第10話 告白…?
清矢郎に謝られた瞬間、あさぎの心はささくれ立った。何か「違う」、そんな言葉は聞きたくないと強く思った。その理由は、ひとつだった。
「あ、謝らないでよ……」
あさぎは自身の想いを彼にどう伝えてよいのかまだ整理されていないものの、彼に謝られることにはひどく反発したくなった。その言葉だけは聞きたくない――その違和感と苛立ちとが引き金となって、あさぎの四年間の想いは爆発してしまった。なぜなら、
「謝ったら、それでおしまいなの?」
「……」
「謝って、私がいいよって言ったら、それで、おしまいなんでしょ? せい――ちゃんは、それでいいんでしょ? ずっと謝りたくって、私にいいよって言って欲しくて、そうすれば満足なんでしょ? それで終わりにしたいんでしょ」
あさぎは清矢郎の眼を真っ直ぐに見ていた。彼は堰を切ったようなあさぎの言葉に、驚いたような困ったような顔をして彼女を見返していた。彼もまた謝っても何もならないことは分かっていたので、反論せずに少女の話を聞いていた。
震えそうな声で、あさぎは続けた。
「謝るってことは……、無かったことにしたいんでしょ? 全部、リセットしたいんでしょ?」
自分には無かったことに出来ないのに、清矢郎はそうしたいのか?彼からの謝罪の言葉を、あさぎはそのように捉え、急激な怒りと焦りを感じていた。
確かに罪を犯し後悔している側にすれば、贖罪したい、楽になりたいと思うだろう。清矢郎は謝ることで、あの四年前の彼の罪を浄化してしまいたいのだろうか。
そう思うとあさぎの心が不安に揺さぶられ、眼の前の男が憎くて仕方なくなる。
あさぎの方は、忘れるどころか、あの日から日ごと夜ごと、この男の影が濃く色づいていくというのに。あの日、金魚を見るようになってから、ずっと募ってきた感情があるのに――と。
罪を犯された方は、その瞬間から全ての感じ方、考え方が変わってしまうのだ。己の人生すらに影響を及ぼすような出来事を、どうしてなかったことに出来るだろうか。
もちろん清矢郎があさぎに対し償いたいと思う、潔く誠実な気持ちは伝わってくる。しかしあさぎはそれをされることで、あの日の、そしてあの日から彼をずっと想っていた彼女の存在が、無しにされるような気がしてしまったのであった。
――それで清矢郎は楽になるだろう。でも、自分はどうなるのか!
あさぎは清矢郎を睨みつけるように見ていた。
清矢郎とて、まだ大人ではない。しかし少女は彼が自分に罪を犯したということを盾にして、この従兄の少年に、剥き出しの己の感情をぶつけてしまっていた。
あさぎが彼の謝罪を受け入れてしまえば、あの日のことは彼の中でリセットされてしまうのか、そう思うと少女の動悸が早まってくる。
生理前の微熱と、夏の暑さが手伝って、あさぎの頭がくらくらとしてきた。少女の心の歪みと共に、目の前の緑と陰の景色がぐにゃりとねじれそうになっていく。
「謝らないで! ――許してあげない!」
あさぎのなじるような声に、清矢郎はまた沈痛な面持ちに戻っていた。しかし何も言い返さず、ただ黙って聴いていた。
そしてあさぎもその表情を見ながら心のどこかで、自分はなんて子供っぽいことを言っているのだろう、なんて彼に対して酷いことを言っているのだろうと、彼女自身に呆れていた。
確かに先に「悪いこと」をしたのは清矢郎である。しかし彼も覚悟はしていただろうが、全てを拒絶され、傷ついてしまっていることは、あさぎにも分かっていた。
あさぎはそんな自分に嫌悪すら抱くが、それでも四年間耐えてきた彼女としてはやりきれない。
「許して、なんか、あげない……一生、覚えてなきゃ、嫌だ……忘れちゃ、やだ……!」
「被害者」だと言いながら自分は何をこの少年に要求しているのだろうと、あさぎは自分でもわけがわからなくなってくる。
だが彼が自分への罪を清算して他の女性と幸せになるなんてことは、どうしても嫌だとあさぎは思っていた。
あの日清矢郎に触れられて以来、あさぎの心が彼で占められてしまった。
そのことを清矢郎は知らないのだ。あさぎが金魚の幻覚を見てしまうくらい彼によって心を壊され、彼のことを性の対象として考えてしまうようになったことを。
そうすることで、あの忌まわしい思い出から少女が彼女自身を守ってきたことを。
だがあさぎは言いながら、この言葉が相手を脅迫し、苦しめるものであるということも自覚していた。
清矢郎があさぎに対し何でもすると言った言葉には、彼の性格上、嘘はないだろう。彼が自分に逆らえないことを分かっていて、彼女はそんな我が侭を口にした。
そう思うと清矢郎に対し申し訳なくもなってきて、言い終わるとあさぎは視線を落とし俯いた。
視界に入る彼のその手に、せめてTシャツの裾に、あさぎはいっそ縋り付いてしまいたいような気持ちになっていた。
彼の足枷になどなりたくない、脅迫などしたくないと本当は彼女も思っていた。
だが彼を誰にも譲りたくない、自分の存在を無しになどしたくない、という独占欲と自己主張も同じくらい強く抱いている。
少女が隠し、眼を背けてきた彼への想いは、いざ爆発してみるとやはり彼女自身にも制御出来ない恐ろしいものであったのだ。
――これ以上、言ってはいけない――。
心の中では、清矢郎を従兄として大事に思うあさぎが確かに存在してそう思っているのに、汚い欲望に負けたもうひとりの彼女が、畳み掛けるように、清矢郎へと更に衝撃的な言葉を投げつけた。
「責任、とってよ……」
十六歳の少女に、最早自分を止めることは出来なかった。
若干十二歳にして、清矢郎によって性の入り口に無理矢理突き落とされた。あの時、彼によってあさぎの心は突然壊された。だから今度はあさぎが彼を――……。
――違う!!
