第2話 ひとりで
暗闇の中、少女は膝を抱いて思う。
――このイライラは、なんなんだろう。
あさぎは中学三年生の頃、地区で一番成績のよい高校を受けたかったが、成績が足りなくて二番目の高校を受け、今の高校に入学した。おかげで成績は悪くないものの、かといって主席というわけでもない。
また、特に何か能力に秀でていることもないので、部活で才能を発揮ということもない。
普通に身だしなみには気を使ってはいるが、地味なほうだから「モテる」ということはなく、女子の友達はそれなりにいるが、男子との個人的なやりとりはしていない。
文芸部に友達と入ったものの、本を少し読む程度だから、先輩のように人目を引く文章も書けず、表現する言葉自体が思いつかずにもどかしい思いをしている。
――なんだか、自分は、つまらない人間だ。
そんなことを思いながら、あさぎがその暗闇の中、ベッドの上に身体を横たえれば金魚が舞い出す。
その幻影と同時に、こんな自分がたった一度だけ、「女」扱いされたあの日のことを思い出す。
あさぎにとって「あの時」はただ驚き、嬉しくなど感じられなかった。しかしあの日あった出来事は、こんな風に自分の居場所が見つからない気分の時に思い出せば、あの時、確かに自分はそこに存在していた、そこに生きていたのだと――変な表現であるが、そんな風にすら感じるのだった。
あの日されたことが、もし自分の身体を傷つけられたり、人格を否定するような乱暴な行為であれば、あさぎはこんな気分にはならなかっただろう。微かに触れられただけ、時間にしてもほんの少しの、まるで夢のような、子供の戯れであった。
しかしただの「雌」としてでも、「あさぎ」という存在を求められたこと――それは、「私はここにいるよ」と叫ぶのに何処にも届かず、もどかしく思う思春期の少女にとっては、そんな行為であっても、自分がここに存在している証にさえ思えるものであった。
未知の性行為に憧れる理由はそういった深層心理もあるのかもしれなかった。
しかしだからと言って、誰もいいわけでもない、ともあさぎは思っている。
あれが変な中年男であれば気持ち悪く、恐怖に凍りつき、もっと傷ついていた。――よく知った「彼」だったから、まだよかった……のかもしれない、とあさぎはなんとなくそう感じていた。
またいくら興味があっても携帯電話で出会い系サイトにアクセスしてまで、そういうことをしてくれる人を探そうなどとは考えなかった。
それこそあの意外に厳しい母親に携帯電話の使い方はよくちくりと言われているし、そんなことが知られればどんな恐ろしい雷を食らうか分からない。それにその日会ったばかりの人間とそんな関係になり、妊娠しただの病気になっただのという話を聞けば、余計にそんな危険な方法で己の性欲を満たそうとは思えなかった。
何も自信がなく、何もしないくせに、まだ社会で自分を試せるだけの年齢でもなく、ただ証だけを求める少女。だからといって、いきがって無理にそんな経験をする気は無かった。
第一、少女が本当に満たしたいのは、性欲だけではない。
心にぽっかり穴が開いているような感覚に、「私」が此処に居る証が欲しいと、あさぎの心が叫んでいる。
誰かに必要としてもらいたい、受け入れられたい。
それなのに、あの、初めて誰かに求められた日の相手――二つ年上の従兄の少年・清矢郎は、あさぎをその場に居ないように扱うのだ。あの日のことを無かったことにしたいかのように。
その切なさが益々彼女から自信を奪い、苛々する気持ちを増幅させていた。
――嗚呼、このイライラを、今すぐ解消したい――。
真っ赤な金魚が舞っているのは、欲求不満の証だとあさぎにもなんとなく分かっていた。その社会や周囲に対する欲求は、今のちっぽけな自分の力では満たせない。
ではどうすれば、それを今すぐ満たせるかと言えば、誰にも迷惑掛けず、ひとりで、昇華するしかない、という結論に達するのであった。
そして少女はこのもやもやする気持ちを、逸る心を忘れられる「あの毒」を、今宵も求めた。
