太陽のものさし
人生初恋愛メイン話。
幼馴染の恋愛は正義だよね。良いよね幼馴染。
私?いますよ。外面の良い、私に対してだけハイパー女王様な幼馴染がね。
ちくしょう格差社会滅べ。
山北大和の春は短い。
初めての春、愛しさと嬉しさが溢れかえった結果、大和はひたすらに彼女に尽くす毎日を過ごした。来る日も来る日も彼女に侍り、何から何まで世話を焼いた。毎朝毎晩のメールは勿論、日に3度は電話をした。
ある日彼女から告げられた言葉は無情だった。
「うざい」
次の春、人一倍の学習能力を宿していると自負する大和は、前例の失敗を反省し、彼女の事情を優先することにした。会いたくなったり電話をしたりする前に、メールで伺いを立てることにしたのである。都合の良いときに連絡をくれと言い、催促は止めた。
現実は無情だった。電波の都合が付かず、メールは彼女に届いていなかった。
「1ヶ月も連絡くれないとかあり得ないよね」
人は考える葦だ。大和はつくづく考えた。つまり何事も度を過ぎてはいけないということだ。
再度訪れた春には、何事も適度を心掛けた。会うのは適度に、メールも適度に、べたべたし過ぎるのも良くないので、適切な距離を保って接することにした。
世界は大和に優しくない。
「事務的っていうか、ホストと会ってるみたい」
「どうしろってんだよ!」
叩かれたテーブルにしてみればこの上ない理不尽であっただろう。固定されたカウンターテーブルが揺れるほどの衝撃を、それでも彼は反抗なく受け止めてくれた。世界は優しくないがテーブルは辛うじて大和に優しさをくれるようだった。手は痛いが。
乱暴に扱われてグラスからこぼれた酒を布巾が吸い取る。ほっそりとした指が手際良く大和の味方を綺麗にしていくのを荒んだ目で見守った。行く先で、汚れた面を仕舞われた布巾が居住まいを正す。
手の持ち主はそこでリアクション待ちをしていた大和に気付いたようだった。
「ほんとよね。全くどうしようもないわ」
「だっろ!?そう言ってくれるのは親友のお前だけ──」
「社会人として以前に、人としてあり得ないわよね、大和の行動の全てって」
「ここは慰めるところだろおおおおおおおおおお!この鬼、鬼畜生ッ!」
「そう。鬼は外ね」
「ごめん待って俺の福!」
上がった細腰に縋り付く。露骨に嫌そうな顔をされるが、ここで手を放せばこの薄情な親友が即座に立ち去るのは自明の理である。
周囲の目を気にする傾向にある彼女は、軽く大和の後頭部に平手をかまして、渋々と隣の席に尻を下ろした。しかしまだ油断はできないので白い手をぐっと握る。
「私ね、最近握力を測ったら、リンゴが潰せるくらいだったの」
「ははは、いくらお前が人として外れてるからって流石にそこまで」
ごめんなさい、と口から思いも寄らない謝罪の言葉が飛び出したのは、大和のこめかみ辺りに謝罪スイッチがあったからに過ぎない。押されると謝罪文が飛び出る構造なのである。決してわし掴まれたら超痛かったから反射的に謝ったとか、そういう情けのない話ではない。
素気なく払われた手を手持ちぶさたに揺らしても、ひんやりとした手は戻ってこなかった。行方を逃してテーブルのグラスを煽る。
「それで?」
親友かつ幼馴染である川南撫子は、一見冷徹そうに見えて実際ひんやりしている。困っている人はそこそこ見捨てるし、同情という感情を誰かに向けているところを目撃したこともない。
しかし、決して無情ではない。大方困っている人に声を掛けに突撃するのは大和で、同情を越えて同調をかますのは大和である。そんなとき、彼女は決して大和を置いて去ることはしない。
こと暴走しがちな大和にとって、彼女は重大な冷却装置でありリミッターである。何も考えず捨て猫を拾う大和に、散々に脅しを掛けて覚悟を促す様を人は非情だという。けれどとても重要なことだ。
誰かが座らなければいけない皆の嫌がる開いた椅子を、何でもないような顔をしていつの間にか陣取っている。撫子はそんな人間である。
今日も嫌そうに先を促す撫子に冷えた胸を暖められながら、大和は真剣な顔で詰め寄った。
「どうしたら捨てないで貰えるようになるんだ!?俺は必死で頑張ってるのに!」
