第1話 はじまり
――それは小学六年生の、暑い暑い夏休みのことだった――。
八月のお盆前の蒸し暑い昼下がり、蝉の声はうるさく降りしきり、風鈴の音が小さく響いている。
古い湿った匂いがする祖母の家の、色の変わった畳の部屋で、少女は金魚鉢に入った金魚を眺めていた。鬱蒼とした庭の植え込みが、熱苦しそうに揺れていた。
その少女が「せいちゃん」と去年の夏に、近所のお祭りで取った金魚は、まだ生きていた。
今日は家族も誰もおらず、かといって夏休みの宿題もしたくなく、少女は退屈な気持ちでぼんやりと金魚を眺めていた。
小さな赤い可愛い金魚、名前はつけていなかった。
二匹ひらひらと仲よさそうに、水の中で泳いでいた。
祖母は少女に言った。――「せいちゃんとあさちゃんみたいだね」と。
そのように笑って言ったことを、少女は苦々しく思い出していた。
――気がつけばその時、家の中は少女と「せいちゃん」の二人きりだった。
その時、誰かの気配を感じて少女が振り向けば、そこには眼鏡を掛けた、中学二年生にしては背の高い少年――「せいちゃん」が立って居た。
『……』
一瞬何が起きたのか、自分が何をされているのか分からず、少女は固まった。
気持ちいいとか悪いとか、何も感じなかった。
痛いこともされなかった。ほんの少しの時間だったから、感覚はよく分からなかった。
ただ少女は、少年の後ろに緋色の金魚の幻を見ていた。
それはひらひらと、赤く舞っていた。
その血のような色がとても綺麗だとぼんやり思っていた。
――その時、少女は自分が「女」であることを知った。
・・・・・・・・・・
それから四年後の、もうすぐ夏を迎える梅雨の終わり頃のこと。
午後から雨が上がり、必要のなくなった傘を所在無さげに振り回しながら、高校生の少女が駅から家までの、川沿いの道をひとりで歩いていた。
……あー…、またちらちらと、見える。
肩を少し越したくらいの黒くストレートの髪に、同世代の少女と比べるとややほっそりした手足。半袖セーラー服の制服を着た少女・あさぎは、目の前の赤い幻影を振り払うように、ふるふると軽く首を振った。
あさぎはあの夏の日から妙な幻を見るようになっていた。
「あのこと」が、余程ショックだったのか、彼女自身も分からないが、あの日から赤い金魚がひらひらと視界の中を泳ぐ飛ぶ幻を見るようになった。
実際は「金魚」ではないのかもしれない。ただその赤くひらひらとした動きを、あさぎはそう表現していた。
どうしてそうなったのか不思議に思っているが、変人扱いされることが恐く、何よりその「原因」を突き詰められることを恐れて、あさぎはこのことを誰にも言わなかった。その幻影は、別に彼女に何の害ももたらさなかったからだ。
――しかも、現れる時は決まっていた。
少女の鼻にすっぱい匂いが、つんとくる。今日は生理の二日目であり、自分は決して軽い方ではないと、あさぎは思っている。
その血の匂いに連動しているように、あさぎにはその幻影が見えるのだ。もしかしたらただ単に貧血で幻を見ているのかもしれないが……。
あさぎは本調子でない不安定な身体の苛々からと、自分の平衡感覚を取り戻すように、ゆらゆらさせていた傘をローファーの先でこつんと蹴った。
だが、彼女にそれが見えるのは生理の時だけではなかった。来る前のイライラしている時や、終わりがけの眠い時や、不意に身体がうずうずする時や、……十四で覚えた自分を慰める汚らしい行為の際――など。
それは多分、あの四年前の夏の日からだろう。
自身の中の「女」を自覚させられたあの日に、全てのはじまりがあるとあさぎは思っていた。
つまりこの幻影は、自分が性的な欲求――生理的なものも含めて――を感じた時に見えているのではないだろうか、と四年経った現在、あさぎはそう思い当たっていた。