布団の中、あさぎは己の細い指をパジャマのズボンの中に入れ、下着の上からそっと己の秘部に触れた。
二年前に初めてこの行為を覚えた時は、こんなことはしてはいけないと罪悪感を抱いていたあさぎなのに、いつの間にか身体がそれを好いものとして覚えてしまった。
そんな難しいことを考えていても、結局、本能に溺れるのだ。それに気持ちよくなっている内は、嫌なことも全部吹き飛んで、身体が悦びに震えることが出来るからだ。
それは少女が知ってしまった禁断の甘い毒の味――何度も何度も飽くことなく味わいたくなる、「快楽」というものだった。
触れているうちに気分が高まり、その芯に直接触れるよう指を伸ばした。
熱い蜜を掬って掻き混ぜる。
頭の中のぐちゃぐちゃも混ぜられ、そうしているうちに、脳が溶かされていく。
「……っ、」
あさぎは暗い部屋の中、隣の部屋の姉に、階下の両親に聞こえないよう荒くなる息を潜め、声を殺す。
少女が「これ」をする時に、いつも思い描くのはあの夏の日の光景だった。
血の色の赤い金魚が増えていく。眼を閉じても真っ赤に視界を覆いつくす。
なのに、ここ一年ほどは――そう、特にこの前のように「彼」に会った後などは――、「その最中」に思い描くことが、あの夏の日のことだけじゃなくなってきたのだった。
少女の思い描く緋色の幻影の中に、いつしか浮かぶようになったのは、ひとりの人影だった。
ずっとあの夏のままだった幼い幻に、いつの間にか男性らしくなったその逞しい身体が上書きされている――。
嗚呼、気分が高じる。滅茶苦茶にされたくなる。
何も考えられない。考えているのはただひとつ。
ただ、ひとりのこと。
――こんなの、おかしいよ。私は異常なの……!?
そう思うのに少女のその手は狂ったように止まらない。止められない。更に、更に、高みを求め、忙しなく動く。
理性や倫理感と裏腹に、自暴自棄のように淫らな自分の本性が暴れ出す。
――もう、狂っていても構わない。もう、叫んでしまいたいくらい、キモチよくて、たまらない――。
絶頂へと高まりゆく気分の中で、赤い金魚は狂喜乱舞し、そのただひとりの人物の幻影は自分の心を切り裂かんばかりに色濃くなり、終には「その名」を声に出して叫び出したく――。
そして、全ては今宵も砕け散る。
「……っっく!!」
くぐもった呻きと動物的な荒い息、そして衝動的に叫びそうになった「その名」を、あさぎは唇を噛んで堪えながら、びくんびくんという身体の痙攣を何度か繰り返し――やがて、ふう、と身体の力を抜いた。
――虚しいな……ばっかみたい。
終わるといつも、こんな風に馬鹿らしい気分になるのに、沸き起こるイライラと衝動を抑えるために、あさぎはついいつもこんなことをしてしまうのであった。しかも、口も利いてもらえない男の幻で、妄想しながら。
重く気の抜けた身体をしばし横たえていたあさぎであったが、やがて思い出したように下着の中から己の指を抜いた。
思わず顔に近づけると、苦い、匂いがした。終わりがけであるが、生理の血の、匂いだった。
こんな日にまでこんな汚らわしいことをする自分に更に嫌悪感を抱き、少女は大きなため息をついて、手を洗うためベッドから降りた。
・・・・・・・・・・
私って、おかしいのかなー……、と午後の余り好きではない教科の授業中、シャープペンシルをカチカチと押しながら、あさぎはそんなことを考えていた。
それでも友達と話しているうちは、彼女もまだ自分の存在を感じられていた。時々自分の経験のなさに恥ずかしくなり、相手がうらやましくなる劣等感は抱くものの、それでもあさぎを受け入れてくれる優しい友達には恵まれていた。勿論、こんな汚い内心は見せてはいないが。
だからあさぎの放課後は部室や、それがない日はクラスの友達と遊んで過ごしている。
アルバイトも少し考えたが、母親は別に必要もないから進学校なんだし勉強しろと言う。それに中学を卒業してまだ三ヶ月、少女は周りの様子を伺っている最中だった。