「捨てられないのは無理じゃないかしら。だってヤマトだもの。必死に縋り付けば?」
そんなの一歩間違えばセクハラである。嫌がる女性の腰に抱き着いて引き止めるなど、大和のなけなしの常識に反する。
「へえ」
力説した反論は、氷点下の視線の前に凍り付かされた。絶対零度だ。雪女なんて生温い温度じゃない。
「さっきあなた、私をどうやって引き止めたかしら?」
「腰に抱き着いて」
あ、と驚きに口元を押さえた大和は、それこそ命を刈り取るような刃に変化した撫子の視線を見なかったことにした。
そして考える。
前途のように、嫌がる女性の細腰に抱き着くなど、一歩間違えればセクハラである。しかし己のこれまでの行動を鑑みてみれば、こうして撫子に泣き付くたび、自分は何かしら撫子に触れているのではないか。
撫子はそれに対して冷たい視線こそくれ、警察に通報するような真似をしたことはない。面倒だったからと言えばそれまでだが、その寛容さに改めて感動を覚えた。
この寛容さ。いつまで経っても彼女を得られない自分に、神が与えたもうた奇跡ではないのか。
「ナデシコ、俺と付き合ってくれ!」
「良いわよ。それでね、話があるの。ヤマト、私たち別れましょう」
「くっそおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
思い立ったが吉日。大和の行動力は常人を遥かに凌ぐ。
端整だと褒めそやされる顔をキリリと引き締めて両手で白い手を握った告白は、1ヶ月に一度見られるか見られないかの優しい笑顔に粉砕された。受け取った後、リンゴを破壊する握力をもって粉微塵に握り潰す丁寧さで。
突っ伏したテーブルは大和の額を痛烈に痛め付けた。ちくしょう、先程まで確かに存在していたはずの優しさがなくなっている。世界は大和に優しくない。もう駄目だ。自分はこれからどうやってこの世界と付き合って行けば良いんだ。
メソメソと涙にくれる男を、幼馴染はさすがに哀れに思ったらしい。ふっくらとした唇から吐き出された深い溜息が、これ見よがしに撫子の近くで伏せていた頭に辺り、短い髪を揺らした。
横目で窺う大和に向けられた視線は、思ったより冷たくはなかった。
「……条件があるわ」
『私を10回喜ばせて。そうしたら付き合ってあげる』
撫子が出したのはそんな条件だった。物凄く意図が分からない。喜ばせるって何だろう。
まさかと思って環状線で隣の駅に反対周りで向かうくらいの遠回しさでラブホテルに誘ってみたところ、甘さの欠片もない目で股座に手を添えられて戦慄した。
大和の知る限り撫子に男性経験はなく、それが真実であることも本人の健全極まりない生活習慣から確信しているのだが、この躊躇いのなさは何だ。謝罪があと刹那遅ければ、大和は第3の性を満喫する運命にあっただろう。あるいは天国とか地獄とかに引っ越す羽目になっていた可能性もあるが。
ともあれ、意図は理解できないものの、大和は1も2もなく頷いた。
何度も言うが、大和の行動力は常人を遥かに凌ぐ。早速次の約束を取り付けて、女性が好みそうなスポットやらプレゼントの検索に走った。
結果は惨敗に終わった。
最初の約束では、夜景の素敵なレストランで食事をした。あらゆるレビューで恋人が五つ星を挙げる、お洒落で豪華で美味しいと評判の店だった。料理には舌鼓を打っていたが、撫子の装甲の堅固さはスーパーロボットを凌駕した。30点ね、との駄目出しを頂いた。
次の約束では、ハート型の豪華な石の付いた指輪を差し出した。何とか賞を受賞したと評判のデザインの指輪の購入は懐が痛んだが背に腹は変えられない。しかし撫子の回避能力の前にリアルロボットなど敵ではなかった。返品してらっしゃい、と北極熊が死滅しそうな目を食らい、手に取ってすら貰えなかった。去り際の一言は、名前を書き忘れてるようよ、だった。0点である。
