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  幻影金魚 作者:takao
第2話 いらだち
 家に帰ったのは、夕方五時頃だった。中に入ると母親のやたら楽しそうな高い笑い声が聞こえてきた。
 玄関にあった見慣れない黒い男物の靴に、あさぎは来客が居間にいることを察し、直接二階へ行こうとすると――。

「あさぎー、帰ってきたのー? お菓子あるよー、こっちおいでー。清矢郎セイシロウくんも来てるよー」
「……」

 ――げ、ほんとに!? と思いながら、あさぎはぴくんと足を止めた。
 
 「彼」――二つ年上の従兄の清矢郎――あの夏の日まで「せいちゃん」と呼んでいた男――のことを、丁度今の今まで考えていたのは、虫の知らせというやつかもしれない。
 あさぎが彼の顔を見るのは、二ヶ月ぶりになる。高校は違うものの近くの場所であるので、入学して間もない頃に駅で見かけたのである。その前に会ったのは正月だった。
 二人の祖母は二年前に亡くなり、会う機会はあの頃より減っている。しかし互いの両親同士の仲がよいので、それでも縁が切れることはなくたまに会うこともあった。それ以前の問題で、会ってもあの夏の日から言葉など殆ど交わしていないのであるが。

 しかし思春期の少女としては、他に男性経験がないことも手伝って、あのことと一緒にしょっちゅう思い返してしまう微妙な相手なのである。
 ――たまには顔くらい見てやるか、とあさぎは自分自身に言い訳するように頷いた。それに変に意識していても、母親におかしく思われるかもしれないと考えた。
 あさぎは軽く決心するとひとつ深呼吸をし、不自然に汗ばんでいる手で居間のドアを開けた。

 ドアを開けるとソファの下で座卓を囲み、二人の人物が座っていた。あさぎに背中を向けて座っているウェーブのかかった長い茶髪の母親の対面には、地区内一の進学校の高校の制服――と言っても詰襟なので、夏服の今はただのシャツなのであるが――を着た、長身の眼鏡の少年が、でんっと座っていた。
 あさぎにとって、「でんっ」というように見えるのは、彼が剣道をやっているからか、やたら背筋を伸ばした姿勢のよい座り方をしているからだろう。
 六月で十八歳になるという青年に近くなりつつある少年に、あさぎはちらりと視線を遣ってみたが、彼はあさぎの方に眼も向けなければ眉ひとつ動かさない。

 ――確かに四年前のことは、少女にとってかなりの衝撃であった。

 「せいちゃん」は無口で、仕事で忙しいお父さんお母さんの代わりに黙々と家の手伝いをする、しっかりした利口な少年だった。夏休みの宿題も早々と終わらせて、剣道の大会に備えて素振りしているような真面目な男の子だった。
 その彼があんなことをするなんて、あさぎは子供心に想像もしなかったのだ。
 そしてあの日の後は、あのようなことをしたのが嘘であるかのように、また朴訥とした「せいちゃん」に戻っていた。
 二人の間であの日のことには、あれから一切触れることはない。彼も無かったことにしたいのか、あさぎとは眼も合わせなくなった。

 そんな清矢郎の態度に、あさぎは苛々してくるのであった。
 ――このやろー、ヒトの純潔を奪っておいて……。
 実際そこまでのことはされていないので語弊はあるが、あさぎにとって女性特有の場所を、男に初めて触られたというショッキングな出来事と事実には変わりない。
 彼を睨んでいるうちに、あさぎの視界にはいつの間にか金魚が現れ始めた。はっと気付いたのは、また母親の声が聞こえたからだった。

「何ぼんやり突っ立ってんの? 挨拶くらいしなさいよー」

 母親にあのことを知られるわけにはいかない。あさぎは渋々と、母親と清矢郎の間に座ることにした。
 机の上には誰かからの土産か、有名菓子店の日頃お目にかからないケーキが箱に入って並んでいた。こってりとしたクリームの乗ったそれを、既に母親が幾つか食べ、少年は手をつけてない様子が、皿の上のゴミの散らかり方で分かった。
 しかし彼女もまだ精神的に幼く、成長期である。空腹も手伝い、美味しそうだなあと密かに思って眺めていた。

「今日お葬式があったのよ。あんたは赤ちゃんの時しか会ってないから覚えてないでしょうけど、お母さんの叔父さんにあたる人。でも潔兄さんが海外出張でどうしてもお葬式行けないって言うから、代わりに試験終わった清矢郎くんが来てくれてね、」

 ふーんなるほどそれで、学ランをこの蒸し暑いのに持ってきたわけね、ってケーキ食べていいかなあ、とあさぎは母親の話は耳半分に聞き、とにかく隣の清矢郎との微妙な空気が息苦しく、そこから逃れるように視線を綺麗なケーキに注いでいた。
 しかし母親の話はまだ続く。

