第13話 はじめての
緑の木陰の下、赤い金魚の群れの中、少女は少年に唇を重ねた。
軽く重ねただけのそれは、一瞬の出来事だった。少女は少年から顔を離す。
彼は何が起こったか分からないというような顔であさぎを見ていたが、とりあえずずれた眼鏡の位置を直していた。
あさぎはそんな清矢郎を見ながら、頬のひとつでも赤くなったりしないのかな、とぼうっと考えていたが、やがて自分の頬が段々熱くなってきたことに気がついた。いや顔だけでない、身体中が熱い――。
――って、なんてことしたんだ、私は!!
多分真っ赤になっているのは自分の方である、とあさぎはようやく自覚した。
彼に触れたくて仕方なくて、狂ってしまって、金魚が泳ぐ中、遂に衝動的にこんなことをしてしまった。
しかし、してしまった後は、あさぎも我に返り、恥ずかしさといたたまれなさに金魚など見ている余裕もなく、その幻像もいつの間にか消えていた。
――って今のがはじめての……になるんだけど!!
そのことに気付いたあさぎは、己の大胆さに驚きパニックになりながら、熱い頬に手を当てて俯いてしまう。
正直、少女とて例外なくはじめての「それ」には憧れていた。好きな男の子の方から、そっとしてくれたらなと、ありがちな甘い夢を見ていたのだが、それどころの騒ぎではない。
実際の「はじめて」は想像と全く違うものであった。
何より一瞬であったし、柔らかかったような感じはあったものの、その感触もよく分からないままに終わってしまった。「作法」もあれでよかったのか分からない。
――こんな下手くそなキスをした自分を清矢郎はどう思うのだろうか。呆れただろうか、気持ち悪いと思うだろうか。というか、彼は初めてだったのか。
そう思うとあさぎは清矢郎の反応が気になってきて、そろそろと隣の彼を見上げてみた。
彼は前髪をかき上げ、その姿勢のまま同じく俯いて固まってしまっていた。
手が額にあるので少女にその顔はよく見えないが、覗き見る限り、複雑そうな表情である。やはり、困っているらしい。
「ごめん……」
後悔したくないと自分の欲望を満たした割には、あさぎは思わず謝った。
「別に……」
しかし相手の答えが自分を非難するものではなかったので、あさぎは少し安堵した。
「嫌だった……?」
「……別に」
また否定的ではない答えにあさぎは更に安心するが、逆に、これで終わりなのか?という懸念が浮かぶ。
確かに一昨日の時点では、自分にはセックスなんてまだ早い、恐いと少女は思っていた。そんなこと有り得るわけないと思って家を出てきた。それなのに一度この欲望を認めてしまったからには、恐怖以前の問題で、むきになってしまい、彼を自分のものにするまでは離れたくないと思ってしまっている。
このまま、うやむやにしたくない――若い少女はそんな風に形のあるものを求めてしまい、不安になっていた。
清矢郎もどうやら、先程の言葉からあさぎのことは異性として見られないというわけでも、嫌っているというわけでもないらしいので、まだ可能性は感じられるものの……。
だからと言って、これからどうしてよいかあさぎには分からない。
この返事は後日すると言われてしまうのだろうか……あさぎがそう思ってもう一度心配そうに清矢郎を見た。彼も顔を上げてあさぎの方を見た――と同時に、突然あさぎの左腕を掴んで彼の方へと引き寄せた。
「痛……っ」
強く掴まれた左腕の痛みに、あさぎは小さな悲鳴をあげる。その声に腕を掴んでいた指の力はやや抜かれたものの、清矢郎はあさぎを睨みつけながら言った。
「だから、一体、どういうつもりだよ。――俺と、やりたいってことなのか」
言おうか言うまいか悩んでいた清矢郎であったが、ずっと自分のことを嫌っていると思っていたあさぎに求められ、挙句の果てには口付けまでされ――混乱が極まり、冷静な彼も爆発したくなったのだろう。
遂にストレートに問われてしまい、あさぎは逃げ場がなくなった。彼に汚い欲求を抱いている自分が、愚かで穢れているような気さえしてくる。
「……」
だが、その質問に恥ずかしくなり黙ってしまったあさぎだが、やがてこくりと素直に頷いた。彼が愕然としたことが、あさぎの腕を掴んでいる、汗ばんだ手の指の動きで伝わってきた。
いつの間にか、少女の喉はからからに渇いていた。暑い、と思った。熱い、と。
今見えている金魚の幻覚が性欲によるものか、熱中症によるものかも分からないほどに。
だがまた現れたそれを見ながら、ここまできたらもうどうにでもなれ、とあさぎはうわ言のように言葉を発する。
「でも、一回限りできれば……とか、そうゆうんじゃ、ないの……。そんなの恐いし、哀しいし、嫌。だって、せいちゃん自身が、欲しいんだもん。だからずっと、ずっとじゃなきゃ、やだよ……」
子供のような口調で恐ろしいことを言うあさぎを、清矢郎はただ凝視していた。
ここまで自分を求められるとは思わなかった少年としては、複雑な思いすらあるだろう。
だが、十八歳の青少年である。それに興味がないどころか、その欲望に従いたくて仕方がないのが本心。しかし、相手は従妹の女の子だ。それが彼を抑止させる理由だった。
そうは言っても彼女がこんなことを言うのは、彼が幼かった彼女に、悪戯をし、性に狂わせてしまったからなのである。
少年にはその罪悪感があり、ずっと自身を責めてきたものの、彼の想像とは違い、少女は逆に彼を求めるようになってしまった。更に彼が彼女を受け入れることで、彼女は納得すると言うのだ。このことには清矢郎も驚いていた。
しかもあさぎには、彼は幼い頃から悪い感情は抱いていない――だから、要求を聞き入れることはやぶさかではない。
それに仮にもし、己以外の男があのような行為を今の彼女にしたと想像すると……、正直、彼はいい気持ちはしなかった。逆に、自分が初めて彼女にそういう行為をしたのだという、変な優越感すら持っているほどであった。
だからと言って、彼女の求めるように抱いてしまってそれでいいのか――?
