二話〜終業〜
よし、と。みんな帰って静かになった部屋で、私は最後のチェックシートを仕上げた。
みんながミーティングをしているときも電話を掛け続けた。不思議なもので、アポが取れるときは、続けて取れる。坂井に怒鳴られたことで、流れが変わったのだろうか。とはいえ、かなり強引にクロージングを掛けたから、成約に結びつくのかと聞かれたら、返事に困る。最後に話した客の、疲れてうんざりしたような声がよみがえる。まあいいわ。とりあえず今日は終わることができるし。
チェックシートを手に、坂井のデスクに向かう。私たち二人以外、同僚みんな帰ってしまったこの部屋は静まり返り、受話器を握った坂井のトークだけが響いていた。
私たちが上げたアポを、坂井がプッシュし、そして外回りの営業マンたちが契約する。そんな流れになっている。今彼は、同僚たちが上げた見込み客のうち、さらに成約に結びつきそうな客を選別し、契約への道筋をつけているのだ。
坂井は話しながら私を見上げると、待ってろというふうに目配せすると、そのままトークを続ける。
私たちのような営業用の声じゃない。親しい友人と話しているような、でも決して失礼にならない程度の、ざっくばらんな声。
この若さで営業課長を務めているのは伊達じゃない。思わずその声に引き込まれる。二年前に途中入社して、全国に支社を持つこの販売会社でトップの成績を上げ、すぐに次長から課長へ引き上げられたという。
ガチャンと音がして、放り投げるように受話器が置かれた。どうやらだめだったらしい。
「貧乏人が。子供にこれっぽちの金も掛けられないのか」
電話をしているときの誠実そうな表情が一気に崩れ、そう毒を吐く。
「で、取れたのか」
「はい」
私はチェックシートを手渡した。坂井はそれに目を通して、再び聞く。
「契約できるんだろうな」
さあ。あんたならできるんじゃない?
「できる……と思います」
心を見透かすように、私の目をしばらく見つめると、坂井は手に持った紙切れをデスクの上に投げ出した。
「ふん。まあいい。今日は終わりだ」
坂井も立ち上がると、手早くデスクの上を片付け始める。
「なあ、原田。今日これから予定はあるか?」
ちらりと壁の時計を見た。もう九時を回ってる。もし予定があったとしても、台無しになっている時間だ。
「いえ」
「そうか。じゃあ、ちょっと付き合え」
そう言って、彼は椅子の背もたれに掛けてあった上着を羽織った。
会社の近くの居酒屋で、私は坂井と向き合っていた。勤務中はともかく、オフのときの坂井は、決して評判が悪くない。ほとんどオールバックになでつけている髪形はいまいちだけど、土台は悪くない。たぶんスポーツで鍛えたのであろうしなやかな体で、カルバンクレインの三つボタンを、キレイに着こなしている。
「すまんな、こんな店で」
「……いえ」
神経質に指の間をお絞りでぬぐっている坂井の顔を、私は恐る恐る覗き込んだ。今はオンか、オフか。もしオフならいい。今までに何度か、忘年会やなんかでみんなで呑みに行ったときの彼は、先頭に立ってカラオケのマイクを握り、場を盛り上げ、それなのに一人ひとりへの気配りを忘れない、理想的な上司を演じて見せていた。演技? いや、それが本当の彼かもしれない。
「なあ原田。おまえ、なにかあったのか」
一通り注文を終え、まず瓶ビールとグラスが届くと、坂井は注いだもののそれに手をつけるでもなく脇に避け、私の顔を見た。
「……いえ、べつに」
「鹿山さんから聞いた」
鹿山……私が入社した当時の営業課長だ。坂井と入れ替わりに福岡に移動になった。坂井に輪をかけた鬼上司で、いやらしいクソおやじだった。
「鹿山課長が……?」
「お前の営業記録にも目を通した。入社した時からずっと、トップクラスの成績を上げていたらしいじゃないか」
そんなこともあったかもしれない。あの頃はテレアポなんかちょろいと思っていた。
「ビギナーズラックですよ」
坂井の声に、気遣うような響きを聞き取って、そんな軽口を叩いてみる。しかし彼はそれには乗らずに、テーブルの上で指を組んだ。
「鹿山さんがあの頃のモニタの録音を保管していてな、それも聞かせてもらったが――」
「そんなものを、あの人は持っているんですか!?」
驚いて聞き返した。冗談じゃない。気持ち悪い。たとえ業務上とはいえ、電話を盗み聞きされるだけでも嫌なのに、録音までされていたなんて。
「ああ、福岡支社で、お手本代わりに新人に聞かせているらしいぞ」
私の気も知らずに、坂井が少し笑いを含んだ声で答える。もしかしたらこいつの中では、それは名誉なことなのかもしれない。
