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作者:早海徒雪
    1

 私は、ひとり、泣いている。
 その頃のというか、その頃から私は、なかなか扱いの難しい娘であったように思う。変にプライドが高く、お嬢様気質で、素直なところなど、これっぽっちもない頑固者。おそらく、はたから見る私のイメージは、そんな感じではなかったか。実際、いつもブスッとした顔をして、感情をあらわにすることもほとんどなく、幼稚園の先生や両親の気を大いにもませたものだった。
 そんな私が、ひとり、泣いている。
 私は道路の真ん中で、両足を投げ出したまま、へたり込んでしまっている。少し離れた場所には、昨日誕生日に買ってもらったばかりの自転車が、カラカラとむなしく後輪だけを回して転がっている。おまけに普段は人の行き交いも多いはずのその通りでは、そのときに限って猫の子一匹姿を見せる気配すらなく、その場に私は、ひとり、取り残される羽目になった。
 その自転車は、いつかテレビでその姿を見染めて以来、何度も何度も親にねだって手に入れたものだった。色はピンクで、かわいらしいカゴがついていて、いかにも女の子向けのデコレーションに彩られた品だったので、両親はやっと私がそっち方面に目覚めてくれたと喜んでいた。しかし、内心私はそれに乗れば、どこへだって行けるということの方に、大きな魅力を感じていた。確かCMでは金髪の少女が、見知らぬ外国の街を颯爽と走っていく場面が、インサートされていたように思う。
 そしてその日、私は幼稚園から戻ると、着替えもおやつもそこそこに、すぐに愛車に乗って飛び出した。「あまり遠くまで行くんじゃありませんよ」という、母親の言葉は当然のごとく無視した。私の想いはすでに、未知なる世界への期待で満ちあふれていた。もはや私を止める者は誰もいないのだと思うと、気分は高揚していく一方であった。
 だが所詮は、補助輪つきの幼児向けの自転車である。しかも乗っているのは、非力でやせっぽちな女の子だ。どんなに力いっぱいペダルをこいだところで、スピードも距離もたかがしれている。私は想像の中の自分と、現実での自分とのギャップに、だんだんとイラつきはじめていた。
 と、そこで、道は緩やかな下り坂に差し掛かった。必死に歯を食いしばらなくても、全身に力をこめなくても、自転車は次第に加速していって、やっと私は爽快な気分を味わえるようになった。心地よい風に身をゆだね、空想世界へ羽ばたこうとした、その瞬間――。
 私は豪快に転倒してしまったのである。
 すぐには何が起こったのか、まったくわからなかった。おそらく、よく前を見ていなかったせいだろう。大きな石にでも乗り上げてしまったのか、深いくぼみにでもはまってしまったのか。いずれにせよ、私ははね飛ばされて、硬くて冷たい地面に衝突した。目の前に星が飛んだのも、はじめての経験だった。
 事態が飲み込めてくると、私は自分が、かなり悲惨な状況に陥ってしまったことを理解した。体のあちこちがズキズキと痛む。特に左のひざ小僧のあたりに、焼けるような痛みがあり、立つことはおろか、力をいれることすらできなかった(後々骨が見えるぐらいの深い傷をおっていることがわかった)。さっきまで輝いていたはずの愛車は、すっかりくすんで光を失ったように見えた(こちらは傷一つついていなかったのだが)。
 そしてとうとう私は泣き出してしまったのである。
「あれ、ユウじゃないか?」
 どのくらいその場で泣いていただろう。急に自分の名前が呼ばれた気がして、顔を上げて見てみると、
 前かがみになって、心配そうな顔をして、
 おそらく小学校から帰る途中の兄が、
 目の前に立っていた。
「どうしたんだ? こんなところで……」
 私は兄を見た途端、その問いかけにも応えずに、よりいっそう大きな声で泣き出した。
「うわああん……」
 だがふいに、なにやら暖かいものが自分の頬に触れるのを感じ、ふっと泣きやんだ。
「……だいじょうぶだよ」
 兄の柔らかな手が、私の顔を包み込んでいた。
「一緒にウチまで、帰ろ?」
 兄は私に笑顔を見せて、片方の手を目の前に差し出した。私の小さな手は、自然とそこへ吸い込まれていく。兄はそれを優しく、しっかりとつかむと、ぐっと力を入れて引っ張った。
「いたい!」
 ひざに激痛が走り、私はすぐにまたへたり込んだ。ちらりと足を見た兄は、すべてを理解したようだ。私を落ち着かせるかように、私の髪をそっとなぜると、自分のランドセルを体の正面へと回して、それから私へとその背中を向けた。
「ほら、ちょっとだけ我慢して。おんぶしてあげるから、こっちへおいで」
 私は痛くない方の足に力を込めて中腰となり、その兄の背中に飛びついた。変な勢いがついてしまったが、兄は動ぜず、私を受け止めてくれた。
「しっかりつかまって」
 それから私の両足を抱え、腰のあたりでうまくバランスをとりながら立ち上がった。正面に回したランドセルが、ガチャガチャと鈍い音を立てる。
「じゃあ、帰ろっか」
 兄の言葉に、私は小さくうなずく。ところが、何歩か歩きだすと、兄は不意に立ち止まり、足早に元の場所へと戻っていった。
「ちょっと手を離すけど、しっかりと捕まってなよ。本当にちょっとの間だけだから」
 目の前には、転がったままの私の自転車があった。兄はおばあさんのように腰を曲げ、私がずれ落ちないように背中を平行に保ちながら、足から手を離し、その自転車をつかんで立たせた。そして片方の手でまた私の足を抱きかかえ、もう一方は自転車のハンドルのところを握りしめた。
「よかったな。壊れてないみたいだ」
 そういって兄は私をおんぶしたまま、自転車を押しながら、また歩き出す。
「……落ちそうになったら、すぐに言うんだぞ」
 私はしゃくりあげながら、またうなずいた。
 兄は、私をばかにしたりはしなかった。怒ったりもしなかった。深く追求もしなかった。ただ私と自転車と一緒に、家路を急いだだけだった。その後、家に戻ってから大騒ぎとなり、私は結局、自転車への興味も失っていくのだが、それはまた別の話だし、そのあたりの記憶は非常に曖昧である。
 ただただ覚えているのは――ひどい痛みすら忘れさせてくれた、頼もしい兄の笑顔と、その心地よい背中の温もりである。私は涙とよだれと鼻水を、混ぜこぜにそこへこすりつけつつも、そのまま眠ってしまったのだった。
「お兄ちゃん……」
 いつまでもこのときが続くことを願い、いつまでも兄と共に生きることを望んだ私は……私は……。

 ぐおおん。ぐおおん。
 暗い宇宙ステーションの中で、さびしく目を覚ます。
 私は、ひとり、泣いている。


    2

 ぐおおん。ぐおおん。
 ぐおおん。ぐおおん。
 エンジンルームから絶え間なく響く、低いうねりと機械音。パイプ製のベッドは、貧弱な作りのせいか、どんな些細な音でも拾って増幅させ、絶え間ない振動や揺れを与え続けていた。
 ユウは思わず身震いをして、薄い毛布を体に引き寄せる。頭から被って必死にその音を遮ろうとし、しばらくは寝返りなどをうってはいたものの、やがて無駄な抵抗と諦め、その細い体をゆっくりと起き上がらせた。
(……いたっ)
 とたんに強い頭痛と関節の軋みを感じ、声にならない悲鳴を上げる。さらにきゅっと締め付けられるような胸の痛みがあり、ユウは再び体を丸めながら、何度も何度もせきこんだ。もっともそれぐらいでは、彼女の苦しみが、わずかでも解消されることはなかった。
 ぐおおん。ぐおおん。
 ぐおおん。ぐおおん。
 しばらくした後、やっと気持ちが落ち着いてきて、ユウはおそるおそる体を起こした。苦痛もだいぶ和らいでいる。彼女は膝を立てるように座りなおすと、体勢をまっすぐに整えた。
 ふと手のひらで、自分の左の膝小僧のあたりをなぞってみる。でこぼこしていて、ごわごわした異質な感触。もはやそこに痛みがあるわけではないが、ときどきこんな風に無意識に触ってしまう。昔、大きなケガでもした名残なのだろうか。だが、いつどこでどんな風に、といったその具体的な記憶は、なぜか頭の中からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
(……ここよりほかをしらないはずなのに)
 先ほどまで、夢を見ていたように思う。まだ自分は幼い女の子で、どこか知らないところで、ひとり泣いているのだ。それを誰か別な男の子が助けに来てくれて、背中に抱えてくれて、それから……それから……。
 その少年の、屈託のない『笑顔』――。
 あの子はいったい、誰だったのだろう?
 それとも、単なる想像上の人物なのだろうか。
(そう……だよね。あんなこがこんなところにいるわけ……ないものね)
 ユウはあらためてあたりを見渡した。常に薄暗く、空気も淀み、騒々しくも寒々しい、彼女の生きるちっぽけな世界。
 現在も、過去も、未来も、ここにしかないはずの彼女の居場所。
 巨大な宇宙ステーションの、最下層の居住区が、ユウの住まいなのであった。

「……起きたのか?」
 誰かの手が肩に触れたので思わず振り返ると、淡い明かりを背にして、ひとりの女性が立っていた。彼女はユウと『よく似た』顔立ちをしていて、スタイルも良かったが、ただ腰のあたりまでのばした髪を、自身の顔の左半分を隠すかのように、前にたらしていた。
 ここの区域には女性ばかりが何十人と暮らし、ここの寝所に共同で寝泊まりもしているのだが、朝からユウに声をかけてくれるような者は、ひとりしかいない。それは彼女の親友、ケイだった。
「調子はどうだ?」
 ケイは少し張った声で話しかけると、ユウのすぐ左隣に腰を下ろした。それから、ぐっと彼女を自分のほうへ引き寄せ、体全体で支えるようにする。ユウの方はかすかにうなずいたものの、すぐにそのまま下を向いてしまった。
 調子が『良くない』と言えば、彼女を心配させてしまう。だからといって『良い』と偽っても、すぐにばれることはわかっている。せめて少しでも元気なところをみせたいとは思うのに、ユウにはどうしてもそれができなかった。
 ――ないていたな?
 ケイはユウの手を取ると、その手のひらにさらさらと書いた。ユウは驚いて顔を上げた。そのことがどうしてわかってしまったのか、不思議でならなかった。
 ――ひどいめやにだ。
(えっ、えっ?)
 ユウがあわてて目の周りを拭いだすと、またケイが彼女の肩をたたいて、
「ウ、ソ」
 と、大きく口を動かして言った。からかわれたと知って、思わずユウは自分の頬を膨らませる。
「ごめんごめん」
 ケイは笑いながらユウに抱きついて、
「そんなに怒るとせっかくの美人が台無しだぜ」
 その膨らんだ頬を指で押さえた。ユウはまだ怒ったそぶりをみせていたが、その口元が緩むのも隠すことはできなかった。
 ――かおをあらいにいこうか。
 ユウがうなずくと、ケイは一方の手を彼女の腰にまわして、そのきゃしゃな体をかかえこんだ。
「じゃあ、立つぞ」
 ユウはふらふらと体を起こし、足に力を込めて立ち上がろうとした……が、
(あ!)
 つまずいたのか、シーツにからまってしまったのか、すぐにバランスを崩そうになる。
「大丈夫。ゆっくりとそのまま……そのまま……」
 だがケイがしっかり支えてくれていたおかげで、倒れることはなかった。
(ごめん)
 ユウの唇が動いた。まともに声が出せないことがわかっていても、つい口に出ることがある。
「大丈夫だって。足が悪いことだって、目や耳が悪いことだって、そんなに気に病む必要はないんだぜ」
 ケイは笑顔でユウを励ました。