しかしだからこそこの幻影が見えることが、誰にも言えないのであった。奥手なタイプの女の子であれば尚更、自分にそんな欲求があることを人に話せるわけがない。
第一、あの夏の日の話は誰にも言ってはならないことだとあさぎは思っていた。
「彼」にされたことの続き――「その行為」をどうやってするのか、その時はまだ知らなかったが、テレビや漫画などで得たおぼろげな知識はあったので、これは絶対に親には言ってはならないことだ、と子供心に思ったのだった。……だが、
ねずみ色の曇り空に、赤い金魚がひらひらと、呑気に踊る様子が少女の視界に映る。
こんな景色が見えるひとりぼっちの帰り道には、ついあの日のことを思い出してしまうのだ。
五月で十六歳になったあさぎは、男の子と付き合ったことはまだなかった。ましてや、男性経験などもってのほか。
十六歳の少女らしく普通に服装や身だしなみに気は使っているが、必要以上に着飾ることに興味はなく、それほど社交的でもないので、今は学校以外の世界に踏み出したいとも思っていない。
部活も運動が苦手だし、本が嫌いではないことから友達に誘われるままに文芸部に入った。男子も若干いるものの……そこでの出会いはあまり期待していない。
つまりあさぎにとっての性体験は、あのまだ幼い夏の日が最初であり――それ以降は皆無なのであった。人並みに興味はあるものの。
それもほんの僅かに、触れられただけなのだが。だから逆に彼女にとってそれは少し恐かったにも関わらず、嫌だと泣き叫ぶような想いをさせられたわけでもないので、かえって忘れられなくなってしまったのであった。
「あの瞬間」が、あさぎの心に張り付いている。じんわりと、とれることのない染みのように。思い出すだけで、この身体が疼いてくる。
視界の中で金魚が飛び交い、少女は今日も、二人だけの秘密に苛立ちを感じる。
「せーしろーの、ばっかやろう……」
あさぎは「せいちゃん」の名前を呟くと、傘で浅い水溜りをばしゃっと乱暴に薙ぎ払った。
・・・・・・・・・・
家に帰ったのは、夕方五時頃だった。中に入ると母親のやたら楽しそうな高い笑い声が聞こえてきた。
玄関にあった見慣れない黒い男物の靴に、あさぎは来客が居間にいることを察し、直接二階へ行こうとすると――。
「あさぎー、帰ってきたのー? お菓子あるよー、こっちおいでー。清矢郎くんも来てるよー」
「……」
――まじですかい、と思いながら、あさぎはぴくんと足を止めた。
「彼」――二つ年上の従兄の清矢郎――あの夏の日まで「せいちゃん」と呼んでいた男――のことを、丁度今の今まで考えていたのは、虫の知らせ、というやつかもしれない。
あさぎが彼の顔を見るのは、二ヶ月ぶりになる。高校は違うものの近くに建っているので、入学して間もない頃に駅で見かけたのである。その前に会ったのは正月だった。
二人の祖母は二年前に亡くなり、会う機会はあの頃より減っている。しかし互いの両親同士の仲がよいので、それでも縁が切れることはなくたまに会うこともあった。それ以前の問題で、会ってもあの夏の日から言葉など殆ど交わしていないのであるが。
しかし思春期の少女としては、他に男性経験がないことも手伝って、あのことと一緒にしょっちゅう思い返してしまう微妙な相手なのである。
――た、たまには顔くらい見てやるか、とあさぎは自分自身に言い訳するように頷いた。それに変に意識していても、母親におかしく思われるかもしれないと考えた。
あさぎは決心すると、ひとつ深呼吸をし、不自然に汗ばんでいる手で居間のドアを開けた。