次の約束では、もので駄目なら女性が喜ぶ言葉や態度を、と奮起した。英国紳士に喝采を頂くほどの完璧なエスコートをシミュレートし、ありとあらゆる甘い言葉を囁いた。妖精のようだとか、僕の可愛い撫子、とかキャラクターが崩壊していたような気もするが、難敵の前に大和のキャラ性など些事である。担当にボツ食らうわけでもなし。だが、撫子の表情は、いっそ普段より動きがなく、3秒で寝れる小学生の方が点数はマシね、との評価を下された。0点などというチャチな点数ではない。マイナス点であった。
3ヶ月が経つというのに、未だ50点を超えたことがない。一番評価が良かったのは49点。何も思い付かずに居酒屋で時間をを過ごしただけの日だったというのがまた情けない話だ。
なお、彼女に確認を取ったところ、合格点は70点だそうだ。良かった。100点満点を取れとか、いつから満点が100点だと錯覚していたとか、そういうんじゃなくて本当に良かった。
しかしながら万策は尽きた。相談できる気さくな相手が敵勢である今、頼れるのは自分と電脳世界と雑誌くらいだったのだが、崩壊しないベルリンの壁の硬さの前、何もかもが膝を付いて地面に這い蹲ったまま動けない。
だが、大和は諦めない男である。蛇座であることは何一つ関係ないが、自分は非常に執念深い。
何かないかと撫子を見つめる日が続いた。今日も今日とて穴が開くほど見つめ続ける。細い眉が毎度のことながら鬱陶しそうに歪んだが、それでも観察をし続けた。
と。
「ん、ナデシコ、髪切った?」
「え」
丸く開かれた瞳が、黒ではなく焦げ茶色をしていることを今更知った。物凄く驚いた顔をして固まった彼女は、次の瞬間ふんわりと笑う。
撫子は可愛いというタイプではなく、綺麗ではあるが、凄くという言葉は付属しない。だというのに、胸が掴まれるように思うほど、その笑顔は大和の脳を焼いた。
1ヶ月に一度見られるか見られないかの優しい笑顔は3ヶ月ぶりだった。いや、前回は大和の告白を木っ端微塵にするパフォーマンス付きだったので、あれはノーカンにしても良い。
笑顔に付随したはにかむような表情。血が通っているのか疑うほど白い普段に比べ、僅かに赤らんだ頬はいつもより柔らかそうで、思わず手が伸びそうになる。
「80点」
思わぬ高得点に両手を固めて喜んだ。立ち上がって快哉を叫ぶのはギリギリ自重したが、反射的に引いた椅子が耳障りな音を立てて床を擦る。転げそうになって体勢を立て直そうとした手がコップを倒し、少量の水がこぼれ、慌てて拭いた。
それを見守る視線すら今日は優しい。点数の撤回もされなかった。あんまり嬉しくて笑顔が止まなかった自分はどれほど気持ち悪いだろうかと思ったものの、撫子が眉を顰めることはなかったので反省はしなかった。
彼女が何に喜んだのか、実はよくわかっていない。浮き足立ったまま帰宅した大和が思い付いたのは、つまり、撫子が望んでいるのは特別なことじゃないようだ、ということだった。
なので大和はそのまま撫子を観察することを続けた。戦争に重要なのは何より情報である。しかも、思えば10年以上を共にしているのに、今更瞳の色を知ったのだ。幼馴染としてこれは情けない。
「あれ、そのネックレス見たことねぇ」
「昨日買ったの。アクアマリンって結構安いのもあるのね」
「ふうん。ナデシコって青似合うな」
シンプルなデザインと小さな小さな青い石は、撫子の頼りない首元に非常に似合っていた。
そういえば、以前プレゼントしようとした指輪は何だかゴテゴテしていた。シンプルなものが好みなら、あの指輪は役者不足だったことだろう。想像の中で折れそうな指に装着させてみても、驚くほど似合わない。
意外と可愛いもの好きだ、ということは知っていたからハート型を選んだ。だが、彼女が身に着けているものを改めて見ると、よく見ればちょっとハートのデザインが隠れている、といった慎ましやかな可愛らしさだった。なるほど、と何度か頷き、情報をインプットする。
「ナデシコ、海と山とどっちが好きだ?」
「家ね。例外はすごくあるけど」
好きな場所も知らない。大抵の場合、どこかへ行きたいと言ったこともなく、大和の行きたいところに付いて来てくれたためだ。不満を告げられたことはないが、もしかして嫌いな場所もあったりしたんではなかろうか。