 いったい自分は、何のために生きているのだろう……ユウはいつもそう思っていた。
 彼女の目は、まったく見えないというわけではない。
 左は完全に駄目になっているが、右だけでも光の加減や物の形・距離感など、ある程度は把握できる。対象のすぐ側にまで近づけば、細部をはっきりと認識することもできる。明るい所だと、無理に目を凝らす必要もなくなるのだが、少なくともこのフロアには、そんな場所など存在しないのが現状だった。
 彼女の耳は、まったく聞こえないというわけではない。
 先ほどのケイのように、大きく張った声で話してくれれば、聞き取ることもできるのだが、皆が皆そういう風に話してくれるわけもない。耳の中で、ノイズというか、強い風が吹くような音が常にしているせいで、低い音や小さな音はどうしても聞き漏れてしまう。特にこのフロアでは、隣のエンジンルームのひどい騒音が、ユウの聞き取ろうとする努力もまた、なきものにしてしまうのだった。
 彼女の声は、まったく出ないというわけではない。
 前は少しは言葉を並べて、順序立てて話すこともできた。だが、耳の聞こえが悪くなるにつれて、それを何と発音するかがわからなくなった。さらには胸の痛みがそれに拍車をかけて、息をすることすら困難なときが増えてきた。おのずと彼女は無口になり、うつむくことが多くなり、話さなくなったことで、ついには自分がどんな声をしていたかすらも、思い出せなくなってしまったのだった。
 そして、彼女の足は、まったく動かないというわけでは……。
「明るい所にでるまで、もう少しだからな」
 ケイがまた励ますように言ってきた。左脚はだいたい膝下あたりから、力が入りづらくなっている。あとに残るあの怪我が原因なのかもしれないが、はっきりとはわからない。杖を使えば歩けないこともないのだが、ここは暗いうえに通路がせまいため、人や物にぶつかったり、つまずいたりすることも少なくなかった。
 そんなユウをみかねて、ケイはいつしか毎朝のように声をかけ、手を貸して、外まで連れ出してくれるようになった。自身も調子がわるいときがあるはずなのに、いやな顔ひとつせず、いつでも明るく接してくれる。そんなケイの優しさに、ユウは感謝してもしきれないほどの気持ちを、ずっと抱いていたのであった。

 寝所を出て洗面室に入った途端、まばゆいばかりの明るさと、むっとした熱気が二人を包んだ。すでに大勢の仲間たちが起きだしており、それぞれの席で身づくろいをはじめている。ウェットティッシュで顔を拭う者、隣の電子シャワー室へ慌ただしく駆け込んでいく者、髪を整えている者、念入りにメイクを施している者……さまざまであった。
「ちょっとここで待っていな。空いている席を探してくるから」
 そう言ってケイはその手を離し、奥の方へとかけて行った。ユウは杖でしっかりと体を支えて立つようにしていたが、背後から誰かがぶつかってきて、バランスを崩し、すぐそばの席の女性に思わずもたれかかった。
「きゃあ!」
 相手は大きな声で悲鳴を上げた。
「ちょっと、あんた! なにするのよ!」
(えっ、えっ?)
 さらに相手は、戸惑うユウを、いきなり突き飛ばした。
「ラインをかいているとこだったのに……台無しじゃない!」
 その後も、相手は何やらわめいていたが、余りにも早口なので言っていることがわからない。ユウはとりあえず頭を下げ、詫びの気持ちだけでも伝えようとした。
「……なんだ、アイじゃねえかよ」
 いつのまにか、ケイが戻って来ていた。彼女はまず、その場にへたり込んでしまっているユウを立たせると、やおらアイの方へ向き直った。
「別にわざとじゃないんだ。ユウの足が悪いことは、お前も知っているだろう? 謝っているんだから、そこらへんでかんべんしてやれよ」
「もう最悪! 引率するなら、首輪でもつけておきなさいよ!」
「……はいはい」
(ごめん……なさい)
 アイは文句を言いながら、正面の鏡に向き直ってしまった。ユウは何度もその後ろ姿に謝り続けていたが、ケイが彼女の手を引いて、すぐにその場から連れ出した。
「気にするな」
 と、大きく口を動かしながら言って、また笑顔を見せた。

「さ、ここだここだ。気をつけて座れよ」
 ユウはケイに導かれるままに、空いている席に腰を下ろした。それからすぐに「熱いから気をつけろよ」と言われて、蒸しタオルを渡される。さらに次々と、乳液やパウダーなどが、目の前に並べられていった。
(わたしこんなにつかわないんだけどなあ……)
 さすがに女性ばかりだからというわけではないが、化粧品の品ぞろえは豊富であった。彼女らの仕事は、大きなマスクをつけて、顔の隠れるヘルメットをかぶることが多いのだが、それでも化粧に時間をかける者が多かった。先ほどのアイのように、あまり見かけないような特別な品を、どこからかこっそりと持ち込んでくる者もいる。
 ユウはと言えば、顔を洗えばあとは乳液を付けるぐらいのことしかしない。肌荒れがひどいようなときは、ローションやクリームを塗ったりすることもあった。よく見えないということや、手先も器用ではないこと、あとはその後ろ向きな性格などが、そういうことにあまり積極的になれない理由でもあった。
(ふう)
 しかし暖かいタオルで、顔や首筋をふくのは嫌いじゃなかった。先ほど、からかわれたばかりなので、特に目じりのあたりは念入りにぬぐう。ふき終わった直後は、肌に触れる風の種類も変わったような気がして、なんとも心地よかった。つらい悩みや苦しみまでも、少しだけふき取られたような感じがした。
(どう? もうめやになんて、ついてなんかいないでしょう?)
 ユウはおどけて胸を張りながら、思わず左隣に座るケイの方を振り返った。
(あ……)
「ん?」
 ケイも同じようにユウを見たが、そのとき、彼女がすばやく自分の髪で、顔の左半分を隠しなおす仕草をしたのがわかった。
「ユウ、どうした?」
 たぶん、無意識にやったのだろう。そこまでユウに見られたとは思っていないだろうが、人に顔を向けるときは、ついそんな動きをしてしまうことが、習慣になっているのだろう。
 彼女が左側だけ、長い髪を不自然にたらす理由。彼女がどんなに暑くても、袖の長い服を着る理由。彼女がいつもきまって、ユウの左側に座る理由。彼女が、いやここのフロアの女性たちのほとんどが、念入りにメイクを施そうとする理由。
 ユウは全員のことを知っているわけではない、ただケイからは、直接本人から話を聞かされていた。
 その体の左半分には、ひどい痣が連なっていることを――。
 このフロアは、いわゆる障害やハンディを抱える者たちが集まる、居住区でもあるのであった。

 ユウはこの宇宙ステーションの中に、どれだけの『人間』が住んでいるのかは知らない。
 ただそれらは、ある『基準』によって、それぞれの『レベル』に分けられており、そしてその『レベル』によって、仕事の内容や生活環境も『区別』されていた。
 ユウたちのような『女』だらけのフロアがあるように、なかには『男』ばかりのフロアもあると聞く。
 ここで彼女らに割り当てられている仕事は、ステーション内の物資や機材の運搬、備品の修理・交換、各フロアの清掃、けが人や病人の介護などである。そのほとんどが単純作業で、別な言い方をすれば、『誰にでもできる』仕事であった。
 さらに彼女らがここを出て、別のフロアに移動するようなときは、大きなヘルメットに加え、宇宙服のような防護服を着なければならない、という決まりになっていた。
 ユウなどは移動もままならぬため、フロア内の作業を割り当てられることが多いのだが、それでもごくたまに外に出なければならぬときもある。そんなときでも、防護服の着用は必須で、さらに出入りの際には、全身をくまなく消毒することが義務付けられていた。
 ユウは、なぜそこまでしなければならないか、ずっと理解できないでいた。
 ――あぶないからさ。
 ある日、その疑問を率直にケイにぶつけたことがある。
 ――うぃるすとかびょうきとか。
 しかし、宇宙空間ならまだしも、同じステーション内のことである。空気もここより澄んでいるようだったし、別に危険な場所とは、到底思えなかった。
 ――ぎゃくだよぎゃく。
(……ぎゃく?)
 ――あたしらがうつしかねないってこと。
(そんな……)
 宇宙空間での水の使用はどうしても制限されるため、定期的な入浴などはできないが、電子シャワーや除菌されたタオルなどで、体を清潔に保つ努力は怠っていない。衣類も下着も、常に清潔なものと取り替えているというのに。
「所詮は見てくれってことさ」
 そのときケイは、急に手のひらに書くことも止めて、吐き捨てるように言った。
「……あいつら、自分たちとちょっとでも違うやつは、『見なかったこと』にしちまいたいのさ。もとは『同じ』だっていうのにな!」
 ユウはケイの言葉を、すべて聞き取ることはできなかったが、彼女の憤りだけは十分に理解できた。それは、ここの住人すべての、心に秘めた共通の『想い』でもあったのだから。
 別に、なりたくてこのような体になったわけではない。そんな自分たちでも、誰かのため、みんなのために、できることをやってきているのだ。それを感謝しろとまでは言わない。ただその『想い』だけは、すこしは気に留めてくれてもよいのではないだろうか。
 だがもし、それすら踏みにじるというなら――。
 やはり私たちは、何のために、生きているのだろうか。