ドアを開けるとソファの下で座卓を囲み、二人の人物が座っていた。あさぎに背中を向けて座っているウェーブのかかった長い茶髪の母親の対面には、地区内一の進学校の高校の制服――と言っても詰襟なので、夏服の今はただのシャツなのであるが――を着た、長身の眼鏡の少年が、でんっと座っていた。
あさぎにとって、「でんっ」というように見えるのは、彼が剣道をやっているからやたら背筋を伸ばした座り方をしているからだろう。
六月で十八歳になるという青年に近くなりつつある少年に、あさぎはちらりと視線を遣ってみたが、彼はあさぎの方に眼も向けなければ眉ひとつ動かさない。
――確かに四年前のことは、少女にとってかなりの衝撃であった。
「せいちゃん」は無口で、仕事で忙しいお父さんお母さんの代わりに黙々と家の手伝いをする、しっかりした利口な少年だった。
夏休みの宿題も早々と終わらせて、剣道の大会に備えて素振りしているような真面目な男の子だった。
その彼があんなことをするなんて、あさぎは子供心に想像もしなかったのだ。
そしてあの日の後は、あのようなことをしたのが嘘であるかのように、また朴訥とした「せいちゃん」に戻っていた。
二人の間であの日のことには、あれから一切触れることはない。彼も無かったことにしたいのか、あさぎとは眼も合わせなくなった。
そんな清矢郎の態度に、あさぎは苛々してくるのであった。
……このやろー…、ヒトの純潔を奪っておいて……。
実際そこまでのことはされていないので語弊はあるが、あさぎにとって、女性特有の場所を、男に初めて触られたというショッキングな出来事と事実には変わりない。
彼を睨んでいるうちに、あさぎの視界から金魚はいつしか消えていた。
彼女がはっと気付いたのは、また母親の声が聞こえたからだった。
「何ぼんやり突っ立ってんの? 挨拶くらいしなさいよー」
母親にあのことを知られるわけにはいかない。あさぎは渋々と、母親と清矢郎の間に座ることにした。
机の上には誰かからの土産なのか、有名菓子店の日頃お目にかからないケーキが箱に入って並んでいた。ごってりとしたクリームの乗ったそれを、既に母親が幾つか食べ、少年は手をつけてない様子が、皿の上のゴミの散らかり方で分かった。
しかし彼女もまだ幼いというか、成長期というか……腹も少し減っていたので美味しそうだなあと密かに思って眺めていた。
「今日お葬式があったのよ。あんたは赤ちゃんの時しか会ってないから覚えてないでしょうけど、アタシの叔父さんにあたるヒト。でも潔兄さんが海外出張でどうしてもお葬式行けないって言うから、代わりに試験終わった清矢郎くんが来てくれてね、」
ふーんなるほどそれで、学ランをこの蒸し暑いのに持ってきたわけね、ってケーキ食べていいかなあ、とあさぎは母親の話は耳半分に聞き、とにかく隣の清矢郎との微妙な空気が息苦しく、そこから逃れるように視線を綺麗なケーキに注いでいた。
しかし母親の話はまだ続く。
「それがまた清矢郎くん、しっかり挨拶もして、アンタと同じ高校生とは思えなかったわよ。さっきもね……」
あさぎの母親は子供の頃から、清矢郎びいきだった。彼のことは褒めちぎり、冗談でも折につけて、「お嫁さんにしてもらったら?」と、彼女も小さい頃は言われたものであった。
男の子供が居ないし彼女も悪気はないんだろうが、どーせ私は……と取り立てて自慢出来るところのないあさぎは密かに劣等感も抱いたものだった。実際あの日までは、彼は尊敬できる年上の従兄であった。
それにしてもこの微妙な空気は嫌だし、彼と比較されるのも面白くない。そう思い、あさぎは現実逃避に遂にケーキに手を伸ばしたのだが、
「ってアンタはお行儀悪い!!」
お皿を持ってくるのが面倒で、小さいものだったからそのまま指で持って頬張ったら、更に母親に怒られた。