言動も行動も、相変わらず理解しきれないあさぎに、清矢郎は問い掛けた。
「だからそれって結局……、付き合いたいってことじゃねえのかよ」
「……そうかも、しれない。でも……!」
清矢郎の言葉に一旦は同意したあさぎだが、先程その言葉を否定した理由を思い出して顔を上げる。
「だってせいちゃんなら、義務感で付き合ってくれそうなんだもん。それは嫌だから……」
清矢郎には彼女も居ないようだし、今までの言葉からすれば、頼めば彼は「付き合って」くれるだろう、とあさぎは思った。しかしあさぎは先程言ったように、上辺だけの関係ではなく、彼の心まで欲しいのである。
「だから、付き合ってなんて言えない……私のこと、本当に、好きじゃ、ないなら……」
少女はそう言うとまた俯いた。
脅迫によるものではなく、彼に本気で自分を欲してほしかった。初めて男に抱かれるならば、本当に「自分」を必要とされて抱かれたいと思っていた。
それがただの理想でも、皆に愛され大事にされてきた少女は、そんな風に願っていた。
「――じゃあ、お前はどうなんだよ。俺のこと、どう思ってんだよ」
しかし厳しい声が頭上から聞こえてきて、あさぎはまた清矢郎を見上げる。
「俺の、全部が必要で、一回限りじゃ嫌で――それで付き合うのは違くて、やりてえって……なんだよ、それ。一体何なんだよ。それじゃ何の関係も成り立たねえだろ」
あさぎの甘えと矛盾をわざと嘲るように、清矢郎は吐き捨てた。その言葉にあさぎは己の浅はかさに気付き、唇を噛んで俯く。
「欲しいなんて言うなら、覚悟決めろよ」
それは誘惑などではなく、あさぎの兄貴分として厳しい口調でそう言うと、清矢郎はあさぎの腕を離した。
「……か、覚悟ならあるもん!」
その次の瞬間、あさぎは弾かれたように立ち上がって今度は清矢郎を見下ろした。――子供扱いされている、そう思ったからだった。
先に幼い自分を女扱いしたのは、彼であるのに。そう思うとあさぎはまた腹が立ってきた。
「せ、せーしろーの方が恐がってるくせに!」
ああ、売り言葉に買い言葉――少女は同じようなことの繰り返しに、内心ではまた自分に呆れているが、この想いを叶えたいという気持ちは止まらない。
「私が父さんとか母さんとか、伯父さんとか伯母さんとか、みんな裏切ってでも付き合いたいとか、やっちゃったら赤ちゃんできるかもしれないし、きっといっぱい不安になるから、ずっと……一生、一緒にいてなんて言ったら、困るくせに! せーしろーこそ、覚悟なんてないくせに!」
――私を欲しいと言ってよ!