「……ユウ?」
 はっと気づくと、心配そうにこちらを見つめるケイの顔があった。なぜかその輪郭がすごく緩んでいる。するとすぐに、何かが頬をつたう感触があった。
(あ……いけないいけない)
 ユウはまた泣いていた。慌てて彼女は、手にしたままのタオルで、あらためて強く顔をこすった。
(……だいじょうぶだから)
 再びケイに向き直ったユウは、笑顔と共に、小さく拳を握ってさえ見せた。
「そう……か」
 そう言うと、ケイは少しだけ微笑んだ。
(……ケイちゃん)
 ユウは自分の手を、ケイの手の上へと重ねた。
(がんばろうね)
 彼女は、そうはっきりと口を動かして、自分の『想い』を、相手に託したのだった。
「……そうだな」
 ユウはとりあえず、すぐに答えの出ない考えを捨てた。自分たちが何と思われようと、何事も精一杯やるだけだ。ケイのように自分を信じてくれる人がひとりでもいる限り、その人のために尽くすことに、何の後悔やためらいがあるだろう。
 自分たちのいる場所は、もはやここでしかないのだから……。


    3

 ノックの音が、した。
「……はーい」
 私は気のない返事を返した。どうせ誰が来たのかわかっている。というより、私の部屋へ入るのに、きちんとノックをしてくれる人なんて、たったひとりしかいやしない。
「ユウ、もう明日の準備はできたか……って、なんだこりゃ?」
 顔を見なくてもわかる。兄以外には、ありえない。
「お前……なにをやっているんだ」
 呆れるのも無理はない。床の上、ベッドの上には、所狭しといろんなものが並べられている。洋服にアクセサリー、本や写真、勉強道具に化粧道具、さらに何に使うかよく分からないガラクタの数々まで。そしてこの惨状を、棚の上から大小さまざまなぬいぐるみたちが、冷めた視線で眺めていた。
「……らんないの」
「えっ?」
「何を持っていけば良いのか、決めらんないの!」
 いつもならこんなことはないのに。ぐずぐずしないで、何も考えずに、ぱっぱっぱと決めてしまう。それが私であるはずなのに。
「……全部は持っていけないだろう?」
「だから、決めらんないんだってば!」
 大きな声を出してしまった。わかっている。わかってはいるのだ。だけどだけどそうだけど。
 目の前がぼんやりとにじみ出す。ああ、あたしなんで泣くんだろ。頭の中も心の中もぐちゃぐちゃなのに、ぬいぐるみたち以外に、どこかで冷静にこの状況を観察している、別の『自分』の存在を、強く意識する。
 兄がゆっくりと近づいてくるのがわかる。律義に床に転がる物たちをよけながら、歩いているのだろう。やがて私の隣に、なんとか隙間をこしらえてから腰を下ろす。
「なあ、ユウ……」
「なんで……あんなところになんか行かなきゃいけないわけ?」
 兄が口を開いた途端、私はすぐに言葉をかぶせた。
「あたし、宇宙になんか行きたくない!」
 大学で生物医学の研究を行っていたはず父が、何の因果か、最近できたばかりの宇宙ステーションへ出向することが決まった。母も研究員のひとりであり、もちろん付き添うことになるとなれば、中学生の兄はもちろん、生意気盛りの小学生である妹も、一緒について行かねばならぬのは当然であった。
 はじめは、それほど大したことだとは考えていなかった。確かに生まれ育った家を出て、友だちとも離ればなれになることはつらかったが、定期便の運航もはじまっていたし、いつだって帰ろうと思えば、すぐに帰れるという安心感もあった。
 それにくだんのステーションは、もう何年前からずっと、巷で話題になっていた最新鋭の施設であり、そこでの仕事に抜擢されただけでなく、そこに住むこともできるという誇らしさもあった。まわりの褒めそやしに浮かれてしまっていたことも、否定できない。
 だが、実際に移住する日が近づいてくると、私はどんどん心配になっていった。そこは本当に安全な場所なのか。それより行く途中で、何か事故にでもあったらどうするのか。帰れなくなってしまったら? 誰かが死んでしまったら? ほとんどは何の脈絡もなく、何の根拠もない妄想であったのだが、不安をぬぐいさることは、どうしてもできなかった。
 そしてそれが、よりにも寄って出発の前夜、今まさにこの瞬間に、ピークに達してしまったのだ。
 私は涙をこらえて、顔を真っ赤にしながら震えていた。兄は、そんな妹の髪をやさしくなぜていた。しばらく互いに無言だったが、
「なあ、ユウ……」
 と、また兄がつぶやいた。
 ……言いたいことはわかっている。何をいまさらそんなワガママを言うんだ、とか。まだ子供なんだから、親の言うことを聞かなきゃダメだ、とか。心変わりした理由をきちんと説明するんだ、とか。とかとかなんとか。
 でも、そんなこと言われたら……私は号泣するための準備はできていた。
「……やめてしまおうか」
 ところが、その口からでたのは、意外な発言であった。私は驚いて、兄の顔を見た。
「今ならまだ間に合うよ。僕らだけでも、行くのを止めるよう、父さんと母さんを説得してみようよ」
「だけど……」
「しばらくは、おばさんの家にでも住まわせてもらえばいいさ。ボクが高校生になったらバイトをはじめるから、そしたらどこかにアパートを借りてもいいし。そのころは、ユウも中学生だしね。二人で協力すれば、なんとかやっていけると思うんだよ。もし後々になって、やっぱり行きたいって気持ちになったら、そのときにまた考えなおして……」
 何を言い出すんだ? この人は……。
「そんなの……ダメだよ」
「……どうして?」
「残るんだったら、あたしだけで十分だよ。お兄ちゃんは、本当は行きたいんだよね? なのに、あたしのわがままにつきあって、その犠牲になることはないよ」
 私は知っている。どんなに兄が、今回の宇宙行きを楽しみにしていたか。
 もともと兄は、父の仕事に誇りを持ち、いつかは同じ道に進みたいと考えていた。そして今回、共に宇宙に出ることは、その夢をかなえるための、第一歩ともなるはずだった。最新鋭の施設の中で、ごく間近に父の研究に接することができる。それは兄にとっての、願ったりかなったりの好条件であるはずだった。
 なのにそれをあきらめさせたり、なかったことにしたりする権利など、私にあろうはずがないではないか。
「それこそ……ダメだなあ」
 でも兄は、満面の笑顔を浮かべて、
「ユウをひとりぼっちにするなんて、できるわけがないじゃないか」
 と、言ったのだった。
 本当に何を言い出すんだ? この人は……。
 私は全身が、それこそ足のつま先まで、別の意味で真っ赤になるのを感じていた。何なの? 何でそこまで、言ってくれるの……?
「……じ、時間を、ちょうだい」
 私はうつむいたまま、スカートのすそをぎゅうっと握りしめたまま、やっとのことで声をしぼり出すことができた。
「一時間、ううん、三……二十分でいいの。少し時間ちょうだい。どうするか……決めるから」
 いや、私の心は、すでに決まっていた。
「……そうか」
 兄は深く追求せず、そのまま立ち上がり、
「じゃあまた、後でな」
 固まっている私を残し、また床の荷物を避けながら、そっと部屋を出て行った。
「……もう!」
 私はすぐに立ち上がって、ベッドの下に入れていたピンクのキャリーバックを引っ張り出した。以前、兄と色違いで購入したものだった。
 私は広げたままの洋服のなかから、これまたピンクのダッフルコートを選んだ。以前、兄が「かわいい」と褒めてくれたやつだった。
 上着もスカートも素早くコーディネートし、持っていく服をチョイスしていった。以前、兄が「似あう」と言ってくれたのを中心に選んだ。
 アクセサリーも、兄がプレゼントしてくれたものをピックアップした。
 兄が勧めてくれた(でもよくわからなかった)本。
 兄との思い出(と私の恥ずかしい過去)がつまったアルバム。
 それから、それから……。
「……もうもうもう!」
 私はめまぐるしい速さで、次々とバックに詰めはじめ、準備が終わるまでには、五分とかからなかった。
 そして、最後に、
 兄が私の誕生日にはじめて買ってくれた、小さなくまのぬいぐるみを取り上げ、
 ギュッと思いっきり抱きしめてから、
 それをバックに押し込んで、ファスナーを閉じたのだった。
「……よし!」
 宇宙へは、兄との思い出の品だけを持っていこう。
 そして宇宙でも、兄との思い出の品を、もっともっと増やしていこう。
 ばかな妹だと笑えば笑え。
 兄はいつでも、私のことだけを考えてくれているではないか。
 ならば私も……不器用なりに、それに応えようとするだけだ。
 ずっと。ずうっと。永遠に。
 私はそのとき、子供心に、自分の一生を兄のためにささげるのだと、心に決めたのだった。


    4

 朝の準備を終えたユウたちは、休憩室に備えられた電光掲示板にて、その日の持ち場と仕事内容を知らされる。
 ▽▽ H‐15473089、I‐36109470、N‐87613952、R‐89503746、動力室へ……。
 ▽▽ B‐66070842、K‐63524766、展望室へ……。
 ▽▽ U‐90375791、倉庫室へ……。
 ――そうこしつだとそうじだな。
 ケイが、ユウの持ち場を教えてくれた。
(ケイちゃんは?)
 ――てんぼうしつ。
 あまり聞き覚えのない名前だった。
「ほら、前に一度だけ一緒の作業になったことがあったじゃん。そん中に、でっかい窓がある広い部屋があっただろ?」
(ああ……)
 筆談ではもどかしいと思ったのか、ケイは身ぶり手ぶりを交えた説明に切り替えた。そういえば、確かにそんな部屋を訪れたことがある。
「しかしあんな何もないところで、何をやるのかね。窓ふきか?」
 と、言ってケイが笑い、それにつられてユウも微笑んだが、
(……まど?)
 一瞬、その言葉に、何かのイメージが頭に浮かんだ。だがそれが何かまでは、すぐには思い出せなかった。
「それじゃあな。また、あとで」
 ケイはユウを軽くハグして、防護服に着替えるために外へ出て行った。ユウはしばらく、その後ろ姿に向かって、手を振り続けていた。
(さてと)
 倉庫室は休憩室のすぐ隣にある。そこから用具を持ち出して、フロアの端から端まで掃除して歩くのが、今日の作業だ。外に出るわけでもないから着替える必要もなく、また誰かが監視につくこともない。
(……ふう)
 ユウはひとつため息をついてから、きしむ杖を頼りに、重い足取りで倉庫室へと向かって行った。

