幻影金魚(12/15)PDFで表示縦書き表示RDF


幻影金魚
作:takao



第12話 彼の本心


 ――ここで話はひとりの少年の回想に移る。

 豪快で厳しい父親と、穏やかだが芯の強い母親との間に育った無口な少年は、物心ついた時には、周りの物事にそれほど心を動かされない性格になっていた。それは生まれついてのものもあったかもしれない。
 そして気がつけば幼い彼の傍には、祖母の家でよく遊ぶ、小さくて可愛らしい妹のような女の子の存在があった。
 彼女は彼と違ってよく笑い、よく泣き、色々なことに感動をしていた。時にうるさいなあと思うこともある反面、少年にはない感性と明るさを持っていたので、遊んでやっていて楽しいと彼にも思えた。

 感情を表に出さない少年は、複雑そうに周りから見られることがあるが、その実はとても単純なところがある。本当に何も考えず、ぼーっと無心でいる時もあれば、理屈がとおっていないと感じることに対しては、自分の意志を静かにだが、曲げずに貫く激しさも持ち合わせていた。
 父親は躾にも少年に求めることも厳しく、時に少年に鉄拳を喰らわせてくる。既にそれに慣れてしまっていた少年であったが――もちろん、彼自身は親になったら子供には絶対に手を上げないでおこうと、密かに心に誓ったわけであるが――、祖母の家でこの光景が繰り広げられると、その一緒に遊んでいる女の子の方がびっくりして泣いてしまうのだ。
 どうやら彼女は「感じやすい」子なのだろうと少年は思った。センシティヴ、感受性が強い、繊細……と言い換えられるそれは、少年の拙い語彙ではそのように表現された。

 少年は自分も悪いと思っているし、いつか見てろよという反骨精神もあるので、どれだけ厳しく叱られてもへこたれはしない。なのに、少女の方が恐がっていつも泣いてしまう。正直、こいつばかなんじゃないのか、と思ったことすらある。
 だが少女は後から少年に彼女の好きなお菓子を分けてあげると持ってきたり、痛くない?と何度も聞いたりと、心配もしてくれた。一人っ子であり、両親が共働きだった彼は、そうやって構われることは嫌ではなかった。寧ろそれは叱られた後の唯一の楽しみであり、安らぎでもあったのだ。

 しかしある日少年はふと、この女の子が泣くのが面倒くさいなと思うようになった。泣き顔を見たくないなと思った。
 単純な彼は単純な図式を考える。
 ――そうか、俺が親父に怒られなければいいだけか、と。
 それから彼は努力した。学業も習っていた剣道も、子供同士の喧嘩も然り。時間を費やし集中し、とにかく手を抜かない精神で打ち込んだ。

 元々頭もよく、体格に恵まれたこともあり、その努力は面白いくらいに実った。丁寧に基礎を積み重ねて全力を注げば、彼の実力ならばそれなりの成績が修められることが分かったのである。
 しかし少年としては名誉を手に入れたくてしたことではないので、トップに立っても特に喜びもせずやはり無表情で朴訥としていたが、「やればやっただけ結果に繋がる」という事実は彼に自信をつけた。
 それが功を奏したか、年齢的なものもあってか、小学校の高学年になる頃には父親に怒鳴られる回数も徐々に減ってきた。

 そうは言っても、今度は叱られる内容が複雑なものになってくる。結果を出さねば過程は無駄と主張する父親は、ここまで出来ればまだ出来る、慢心するなと中々及第点をくれない。
 頷ける部分もなくもないが、思春期を迎え精神的に自立し始めた少年は、価値観を強引に押し付けるような父親のやり方に、相容れないものを感じるようになった。
 しかしまだ社会的に「子供」の部類で、義務教育を受けている身。苛立ちのままに非行に走ることは簡単だが、それでは本当の意味で父親を見返すことにはならないし、母親を哀しませるだけである。
 誰の世話にもならず、自分で自分の意志を実現できるような大人になるためには、社会に対抗できる力をつけねばならず、それまでは、と少年はじっと堪えていた。鬱屈とした感情を押し殺していた。

