だがまあ、あの軽そうな男のこと、北高でもそういう噂があったのかもしれないな、とあさぎも納得しないでもなかった。だが……。

「だい、じょうぶだよ……年も離れてるし、私なんかにそんなこと考えると思えないし――」
 あの教師が本当にそういうことをするのか、噂の真相は分からないが、少なくとももしも誘われたとしても、あさぎにはそのつもりはなかったし、これは女の勘、というのだろうか、彼は自分のことを「そういう眼」では見ていないだろうとあさぎは思っていた。
 それは彼女が大人っぽくも美人でもなければ、胸が大きいとか色っぽいわけでもないと自覚しているのもあるが、二人きりになっても金魚が飛ぶような空気になったことがない――というのが、あさぎがそう断言できる一番の理由だった。
 そう思っていた少女の耳に、清矢郎のどこか苦々しそうな声が耳に入った。

「まあ、分からんけどな……男なん…」
 そこまで言って、彼は思わず口を噤み、思わずその口を大きな手で覆った。

「………」
 ――「失言」、という言葉が二人の心に共通して思い浮かんでいた。

 ……男なんて、信用ならんことは、「せいちゃん」で身をもって知ってるけど……。
 あさぎは少しだけ呆れたような、恥ずかしいような複雑な表情で清矢郎を見た。
 当人は表情を変えないようにしているが、失言したという自覚はあるのだろう。更に空々しく雑踏の方へと眼鏡越しの視線を泳がせている。
 そもそも言葉を失った辺りで、それはあさぎにも見て取れた。

 ――でも……覚えてたんだ……。
 そう思った途端、あさぎの心は恥ずかしさやよくわからない感情で、じんわりとしてきた。胸騒ぎがするように、そわそわする。
 そして二人の間に、金魚が舞い出した。初夏の夕暮れの空に赤い金魚が浮かんでいる。
 きっと本当は少し前から泳ぎ始めていたのかもしれなかった。彼と久しぶりに話せたことに、あさぎが夢中で気が付かなかっただけで。

 その時、駅のホームに列車が入ってくるアナウンスが鳴った。あさぎは思わずどきりとするが、それは自分の乗る電車ではなかったようだ。それでももうあまり時間もない。
「電車、来ちゃうから……」
 あさぎはそう言うと、まるでその金魚に懐かれているようにすら見える清矢郎を今一度見上げた。
「……叔母さんによろしく」
 清矢郎はやはりあさぎの眼を見ないままそうぼそりと呟くと、あさぎよりも先に踵を返して歩き出し、自動改札口を通って雑踏の中へと消えていった。彼とは乗る駅は同じでも、帰る方向は逆なのであった。

 広い背中が消えていくと同時に、赤い金魚も一緒に消えていった。
 いつの間にか手がとても汗ばんでいたことに、あさぎはようやく気が付いた。


 ・・・・・・・・・・

 この時間の電車を利用して帰ることが、あさぎは最も多い。母親が仕事をしているので、自分も家事の一部を担っている。お金を出してもらって学校に通っている身分としては、夕飯の支度が出来る時間には帰るようにしなければならないのだった。
 夏至を過ぎた七月に入る頃。夕方六時の風景は、夕暮れのオレンジ色の光と紫色の影に染まっている。
 流れるそれを電車の窓越しにぼんやりと眺めながら、あさぎは水の中にたゆたうように浮付いた気持ちになっていた。
 なんだか、久々に、しゃべっちゃったなあ……と、先ほどの出来事を少女は何度も胸の中で反芻する。

 彼から話しかけられたことには、あさぎは驚いた。このまま永久に無視されるものだと思っていたほどなのだ。ただ、眼は合わないから嫌われていないとは言い切れないものの……。
 それでも何故か、交わした言葉のひとつひとつ、相手のちょっとした仕草、家では見られない「外」の先輩としての顔、頭から足の先までのその均整のとれた体――のパーツを、少女はひとつひとつ思い出し心の中で丁寧に組み立てては、あえて胸を泡立たせてしまう。
 彼もあの日のことを、忘れていなかったという事実は、あさぎにとって少し恥ずかしかったが、ほっとさせられた。
 声が聞け、一瞬でも自分に注意を向けてくれた、ただそれだけのことが、あさぎには嬉しかった。
 そう思うことで、恥ずかしいながらも、少女の心が今、温かく甘いもので満たされていく。

 あの出来事を覚えていてくれたということは、恥ずかしくともあの日「自分」が其処に居たことを、認めてもらっているということなのだ。だからきっと、嬉しいんだ。
 あさぎはそう思おうとした。
 だがそれだけでは終わらず、少女の胸にはその想いから濃い陰影が伸び、焦げ付くように消えない。夕暮れの中、電車の窓の外を金魚がひらひら泳いでいる。

 それを見てあさぎは今度は不安になってくる。
 どうして金魚消えないのか?彼は帰ったのに。
 また夜も現れるのだろうか。そうしたらきっとまた彼を思い出して、「して」しまうのに――。

 あさぎが中学生の時も、あの夏のことと彼のことは気になってはいたが、会わなければ会わないで忘れていられた。数ヶ月に一度、会って思い出しては苛々していた。
 しかし彼女が高校生になり、前よりも色々なことが見えてきて、色々なことにジレンマを覚えるようになったからか、更に酷くなった気がするのだった……清矢郎への、苛立ちが。
 そんな折に、こうして家以外の場所で会ってしまった。十六になった少女が、十八になった少年に。
 そしてそのことが、あさぎにとってやけに新鮮に感じたのだった。まるで「知らない男の人」のように、妙に彼を「男性」として意識してしまった。