「あの頃のお前のトークには、なんというかな……客と対等以上に話そうという気概があったように思う」
「はぁ」
なぜなのかは知らないが、言葉を選んでいるのが分かる。もちろん、言いたいことも。つまりこいつは、客を見下せ、そう言いたいのだ。入社当時、鹿山がいつも言っていた。俺たちは子供の成績を上げる手伝いをしてやっているんだ。何も遠慮することはない。
「しかし、今のお前にはそれがない。予約を取らないと、みたいな焦りは感じられるが、それでは客に舐められるだけだろう」
そうかもしれない。だからといって、何もできない。アポが取れなければ、こいつに怒鳴りつけられるのだ。今日みたいに、一人残されて電話をかけ続けさせられることもしょっちゅうだし。焦るなというほうが無理だ。
「なあ、原田」
「はい」
坂井は一度椅子の背もたれに身体を預けると、少し天井に目を逸らし、また身を乗り出した。再び合った目が、少し不安げなのは気のせいだろうか。
「お前の成績が落ちたのは、俺がここに着てからだろう。俺のやり方は、お前には合わないのか?」
「そんなことは……」
坂井がこっちにきたのは、そう、一年前。
私が……私が最後の罪を犯したとき。
「そんなことはないです」
坂井が右手を伸ばして、私にビール瓶の口を突きつけた。え? 思わず手元を見る。いつの間に飲んでしまったのだろう。私のグラスは、白い泡を内側に薄く貼り付けたまま、空になっていた。
「あ、すいません」
グラスを差し出して、頭を下げる。
「いや、かまわない」
私のグラスにビールを注いで、坂井も自分のグラスを手に取った。
「まあ、俺のせいでお前がだめになったとか、別にもういいといえばいいんだ」
え、と聞き返そうとして、そのときちょうど運ばれてきた料理に邪魔をされた。坂井は、グラスに目をすえたまま、舐めるようにゆっくりとビールを飲んでいた。
「あの、課長」
料理の小皿がテーブルに並び終えた頃には、そのグラスもようやく空になろうとしていた。私が差し出した瓶に、すまんと言ってグラスを差し出す。
「今度うちの社が、富山に営業所を立ち上げることになった。予定では六月。俺はそこに移動する」
もういいって言うのはそういうことか。私の成績なんか、もうどうでもよくなると。でも、なんで私に? なんか言って欲しいの? おめでとうございます? 別に栄転じゃないだろう。残念です? 私は別に残念じゃないし。嬉しいです? まさか。ちょっと笑いそうになって、口元をグラスで隠す。
そんな私を一瞥して、坂井はグラスのビールを、今度は一気に飲み干した。そして、自分でさっさと注ぎながら、ぼそりとつぶやく。
「客を口説くのは自信があるんだけどな……」
「え?」
少しはにかんだような笑みを浮かべた坂井が、私を見て、そして目を逸らした。天井へ、メニューへ、そして机の上の料理へと視線をさまよわせた彼は、最後にもう一度私を見つめた。
「今言わないと、もう時間がないから……な。なあ、原田。俺と、付き合ってくれないだろうか」
そこには、私の知っている、皮肉で、乱暴で、客に対してだけ洗練されているような振りをする、坂井の姿はなかった。あるのは、二十五という歳にすら不似合いな、純真そうな男の姿。
「あ、いや、六月までだから後腐れがないとか、そんなことを思っているわけじゃないぞ。できれば、そのあともずっと……今のお前には、仕事が辛そうだし、お前一人を養えるくらいの稼ぎはあるし……あ、いや、そんな、先のことを今言うことじゃないけど――」
舞い上がったように口を動かし続ける彼の言葉が、不意に途切れた。私が何の反応も見せないのが、不安だったのかもしれない。そう、私は、彼の言葉をほとんど聞いていなかった。彼のことなんか、ほとんど見ていなかった。そのとき私が考えていたのは、修二のこと。
――修二から、逃れることができるかもしれない。
ただ、それだけ……
だから、私は、坂井を見つめ返した。ビール瓶を、彼に差し出した。だけど彼は、グラスを持とうともせずに、思いつめたような表情で、私の言葉を待っていた。だから、私は笑って見せた。
「いいですよ。私も、課長のこと、そんなに嫌いじゃないですから」
「嫌いじゃない、か」
ほんの少しだけ苦笑して、それでも安心したように、坂井はグラスを差し出した。
「でも、ありがとう」
そういって笑う彼に、私は修二の笑顔をダブらせていた。もう、二度と見ることができない笑顔を。
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