撫子は色が白い。山や海へは何度も行ったが、そのたびに長袖を着込んでいた。色白を保とうとするなんて彼女らしくないなあ、と思っていたものだ。今になって疑問を問えば、日焼けを通り越して火傷になって痛いのだそうで、慌てて強引な誘いを謝った。最近よく見れるようになった仄かな笑顔で笑い飛ばしてくれてほっとした。
「太った?」
「そこから飛び降りて」
思ったことを即座に口にするのは良くない。良い笑顔のまま、危うく階段から突き落とされそうになった。
とはいえ、苦々しげな顔をしているものの、嫌悪や強い怒りは見えない。不思議とどこか嬉しそうにも見える歪んだ口元に首を傾げて、頭を捻って、ふと思い付いて、撫子の手料理が食べたいと提案した。
居酒屋は総じてカロリー摂取量が豊富である。その点、彼女の手料理ならローカロリーだし、家庭料理に飢えた一人暮らしの大和も幸せになれる。一石二鳥だ。
店が開けそうに味の良い料理の数々を思い出しながら期待に撫子を見詰めると、満更でもなさそうな顔で了承してくれた。
夕飯は超美味かったし、あの発言から始まった割りに評価も良かった。評価の理由は相変わらずわからないが、とにかく幸せな一日だった。
「今日スカートなのかー。珍しいな。自分で買ったのか?」
「同僚がくれたのよ。たまにはオシャレしなさい、ですって」
「うーん……俺はもうちょい丈長い方が……」
「あら、ヤマトは短い方が好きだと思っていたけど」
「まあ……ん、何かな」
「似合わない?」
「いや……」
そんなこんなでまた3ヶ月が経った頃、70点オーバーの回数は9回を数えていた。相変わらず30点を切るときと90点の好評価のときの違いがさっぱり理解できなかったが、とにかくあと一回で撫子との交際が決定する。
だというのに、口から出る言葉は自分でも苛々するほど曖昧だった。一言似合うと言えばきっと撫子は花開く笑顔を見せてくれるのだろうに、白い足を見ていると、どうにも褒め言葉が形にならない。
いや、似合うのだ。凄く似合う。見慣れないせいで視線を逸らしたくなるが、チラチラと変態みたいに視線を向けてしまうほど似合う。
何で褒めたくないのかな、と自問自答する内、久しぶりに眉を顰めた撫子の姿が目に入った。大和の曖昧さを鬱陶しそうに見ている──のではなく、何故か悲しそうな雰囲気を漂わせていてわけもわからず焦る。
結局その日は話も弾まず、意気消沈したまま帰宅した。
次の約束も取り付けられずに、悶々と数週間を過ごした。
大和が子供じみた姿を晒すのは気心知れた撫子や親の前だけなので、表立って暗い姿を見せることはない。同僚や上司からは相変わらずの陽気さだな、と言葉を向けられて苦笑いしながら、夜は携帯電話を握って電話帳を見詰め続けていた。
変化は唐突だった。少なくとも、大和にとっては。
「大和くん、最近変わったよね。独りよがりじゃなくてさ、ちゃんと色々見て、個人個人に……私に、合わせてくれるようになった」
呼び出された会社の屋上で、過去の彼女と対面しながら、大和は呆然と口を開いていた。
自分に何が起こっているのかわからない。冷たい目をして去って行った女性が、頬を染めて、潤んだ黒い目を大和に向けている。語調は甘い。付き合い始めの彼女はそういえばこんな声をしていた気がする。
大和の胸にそっと長い指を添わせて、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。
「私ね……今の大和くんとなら、もう一度やり直したい」
空は抜けるようで、青々とした色は、撫子の首を飾っていたネックレスを思い出させた。
ぼんやりと星空を見上げる。星空の中で瞬く飛行機の赤いライトに、幼馴染を思い出した。そんなものがなくても脳裏を巡るのは彼のことだったのだけれど、撫子は赤色を見るたびに大和を思い出さずにはいられないのだ。
「そろそろ告白でも受けてるのかしら」
最近連絡を寄越さなくなった赤い太陽のような男は、昔からまっすぐだった。まっすぐ過ぎて周りが見えない彼を、撫子はずっと想い続けている。
困っている人を見逃せない、彼の甘さが好きだった。自分には持ち得ない優しさに苛立ちを覚えることも多々あったが、八つ当たりじみた撫子の脅しに笑顔を返されると、もう文句も言えない。何度も繰り返す内、腹が立つこともなくなった。