 少女はこつんと電車の壁に身を凭せ掛けて、ほんのりと想う。
 どうしていいのか分からないが、もっと話したかった。自分をちゃんと見て欲しかった。
 いざそうされたら、どうすればいいのかもっと分からないのだが……。

 目の前を泳ぐ金魚に、あさぎは首を振る。もう泳ぐな、と言うように。
 彼のことを忘れていたいのに。金魚が現れればどうしてもあの日のことを思い出して、彼のことを考えてしまうのだ。
 あさぎのこの未確認な感情には、まだ名前がついていない。それをどう呼んでいいのか、彼女自身にも分からないからだ。だが少女には「それ」に気付いたらきっと、最後のような気がしていた。きっともう引き返せなくなるのだろう、と予感がしていた。
 あの夏の日の先へと――足を踏み入れてしまうのではないか。
 心よりも思考よりも先に、「身体」がこれだけ反応しているのだ。そう、それは、少女に緋色の幻覚を見せるほどに。

 ――考えたくない、とあさぎはぎゅっと目を閉じる。

 だが今日聞いたあの声を、もう一度繰り返す波のように思い出す。
 それが弾ける感覚が、認めたくないと思う心に反してやけに心地よくて、少女は何度も思い描いてしまう。
 相手が血の繋がった、しかも自分にいけないことをした相手にも関わらず……。
 己の浅ましさに、あさぎは切ないため息をついた。


 ・・・・・・・・・・

 しかし、自分でもよくわからない高揚感のままに、その夜もあさぎはいけない行為をしてしまった。
 きっと「彼」の記憶がまだ鮮明だからだ、そしてほんの少しだけど嬉しかったからだ、と少女は自分に対して言い訳するように言い聞かせていた。しかし相手はやっぱり虚しい幻影にしか過ぎないのだが。
 あさぎは終わった後の熱い息を、暗い部屋で大きく吐き出す。
 生理が終わったから、久々に思い切り脱いでやってしまった。終わった後、異常なまでに興奮していた自分が益々恥ずかしく情けなくなるというのに。

 それでも何故か、今日は前向きな気持ちになれた。
 あさぎは甘美な気持ちを切り替え、下着をつけ服を着た後、台所で麦茶を飲んでとりあえず心を落ち着けた。そしてまた部屋に戻り、ノートを開く。
 荒芝と先日話した文芸部の部誌の原稿の下書きをするためだ。
 ケータイ小説のように携帯電話に保存しようかと思ったけれど、今日は鉛筆で書きたい気分だったのだ。少女は心に浮かぶ言葉を、拙いながらぽつりぽつりと紙に落とす。
 不安と苛々には変わりないけれど、それでも目の前の金魚と今夜は共存できるような気がしていた。


 ・・・・・・・・・・

 自分でもよく分からない感情を持て余していたあさぎだったが、いつものとおりこんな風になってしまっても、しばらく会わなければ彼のことなど忘れられると思っていたのだが――。

 数日後、部活の時間に、
「この前、駅で山本さんが北高のカッコイイ人と話してるの見たんだけど」
と皆のいる前で突然、秀麗眉目な二年生の女部長に話を振られ、ぎくりとさせられた。
 隣に座っていた友人の夕映も「何何?」と興味津々にあさぎに擦り寄ってくる。彼女にもまだ自分の恋愛の話、ましてや清矢郎との過去の話などしていないからだ。

 ……かっこいい、までかどうかは知らないが、清矢郎は見目は悪くない男の子だ。遠目に見れば背も高いし、尚更そう見えたのかな、と思ってあさぎは彼女の話を聞いていたが、
「いーなー、私にも紹介して欲しいなー」
彼氏と別れたばかりというその美人部長が羨ましがるのには更に驚かされた。
 今まで自分がそんな風に、「女」として話題の中心になることがなかったからだ。
 だからあさぎは、気恥ずかしいような嬉しいような、しかし悪いことをしているような気分になってしまう。何故なら、相手はただの従兄であるうえに、それを想像してよからぬことをしているのだから……。

「その人がなんだってー?」
 今日の部室は女子生徒ばかりで占めているので、こんな話題に花が咲く。
 夕映はそう言うと、あさぎの後ろから圧し掛かるように抱きついた。彼女はこんな風に、気軽にスキンシップを誰にでもしてくる。女の子らしい甘い匂いが、ふわりと漂う。
 その質問に部長や他の同級生もあさぎに視線を集めた。

 ……や、やめてえええ、とあさぎは内心焦り出す。
 こんな地味な自分が話の中心になるのは嬉しいと言えば嬉しいが、かと言って赤裸々に説明できる関係の相手でもない。
 正直に無難にただの従兄だと答えればいいのだが、そう口を開こうとして――少女の中のもうひとりの「少女」が、その言葉を噤ませた。

 ――彼は私の、「何」なの――?

 自分の中の二人の自分が鬩ぎ合って、あさぎから一瞬言葉を奪ったその時、
「ちょいとさ、暇なら一年のやつら手伝ってくんない?」
突然隣の国語準備室との間のドアが開き、荒芝がのっそりと顔を出した。
 荒芝以外の国語教師はこの準備室には常時おらず、職員室の方にいる。残った荒芝も、生徒たちの会話は完全に無視しているので、文芸部員も好き放題雑談をしているのだった。
 しかしこの内容ならば「暇」と言われても文句は言えない。
「山本と宮坂でいい。お前さんらのクラスの分だし」
 荒芝はかったるい、と言う様にあさぎと夕映を手招きした。







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