 やっと作業が一区切りついたのは、お昼近くになってからだった。
 他の者なら、もう少し早く終わったのもしれない。だが、ユウは体のこともあるし、もともと段取りや要領が悪いこともあって、どうしても時間と手間ばかりがかかってしまうのだった。
(まだはやいけどおひるにしちゃおうかな)
 とりあえずユウは、椅子を持ってきて、その場に腰かけた。
(ケイちゃんがんばっているかな……)
 天井を見上げて、ふと思う。きっとバリバリ働いているに違いない。きちんと休息も取っているのだろうか。無理だけはしないで欲しい。心配だけが心につのる。
(てんぼうしつか……)
 ユウはかつてケイと一緒に訪れた、その部屋のことを思い出そうとしていた。確かここよりずっと広くて、とても明るくて、中央に大きな『窓』があって、そこで何かを話して……それから……そこから……。
 あの『星』――。
(あっ……!)
 やっと、先ほどの『イメージ』が、何であったのか思い出した。
(そうだ。あの『ほし』だ!)
 ……それは、その日の作業が終わった直後のことだった。例の防護服を着せられていたユウは、一刻も早くそれを脱ぎたくて、帰る準備を急いでいるところだった。
 ところが、ふと気がつくと、さっきまで一緒だったはずのケイの姿が見えなくなっている。大慌てであちこちを探し回り、やっと彼女を見つけたところが、その展望室なのであった。
「あ、ひょっとして探していた? ごめんごめん」
 ヘルメットには通信用のマイクが付けられているので、音量を調節すれば相手の声もはっきり聞くことができる。ユウにとってそれは、防護服を着込む唯一のメリットといってもよかった。
「ちょっと、ユウもこっち来てみなよ」
 マイク越しでも、なんとなく、声がいつもよりはずんでいるように聞こえた。
「どうだ? なんかいつもと違う感じがしないか?」
 そこに立つと、なんだかまわりが全体的に明るくなり、体がほのかに温かくなったような気がした。優しく包み込まれるような感覚と、なんとも言えない心地よさが感じられた。
「ユウは今、『太陽』の光を浴びているんだぜ」
(たいよう?)
「わかるかな、あの輝きが……」
 そこの大きな『窓』の外、うすぼんやりとした視界の先に、ひときわ輝いている一点があった。はるか遠くにあるようにも思えるのだが、それでいてすごく身近にあるようにも見える。
「今が、このステーションが、一番『太陽』に近づく時間帯なのさ。だからこんなにも明るいし、こんなに温かくもなるんだ。おまけにあの『星』だって、こんなにはっきりと見えるようになってさ……」
(あのほし?)
「ああ、そうか。それはちょっと、わからないかな」
 ケイはユウの体を、少しだけ左の方へとずらした。
「こっちの方角に、大きな『星』が浮かんでいるんだ。あの『太陽』に、少しかぶさるような感じで……」
 そう言われてみれば、確かに『何』かがあるようにも思えるのだが、それが『何』であるのか、ユウのその目では、ましてやヘルメットを通した視界では、それを認識するのは困難であった。
「あれが、あたしたちが生まれた『星』なんだよ」
(えっ?)
「あ、いや……あたしたち自身じゃなくて……その、あたしらの『先祖』っていうか、『大元』っていうか……がさ」
 なぜかケイの声はだんだんと小さくなっていき、その説明も歯切れの悪いものとなっていった。
(わたしたちが、うまれた『ほし』……)
 ユウはさらに窓に近づいて、あの『星』の方角へ、杖を持っていない方の手を、まっすぐに伸ばした。そして手のひらを大きく広げて、その『存在』だけでもなんとか感じとろうとした。しかし、厚い手袋ごしでは、それも無駄な努力であった。
「さすがに、手が届くような距離じゃないからな」
 ユウの意図を知ってか知らずか、ケイが笑いながら言った。
(ケイちゃん)
 するとユウは突然、ケイの手を取って、さらに窓に大きく、
 ――かえりたくない?
 と、書いた。
「帰る?」
 ――わたしたちのふるさとなんだよね?
「ふるさと……」
 ケイはそのユウの言葉を、小さく反芻した。それからしばらく無言だったが、
「そうか……『帰らなきゃいけない』んだっけ……」
 と、ポツリとつぶやいた。
(ケイ……ちゃん?)
 どうして彼女がそんなことを言ったのか、どういう意図があったのか、ユウはそのとき、それ以上聞き出すことができなかった。
 なぜならケイは急に態度をかえて、「そろそろ行くか」とおどけた調子で言うと、急いでその場を離れて行ってしまったからだった。

 どうして今まで、そのことを忘れてしまっていたかはわからない。
 ――あのほし。
 ――ふるさと。
 何の気なしに、その二つの言葉を空書きしてみて、すぐにそれを消してしまう。
 あれから二人の間に、あの『星』のことが話題に出ることはなかった。そして今朝、ケイは『展望室』のことは話しても、あの『星』のことは何も言わなかった。
 ケイは今、ひそかにまたあの『星』を眺めているのだろうか。
 それとも、ユウと同様、すっかり忘れてしまったのだろうか。
(……あのほし)
(……ふるさと)
 その言葉のとおりに、口を動かしてみる。でもユウは、今度はそれを、あえて消そうとはしなかった。
 この部屋はもちろん、このフロアには『窓』がない。なので、あの『星』が、どこにあるのか、今どちらの方角に位置しているのか、その見当もつかない。
 しかし――。
 ユウは、その見えない『星』に想いを寄せた。そこでの、自分たちの『先祖』や『大元』と呼ばれた人々の暮らし、彼らの『人生』のことを考えてみた。
(しあわせにくらしていたのかな)
(みんななかよくしていたのかな)
(なぜすてーしょんへきたのだろう}
(どうしてはなれることになったんだろう)
 そうして、そのときからずっと、ユウはあの『星』に囚われ続けることになったのだった。


    5

 私はひとり展望室にいて、正面の窓からあの『星』を眺めていた。
 つい先日まで、青く光輝いていたはずのそれは、今やどす黒く汚れた異物へと変貌をとげていた。あの『星』で自分が生まれ育ったとは、とてもじゃないが信じられない。そのまましぼむか、霧散して消えて無くなったとしても、もはや私は驚きもしなかったろう。
 私は研究に行き詰ったり、あれこれストレスがたまったりすると、何かにつけてここに来たものだった。もちろん、私たちが住んでいた町や家が見えるわけではないのだが、ぼーっとしながら、何時間でも飽きずに眺めていることもあった。ときには思い出を振り返り、つらい現実から逃れようとしていた。そしてその『現実』は、ついには私の逃げ場までも、なきものにしようとしているのだった。
「なんだ。こんなところにいたのか」
 振り返ってみると、いつのまにか兄がすぐそばに立っていた。
「私は何の役職もない平研究員だもの。別にどこにいたって構わないでしょ」
 まただ。昔からなんで兄と接するときは、こうも喧嘩腰なんだろう。どうして素直になれないんだろう。
「……そうだな」
 兄はそう言って、ネクタイを緩めた。目の下の隈と、無精ひげ。徹夜の作業が続いたときにもよく見る姿だったが、そのときとは違い、全体的に覇気がなかった。
「……結論はでたの?」
 兄は力なくうなずいた。相当紛糾したに違いない。たぶん今晩にでも全員に通知されるだろうが、私は即答を促した。
「で、どうするって?」
「残る……ことになったよ」
「ええっ?」
 私は驚いて、兄を見た。
「それ本気で言っているの?」
「……もちろんさ」
 兄は私の隣に腰をおろした。しかしその視線は、窓の向こうの、変わり果てたあの『星』へ向けられていた。
「ここの区域を離れて、どこか別の太陽系を、居住可能な惑星をさがすというのは、やっぱりリスクが大きすぎるんだよ」
「だからって」
「地質調査チームの話では、いまの地殻変動は一時的なもので、それが終われば、また生物が生息できる可能性は、十分高いそうなんだ」
「『可能性』ね……」
 便利な言葉だ。連中は実際に、その目であの惨状を見てから言っているのか?
「で、その一時的な変動とやらは、いつ終わるの?」
「……調査中とのことだ」
「あきれた!」
 私は立ち上がって、兄から離れるように窓の方へと向かった。悪態をつく自分の顔など、みせたくなかった。
「……このステーションには今、まだまだ大勢の人たちがいるんだ。子供やお年寄りだって残っている。そのみんなが生き残る為に、何をすればよいのか、一番リスクが少ない方法は何かを、とことん話し合った結果だよ」
 私の背中に向かって、兄は諭すように話しかけてくる。わかっている。わかっているけど、そうじゃない。
「……兄さんは、どうなの?」
 私は、兄を見ないまま言った。
「えっ?」
「それで……『私たち』が、助かると思っているの?」
 私と……兄さんが。
「……ユウ」
 しばらくして、兄はゆっくりとこちらへ近づいてきた。私は思わず身を硬くする。
「『助ける』よ、必ず」
 兄はそう言って、両手で私の肩に手をかけた。
「どんなことがあっても、ユウだけは、必ず守ってやるから……」
 だから。そうじゃない。そうじゃなくって……。
「うん……」
 しかし私の口からは、それを受け入れるかのような、曖昧な返事が漏れただけであった。
 そこからはしばらく、また二人とも無言で、変わり果てたあの『星』を眺めた。
「……やっぱり捨てられないんだよ」
 ふいに兄が言葉を漏らして、思わず私はその顔を見た。
「だってあの『星』は……僕らの、ユウの、『故郷』じゃないか……」
 相変わらずクサいことを平気で言う人だ。だがそのセリフは、私の胸に深く、強く、突き刺さったのだった。
「約束するよ」
「やくそく……?」
「必ず、生き延びて……」
 兄はそう言いながら、ネクタイをきっちりと締めなおした。精悍なその顔つきが戻りつつあった。
「いつかあの『星』に、あの『故郷』に、ユウを連れて帰ってあげるから……」
 そう言ってくれたのだ。
 私の方といえば、すぐにその顔を見ることが出来なくなって、
「……ばか」
 涙目の顔を悟られないよう、憎まれ口をたたくのが精一杯なのであった。