まっすぐな性質のまま、彼がうっかり見過ごした何かを拾い上げることに専念したのは、彼が己の過失を嘆くことがないようにとの一念だ。戒めを言い聞かせ、周囲からは非難を食らう。問題はなかった。誰がどう思おうと、大和は不思議と撫子の言葉を真摯に受け止めてくれていたから。
方向性の全く違う撫子と大和の付き合いは、思い掛けずずっと続いた。てっきり学校が離れると同時に疎遠になるものと思っていたが、予想を遥かに超えて大和には行動力が備わっていた。大学に入り、一人暮らしをするようになってからも、暇があれば撫子を誘ってくれた。それは社会人になっても相変わらずで、大和の知らぬところで撫子の心に咲いた花は育ち続けている。
行きたいところがないとは言わない。行きたくないところがなかったとも言わない。けれど、大和がいればそれで良かったのも真実である。会って話せるなら、日焼けが過ぎて数日苦しもうと嬉しかった。
我ながら随分わかりにくい愛情表現だとは思ったけれど、想いを告げるにはとうに機会を逃してしまった。
告白を考えたのは中学生の頃だったと思う。いざと意気込んだ大和の誕生日、挨拶と共に告げられたのは、彼女が出来たという全く笑えない言葉だった。良かったねと返した自分は虚ろだったろうと思うのだが、浮かれていた大和が気付かなかっただけなのか、案外自分は上手く演技できていたのか、彼はただ祝福を喜んだ。
結局数ヶ月で彼女と別れた大和に再び春が訪れたのは、半年後のことだった。その間撫子は、別れたばかりで告白するのはどうなんだとひたすら悩みに悩んでいた。またも無邪気に告げられた撫子にとっての不幸に、ひとしきり特攻しなかった自分の行動力の皆無さに後悔をし尽くして。
数ヵ月後、性懲りもなく破局を迎えた大和に、撫子は告白を考えることを諦めた。泣き付く大和の態度は、少しでも気がある女性に向けるものではなかった。撫子は土俵に立てすらしていなかったのだとようやく気付いた。
別に大和が悪いわけではない。どちらかと言えば勝手に好きになって悶々としていた撫子が悪かったのだろう。どうしようもないことだったのだが、腹が立つのは仕方がなかった。
そうして撫子は少しばかり、大和に嫌がらせをすることにした。
太陽は全てに等しい。
大和にとって「ものさし」は全て同じだった。自分はこうされると嬉しいから、こうすると嬉しいんじゃないか。駄目だった。じゃあきっとこうだ。駄目だった。
違うのだ。人の係わり合いはそうじゃない。ものさしは、人に合わせる必要がある。
自分はそれを教えなかった。
「私は、私を見て欲しかったのよ」
ぽつりと呟いた言葉は、乾いた風に吹き飛ばされた。
願いは叶った。大和は撫子を見てくれた。その結果、最近色々なものさしを手に入れたらしい大和は、目に見えて魅力が増した。
髪を切ったのに気付いてくれた。似合う色を告げてくれた。好みの場所を聞いてくれた。わかりにくい体型の変化に気付いてくれた──これは複雑ではあるが。終結するところは同じだ。自分を見てくれた。
個人を見れるようになって人に合わせて行動を見直すことを覚えたら、あとに残るのは、優しくて、明るくて、デリカシーは足りないが、人当たりの良い好青年である。
「ばかねえ、私……」
あんな取引を持ち出さずに告白を受け入れてしまえば、女性に振られ続けるままの視界の狭い大和は撫子のものだったのだ。真実を教えないまま嫌がらせを続けていれば、大和の魅力が広域に知られることはなかったはずだ。
己を出し渋った結果を見ろ。あと一度褒めれば撫子を手に入れられた大和は、ここに来て言葉を惜しんだ。
恐らくは、大和の周囲に変化があったのだろう。周りの女性がまた大和を見始めたのかもしれない。何せ、変化は大きかったから。
大和に惹かれる女性がいるのなら、撫子は今まで通り親友、兼、幼馴染のままだ。皆が離れて行く中、偶々そばに残っていたのが撫子であったから、大和は付き合いを迫っただけなのだから。親密さを増したなら、もう撫子に遊びの誘いが掛かることもないだろう。彼女がいるのに女と二人で出掛けることはできない。