心の中ではそんな悲痛な叫びを上げながら、あさぎは清矢郎を罵ってしまった。が……、
「――あるよ」
間髪入れず、清矢郎はあさぎを下から睨みつけながら、挑発するようにそう答えた。
「――」
その答えに今度はあさぎが息を飲んでいると、再び少女のその細い腕が少年の大きな手に捕らえられた。そしてそのまま、強い力に引っ張られ少女はバランスを崩して膝をつき、彼の胸の中に倒れ込む。
そして今度は、少年から――、唇を、奪われた。
それこそそれは、やや強引でありつつも、壊れ物を扱うような優しさを感じ、あさぎは思わず抵抗することなく身を任せてしまう。
少年の唇が、少女のそれに押し付けられていた。その感触と温度が先程よりもよく分かる。
少女は思わず眼を閉じる。暗くなった瞼の裏に赤い炎のようなものがちらちらと見える。身体中が熱くて痺れている。
やがて少女の閉じられた小さな唇に、少年の舌が割り込んできた。
「――!?」
今日がはじめてなのに、ここまでされちゃうの!?と十六歳の少女は戸惑うが、知識として知らないわけではない。
どうしてよいのかやはり作法が分からないので相手のされるがままになっていると、少年の舌が少女の口内をゆっくりと舐め回し、犯し始めた。
――せいちゃんに、キスされてる、よう……しかも、でぃーぷなやつ……。
そう実感するとあさぎの身体が余計にぞくぞくとした。局部は既に、痛いくらいに疼いている。
少女には何故か子供の時の楽しく汚れなき記憶が思い出され、今、こんなことになってしまっていることに、不思議と涙が出そうになった。ぎゅっと閉じていた眼を薄く開き、あさぎは清矢郎を見た。
彼もまた薄目を開けてあさぎを見た。眼が合ってしまい、あさぎは慌てて眼を閉じた。自分へと熱い視線を向ける「男」の表情など、とても見ていられなかった。
少女はどうにか息継ぎをしながら、相手の攻めてくる舌から逃れようとする。それを相手が追いかける。それを繰り返すうちに、いつの間にか舌同士が絡まり合ってしまっている。
少女にはこんな「よくないこと」を外でしていて、誰かに見られないだろうかという不安はあるが、確かに人の気配はなく、鳥居からは死角になるところに座っていたので、後は運を天に任せることにした。
何より少女は硬直し身動きがとれずにいたし、そしてもうブレーキが利きそうにないと思っていた。
少年のねっとりとしたぬるい舌の感触があさぎに伝わってくる。二人分の唾液が、混ざり合って溢れ出す。あさぎの息も荒くなり、相手の聞いたこともない荒い息遣いも聞こえてくる。
なんて動物的な行為なんだろうとあさぎは思ったが、その背徳感にまたぞくりとする。それは正常な思考を溶かす毒であった。
身体の中から何かが溢れ出しそうな感覚が、あさぎを襲ってくる。それを恐いと思った彼女には、まるでそこから逃れようとするかのように、目を閉じていても見える赤い光――ちらちらと揺れる金魚を見ていた。
それは四年前のあの日に見たものよりも、濃い緋色をしていた。
あさぎはあの時のように、一生懸命そちらを見て、この現実から、変化しようとしている己自身から逃れようとした。
だが既に自慰行為で快感を知っている身体は、そんな幻影よりももっと確かな悦びを求め、視覚よりも触覚の方に神経を集中させようとしていた。
――だめ……!
消えそうになった金魚にあさぎが心の中でそう言った時、はあ、と大きな息をついて、清矢郎はあさぎを解放した。
あさぎは呆然とした様子で清矢郎をを見上げていたが、彼は自分の口元を手の甲でぐいっと拭うと、てかてかと濡れているあさぎの半開きの口元も掌で拭った。
はっと気付いたあさぎは自分が今どんな淫らな顔をしていたのか気付き、その顔を見せたくなくて俯いた。しかし少女のジーンズの中は既にじっとりと湿り気を帯びていて、今の行為に身体が反応し、興奮していたことを自分自身に証明してくることが、恥ずかしくて仕方がない。
「……本当に、やりてえなら、こんなもんじゃねーぞ」
清矢郎の低い声に、あさぎの身体がびくんと反応した。
「本気で、俺はお前を滅茶苦茶にするかもしれないし、傷つけない保障はない。つうか、確実に傷つける。お前の言うとおり責任とったって……構わねえけど、失敗して子供なんか出来たら、まだ未成年だから、親にまで迷惑が掛かる。――そんなことは、したくないし、あさぎを哀しませたくない」
一言、一言を、彼は重く噛み締めるようにあさぎに伝えてくる。
彼の言うことは、いつだって正しい。彼の考えをあさぎは信じているし、似たような親に育てられているのだから、そもそも価値観も似ている。
十八歳の男子ならばすぐに押し倒してきそうなところを、彼のことより大事な人々のことを第一に考える清矢郎は、やはり大した男だと、あさぎは思っていた。
清矢郎があさぎのためを思ってそう言ってくれるのは伝わってくるし、それはとても嬉しかった。だからこそこの男を信じよう、賭けよう、欲しいと彼女は思ったのだ。