「それがまた清矢郎くん、しっかり挨拶もして、アンタと同じ高校生とは思えなかったわよ。さっきもね……」

 あさぎの母親は子供の頃から、清矢郎びいきだった。彼のことは褒めちぎり、冗談でも折につけて、「お嫁さんにしてもらったら?」と、彼女も小さい頃は言われたものであった。
 男の子供がいないのもあり、母親も悪気はないのだろうが、どうせ私は……と取り立てて自慢出来るところのないあさぎは密かに劣等感も抱いたものだった。実際あの日までは、彼は尊敬できる年上の従兄であった。

 それにしてもこの微妙な空気は嫌なもので、彼と比較されるのも面白くない。そう思い、あさぎは現実逃避に遂にケーキに手を伸ばしたのだが、
「ってアンタはお行儀悪い!!」
お皿を持ってくるのが面倒で、小さなものであったためそのまま指で持って頬張ると、更に母親に叱られた。母親はよく喋るし明るいし若作りだし、一見軽いが意外と几帳面で、口うるさい。
 しかしケーキは既に口の中だ。もうこのまま食べてしまおう、とあさぎが頬張った後に指についたクリームをぺろりと舐めれば、更に母親からの小言が降る。

 その時、隣からふっと笑うような声が聞こえてきて、あさぎは思わず清矢郎の方に顔を向けた。

 しかし顔を上げる頃には、もう隣の少年は元の無表情に戻り、あさぎの方には僅かたりとも視線を向けずに、片手で茶碗を持ち緑茶をずずっと口にしたところだった。
 ……かっわいくないなあー……。
 その態度にあさぎは少々かちんと来る。
 この五十センチの距離にいるというのに、完全無視のこの態度。私にあんなことをしたというのに、この態度!ああもうむかつくいらいらするー!! と口に出せないので心の中で虚しく叫ぶしかない。

 そう言えば、前に駅で会った時も正月に会った時も、その前のお盆に会った時も、その前の年も……同じ事を思っては苛々したなと、いつもこの繰り返しであることを思い出し、あさぎは段々悔しくなってきた。
 しかしこうした怒りも、顔にも声にも出してはならないのである。せめて清矢郎と口がきけたらいくらでも文句を言ってやれるのだが、あのことは向こうもなかったことにしたいだろうし、何から話せばいいのかまず分からない。
 互いの両親はいい加減なところもあるので、滅多に会わない年頃の男女だし会話がないくらい、特に不思議にも思わないようだった。

 結局、折角のケーキの味は、彼女には全く分からなかった。


 その十五分後――。あさぎにとって居心地の悪い空間は終わりを告げた。
 二人の通っている高校は近所でも、住んでいる市は違うので、清矢郎はあさぎの母親が送っていくことになった。そして母親が部屋を出て行ったそのほんの僅かな間、あさぎは彼と部屋に二人きりにされてしまった。

 落ち着かなくてテーブルの上のケーキや皿をそわそわと片付け始めたあさぎだが、そうするとおのずと清矢郎の視界に自分が入ってしまうので、それはそれで気まずいものを感じていた。
 しかしすぐに彼も立ち上がったので、あさぎは内心、ほーっと大きなため息をつく。
 なのに、何故か気になってその後ろ姿を眼で追いかけてしまった。

 ――それにしても、背、高いなあ……。

 彼女の父親の身長が彼女よりも少し高いだけなので、あさぎには余計にそう感じる。
 「あの時」よりも更に大きくなっている彼。いつの間に、何を食べてこんなにでかくなったんだ――などと二つの年の差を感じながら、あさぎがぼんやりとその広くなった背中を眺めていると、部屋から出る際に清矢郎はふとその視線に気付いたように、彼女を振り返った。

 不意に眼鏡の奥の眼と自分の眼が合ってしまい、あさぎはどきりとさせられた。
 その瞬間、電流が走ったように、少女の身体の芯が疼き出す。

 そして現れたのは、やはり無数の赤い金魚の幻影だった。
 それは少女の心を覆う、呪縛のような――。

 しかしそれは、ほんの数秒の沈黙だった。
 やがて、あさぎが凝視していたその唇から低い声が発された。

「――ついてる」
「え?」
「ほっぺ」

 そしてドアはバタンと閉められた。
 あさぎが思わず背後の鏡を見ると、そこにはさっき拭ったのとは反対の頬に、クリームがまだしっかりとついていた、情けない顔の自分が居た……。

「〜〜〜っ!!!」

 ……やっぱり、かっわいくない! っていうか寧ろ、私がださーっっ!!

 こんな間抜けな顔で、彼と見つめ合ってしまい、あの言いようのない感覚を味わっていたと思うと、恥ずかしくてやりきれない。
 あさぎは真っ赤な顔をして、八つ当たりのようにソファに拳を打ちつけた。
 

◇拍手&簡易メッセ◇

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