本日の放課後は、あさぎは部活に向かった。もっとおたくっぽい人がいっぱいいるかと予想していた文芸部は、綺麗な女性の上級生が多い、意外と居心地のよい部であった。
男の先輩も若干いるが、ゲームや歴史などに詳しくそういったコラムを書く人たちで、どちらにも詳しくないあさぎは彼らと話をすることは少なかった。
しかしたとえば、あさぎと一緒に入部した宮坂夕映という女の子などは――あさぎと違って大人びた少女なのに、何故かすぐに仲良くなったのだが――、本から雑誌から大量に書籍を読むことが趣味であり、そのうえ社交的だから、口下手なあさぎでも、運動部の格好いい男子でも、そういったコアな趣味の男子でも、誰とでも話の合う引き出しの多い女の子だ。
今日の部室は上級生の男子中心に、夕映も混じってあさぎには聞いたことのないゲームの話で盛り上がっていた。もちろん、そういう話題でない日もあるのだが、そうなるとあさぎにはお手上げであるので、トイレに立った。
部室を出て……といっても人数の少ない部なので、正式な部室はなく国語準備室の隣の書庫で、大きなテーブルを囲んでいるだけのことなのだが。
戻ってきたあさぎはまだ盛り上がっている部室には戻らず、手前の国語準備室に立ち寄り、こんなところで競馬新聞などを広げている無精髭を生やした三十路教師に近づいた。
「そんなの読んでていいんですかー?」
「んー。そんじゃ内緒にしといてー」
その国語教師……一応文芸部の顧問である荒芝に声を掛けると、あさぎはその横にあった、使われていない事務机の椅子に座った。
正直あさぎは、同世代の男の子が苦手だった。中学の時に会話に失敗して怒らせてしまったことが、トラウマになっているのだ。それ以来、同級生の男子にはとても気を使うようになった。
だから男女年齢関係なく、気を使わずに誰とでも自然に話が出来る夕映が、あさぎには本当に羨ましかった。
逆にこれくらい年上の男だと寛容なので、多少の発言は気にされない。だからこちらも、気を使わずに話をすることが出来るのであった。そう思うとあさぎは年上好みなのかもしれないなと思ったが、とりあえずこの三十路親父にそういう感情は持っていなかった。
それを証拠に、この教師の前ではあさぎに金魚は見えなかった。きっとだからこそ、意識せず気楽に話せるのだろう。
内緒にしておいてと言いつつ、他の教師のいない国語準備室で堂々とそんなものを広げる荒芝は、その自堕落ぶりとくだけた話し方から、変わっているというだけでなく女生徒に手を出しているという噂すらある。
真偽のほどは分からないが、高校生の気を引く若干下ネタ交じりの授業で、それでも要点を押さえて教えることの出来るこの頭のよい男は、同じくちょっと「変わった」子と言われがちなあさぎは、嫌いではなかった。
「次の部誌の原稿、何書こうー」
あさぎは足をぶらぶらさせながらそう言った。
……ほんと、誰とでも――もう口もきけないあの人とでも――こんな風に話せたらいいのにな、と思いながら。
「なんかてきとーに思いつくもの書きゃいいじゃん」
自分は言語学専門だったと豪語する荒芝は、部誌の内容には一切関知してこない。読んでいるのかも怪しいが、好きにやらせてくれるので、口うるさい教師よりはよいと部員たちも彼については文句も期待もない。
「思いつくものかー……」
あさぎもほんの暇つぶしでこの男と話していたが、言われてみてふと思いついた。
「金魚……とか?」
あさぎが想像したものは、いつも己の心の中を泳いでいる、赤いひらひらした金魚だった。
自分にしかないものを書けばいいと、先輩たちは言う。残念ながらあさぎには今、「それ」しかなかった。それはもしかしたら汚いものの象徴かもしれないが、ある意味最も彼女らしい、彼女だけの想像の産物と言えた。
「いんじゃない? 女の子はそーゆーのが好きだなー」
荒芝はそう言って笑うと、意外と几帳面に競馬新聞を畳んだ。