でも、だって、仕方がない。自分で言うのは何だが、撫子は頭の回転が早い。その上でネガティブである。
付き合ったとして、考え続けてしまうのだ。大和が優しくしてくれても、この行動はきっと、自分じゃなくても良かったのだと。撫子だからじゃない、「彼女」だからだと。
自分は多分それを悲しむし、大和は本当の意味で幸せにはなれない。
それなら大和が幸せになってくれた方が良い。ここまで何も言わずに親友の座に甘んじていられたのだ。きっと大和は撫子の想いに気付かないし、撫子は大和に何も告げないままでいられる。大和がいなくなった生活は想像できないが、人間、状況には適応できる生き物だ。
大丈夫、なんでもない、と自分に言い聞かせる傍らで、視界を妨げる水の膜を認めないわけにはいかなかった。嫌だと嘆く自分を、大和を慰めるように冷たく突き放し、袖で眦を強く擦る。
チャイムが鳴らされたのは、そんなときのことだった。
「ナデシコー!ナーデーシーコー!」
「ちょっと、ご近所迷惑だから夜中に馬鹿みたいに騒がないでくれる?」
少し迷ってから戸を開けた。
大和はどこか緊張したような顔で直立していた。俯けた顔が赤いのは、仄かに鼻腔に届く酒のせいだろうか。
既に寝巻きに着替えていた撫子の服装を見て、ぎょっとしたように大和は顔を上げた。その先で、更に目を丸くして顔色を変える。
「泣いてたのか!?」
「たまねぎは生涯の敵よ」
あ、そうスか、とほっとしたように引いた。
風呂は食事の後だ。たまねぎと格闘するなら食事の前。どうして髪まで乾かした今まで目が赤いままだと思うのだろう。あり得ない単純さに和む自分の思考回路もどうかしている。
居住まいを整えて、大和は、あのさ、とまた強張って口を開く。
「明日って暇か」
「……そうね、会社は休みだけど」
「じゃあ、あの、これ!」
ぎくしゃくとした動きで腕を突き出した。握り締められた紙袋はやたらと大きくて、両手で受け取ったにも関わらずずっしりと重い。
中を覗くと、青色の布地が見えた。
「何これ。スカート?」
断りもせずに広げてみる。足首まではあるだろうロングの落ち着いたスカート。裾から腰に上がるに連れて色が薄くなる、やけに大和好みではなさそうなデザインだった。
「服一式」
「一式って、靴まで揃ってるじゃない」
「俺、今日元カノに告白されてさ」
弾かれたように顔をあげた。突然このタイミングで何を言い出すのか。
もしかして、この服一式は元彼女へのプレゼントなのだろうか。組み合わせは悪くないかとか、そういうことをこんな時間に確認に来たんだとしたらベランダから突き落とすのもやぶさかではない。
顔を引き攣らせた撫子に構う余裕もないというように、彼は拳を固めて言葉を続ける。
「でさ、俺、気付いちゃって、もう何か、連絡忘れてたの気付いたのさっきで、ええと、そう、ほんと、馬鹿みたいだけどうっかりしてて!」
「ちょっとヤマト、音量落として」
「俺、ナデシコのことすげえ好きだからッ!」
声を失う、とは正にこのことだった。言葉にしようとした何かは、間の抜けた空気を漏らして溶け消える。変わりに、隣から壁が殴られる音がした。
このマンションはそれなりに防音がしっかりしているが、そりゃあドアを開けたままで話し込んでいれば筒抜けである。まして良く通り、通常音量のでかい大和の声。慌てて大きな身体を部屋に押し込んで扉を閉める。
そして相変わらずの暴走特急は、半年前のまま徐々に顔を赤くする撫子の様子など見えないままで言葉を連ねやがるのだ。
「一回も言ってなかったの、告白されて、青空メッチャメチャ綺麗で、そういえばって思って、もう思い立ったら今日言わねぇとって走ってたら、何だっけ、何とかってブランドの服屋でナデシコぴったりの綺麗な青色の服飾ってあんの見えて、こないだのスカート可愛かったよなあって気が付いたらマネキン素っ裸にしててさ、買ってきたんだけど」
マシンガンの弾が撫子の輪郭をスカスカと撫でて行く。何と言う命中率の悪さ。全く意味がわからないという以前に、むしろ早口過ぎて聞き取れない。
