第19話 つぐない
清矢郎に謝られた瞬間、あさぎの心はささくれ立った。何か「違う」、そんな言葉は聞きたくないと強く思った。その理由は、ひとつだった。
「あ、謝らないでよ……」
あさぎは自身の想いを彼にどう伝えてよいのかまだ整理されていないものの、彼に謝られることにはひどく反発したくなった。その言葉だけは聞きたくない――その違和感と苛立ちとが引き金となって、あさぎの四年間の想いは爆発してしまった。なぜなら、
「謝ったら、それでおしまいなの?」
「……」
「謝って、私がいいよって言ったら、それで、おしまいなんでしょ? せい――ちゃんは、それでいいんでしょ? ずっと謝りたくって、私にいいよって言って欲しくて、そうすれば満足なんでしょ? それで終わりにしたいんでしょ」
あさぎは清矢郎の眼を真っ直ぐに見ていた。彼は堰を切ったようなあさぎの言葉に、驚いたような困ったような顔をして彼女を見返していた。彼もまた謝っても何もならないことは分かっていたので、反論せずに少女の話をただ聞いている。
震えそうな声で、あさぎは続けた。
「謝るってことは……、無かったことにしたいんでしょ? 全部、リセットしたいんでしょ?」
自分には無かったことに出来ないのに、清矢郎はそうしたいのか?彼からの謝罪の言葉を、あさぎはそのように捉え、急激な怒りと焦りを感じた。
確かに罪を犯し後悔している側にすれば、贖罪したい、楽になりたいと思うだろう。清矢郎は謝ることで、あの四年前の彼の罪を浄化してしまいたいのだろうか。
そう思うとあさぎの心が不安に揺さぶられ、眼の前の男が憎くて仕方なくなる。
あさぎの方は、忘れるどころか、あの日から日ごと夜ごと、この男の影が濃く色づいていくというのに。あの日、金魚を見るようになってから、ずっと募ってきた感情があるのに――と。
罪を犯された方は、その瞬間から全ての感じ方、考え方が変わってしまうのだ。己の人生すらに影響を及ぼすような出来事を、どうしてなかったことに出来るだろうか。
もちろん清矢郎があさぎに対し償いたいと思う、潔く誠実な気持ちは伝わってくる。しかしあさぎはそれをされることで、あの日の、そしてあの日から彼をずっと想っていた己の存在が、無しにされるような気がしてしまったのであった。
――それで清矢郎は楽になるだろう。でも、自分はどうなるのか!
あさぎは清矢郎を睨みつけるように見ていた。
清矢郎とて、まだ大人ではない。しかし少女は彼が自分に罪を犯したということを盾にして、この従兄の少年に、剥き出しの己の感情をぶつけてしまっていた。
あさぎが彼の謝罪を受け入れてしまえば、あの日のことは彼の中でリセットされてしまうのか、そう思うと少女の動悸が速くなってくる。
生理前の微熱と、夏の暑さが手伝って、あさぎの頭がくらくらとしてきた。少女の心の歪みと共に、目の前の緑と陰の景色がぐにゃりとねじれそうになっていく。
「謝らないで! ――許してあげない!」
あさぎの詰るような声に、清矢郎はまた沈痛な面持ちに戻っていた。しかし何も言い返さず、ただ黙って聴いていた。
そしてあさぎもその表情を見ながら心のどこかで、自分はなんて子供っぽいことを言っているのだろう、なんて彼に対して酷いことを言っているのだろうと、自分自身に呆れていた。
確かに先に「悪いこと」をしたのは清矢郎である。しかし彼も覚悟はしていただろうが、全てを拒絶され、傷ついてしまっていることは、彼女にも分かっていた。
あさぎはそんな自分に嫌悪すら抱くが、それでも四年間耐えてきた身としてはやりきれない。
「許してなんか、あげない……一生、覚えてなきゃ、嫌だ……忘れちゃ、やだ……!」
「被害者」だと言いながら何をこの少年に要求しているのだろうと、あさぎは自分でもわけがわからなくなってくる。だが彼が自分への罪を清算して他の女性と幸せになるなんてことは、どうしても嫌だと思っていた。
あの日清矢郎に触れられて以来、あさぎの心が彼で占められてしまった。
そのことを清矢郎は知らないのだ。あさぎが金魚の幻覚を見てしまうくらい彼によって心を壊され、彼のことを性の対象として考えてしまうようになったことを。
そうすることで、あの忌まわしい思い出から少女が自分自身を守ってきたことを。
だがあさぎは言いながら、この言葉が相手を脅迫し、苦しめるものであるということも自覚していた。
清矢郎があさぎに対し何でもすると言った言葉には、彼の性格上、嘘はないだろう。彼が自分に逆らえないことを分かっていて、彼女はそんな我が侭を口にした。
そう思うと清矢郎に対し申し訳なくもなってきて、言い終わるとあさぎは視線を落とし俯いた。
視界に入る彼のその手に、せめてTシャツの裾に、あさぎはいっそ縋り付いてしまいたいような気持ちになっていた。
――彼の足枷になどなりたくない、脅迫などしたくないと本当は思っていた。だが彼を誰にも譲りたくない、自分の存在を無しになどしたくない、という独占欲と自己主張も同じくらい強く抱いている。
少女が隠し、眼を背けてきた彼への想いは、いざ爆発してみるとやはり彼女自身にも制御出来ない恐ろしいものであったのだ。
――これ以上、言ってはいけない――。
心の中では、清矢郎を従兄として大事に思うあさぎが確かに存在してそう思っているのに、汚い欲望に負けたもうひとりの彼女が、畳み掛けるように、清矢郎へと更に衝撃的な言葉を投げつけた。
「責任、とってよ……」
十六歳の少女に、最早自分を止めることは出来なかった。
若干十二歳にして、清矢郎によって性の入り口に無理矢理突き落とされた。あの時、彼によってあさぎの心は突然壊された。だから今度はあさぎが彼を――……。
――違う!!
そんな狂った考えも、心の中のもうひとりの少女が強く否定する。こんな風に彼を脅迫し、壊したいのではない。こんな風に、彼を手に入れたいのではない。
「せいちゃん」はあさぎが幼い頃憧れていた家族である大事な男の子だ、とまだ僅かに残った理性と良心が、必死で己のこれ以上の暴走を止めようとする。
自分でも自分のことが段々恐ろしくなってきたあさぎが恐る恐る清矢郎を見上げると、彼はやはりどこか傷ついたような眼をしていたが、少女の要求の全てを受け入れる覚悟をしたような、寧ろそんな彼女を憐れむような、そういった眼もしていた。
――ああ、やっぱり、違うのに――。
あさぎは愕然とした。「責任」などという重い言葉を言っておいて、少女にはその意味も分かっていないが、もし本当に結婚して欲しいなどとあさぎが言えば、清矢郎は頷いてしまうのではないだろうか。
彼は自分に負い目がある以上、何を要求しても逆らえないのではないだろうか。そう思うとあさぎはぞっとした。
沈黙が一瞬訪れる。重苦しい空気の中、清矢郎は呟いた。
それは哀しいくらいに静かで優しく、強い意志を持った声だった。
「――分かった」
あさぎは想像通りの答えに、大きなすれ違いを確信し、思わず涙が溢れそうになった。
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