 そんな中、祖母の家に行き、あの明るく笑う女の子に会うと、少年は何故かほっとした。
 彼女は年下であり、家族ということもあって少年を絶対的に信頼していることから、クラスの女子とはまた違う存在に感じられた。
 少年の年代の女子は、男子よりも身体も精神も成長が早いので、母親や姉のように世話を焼いたり、怒ったり絡んだりしてくる。そういった女子が彼は少し苦手だった。

 またその従妹は、他の女子にはないような独特の感覚を持ち合わせていた。見ているところが自分と違う、と少年はよく思っていた。
 たまに言っていることがよく分からないが、彼女と話すのは発見が多く面白いのだ。だから少年はそんな少女のことは嫌いではなく、自分を頼ってくるところは可愛いと思っていたし、会えるのは少し楽しみとなっていた。
 だが互いの身体が大人に近づくにつれ、二人の間に溝が生まれ、昔のように感情を共有することが出来なくなってしまった。

 いつしか彼も大人の身体になる準備を始め、気がつけば彼女も大人の身体に近づきつつあった。
 ずっと子供のままのような気でいた従妹の女の子のその変化に、少年は不思議な、それでいて変な気分になってしまう。会うたびに、「それ」が嫌なものとして自分の中に蓄積されていくのが少年にも分かった。
 そんな心境になってしまったのは、単純な身体の欲求からか、彼女に特別な感情を抱いていたからか、日々の葛藤や苛々から逃避したかったからか、最も身近で弱い者に力を誇示し優越感に浸ろうとしたからか、少年にはよく分かっていない。

 だが四年前の夏の日、いつの間にか募っていた、黒く醜い己の心に少年は負けてしまった。
 暑さに苛々していた夏休み、父親のことだけでなく、自分に嫉妬した部活の先輩に自分や友人を貶めるようなことをされ、少年の我慢が限界を超えたのだった。
 しかしそんな汚い感情から弱い少女を襲ったところで何にもならず、益々自己嫌悪を感じ、居場所を失っただけだった。そのことに少年は罪を犯してから初めて気がつき、深く後悔する。
 それなのにその時の感触を何度も想い描く己は、どうしようもない下種な人間だと少年は思っていた。

 それは努力家であり誠実な彼の人生において、唯一の汚点であり、唯一彼の心を砕いた出来事だった。
 それ以降、彼にとって、その少女は唯一の弱点となったのであった。


 そして話は四年後の夏、神社の境内に座る、あれから更に身体も心も成長した二人に戻り――。


 ・・・・・・・・・・


 あの相手が清矢郎だったから、自分はこんな風になってしまったとあさぎは思っている。しかし彼はどうなのだろうか。
 そう思ったあさぎに「私じゃないと嫌だった?」と問われた清矢郎は、眼鏡の奥の眼で彼女をじいっと見て何かを考えているようだった。
 その不自然なほどの視線に、思わずあさぎの方が恥ずかしくなって眼を逸らしてしまう。やがて彼は、低く呟いた。

「お前だからそうしたのかって言われても……お前以外の女が近くに居なかったから、それ以外、想像つかない」

 彼にとっては、毎日会うがあまり会話をしないクラスの女子よりも、数ヶ月に一度しか会わないが一緒に遊んだり風呂に入ったり眠ったりしていた身内の少女の方が、身近な女性であったのだ。
 しかしそれを聞いたあさぎは、やはりずきんと胸が痛む。自分はあれから四年間、清矢郎のことを想っていたのに、彼にとってはストレスと性欲発散の受け口として一番身近な女を使っただけ、というのだろうか。
 実際あさぎも、あんなことをされなければ清矢郎をここまで想わなかったかもしれないので、同じことかもしれないが……。
「でも……」
 しかし清矢郎はそこでまた言葉を区切り、言おうかどうしようか少し迷ったようだが、無口な彼にしては珍しく、もう一言付け加えた。

「嫌いな女なら、あんなことしないし、責任とれとか言われても、言うこと聞きたくねえし……電車の時間も、合わせたりしない」

「……」

 ……はい?