それでも、先程の明瞭な言葉は完全に撫子の鼓膜を突き抜けて脳に突き刺さった。紙袋に絞め殺すようなベアハッグを仕掛けて、冷たい扉に肩を押し付ける。今や目元の赤みなど探しても見付からないほどのリンゴのごとき顔面だろう。
しかし容赦しないのがこの男だ。太陽のものさしは健在で、撫子用のものさしは服の変わりに紛失してしまったらしい。
「すげえ好き。大好き。空見たら、ナデシコに会いたくてたまんねぇの。愛してる。すげえ好──これ言ったわ。ええと、あと、ああもう語彙がねぇな。なあ、ナデシコ、そんな口開いてないでさ、返事ちょうだい、なあ」
紙袋に回した腕を取った大和が、やたらと必死な顔を近付けて。
「俺と付き合って」
ずるりと、肩が扉を滑った。ずりずりと下降する身体を、大和は支えてなおも募る。
「そんでさ、明日、それ着て、デートしよう。こないだのスカートは似合ってたけど、他の奴に足見せんのすっげえやだ。でもスカート可愛かったからロングなら良いよなって、思って、あれは今度また着て。家でごろごろしてようぜ。なあ、ナデシコ」
大和は、撫子が、好きだと言う。嘘はない。彼は決して人の目を見て嘘を言える人間ではない。
考えもしない事態だった。泣きたいくらいに胸を打ち抜いた言葉は幸せなのに、唐突過ぎて脳が解凍されない。自慢の握力と諦念でぎゅうぎゅうに圧縮された告白の勇気が膨らむ暇がない。
諦めたからこその選択だった。大和に幸せになって欲しいからこその条件で、まさか自分に幸福が訪れるとは思ってもみなかった。現実主義の自分は、想像すらしなかったのだ。頭の中はぐるぐると回っている。
──それでも、幸せには違いない。
すとんと落ちた混乱は、朦朧とした撫子の視界を開けさせた。
一通りの暴走を終えて緊張が戻ってきたのだろう。一文字に唇を引き結んだ大和は、撫子の肩に手を添えたまま動かない。少し手のひらが震えているのがおかしかった。
思えば撫子にはずっと余裕がなかったのだ。大和と過ごす毎日は幸せではあったけれど、いつ失うかわからない不安に付き纏われて、神経だけは砥石のように磨り減っていた。
この手を取れば、不安は減るだろう。全くなくはならないかもしれないが、少なくとも今よりはずっと。
ならばと、大和のこと以外には生来思い切りの良い撫子は、人生で最高に蕩けるような笑顔を浮かべた。
「10点」
え、とたじろいだ男に笑みを深める。
「ヤマト、嬉しいわ。私も好きよ。子供の頃からずっと好き。スカートのことは、てっきりヤマトは嫌いなのかと誤解してたわ、ごめんなさい。服のプレゼント凄く嬉しい。ありがとう」
「え、じゃあ」
「でもね」
覚えのある笑顔を混ぜた。顔を赤く青く交互に染める滑稽さに、口唇を歪ませる。
注目させるように紙袋を揺らした。
「どうしてパンツの用意まで、あるのかしら?」
ひい、と引き攣った悲鳴が聞こえた。握り締めた脇腹に、ゆっくりと力を込める。
あり得ないだろう。服一式、という選択は良い。靴まで入っているのは素直に嬉しい。よく見ればアクセサリーまで入っている。箱すらない無造作な投入は、格式張らず、ただ付けたところを見たいという思いが透けていて、今度は返品して来いなどとは天地が引っ繰り返っても言えない。
だが、下着は、ない。
「ぶ」
「ブ?」
ぎりり、と食い込む指先に、大きな手が静止を求めて重ねられ。
「ぶらじゃーは、サイズがわかんなくて」
「潰れなさい」
「ぐああああああああああぁぁぁぁぁぁぁあぁぁあ!」
響き渡った悲鳴にまたしても隣人の壁ドンが抗議を伝えてきたが、今日だけは見逃して貰おうと勝手を決めた。
この手を取れば希った想いの成就が決定しているのなら、明日に浮き立つ心を楽しんでも罰は当たらないだろう。撫子の愛する大和は、一日二日で心変わりするような移ろいやすい男ではないのだから。
空が太陽を包み込むように、明日が晴天であれば良い。
祈るように、笑みを絶やすことなく、撫子はようやく訪れた己の春を歓迎した。
満面の笑みで男の脇腹を潰す姿が鬼人のようであれ、撫子は誰が何と言おうと、幸福を噛み締めたのだった。
投稿短編小説2/2ぱんつオチ。