その三 緋の眼 (上)
「さあ、喰え」
汗が一筋、背骨をつたい落ちた。冷や汗なのか、脂汗なのか、良く分からない。
「餌だ。喰え」
どさっ、と重いものが床に落ちる音。
目を閉じていても、それが何なのか分かる。
食い物。
(違う、そうじゃない)
匂いが鼻孔を満たし、口の中が泡になる。感覚など当に無くしたと思っていた胃が覚醒する。締め付けられるような飢餓感が戻ってきた。胃液が逆流しそうだ。
もう何日、口に物を入れてないだろう?
腹部は背中に張り付き、喉は乾きにひりつく。今まで、口腔の唾を掻き集めては下し、凌いできた。だが、どうだ。今は何の努力も無しに口から溢れんばかりだ。
「さあ・・・」
促す声。そそる匂い。目を開く。
(違う、駄目だ。だって、それは・・・)
それは、床に置かれていた。
捕縛され、床に伏せたまま、ぴくりとも動かない。しかし、それはまだ生きているのだという確信は微塵も揺らがなかった。でなければ、これ程までに香しい生気の匂いに説明が着かない。 新鮮で暖かい血の温もりが、距離を隔ててさえ、染みるように伝わってくる。
餓えと乾きが、胃から喉から、体中に這い上がってくる。
ぞくぞくする。脳髄が痺れる。理性が思考をやめ、原始的な衝動がその座を襲う。
もう起き上がれないと思っていたほど弱っていた体が、獲物を前に筋肉を収縮させる。あれほど弱っていた筈の体が、動く。
側によるほどに生々しくなる、濃密な芳香。
誘うように上下するその喉に手をかける。滑らかな肌触り。触れた箇所から、ぽっと火の灯ったような感触が指先に宿り、何かがそこから流れ込んでくるのを感じた。
空腹を満たし、欠乏を埋める、命、そのもの。糧、そのもの。
(・・・・腹が減った・・・喉が)
闇の中に、はっきりと浮かび上がる白い皮膚の下に、血管を想像する。その中を流れる細流の音さえ聞こえてきそうだ。
(・・・・駄目だ)
何が駄目なのか、もう分からない。
歯がむずがゆい。特に、犬歯。きしんで、音を立てる。いや、爪が。
腕が強張り、喰い込んだ爪が、皮膚を割く。
そこに一筋浮かんだ朱が、視界を染め、食欲以外の全てを消し去った。最後のタガが弾けとび、体がひしむ。目が、手が、口が、爪が、歯が、牙が、それしか考えられない。
「うわあああっ!!」
続く行動を制したのは、耳元で突如発せられた大音量だった。少年はびくり、と獲物の喉に埋めた顔を上げる。目と鼻の先で叫声を上げているものが、一瞬なんだか分からなかった。
恐怖に見開かれた翠の瞳。白い面は引き攣れて、唇は尚も何かを叫ぼうとするかのように喘ぐ。逃げようと飛び退るも、後ろ手に縛られた体勢では、思うにならない様子だった。
それは、男だった。人間の、男。
「・・・ば、化け物っ」
ようやくそれだけを言葉にし、後は荒い呼吸を繰り返すばかりの人間の男。その首筋に流れる血を見つめる内に、我に返った。自分が何をしたか、何をしようとしたのか、理解した。
冷水を浴びせかけられたように、それまで少年を突き動かしていた熱が嘘のように引いていった。飢餓感に代わって、喉を何かがせり上がってくる。
金縛り状態の男から体を引き離したのは少年の方だった。後ずさりし、途中で崩れ落ち、膝をつく。こみ上げてくる胃酸の匂いにむせ、咳き込んだ。
床に両手をつき、体を丸める。吐きたくとも、吐くものはもう残っていなかった。胃は当の昔に空っぽで、嘔吐の発作の度に体が傾ぐが、床を濡らすのは胃液だけだった。
「無様な。これほどまでお膳立してやって尚、獲物の悲鳴一つで怖じ気づくとは」
少年は口元を拭い、顔を上げた。
ずっと、そうやって立っていたのだろう。見下ろす緋色の眼差しは、口調に違わず、冷ややかだった。そこに宿る人外の光。体温の感じられない、上等な紅玉のように無機質な光彩。魂の底まで突き刺さるような鋭い双眸。人をを萎縮させには置かない目だ。
少年も、そうだった。この目が恐くて、いつも彼に対する時は面と向かって話せなかった。
だが、今は、ずっと苦手だったその視線をまともに受けることが出来る。返すことさえ。
「こんな事をしても無駄だ。俺は人を喰わない。絶対に」
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