だが、その理論でいけば彼が手に入るのはいつになるのだろう、何年後になるのだろう、と少女は不安にもなる。
その間に彼が誰かのものになってしまいそうで、あさぎは恐かった。もう待たされるのは嫌だ、今すぐこの飢えを満たして欲しい、彼が自分のものであるという確かな証が欲しい、とあさぎは強く願っていた。
若すぎる故の焦りと、女としての本性が少女にそんな淫らなことを思わせていた。
あさぎは困ったように、今しがた自分を襲っていた男のTシャツの裾をまた掴む。
「い、言ってることは、分かるけど、……何年も待つなんて、やだよ……」
世間にはいくらでも高校生同士でセックスをしている事例はある。それは清矢郎だって分かっている筈だ。
彼の言うことは正論であり、あさぎも頭では分かっていることだが、素直に受諾できなかった。勉強も進学も、避妊も自分はちゃんとするつもりでいる、どうしてこの気持ちを抑えなければならないのだろうか、と。
身体はもう生殖が可能なのに、立場が社会的に子供であるという逆説を、少女は悔しく感じた。
先のことを何も考えていないわけではない。自分を大事にしていないわけではない。この相手と一生添い遂げたって構わない。その「覚悟」ならば出来ている、と少女は自信を持って思っていた。
彼も責任をとると言ってくれたし、嘘を言わない彼のことをあさぎは信じていた。後悔など――するものか、と少女は心に決めた。
「……それに、今日、安全日だし」
その知識も一応ある。偏頭痛と微熱から生理予定日のほんの二、三日前になる筈なので、あさぎはそう言い返した。
「……、そーゆー問題じゃねえよ……」
一瞬何事か考えたような間があったが、清矢郎はあさぎの方を見ないで呟いた。
確かにそんなにやりたいのかと思われそうだが、今の少女は行為そのものよりも、この少年に自分を認めてもらい、必要としてもらいたくて躍起になっているのだった。
それに今の淫らな行為は……、正直言って悪くなかったとも思ってしまう。少女にはあの感触をもう一度味わいたい、あの先を知りたい、という肉体的欲求も確かにあった。
「第一、順番、滅茶苦茶じゃねえか」
しかし清矢郎がふてくされたように言うそれも、もっともだとあさぎも思っている。これが恋愛感情なのか、互いに一度も認めておらず、愛を確かめ合って交わるなどという、よくある手順を踏んでいない。
だとすればこれはただの性欲なのかもしれない。だが少女は少年に対し、身体も心も、これからずっと自分に捧げて欲しいという要求をつきつけ、それに対し少女を大事に思う少年は、一切を飲むと約束した。
つまり互いにとって互いのことは、一時ではなく永い時を共に過ごす相手として、不足はないと感じているのだ。
それにおそらく、幼少の頃から互いに相手をどこか特別に思っていた。生まれた頃から接していた二人は、その幼い脳の扁桃体に、互いが異性としての「好み」となるよう植えつけられてしまっていたのだろうか。しかも親子や兄弟ほど濃い血縁関係でもないので、尚更意識し合ってしまう。
……一体、いつからが始まりだったのか。
必然か偶然かも分からないが、あの夏の日の出来事があった以上、こうして相手を受け入れること以外に、二人の想いが昇華され、満たされる方法は有り得ないのかもしれない、と二人共に思い始めていた。
「めちゃくちゃって……最初に、順番めちゃくちゃにしたのは、清矢郎だよ?」
これはあさぎの欲望を正当化する唯一の免罪符であるから、少女はごめんねと心の中で言いながら、「女」の表情で微笑んで彼を責めた。
そしてそう言えば彼が彼女に逆らえないことを知っているので、あさぎはこの優しい男のTシャツをもう一度引っ張ると、先程の毒を欲するように、誘惑するように、もう一度自分から唇を重ねてしまった。少女は自分から舌を入れることは抵抗があったが、照れながらも彼の唇を軽く啄ばんでみると、彼の唇が開いた。
少年も理性でどれほど少女を守りたい、正しいことをしたい、これはよくないことだと自分に言い聞かせても、溜まっていた肉体の欲求に逆らえず、自然に身体が動いてしまった。
そして二匹の蛭が絡み合うように、また濡れた粘膜同士の鬩ぎ合いが始まった。
正しい倫理が二人の間に確かにあった筈なのに、覚え始めてしまった性の営みは、いくら清廉潔白な少年少女であろうと、その甘く芳醇な匂いに二人を酔い痴れさせ、その魅惑に狂わせていく。
蝉の声の降りしきる神社の境内で、互いのみに聞こえる荒い息と水音を立てながら、一組の若い男女が止められない情欲に身を焦がしていた。
理性の殆どを飛ばしてしまった中、二人は互いの口内を必死になって貪り合い、接吻だけで既に身体に火がついたようになってしまっていた――。
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