 あさぎは心の中で思い切り聞き返す。今しがたの胸の痛みは何処へやら、少女は清矢郎をぽかんと見上げた。
 彼は自分が傷つけてしまった少女を、これ以上不安にさせないように、出来るだけ彼女を安心させてやりたくてそう言ったはいいものの、最後の一言はやはり余分であった、と思ったのか言い終わった後は苦い顔をしていた。
 あさぎは今の言葉が幻聴ではないかと、一瞬疑ってしまった。

 電車の時間を合わせていたと、彼は確かに言った。
 最初に偶然出会ってから、彼を一生懸命探すようになった駅での出来事は、毎日少女を一喜一憂させ、それはまるで恋のように甘く切ない時間であった。彼が自分のことに気付いてくれない、見てくれないと、少女はずっと心を痛めていた。
 ――それが……?
 あさぎの鼓動が速くなっていく。

「もしかして……わざと、そうしてたの? あと私が、そうしてたのも……、き、気付いてた?」
 気恥ずかしい気持ちであさぎは尋ねたが、清矢郎はそっぽを向いたまま黙って頷いた。

 ――えええええ、うそおぉぉぉ!!
 あさぎの心の中で絶叫が上がる。
「し、知ってたの!?」
 あさぎが上ずった声でもう一度同じことを尋ねると、
「……なんか睨んでるみてえだったから、余程怒ってんだろうなと思ってたけど」
 清矢郎はあさぎの方を見ずに、頬杖をついてそう言った。

 ――全部、お見通しであったのだ。彼の視界に、彼を探すあさぎが捉えられていたのだった。
 あさぎが嫉妬できっと醜くなっていた表情で、彼を恨みがましく見ていたことも。
 届かない想いに躍起になって、必死で彼を追いかけていたことも――もっとも彼は、あさぎの持っている複雑な感情にまでは、その時点では気付いていなかったようだが。
 そして、その逆も――彼もまた、同じように自分を探して其処にいたのだと。

「どうして、そんなこと、……してたの?」
 あさぎは清矢郎を見上げて問い掛けた。
 大逆転は起こるのだろうか。そんな風に言われれば、少女は嫌でも期待してしまう。
「さあな」
 しかし清矢郎にとっては不覚な発言であったらしく、彼はつっけんどんに答えてあさぎの方を見もしない。

 照れているのか?とも思うが、自分に対して何でもすると言った割には反省の色が見られないじゃん、とあさぎは偉そうなことを思うと、催促するように清矢郎のTシャツの裾を軽く引っ張った。
 清矢郎は思わず、あさぎを見下ろした。しかしそれは一瞬で、彼はまた視線を逸らすと、あさぎの言いたいことが分かったのか、仕方なさそうに軽く舌打ちをした。
「――別に。そう会えるもんでもねえし、ただ単に元気でやってるか気になっただけだ」
 清矢郎はぶっきらぼうにあさぎにそう言ったが、Tシャツに添えられた手は振り払われなかった。
 こういう可愛くない態度も慣れているあさぎだが、もう少し甘い言葉を期待していたので少々がっかりしてしまう。
 少女がこのやろうと、という意味を込めてTシャツを引っ張ると、「伸びる」と冷たく言われた。

 しかし、十六の少女にはその言葉の裏に隠されたものまでは気付かなかった。
 自分が傷つけてしまった大事な少女が、笑っているか、幸せであるか、彼はそれだけを心配していた。そして友達と楽しそうに笑い合っている彼女を見ると、ほっとしていた。
 そんな風に彼もまた四年間、「あさぎ」という呪縛に囚われていたのであった。

 ――この感情をどう言っていいのか、二人共に分からないが。

 だがあさぎとしては、嫌っていたらこんな風に言うことをきかないと言われたこと、そして自分と同様、彼が自分のことを気にしてくれていたことは、素直に嬉しく頬が緩みそうになる。
 そしてそんな彼は自分の「あの願い」にもしかしたら応えてくれるのかもしれないと、少女はやはり期待してしまう。
 あさぎは清矢郎のTシャツに手を掛けたまま、もう少し彼に近づくと真下から彼を覗き込んだ。今まで隠していた本心を自分に語ってくれた少年を、先ほどまでのように憎らしいと思うことは、もうなくなっていた。
 だから少女はこんな風に昔のように彼を真っ直ぐ見ることができたり、近づいたりしてしまうのだ。昔とは違う逞しい体つきには、少し意識してしまうものの。