そんな狂った考えも、心の中のもうひとりの少女が強く否定した。こんな風に彼を脅迫し、壊したいのではない。こんな風に、彼を手に入れたいのではない。
「せいちゃん」はあさぎが幼い頃憧れていた、家族である大事な男の子だ、とまだ僅かに残ったあさぎの理性と良心が、必死で己のこれ以上の暴走を止めようとする。
自分でも自分のことが段々恐ろしくなってきたあさぎが恐る恐る清矢郎を見上げると、彼はやはりどこか傷ついたような眼をしていたが、少女の要求の全てを受け入れる覚悟をしたような、寧ろそんな彼女を憐れむ様な、そういう眼もしていた。
――ああ、やっぱり、違うのに――。
あさぎは愕然とした。「責任」などという重い言葉を言っておいて、少女にはその意味も分かっていないが、もし本当に結婚して欲しいなどとあさぎが言えば、清矢郎は頷いてしまうのではないだろうか。
彼は自分に負い目がある以上、何を要求しても逆らえないのではないだろうか。
そう思うとあさぎはぞっとした。
沈黙が一瞬訪れた。重苦しい空気の中、清矢郎は呟いた。
それは哀しいくらいに静かで優しく、強い意志を持った声だった。
「――分かった」
あさぎは想像通りの答えに、大きなすれ違いを確信し、思わず涙が溢れそうになった。
少女の言葉は、もう何を言っても脅迫にしかならない。今、彼女が何を要求してももう、それに従うことは清矢郎にとって「償い」でしかないのだ。
優しい彼により、彼女の望みはきっと全て叶うのだろう。彼は何を犠牲にしても叶えるだろう。
彼女の欲しいものは、こんなものではないのに――。
「違う、違うの……」
あさぎは首を振った。上手い言葉が思いつかない。言葉など使わず、彼に抱きついて全てを分かってほしかった。
しかしそれは出来ないことなので、あさぎは清矢郎の方に膝を寄せ、その顔を見上げながら、自分のワンピースを千切れそうなほど握り締めていた。
「そんな、無理矢理、言うこときかせたいとか、そんなんじゃないの、そんなことがしたいんじゃない……」
自分の想いが伝わらないのがあさぎにはもどかしいが、裸の心を彼にぶつけることも恥ずかしいと思っていた。
しかしもう、そこまで曝け出さないときっとあさぎの想いは伝わらないのだろう。
このままでは、彼は償いの義務だけであさぎに優しくし続けるのだろう――、一生。
そう思ったあさぎは誤解を解くために、思い切って彼に告げた。
「謝られたら、あの日のことが、チャラになっちゃう。無かったことになっちゃう」
――無かったことにしたいんじゃないのか?