    6

 あの日を境に、ユウたちは急に、多忙な日々を過ごすこととなった。
 ステーションの動力部に大きな不具合が見つかり、彼女らのほとんどが、その修復作業に駆り出されることになったのである。そしてそれは、ユウですら例外ではなかった。あの防護服を着せられ、フロア内だけでなく、上に下にと引き回された。あの『星』のことなど、思い浮かべる暇すらなかった。
 今日も朝からずっと作業の手伝いをしていて、やっと解放されたのは夜遅くになってからだった。
「ねえ、ちょっと」
 ユウが電子シャワー室から出てくると、いきなり誰かにその手をつかまれた。
「ケイを探しているんだけど。どこにいるか知らない?」
(えっ、えっ?)
 目をこらしてよく見れば、それは先日、ユウを怒鳴りつけた同じフロアの仲間、アイだった。
「なによ。今日は一緒じゃないの? いつでも後にくっついて、あの子にまとわりついているじゃない」
 アイの言葉は早口過ぎて、ユウにはあまり聞き取ることができなかった。それでもその言い回しから、彼女は何かの理由で、イラついていることだけはわかった。かと言って、ではどうしたら良いのか、何も考えが浮かばず、ユウはただ戸惑うばかりであった。
「わかんないの? あたしは『ケイはどこ?』って聞いているのよ!」
 さらに声が大きくなって、ますますユウは委縮する。言っていることはだんだんとわかってきたが、その肝心のケイの居場所はユウにもわからない。しばらくは上で待ってはいたのだが、まだまだ人の出入りも激しく、作業の邪魔になりそうだったので、先に引き上げてきてしまったのだ。
(あ、そうだ)
 ユウはポケットから、小さなメモ帳と鉛筆を取り出した。ここ何日か、ケイ以外の者とも、コミュニケーションを取らざるを得ない状況が増えたため、常に携帯しておいたものだった。
【すみませんよくわかりません】
 と、書いた文字を見せた。
「……あんた、目だけとかじゃなくて、『頭』の方もダメみたいね」
 アイはそう言って、笑った。そりゃ確かに『頭』は良くないかもしれないが、またそれを面と向かって、そんな大きな声で言わなくても……。
「まあ、いいわ。ベッドにもいなかったから……まだ律義に働いているんでしょ」
【みてきましょうか?】
 と書いて見せると、アイはまたケラケラ笑い出した。
「『見てくる』……ですって? ケッサクだわ。『見えない』あんたが、何を『見てくる』つもりなのよ」
(ちが……)
 だから、ぜんぜん『見えない』わけではない。誤解を解きたかったが、やっぱり頭が回らず、うまく説明ができそうにもなかった。
「……何よ。怖い顔して」
 ただでさえ目をこらしていたので、無意識にきつい表情になってしまったようだ。
(そんなつもりじゃ……)
 ユウはあわてて、頭を下げた。
「ふん。ちょっとスタイルがいいからって、図に乗ってさ」
 また、何を言っているのかわからなくなってしまったが、アイがますます怒りだしたことだけは間違いない。ユウはうつむいたまま、急いでその場を離れようとした。
 ……が。
「……ちょっと、待って!」
 アイが、急にまた、ユウの手をつかんだ。
(えっ?)
 ユウは驚いて、その場に固まってしまった。そんな彼女を、彼女の『全身』を、なぜかアイは舐めまわすように見つめ、そのままゆっくりと一周してから、
「……あなた、本当にスタイルいいのね」
 と、つぶやいた。
(えっ、えっ?)
 アイが指を伸ばして、ユウの腰のあたりに触れた。その瞬間、体がびくっと委縮する。
「肌も意外ときれいだし……顔さえ隠せば、かなり高い『レベル』で通用するかもね……」
 何やらブツブツしゃべり続けているが、ユウの耳には、全く届いていなかった。仮に届いていたとしても、その意味を理解することはできなかっただろう。ユウはとにかく、解放されたくて仕方がなかった。
 ……ところが。
「……ごめんなさい!」
 なんとアイは、ユウに向かって、深々と頭を下げてきたのだった。
(えっ?)
「なんかすっごく、怖がらせちゃったみたいね。本当に……本当に、ごめんなさいね」
 先ほどとはうって変わってしおらしく、それでいてハキハキとした口調で話しかけてくる。そんなアイの豹変ぶりに、ユウはあっけにとられた顔をしていた。
「あ、ちょっとそれ貸して」
 そう言うやいなや、アイはユウがもっていたメモ帳と鉛筆を取ると、
【あなたとお友達になりたいの】
 と書いて、ユウに見せた。
(ともだち……?)
「あら、いきなり、何書いているんだろう、あたし……ただ、もっと、あなたのこと知りたくて……その……」
 アイは急に恥ずかしがって身をよじらせる。
「ホラ、わかるでしょ……好きな子とか、気になる子には、ついつい意地悪をしたくなるじゃない? あれよ、あれ」
 いつもいじめられるか、無視されることの多い彼女にとって、アイからの告白は驚き以外の何ものでもなかった。さらに、アイは、
「ねえ! せっかくだからあたしたち、今からでも親友どうしになれない?」
 と言ってから、すぐに気づいて、
【親友になりましょうよ!】
 とあらためてメモ帳に書きなおして、照れくさそうに、またそれをユウに見せたのであった。
 ユウはずっと、できればこのフロアの他の仲間たちとも、もう少し深く知りあいたいと考えていた。そのきっかけが、思わぬところから、向こう側から舞い込んできてくれたのだと思った。アイは確かにきついところもあるが、どうやらあまり悪い人でもなさそうである。ユウは戸惑い、逡巡していたが、
(……うん)
 コクリ、と小さくうなずき、アイの申し出を受け入れることにしたのだった。
「うれしい!」
 途端にアイが、抱きついてきた。その力強さにまた驚きつつも、揺れた髪から漂う甘いシャンプーの匂いに、ユウは心を引きつけられた。
「これからも、よろしくね。ユウちゃん」
 はじめてアイに、その名前を呼ばれた。なんだか面はゆい気分にもなった。
(こちらこそ……!)
 ユウはぎくしゃくしながら、何度も何度も頭を下げた。
 しばらくアイはニコニコしながらこちらを見ていたが、
「……あ、ねえねえ。せっかくお友達になったんだからさ……」
 急に真顔になってユウの耳元で、こうつぶやいた。
「ひとつ、お願いしたいことがあるんだけど……」
 それは――悪魔のささやきだった。

 寝所を抜け出すことは、思ったほど難しくはなかった。
 きしむベッドのスプリング音、スリッパで床を歩く際のパタパタ音、ドアを開閉するときのにぶい金属音……自分がよく聞こえていない分、必要以上にうるさくしてはいないかと、ユウは気が気ではなかったが、それによって誰かが起きだして来たり、誰かに怒鳴られたりすることはなかった。
 暗がりの中を歩くのも、慎重に慎重をかさねた。いつものように何かにつまずいたりぶつかったりはしないよう、杖で前をさぐりながら、一歩一歩注意しながら歩くように心がけた。おかげで無事部屋から出られたときには、思わずその場にへたり込みそうにもなった。気疲れということもあったが、一方で小さな達成感も感じたりもした。
(ケイちゃんにはなしたらよろこんでくれるかな)
 今になってはじめて、ケイに事前に相談すらしなかったことを、ユウは後悔していた。アイからは「これは二人だけの秘密だからね!」と、強く釘をさされていたとはいえ、何か伝言ぐらいは残しても良かったのではないか、そう思い始めていた。
 でもケイは、ここ何日かのトラブルにかかりっきりで疲れている。今日も結局戻りが遅く、シャワーを浴びるやいなや、そのままベッドに倒れこんで眠ってしまった。そんな彼女の、貴重な休息の時間をつぶしてしまうのは、ユウにはどうしてもできなかった。
(これいじょうめいわくをかけられないから……)
 今度のことを自分の力だけでやりきることで、彼女を安心させたい、という願いがあった。また一方で、ちゃんとひとりでできる姿を見せて、彼女を驚かせてやりたい、そんな子供じみた考えもあった。
(だれも……いないや)
 そんなことを思いながら、いつのまにか休憩室に来ていた。普段は人の行きかいも多く、いつも騒がしい場所ではあったが、さすがにこの時間ひっそりと静まり返っていた。
 ユウは、ずっと『ひとり』に慣れてきたつもりであったが、それはあくまで大勢の中での『孤立』にすぎず、本当に人気のない所に『ひとり』残されるという経験は、はじめてのことだった。その寂しさに、つい先ほどまで沸いていた興奮も、思わず萎えてしまいそうになっていると……。
「おまたせっ」
(きゃっ!)
 誰かに背中へ飛びつかれ、驚いて振り返ると、そこにアイの姿があった。
「びっくりさせちゃった? ごめんねー」
 もし声を出せていたら、フロア中に響くほどの大きな悲鳴を上げていたことだろう。
「準備はいい? と言っても、別に何もいらないんだけどね」
 アイは声を潜めてしまっているので、何としゃべっているのか全く聞こえなかった。でもケラケラ笑って笑顔をみせていたし、さすがにこの場で筆談をすることは難しいので、ユウはとりあえず、軽くうなずいておいた。
「じゃ、いくよ。ついてきて」
 アイはユウを引っ張り、自分の足元をペンライトで照らしながら歩きはじめた。ユウは彼女の腕にしっかりとしがみつくと、その後に必死になってついていった。
 ところが、数メートルも行かずにアイは立ち止まり、振り返りざまにユウの手を強引に振りほどいた。
「……痛いわねえ、そんな馬鹿力でつかまないでよ。跡になっちゃうじゃない」
(……ごめんなさい)
 その振る舞いだけで、またかなり腹を立てていることがわかる。
「だいたい、そんなにくっつかないでよね。歩けないでしょ」
(ごめんなさいごめんなさい)
 ユウは何度何度も頭を下げた。ついつい、ケイのときと同じように接してしまう。ケイなら、ユウがべったりくっついてきたとしても、決して怒ったりはしなかった。彼女以外を知らないユウは、人との接し方、その距離感と加減の調節を、まったく身につけてきていなかったのだ。
 アイはすぐにぷいとユウに背を向けると、どんどん先へ行ってしまった。ユウも慌てて杖をつきながら、なんとかそれについていく。
(……あれ?)
 なんとか出口にまでたどり着いたが、アイはそのまま、外へと出て行ってしまった。外へ出る際は、防護服とヘルメットの着用が必要のはずなのに、彼女はそれを無視した。その理由を聞いておきたかったが、また彼女を怒らせてしまうことが怖くて、ユウもそのまま外へ出るよりほかなかった。
 暗い廊下を、ひたすら二人は歩いて行った。何度も角をまがり、どんどんさびしい場所へと進んでいく。それを追いかけるユウは、途中、何度も引き返したいと思ったが、その帰り道すら、既に分からなくなってしまっていた。
「さ、これで、上まであがるわよ」
 やっと止まった場所は、エレベーターの前だった。ユウが以前乗ったことのあるタイプより、一回り小さいように見えた。彼女にははっきりとは読めなかったが、『荷物運搬用エレベーター』という、張り紙が貼ってある。アイがボタンを押すとすぐに、そのドアが開いた。
「早く乗って」
 と、促されたが、ユウはなぜか躊躇し、これまでにない強い抵抗を感じていた。何かいやな予感がする。このままこれに乗ってしまったら、ひょっとして、もうここには戻れないかも……。
「何やっているの。乗るのよ。早く」
 しかし、無理に押し込まれる形で、ユウはそれに乗り込んでしまったのだった。