 なんだよ、と言うように自分を見下ろした眼鏡の少年に、あさぎはまた零れる想いを口にした。
 満たされていく、そしてかえって満たされなくなる心模様の中、金魚がまた緑の中に飛び立ち始める。
「さっきの話……だけど、」
 清矢郎は、償いとして基本的にあさぎの要求には逆らわないつもりでいる。
 だが自分でも勝手だと思うが、彼女としてはただ言いなりになるのではなく、彼自身の意思がそこにあって欲しいとも思っていた。彼の口から語られた意外な事実から、その可能性がゼロでないことが分かり、先程の恥ずかしい告白にもう一度話を戻したのであった。
 この四年間、彼なりに彼女のことを考えてくれただけで十分の筈なのに、一旦決壊した少女の欲望はもう止まらなかった。
 そんなあさぎに清矢郎は少し突き放すように言った。

「だからそれって、どういう意味なんだよ。……分かるように、言えよ。じゃなきゃ、どうしていいか、わからん」
 そんな感情を言葉で説明しろだなんて、恥ずかしいこと命令しないでよ、と少女は思わず心の中でむくれてしまう。
 しかし全てを言えるわけもないが、清矢郎が本心を語ってくれたことで、気持ちを伝える勇気も出てきた。少女は祈りながら、自分の想いを羞恥を堪えてたどたどしく口にする。
「ただ、や、やれればいいってわけじゃないの……」
 少年にセックスを意味するようなことを言うのは恥ずかしかったが、誤解はさせたくないのであさぎは正直に言った。

「――全部、欲しいの」

 あさぎはもう一度言うと、改めて清矢郎を振り仰いだ。
 これは子供の我が侭なのか、女の情欲なのか、彼女にももう分からなかった。

「清矢郎の、心も、身体も」

 その眼を見て、少女は自分の想いの丈をようやく、全て伝えきった。
 その視線の先の少年は、想像してはいただろうがやはり驚いたような顔をしている。
 ――それはそうだ。普通こんなことは男性が言うセリフである。女から、しかも従妹からこんな風に迫られて、内心では清矢郎も引いているかもしれない、とあさぎは心配になった。
 だがあさぎには免罪符があった。脅迫で手に入れたい心ではないが、それでも彼の所為で自分はこんな風になってしまったのだと。
 どんな卑怯な手段を使っても、やはり他の人には譲りたくない、一歩も引きたくないと少女は思うのだった。
 
「私をこんな風にしたのは、せいちゃんだよ? 責任、とってよ……」

 また元通りの「呼び名」に戻り、あさぎは小さな声でもう一度責めるように繰り返すと、清矢郎のTシャツの腹の辺りをきゅっと握り締めた。
 欲しい、焼き尽くしたいと思う反面、相手を家族として、ひとりの男性として、守ってあげたい、大事にしたいという思いも存在する。
 なのにどうして自分はこんなに彼を困らせているのだろうか、傷つけることしかできないのだろうか、とあさぎは清矢郎の表情を見ながら申し訳ないような気分になっていた。
 だがいつの間にか徐々に彼に身体を近づけていた。本当はこのまま本当は縋り付いてしまいたいと少女は思っていた。

 ――このひとに、触れたい。
 その腕に、胸に、手に、肩に、頬に、全てに。

 直接的な欲求が少女の心に湧き上がり、それに呼応して二人の周りをひらひらと金魚が舞い始めた。
 普通なら隠されている汚らしい欲求も、この綺麗な金魚が現れることよって少女は自覚せざるを得ない。逆にこんなものを見るなんて、人以上に自分は性欲が強いのではないかと少女は恐ろしさすら感じてしまう。
 しかし真面目な清矢郎のこと、いくらなんでもこんな誘惑は拒否するかもしれなかった。過去にあんなことをしていても、従妹とそれ以上の関係にはなりたくないと思うかもしれなかった。
 ――だったら、これくらい、いいじゃないか、と。
 望みが叶わないならば、ほんの少し自分の願いを叶えるくらいいいじゃないかと、あさぎは己の欲望に従った。

 いつの間に、これほどまでに少女の心は狂わされてしまったのだろうか?

「――耳貸して」

 そう言わないと逃げられると思ったあさぎは囁くように清矢郎に言い、彼の顔を少し彼女の方へ傾けてもらうと、そのままTシャツを強く引っ張り――、あさぎはちょん、と自分の唇を相手の唇にくっつけた。







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