彼女はよく喋るし明るいし若作りだし、一見軽いが意外と几帳面で、口うるさい。
しかしケーキは既に口の中だ。もうこのまま食べてしまおう、とあさぎが頬張った後に指についたクリームをぺろりと舐めたら、更に母親に怒られた。
その時、隣からふっと笑うような声が聞こえてきて、あさぎは思わず清矢郎の方に顔を向けた。
しかし顔を上げる頃には、もう隣の少年は元の無表情に戻り、あさぎの方には僅かたりとも視線を向けずに、片手で茶碗を持って緑茶をずずっと口にしたところだった。
……かっわいくないなあー……。
その態度にあさぎは少々かちんと来た。
この五十センチの距離にいるというのに、完全無視のこの態度。私にあんなことをしたというのに、この態度!ああもうむかつくいらいらするー!!、と口に出せないので心の中で虚しく叫ぶしかない。
そう言えば、前に駅で会った時も正月に会った時も、その前のお盆に会った時も、その前の年の……時も同じ事を思っては苛々したなと、いつもこの繰り返しであることを思い出し、あさぎは段々悔しくなってきた。
しかしこうした怒りも、顔にも声にも出してはならないのである。
せめて清矢郎と口がきけたらいくらでも文句を言ってやれるのだが、あのことは向こうもなかったことにしたいだろうし、何から話せばいいのかまず分からない。
互いの両親はいい加減なところもあるので、滅多に会わない年頃の男女だし会話がないくらい、特に不思議にも思わないようだった。
結局、折角のケーキの味は、少女には全く分からなかった。
その十五分後――。あさぎにとって居心地の悪い空間は終わりを告げた。
二人の通っている高校は近所でも、住んでいる市は違うので、清矢郎はあさぎの母親が送っていくことになった。そして母親が部屋を出て行ったそのほんの僅かな間、あさぎは彼と部屋に二人きりにされてしまった。
落ち着かなくてテーブルの上のケーキや皿をそわそわと片付け始めたあさぎだが、そうするとおのずと清矢郎の視界に自分が入ってしまうので、それはそれで気まずいものを感じていた。
しかしすぐに彼も立ち上がったので、あさぎは内心、ほーっと大きなため息をつく。
なのに、何故か気になってその後ろ姿を眼で追いかけてしまった。
……それにしても、背、高いなあ……。
彼女の父親の身長が彼女よりも少し高いだけなので、あさぎには余計にそう感じる。
「あの時」よりも更に大きくなっている彼。いつの間に、何を食べてこんなにでかくなったんだ――などと二つの年の差を感じながら、あさぎがぼんやりとその広くなった背中を眺めていると、部屋から出る際に清矢郎はふとその視線に気付いたように、彼女を振り返った。
不意に眼鏡の奥の眼と自分の眼が合ってしまい、あさぎはどきっとさせられた。
その瞬間、電流が走ったように、少女の身体の芯が、疼き出す。
そして現れたのは、やはり赤い金魚の幻影だった。
それは少女の心を覆う、呪縛のような――。
しかしそれは、ほんの数秒の沈黙だった。
やがて、あさぎが凝視していたその唇から低い声が発された。
「――ついてる」
「え?」
「ほっぺ」
そしてドアはバタンと閉められた。
あさぎが思わず背後の鏡を見ると、そこにはさっき拭ったのとは反対の頬に、クリームがまだしっかりとついていた、情けない顔の自分が居た……。
「〜〜〜っ!!!」
……やっぱり、かっわいくない!っつーか寧ろ、私がださーっっ!!
こんな間抜けな顔で、彼と見つめ合ってしまい、あの言いようのない感覚を味わっていたと思うと、恥ずかしくてやりきれない。
あさぎは真っ赤な顔をして、八つ当たりのようにソファに拳を打ちつけた。
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