【あなた五体満足な体になりたいとは思わない?】
 ノートに書かれたその文章を、ユウはそれこそ何度も読みなおした。
【今すごいシステムが研究されているの】
【つまり良い細胞をいっぱい作って悪いところと入れ替えるの】
【でもそれを育てるためには女の子の体からいっぱいサンプルをとらないといけないの】
【それにあなたも協力してほしいのよ】
 アイはだんだんと興奮してきて、筆談から離れ、いかにそのシステムが素晴らしいか、どれほどの効果が期待できるかなどを、熱っぽく語りはじめた。だが、また例によって口調が早口になっていったのと、当人がその内容や意味をきちんと理解しているのかいないのか、どうにも話が混とんとして支離滅裂になってきて、ユウにはいまいち理解ができなかった。細胞を入れ替える技術とは、どのようなものなのか。なぜそれを育てるのに、女性の体からサンプルを採らないといけないのか。あれこれ疑問は尽きないが、それになにより――
【それっていたくないの?】
 これ以上、苦しい思いをするのは嫌だった。
【痛いのははじめだけですぐに慣れるわよ】
 アイは必死に説得してくるが、ユウはどうにも次の一歩が踏み出せないでいた。
【うまくいけばこんなところを出られるのよ】
【もっと上のレベルになってもっと上のフロアで暮らせるかもしれないのよ】
(もっと『上』……)
 別にユウは、ここを出たいとも、もっと『上』の『レベル』で生活したいとも、少しも思っていなかった。でも、自分が変わることで、みんなが変われるのではないか、変わるきっかけになるんじゃないか、みんながみんな、もっともっとやりたいことや、好きなことができるようにもなるんじゃないか。そう考えるようにもなっていた。
【ほんとうにいたくないのね】
「大丈夫だったら!」
 ユウの目の前で、アイはそう断言した。
 そしてユウはとうとう約束してしまった。深夜に、こっそり部屋を抜け出すことを……。

 エレベーターの中は非常にせまく、すえた臭いがした。動き出してもなんともゆっくりで、しかもひどい揺れであった。ユウは何度もバランスを崩しそうになったが、先ほどのことがあったため、アイには寄り掛からず、杖で自分の体を必死に支えなければならなかった。その揺れが起きるたびに、彼女の心臓の音は、大きく、早くなっていったのだった。
「ついたわ」
 どこかの階に止まり、ドアが開くや否や、アイはユウの手を引っ張って、強引に外へ出てしまった。そこは、ところどこころにかすかな明かりが点在していたものの、全体的に暗く、エレベーターが閉まってしまうと、一体どういう場所なのか、まったくわからなくなってしまった。
「電気つけてくるわ。ちょっと、ここで待っていて」
(え、でも……)
 こんなさみしい場所にひとりで残されたくない。ユウは思わず、彼女の手をつかんでいた。
「すぐ戻ってくるから。暗いのも『見えない』のも同じことでしょ?」
 早口で一方的にしゃべると、アイはその手を冷たく振り払い、さっさとどこかに歩いていってしまった。ユウはまた、『ひとり』になった。
 とたんに寒気がして、体が震えた。下に比べて、気温も低いように思える。こんなところとは知らなかったので、薄い寝間着しか身に着けて来ていない。底冷えする床の冷気が、薄いスリッパを越えて、ユウの体温を奪っていく。
 だがその一方で、なにやら生温かい風が、彼女の頬を掠めていって……。
(ケイちゃん……)
 さみしさに耐えきれず、ユウが心の中でその名前をつぶやいた瞬間、
 後頭部に強い衝撃を受けて、彼女は意識を失い、その場に倒れた。

     ◆

「……どう? なかなかの上ものでしょう?」
「上ものってお前……だいたいみんな、同じ顔じゃねえか」
「『顔』の話じゃないわよ。見てよ、この体。染み一つないし。張りもあってさ……ホント、むかつくったらありゃしない」
「お前はどっちも、ひでえもんな」
「……うるさいわね」
「しかし、こいつ痩せすぎじゃね? なんか変な病気とか持っているんじゃねえの?」
「そんなことないわよ。だって処女よ、この子」
「処女はめんどくせーんだよなあ。すこしなじんだ方が、いい感じだし」
「ああ、俺も俺も」
「じゃあ、あなたたちは、あたしが相手になってあげる」
「お前も、いい加減あきてきたけどなあ」
「ほら、こないだ連れてきた、なにかっちゃあ顔を隠すやつ。あいつ来てねえの? あれ、いい感じだったんだけど」
「あの子がつかまんなくて。今日の子は、その代わり」
「まあ、でも今回はなあ、こいつにはじめて女を抱かせるのが目的だから。処女と童貞で、一番いいんじゃね」
「本当にやるの……?」
「あたり前だろ。女の味も知らねえで、あの『星』に派遣されたらどうするんだよ」
「どうするって……」
「死ぬかもしれねえんだぞ。そのときになって、後悔なんかしたくないだろうが」
「そうそう。だから今のうちに、楽しむだけ楽しんでおかないとさあ」
「だいたい、ウチの女どもも、タチが悪いんだよな。興味がないわけじゃないくせに、どいつもこいつも、お高くとまりやがって。ろくに手も握らせやしない」
「だから、あたしたちが、とことんやらせてあげるって、言ってるわけよ」
「逆に、高くつくんじゃね」
「そりゃあ、『レベル』が違うからといって、タダというわけにはいかないわよ。新しい子も連れてきたんだから、きちんとはずんでもらうからね」
「こわいこわい」
「おい、どうでもいいけどさ。なかなかこいつ目を覚まさないんだけど、死んじまった?」
「そんなことねーよ。息してるじゃん」
「馬鹿力で強く殴りすぎたんだよ」
「ねえ、ユウ。早く起きなさいよ」
「へえー、こいつのコードナンバー、Uからはじまるのか。俺らと一緒じゃん」
「そりゃすごい偶然ね。もう……いつまで寝ているのよ、ユウ。ユウったら……」

     ◆

(う……うん……)
 強く肩をゆすぶられ、ユウは意識を取り戻した。飛び込んできたのはまばゆい光。そしておとずれたのはひどい痛み。ここは? ここはいったい?
「あ、やっと起きた。おはよ。頭、平気?」
(ア……アイちゃん……?)
 アイの姿が見えたような気がして、ユウはその場で起き上がろうとした。その途端、大勢の手が、彼女の体を押さえつけ始めた。
(えっ、えっ?)
「まあまあ、急に起きると危ないわよ。これから大事な『お仕事』があるんだから」
 その手のせいで、身動きひとつ取れなくなってしまった。
(なに? このてはなに?)
「なんだよ。だまして連れてきたのかあ」
 誰かがどなった。何とも低く、野太い声。
「大丈夫よ。すぐに落ち着くから。ね、そうだよね」
「おーい、今日の主役ーっ。そんなとこいないで、抑えるの手伝えよ」
「いや、僕は……」
 誰かが何かをしゃべっている。何かが目の前でうごめいている。だが、それが『誰』で、『何』であるかは、もうどうでもよかった。ここから一刻でも早く離れたい。一刻でも早く逃げ出したい。もはや、それしか考えられなかった。
「そんなこと言ってねえで、ホラ。キスでもしてみろよ」
 連中のひとりが、倒れるようにユウの体に覆いかぶさってきた。
(きゃっ!)
 互いのおでこがぶつかるぐらいに、その『顔』がユウの目の前に近づいてきた。
 その瞬間――。
 ユウははじめて、相手の『顔』を、見た。
(あなたは……)
「ご、ごめん。痛くなかった。その……」
(『だれ』?)
 それは確かに、はじめて見る『顔』のはずだった。なにより異性の『顔』を見ること自体が、はじめてのはずだった。だが、ユウはその『顔』を……『知って』いた。
 それはユウにとって、とても『大切な』ひとのはずだった。ユウが心から、『愛した』ひとのはずだった――。
(『だれ』なの?)
 いつか夢の中で見た、幼い少年の屈託のない『笑顔』が、なぜか相手の表情にダブった。
「大丈夫だよねー。痛くなんかないよねー」
 とそこへ、もうひとりの『男』が、二人の間に割り込んできた。さらに『顔』も間近に見て、ユウは心臓が飛び出るほど驚いた。
 その『男』は、前の『男』と……同じ『顔』をしていた
(なんでこのひとたちはおなじ『かお』をしているの?)
「あれれ? なになに?見るの、ひょっとしてはじめて? どうどう? すごっく似ているでしょ? そりゃそうだよね。もとは同じ人間から、『コピー』されているんだもんね、俺たち」
 二人目の『男』は、へらへら笑っている。『コピー』という言葉だけが、耳に残った。
(いったいなにがおこっているの?)
「でもそれは君も一緒だよね。同じ『女』からの『コピー』品。ただ一つ違うのは、君らは『コピー』も『失敗』しちゃった、ってことかな」
(このひとはなにをいっているの?)
 ユウがますます混乱する中で、二人目の『男』が、まわりの『男』たちに声をかけた。
「おーい、お前ら。こいつ『男』を見るのも、はじめてみたいぜ。せっかくだから、誰が一番のイケメンか、決めてもらおうじゃないの」
 そうして彼らも、ユウにその『顔』を近づけてきたのだが……。
(!!!)
 ユウは思わず、叫び声を上げそうになった。
 その『男』たち全員が、同じ『顔』をしていたからだった。
 個別に見れば、微妙に違ってはいる。それは髪の長さだったり、目じりの皺の数だったり、肌の色つやであったり、その程度のものであった。だが、間近に見たとはいえ、ユウの視力で、そんな細かい差異に気がつくわけもない。彼女にとってその衝撃は、はかりしれないものがあった。
(いやああああ!)
 ユウは次の瞬間、間近にいた『男』たちを、思いっきり突き飛ばしていた。
(はなして! わたしをかえして!)
 ユウは必死になって暴れた。体をよじり、両手両足を振り回しながら、その手を何とか振り払おうとする。
「おいおい、そっちをちゃんと抑えとけよ」
「ひでえ馬鹿力だな。何なんだよこいつ」
「いってえ! こいつ顔を蹴飛ばしやがった」
「ったく、ぐずぐずしてやがるから……素直じゃねえ女は、こうすりゃいいんだよ!」
 突如、誰かがユウの胸の上に馬乗りになった。思わず彼女がそちらに顔を上げた瞬間、痛烈な往復ビンタがとんできた。そしてもう一方の手が、ユウののど元をつかんだ。恐ろしいほどの力だった。
「おとなしくしてりゃ、すぐに終わるんだからよ。それとも何か? その使い物にならない目ん玉をくりぬいてやろうか? あん?」 
 苦しい。息ができない。しかもその『男』の手が、伸びた爪と汚れた指が、ユウの目の前にまっすぐ突きつけられている。
 いやだ。こんなものは見たくない。見たくはないが、目をそらしてしまうと、その指で本当にこの目をつぶされそうで……。
(いやだ……もうやめて……)
「今からコイツ、ちょっと『教育』してやるからよ。先にヤらせてもらうぜ。ちゃんと押さえつけておけよ」
 その『男』は、急いで自分のシャツを脱ぎ、ズボンのベルトを手をかけた。
(いやあ!)
 ユウはまた暴れだした。『何』をされるか、瞬時に理解した。だがすぐに大勢の『男』たちの手が、その体をまた押さえつけ始める。
「しっかりおさえとけって言ったろ。おい、そいつでこいつの顔を、隠しとけ」
 ユウの顔に何かにかぶされた。視界が完全に真っ暗になり、服が切り裂かれ、首筋に熱い吐息がかかってきて……。
 地獄の時間が始まった。