自分にしか見えない金魚を、軽くモチーフ的なものとしてとらえられ、あさぎは少々むっとしたが、あのようなが幻覚が見えるなどという話をしても仕方ないので押し黙った。
でも、あの金魚をどういう言葉で表現出来るのか、試してみるのは面白いかもしれないとあさぎは思った。
退屈な毎日の中で、醜い自分の心が見せる幻覚にイライラしていたが、そういう目で見たらまた見方も変わるかもしれないな、とそう思ったらあさぎは少しだけ元気になった。
・・・・・・・・・・
夕映とは同じ電車で通学しているが、今日は迎えに来た彼女の兄の車でバイト先へと直行していった。あさぎは午後六時発の電車を目指し、一年で一番明るい夕方の道をひとりで歩いている。
「金魚の詩は出来たかい」
すると突然、抜かされざまに、男に声を掛けられた。
「まだですよー」
少し驚いたが、それが荒芝とわかるとあさぎはわざとらしくため息をついた。
電車の時間はまだまだあるし、あさぎは歩くのが遅い。その間に後ろから追いついてしまったらしい。
「先生、車で通ってるんじゃないの?」
「今日は飲み会」
保健室に行ったら彼が二日酔いで寝ていたという話もあさぎは噂で聞いたことがある。よく教育委員会に怒られないものだと思うが、本当に女生徒に手を出しているとは限らないし、この不良中年はぎりぎりのラインを綱渡りしているのかもしれなかった。それはさておき、あさぎは話を戻した。
「って、なんで詩って決め付けるんですか」
「お前さん、文章殆ど書いたことないだろ」
「……」
部誌など読んでいないとあさぎは思っていたのに、彼は意外と鋭いことを言ってのけた。
ちなみに文芸部にはきちんとした文章を書く部員もいるが、ケータイ小説のようなものや雑多な詩のような内容を書く部員の方が断然多かった。
「まあ、一回書いてみなって。ちったあスッキリするかもよ」
そう言って笑う荒芝をあさぎは見上げた。
その含みのある言い方が気になったが、やはり腐っても教師だ。多くの子供たちを見てきたので、こんな自分からも何かを感じているのかもしれないなとあさぎは思った。
「……はーい」
少し間をおいて、あさぎがそう言うと、一瞬まじまじと彼女を見た荒芝はまた笑い出した。
「なんですか?」
「いや意外に素直で可愛いなあと」
「……」
成程、この男がタラシだと言われるのも頷けるな、と男性に「可愛い」などと言われたことがないあさぎは少し警戒したように眉を顰めて彼を見た。
「先生、それはセクハラです」
「そっか。そりゃ悪かった」
荒芝は反省していないようにまた笑った。変人とは言われている彼だが、意外と派手な女生徒と話が合っている様なところもあり、本当に騙される女もいるかもしれない……とあさぎはまた彼を警戒して見た。
そんな風にいつの間にか駅に着いた二人が、まだ電車もこないので切符売り場と改札の間で軽口を叩き合っていると――、
「おう、久しぶりだな」
誰かが荒芝に頭を下げたのか、彼はひょいと手を上げた。
そしてその人物は、二人に近づいてきたのだが……。
「……げ」
あさぎは思い切り相手に失礼な声を出した。
なんで、此処に、と思うが以前駅で偶然会った時も、確かこの時間であったことを少女は思い出す。三年生で部活も引退するから今までのように遅くならず、この最も人が利用する時間に帰っていくのだろう。だから可能性としてはあり得るのだが――。
あさぎの困惑が伝わったのか、
「俺、おととしまで北高にいたからさ」
とあっさり荒芝は言うと、
「益々でっかくなったなー、加納は」
数センチだが自分よりも背が高くなってしまった少年に悔しそうな笑顔を向けて、ポケットから煙草を取り出した。
「……お久しぶりです」
荒芝の隣にいるあさぎの方は相変わらず其処に居ないかのように一切見ず、近所の地区一番の進学校の制服を着た眼鏡の少年――あの金魚の幻を見せるきっかけとなった、あさぎの従兄のあの少年――加納清矢郎は、無愛想に荒芝に会釈した。
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