清矢郎の心の声が、その不思議そうな表情に表れている。
「わ、忘れさせてなんか、やらない。無かったことになんか、出来ない」
あの日「あさぎ」という少女が其処に生きていた。それはこの少年に求められたことで立証されている。少女はその証を、奪われたくないと焦っている。たとえ、彼であろうとも。
「『私』を否定しないでよ!」
清矢郎が再び困惑の表情を見せる。それはそうだろう。「被害者」である少女にこんなことを言われたのだから。
しかしあの日からあさぎが性に目覚め、清矢郎の姿を追いかけるようになってしまった以上、あの出来事は彼女には否定することも、消し去ることも出来ないのであった。
「あの日の自分」を無しにしてしまえば、今の、この、彼を想う「自分」は存立しない――あさぎはそう信じていた。
そこでふと、あさぎは不安になった。こんな自分を彼はどう思うだろうかと。
変な女だと思うだろうか。だが先に変なことをしたのは、清矢郎の方である。
彼が自分を、このように壊したのだ。あさぎはそう思うと開き直ったように、清矢郎をまた睨み付けた。
「せ、せーしろーが、いけないんだ。――なんで、あんなことしたの!?」
結局、彼を責めることしか出来ない。
一体どちらが加害者で被害者なのか。一体何が、「罪」だったのか。
「あんなことしなければよかった」とあさぎ以上に清矢郎が苦しんでいることは、既にあさぎにも痛いほど伝わってきている。今のあさぎが彼にしていることは、そんな彼をただ余計に追い詰め、苦しめているだけだった。しかし、
「あんなこと、私にしなければ、こんな気持ちに、ならなかったのに……」
我慢できない己の苦しい想いを口走り、あさぎは泣きそうな顔で清矢郎の眼を見た。
あさぎに対し全てを受け入れ償うつもりでいた少年は、彼女の視線を決して逸らさなかったが、流石にこの言葉には少し驚きの色を浮かべていた。
彼がどう思ったかは分からないが、「こんな気持ち」とはどんな気持ちなのか、と問われるとあさぎは恥ずかしくて言えなくなる。
だがこの感情は、あの出来事がなければ抱かなかったもので、とても熱くて狂気的な、それこそ金魚の幻影すら見せてしまうほどの、強い、気持ちであるのだ。
――あの日見た、綺麗な真っ赤な金魚を、本当はもう一度見たい。
そんな汚れた願望すら、抱いてしまうほどの。
だが彼はそもそもどうしてあんなことをあさぎにしたのか。いっそ「あさぎが好きだったから」とそんな単純で甘い理由であって欲しいとあさぎは思っていた。
彼女は本当はそれを確かめたいのだが、全く違う理由であったり、昔はそうだったけど今は違うと言われるのも哀しいものである。
しかし清矢郎の真意は分からなくとも、ここまで言ってしまった以上、後は一緒だ。
堪えてきたこの鬱屈とした気持ちに我慢が出来ず、壊れそうなほどの胸の高鳴りの中、あさぎは思わずそのままぽろりと口走ってしまった。彼への、気持ちを。
――このままもう、楽になりたい。
きっとこれで、全てが終わるんだろうな、と少女はどこかで予感していた。
「――欲しい、の」
零れた少女の言葉に、少年の眼鏡の奥の眼が見開かれた。
……言ってしまった、と自分でも愕然としながら、あさぎは辛うじて言葉を続けた。
「どうしよう……もう、せいちゃんじゃないと、……だめみたいに、なってる……」
少女の拙い言葉では、他に言いようがなかった。
欲しいものは償いの言葉でも行動でもない。「好き」なんて生易しい気持ちでも、そういう相手でもない。
きっとこれは、四年前のあの時に小さく息づき、ずっと育ってきた欲望に違いなかった。
欲しいものは――彼自身、なのだ。
清矢郎の後ろを異様な数の赤い金魚が空へと飛び立ち、今のあさぎの心を象徴していた。
この金魚が見える限り、自分はこの男を欲するのだろう、とあさぎは呆然としながら思っていた。
まだ子供の部類であるというのに、溢れ出した己の「女」の狂気にあさぎは絶望する。本当は前から気付いていたのに、眼を背け続けてきた、それ。
しかし後悔してももう遅い。この四年間溜めてきた自分の想いを告げてしまった。
今までの色々な出来事や少女自身の悶々とした想い、それらを端的に言えば、きっと、そうなるのだろう。
彼はあさぎの「好きな人」――などではなく、「欲しい人」――なのだと。その心も、その身体も。
遂に言ってしまったものの、また、謝られたらどうしよう、とあさぎは恐くなる。
自分に対し償いたい、何でもすると言ってきた彼に甘え、全てをぶつけてしまったが、実際清矢郎に自分以外に大事な人がいれば、こんなことを言われ彼はどう思うのか。どう、答えるのか。
結局告白と同じような気持ちになり、あさぎはどくんどくんという心臓の音を聞きながら、俯き、眼を閉じて清矢郎の言葉を待つ。緊張のあまり金魚たちもいつしか視界から消えていた。
「――どういう、意味だよ」
しかし思いがけない質問に、あさぎが驚いて顔を上げると、清矢郎は非常に複雑な、ぶすりとした顔をしてあさぎの方を見ていた。
「俺のこと、嫌じゃねえのかよ」
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