    7

「……ウ。おきろ、ユウ」
 肩をゆすぶられて、私はすぐにはっとなった。
「……大丈夫か?」 
 目の前には心配そうにのぞき込む、兄の顔。
「あれ……あたし、寝てた?」
 机の上のディスプレイでは、スクリーンセーバーがのたうっている。
「僕が入ってきたときは、すでに机につっぷしていた」
「あちゃー」
 私はわざとおどけるしぐさで、頭をかいてみせた。
「寝てないんだろ? 仮眠室へ行って、少し横になったほうがいい」
「それは、お互いさまでしょう?」
 私は目頭をぐっとおさえながら言った。私は研究だけをしていればいいが、兄はリーダーとしての務めがある。無理解で、ただわめくだけの、他の連中との折衷もある。
「僕は大丈夫さ。さっき少し休ませてもらったから」
 もちろん、うそに決まっている。だけど私はあえて突っ込まなかった。なので、しばしの沈黙と、少し重たい空気がその場に流れた。
「見てく?」
 先に耐えられなくなったのは、やはり私の方だった。スクリーンセーバーを解除し、手前の画面を、前方の巨大スクリーンへと切り替えた。さっきまで私がまとめようとしていたデータが、雑然としたままで表示される。
「なによりも、元になる卵子の量が少なすぎるのよ」
 私はあっさり結論を言った。
「ただでさえ、提供可能なキャリアは少ないのに、皆さん揃いも揃って非協力的なんだもん。そりゃ、痛いしきついししんどいし、人道的にもモラル的にも『アレ』なのはわかるけどさあ。ほっといたら、皆死んじゃうんだよ? 少しはご理解いただきたいわよねえ。そんなに私も、ぽんぽん卵子を排出できるわけでもないしさあ」
「受精率と、あと分化細胞の摘出成功率は? その中で、どれだけ実用に耐えらそうなんだ?」
「受精で一桁、摘出にその半分、そん中で実用にまでたどり着けそうなのは……その半分のまた半分って感じかしらね。ほら、あたしも好きでもない人のやつを、着床とかしたくないからさあ」
「……ゼロじゃないんだな」
 兄は、私の下ネタ交じりのジョークに、反応すらしなかった。
「……0.00001%だって『ゼロ』じゃないわ」
 なので、私の返答も少しきつい言い方になる。
「そうか……よかった」
「はあ?」
 あきれ顔の私を無視して、兄は話し続けた。
「『ゼロ』じゃないなら、このまま進めてほしい。卵子の提供については、もうすこし女性たちを説得してみる。他に何か必要なものがあったら、何でも言ってくれ。交代で出来る作業があるんなら、僕がこっちに来ても良いから……」
「ねえ!」
 リーダーモードで淡々と進めるその言葉をさえぎって、私は大声をだした。
「こんなことして、間に合うと思っているの?」
 兄は答えなかった。
「今朝は、何人死んだの? あと何人残っているの?」
「七……八人だ。残りは三百を切ったよ」
 以前は万単位でいた乗組員達が、そこまで減ってしまうとは。ある程度は分かっていたこととはいえ、その早さはなんとも衝撃的だった。
「……やっぱり、残らないほうがよかったんじゃないの?」
「……ユウ」
「だってそうでしょ? 『母星再生プロジェクト』ですって? お笑い種だわ。たった三百人ぽっちで、これから何が出来るって言うの。このステーションを動かすだけでも、てんてこ舞いだって言うのに。おまけに、残っているのはほとんど病人でしょ? ろくな治療もさせてもらえなくて、棺桶に片足をつっこんでいるような連中ばかりじゃない!」
 あの『星』の異変と連動するような感じで、このステーション内に謎の伝染病が発生するようになった。さらに間の悪いことに、ステーション内の医療チームは無能ぞろいで、初期段階でこの病気の深刻度を見誤ってしまった。半年余りで、病気は爆発的に蔓延し、死者の数もうなぎのぼりとなった。
 そして……その亡くなった者の中には、私たちの父や母も含まれていた。
 しかし残った私たちは、悲しむ暇すらなく、対策に奔走しなければならなくなった。病気に対する抗体を作り出す一方で、私がそのふざけたプロジェクト用に進めていた再生医療の研究を、今後の対策として、うまく活用させようとしているのだが……。
「……今いる人たちも、これまでに亡くなった人たちも、事前に体細胞や生態データの取得は完了している。この研究が成功すれば、今の病気を治すことはもちろん、元の彼らを再生させることだってできるんだ。いやそれどころか、新しい生命を作り出すことだって……」
「そんなことわかっているわよ! だから、そんなの、間に合いっこないって言っているの!」
 ああ、またこのパターンだ。正論で説得してくる兄。それに聞く耳持たず、どなるだけの私。
「成功させる自信なんてない……」
 そして結局、泣き出してしまう私。
「自信ないよ……」
 惨めな、私……。
「……ユウ」
 兄はすぐそばまでやってくると、私の手をとり、そのまま自分の胸のあたりに軽く押し当てた。その広い胸板は、骨があたって硬かったけれども、ワイシャツの上からでも、とても温かく感じられた。
「……わかる、かな?」
「えっ……?」
「心臓……すごくバクバクいっているだろう?」
 どっどっどっどっど。確かに小刻みに動くその鼓動は、尋常な早さではなかった。
「いつだってこうなんだ。心臓だけじゃない。みんなの前でしゃべるときなんて、膝ががくがくして震えが止まらない。何度逃げ出そうと思ったことか……僕にリーダーなんてつとまるわけがない、今でも本気でそう思っている」
「そんな……」
 さらに続く兄の言葉は、もっと衝撃的なものだった。
「実を言うとね……本当は宇宙になんて来たくなかったんだ。僕は、あの『星』を離れることが、怖くて怖くてたまらなかったんだよ」 
 ……以外だった。兄はこのステーションに来ることを、心の底から望んでいたと思っていたのに。
「そしてあの『星』が、あんな風になってしまったとき……ものすごいショックを受けた。もう僕らはきっと助からない、そう思った。どうにでもなれ、ってそんな気持ちだった」
 いつかの、兄のあの姿は、自暴自棄となった末のものだったのか。
「でもね。そんなときでも僕のそばには、ユウがいてくれた」
「あたし……が?」
 私が思わず問い返すと、兄は笑ってうなずいた。
「いつもユウは、わざと憎まれ口をきいて、僕を奮い立たせようとして、僕を励ましてさえくれた。僕の代わりに怒ってくれて、僕以上に周りのことを考えていてくれて……そんなユウがいたから、僕はこれまでがんばってこられたんだと思う。本当に感謝しているよ」
「兄さん……」
「だからっていうわけじゃないけど……これ以上、ユウが嫌がること、駄目だって思うことを、無理にやらせるつもりはないよ。生物医学の専門家は、もう僕らしか残っていないけど、簡単なことなら、誰か代わりにやってもらうことも出来るし、他の方法を模索する時間も、まだまだ残っていると思う……ベストとはいかなくても、ベターな方法を見つけることだってできるんじゃないかな」
 だが、『ベター』ではダメなのだ。もはや、『ベスト』か『ワースト』かの選択でしかない。そしてそれは『みんな』にとってではなく、『兄』と『私』――いや『私』にとって『だけ』の選択でしか、ありえないのだ。
「さっきも言ったけど、とりあえず、少し休むといい。食事だってろくに取っていないんだろ?」
「うん……」
 兄の手が私の肩に触れた。しかし私はあえて、その手から逃れるように、二三歩後ろに下がって、少し距離を置くようにした。
「ごめん……でも、ひとつだけいいかな」
「えっ?」
 私は顔を上げて、
「今の私の研究……もう少しだけ、やらせてもらえないかな」
 兄の眼をまっすぐ見ながらそう言った。
「ユウ……」
「最後に……どうしても試してみたいことがあるの。大量の卵子がなくても、何とかなるかもしれないの。もっと簡単に細胞の分化を促進する方法が……」
「本当……に?」
 兄はよりいっそう心配そうな表情となったが、その一方で、目の奥の輝きを私は見逃さなかった。はからずも期待されていることが、見て取れる。
「まだまだ時間の掛かることだけど……やってみる価値はあると思う」
 言ってしまった。もう……戻れない。
「……わかった。だけど、これが本当に最後だよ。いいね」
 私はうなずいた。これが『最後』ではない。これからが『はじまり』なのだ。
「でも、確かに休息は必要ね。ちゃんとシャワーも浴びて、たまにはベッドで眠らないとね。美人が台無しだもの」
 私は、わざとあれこれ取り留めの無いことをしゃべりながら、いったん自分の席に戻ると、開いていたファイルをすべて保存した上、ディスプレイとスクリーンの電源をあわせて落とした。机の上に広げたままの書類も急いでまとめて、キャビネットの中にしまった。その間、電源を切る前にパソコンにロックを掛けておくこと、キャビネットに鍵をかけておくことは、決して忘れなかった。
「兄さんも着替えぐらいしたら? 結構におうわよ」
 はたして、私は兄の期待に、応えることが出来るのだろうか。いや、何より、私がやろうとしていることは、本当に兄が期待していることなのだろうか。
「ああ、そうするよ」
「それじゃあ、お先に。出るときは、電気も消しておいてね」
 私は兄からの返事を待たずに、すぐに踵をかえした。ひそかに急ぎ足となって、外に出て、自動扉が閉まってから、大きなため息をついた。
 電子シャワーを浴びたら、すぐに戻ってくるつもりだった。本当はそんな暇すら惜しかったが、兄の目をそらすためには仕方がない。
 私がこれからやろうとしていることは、人道的に許されない所業であるかもしれない。
 だが、生き残る為ならば――。
 愛する兄のためならば――。
 私はどんなことでもやると、心に決めたのだ。
「……よし!」
 私は急ぎ、シャワー室へと足を進めた。
 これまでの、そしてこれからの、穢れを落とすために。
 私はまるで巫女にでもなったみたいだと、自虐的な気分であった。


    8

 ぐおおん。ぐおおん。
 ぐおおん。ぐおおん。
 エンジンルームから聞こえる、低いうねりと騒音。ああ、また朝が来てしまったのか。ユウはまどろみながらそう思う。何かずっと夢を見ていた気がする。暗くて細長い廊下。狭くてすえた臭いのするエレベーター。それからまばゆい光があって、硬いベッドに寝かされて……それから……それから……。
 絶え間ない暴力と、苦痛にまみれた数時間。
(!)
 ユウはすぐさま意識を取り戻した。そして次の瞬間、自分が今、いつもの部屋にいないと言うことに気がついた。
(やだ……)
 まさか……悪夢は、まだ続いているのか?
(いやあああ!)
 ユウが飛び起きようとした瞬間、誰かが彼女の体を抱き寄せた。
(いや! いや!)
 ユウは、その手から逃れようと、必死になってもがき、暴れだした。
「ユウ、落ち着け! あたしだ。ケイだよ!」
(ケイ……ちゃん?)
 その名を聞いて、ユウの体の動きがピタリとやんだ。
「安心しろ。ここは医務室だ。あたしのほかには誰もいないんだ。もう大丈夫だよ」
(ケイちゃん……ケイちゃんケイちゃんケイちゃん)
 その声、その感触、その温もり。忘れるわけがない、正真正銘のケイだった。
(うわあああああっ!)
 途端にユウは、その胸の中に顔をうずめて、泣き出した。ケイもユウを抱きしめ、彼女もまた涙した。

 頭が痛い。
 体が痛い。
 吐き気がする。
 寒気がする。
 耳鳴りがする。
 震えが……止まらない。
(……)
 ひとしきり泣いてはみたものの、その痛みや苦しみ、ましてや悪夢のような記憶が、流れ去ることは決してない。
(……きえてしまいたい)
 ユウは心の中でつぶやいた。すべてを消してしまいたかった。何もかも、なかったことにしてしまいたかった。
「……ごめんな」
 思わずユウは顔を上げた。その詫びの言葉は、なぜかケイの口から洩れたものだった。
「あたしが……そばにいてあげてれば、絶対に行かせたりはしなかった……あんなつらいことをさせたりはしなかった……」
 すべてを聞き取ることはできなかったが、ケイが何を言おうとしているのかは、十分理解することができた。
 だがそれは、ケイが詫びるようなことでは、決してない。
(ケイちゃん……)
「こんなこと……こんなことをしているなんて、お前には……お前だけには、知らせたくなかった。知って欲しくなかった」
 絞り出すような声だったが、耳元であったせいか、今度ははっきりと聞き取ることができた。
(どうして?)
 ユウは心の中で何度も問うた。
(わたしがばかだから? やくたたずだから? いつもめいわくかけているから?)
 さらに繰り返し何度も問うた。
(めがみえないから? みみもきこえないから? しゃべれないから? あるけないから?)
 そして、最期に……。
(……どうして?)
 と、あらためて問いかけた。
「その方が……幸せだと思っていたんだ」
 ケイは、ユウの心の声が聞こえたかのように、答えはじめた。
「これ以上つらい目にあうのは……これ以上汚れてしまうのは……あたしらだけで十分だと思っていたんだ」
(そんなのちがう!)
 ユウは正面から、ケイと向き直った。
(なんであんなことしなくちゃならないの? やめることはできないの? しなくていいようにするのはどうすればいいの?)
 ユウはなんとか、自分の想いを伝えようとした。心の中でくすぶり続けている疑問を、真正面からぶつけようとした。しかし、『言葉』が彼女の口から発せられることはなかった。唇を動かし、声に出そうと必死に頑張ってはみたものの、出るのは歯が鳴る音と、かすかなうめき声だけだった。
(あんな……あんなことを……わたしだけじゃなくて……ケイちゃんたちにも……ずっと……これからもずっと……)
 自分がしゃべれないことを、これほど悔やんだことはなかった。もどかしさと悔しさに、どうにも耐えきれなくなった。ケイの肩をつかんで、大きく揺さぶりもした。
(やだよ……そんなのやだよお)
 だが、どうにもできないと分かると、力なくその場に崩れ落ちた。
「……わかるよ。ユウの気持ち」
 ケイはそう言って、泣き続けるユウを抱きしめた。
「もう隠し事はしないよ。だから……これからすべてを話す。ユウにとっては、聞きたくもないような話ばかりなのかもしれないけれど……」
(ケイ……ちゃん)
 ケイはユウの耳元で、ゆっくりと、ゆっくりと話し始めた。

     ◇

 ……あたしたちの食料は、どんな風に手に入れていると思う? 食べ物だけじゃない。あたしたちの服や下着、ベッドのシーツやタオルなんかが、いつでも新しいものと交換できるのは、なぜだと思う? 他にも照明や電子シャワーの動力、誰かが病気や怪我したときの医薬品。一部の連中が使っている化粧品や嗜好品……それらはどこから支給されていると思う?
 それらは全部『上』から……正確には『上』にある物資部から、まとめて金を払って買っているのさ。あたしらが作業や雑務で稼いだ賃金は、ほとんどその支払いのために消えちまうんだよ。
 でもまあ、稼いだ金で必要なものを買う。それはそれで悪いことじゃない。他のフロアの連中も、同じようにやっていることだしな。その行為自体に差異はない。ただ問題は……あたしらの場合は、それだけじゃ不十分。つまりそれだけですべてをまかなえないってことなんだ。
 あたしたちは、何かしらのハンディを抱えてしまっている。そのせいで作業も出来ることが限られてくるから、どうしても下請とか雑務ばかりになっていく。そうなれば当然、もらう賃金も安くなっちまう。そうなると……わかるよな? おのずと生活水準も低くなっていくんだよ。
 でもそれだけなら……皆で協力していけば、ある程度までのことはカバーできる。でも、所詮は『ある程度まで』なんだ。あたしたちは、『上』の連中とは違って、どうしても手に入れなければならないもの、常に準備しておかねばならないものがあって……。

     ◇

 ケイはそこまで話してから、すっとユウから体を離し、ちょっとためらってから、左のシャツの袖をまくり始めた。幾つかしみのような斑点がつらなるなかで、肘の内側のあたりが、他とは全く違う色合いに変色し、腫れ上がっている。ユウの目で見てもはっきりとわかる。いわゆる内出血の、注射跡であることは明白だった。
「痛みを止めるためには、どうしても特別な『薬』が必要なんだ。そういうのはたいてい、値が張るものだしな……まあ、ここまで来ちゃうと、本末転倒な気もするけどな」
 と、ケイは寂しそうに肩をすくめた。
 思えばユウは、ほぼ全身に障害を抱え、慢性的な痛みや苦しみを味わってはいたが、『薬』に頼ろうとはまでは考えてこなかった。それはある意味、『薬』に頼らなくても、何とか我慢できる程度のものだった、ということにもなりはしないだろうか……。
「自分のためだけじゃない。苦しんでいるみんなのためも、ほんの少しでもその助けになれればと思って……手っ取り早く稼ぐには、『あれ』しかなかったんだ。だけど……」
 そう言ってケイは、深々と頭を下げた。
「お前まで巻き込むつもりはなかった。すまない」
(ケイちゃん……)
 ユウは強く首を振った。
(ケイちゃんあやまらないで。わるいのはわたし。わたしのほうなんだから)
 何も知らされなかったということは、自分だけが守られてきたと言うことだ。自分だけが不幸だと思い込んでいて、まわりがどれほどつらい目にあっているかを、知ろうとはしてこなかったのだ。だが、こうして知ってしまった以上、自分だけが何もしないというわけにはいかないではないか。
(ケイちゃん。わたしなんだってするから。いっぱいいっぱいおかねをかせぐから。みんなのちからになるから。あんなことやこんなことされてたって。わたしがまんする。わたし……がんばるから。だいじょうぶだから。だから……だから……)
 みんな、自分以上に苦しんでいるのだ。それなのに必死になって生きようとしているのだ。自分も涙をふいて、少しでもみんなの助けになるべく、行動に移さねばならないのだ。あの程度の仕打ちに……弱音を吐いてる場合では……ないのだ。耐えて……いかねば……ならないの……だ。生きる……ために……しかたの……ない……こと……で……。
 だ……け……ど……。
(ダメ! やっぱりダメ!)
 ユウは心の中で叫んだ。
(『あれ』は……『あれ』だけは、ぜったいにダメなの!)
「ユウ……」
 ユウはうつむき、膝の上で両手を強く握りしめ、その体を震わせた。
(『あれ』をするぐらいなら、わたし……わたし……)
 その握りしめた手の上に、涙がしたたり落ちる。
(わたし……もう……ここに……いられない)
 ユウは何度も何度もしゃくりあげた。
(こんなところに……いたく……ない)
 そっと、ケイの手が、ユウの濡れた手の上に重ねられた。しかし、ユウはもう、彼女の顔を見ることができなくなっていた。

(わたしたちはなんのためにいきているんだろう)
 しばらくしてユウは、自分へ向けて、あらためて問いかけていた。
 あの男たちは言った。自分は『コピー』なのだと。そしてユウに向かって言った。お前も『コピー』なのだと。
 さらにユウたちは……その『コピー』に『失敗』したのだと。
 すなわち『レベル』も一番低い自分たちは、いつも不当な扱いを受け、つらい目にあうのも当然ということなのだろうか。暴力を受け、慰みものとなっても、我慢せねばならぬということなのだろうか。
 実際、どんなに一生懸命に頑張っても、必死になって生きてきても、それが報いられたことはない。こんなに、身も心もボロボロになっても、救われたためしもない。
 おそらく、これから先もずっと、この状況は変わりはしないのだろう。
 ならば。それならば。いっそのこと……。
(わたしなんかうまれてこなければよかった……)
 とうとう、ユウの中で一つの結論が出た。
(わたしなんかしんでしまえばいいんだ!)
 と、ユウが心の中で叫んだ瞬間、
「ばか!」
 ケイが大きな声で怒鳴った。
(えっ……?)
 思わずユウが顔を上げると、ケイは彼女を思いっきり抱きしめた。
「『死ぬ』なんて、冗談でも考えるな。絶対に考えるんじゃない!」
 これまでユウの想いは、なかなか相手には伝わらなかった。ときには紙にかいたり、唇を必死に動かして伝えようとしたりもしたが、それでもその本意までは理解されなかった。だが、今回は違った。ユウの心の叫びを、ケイがまっすぐに受け止めてくれたのだ。そしてそれに、力いっぱい応えてくれたのだ。
 その熱い体温と、素早く脈打つ鼓動が、彼女の胸を通して伝わってくる。ユウを抱きしめる力も、よりいっそう強くなっていく。
 昔、こんな風に誰かの心臓の音を、間近で聞いたことがあったような……。
「なんで……お前が、あたしらが死ななきゃならないんだよ。あたしらが劣っているからっていうのか? そりゃ見てくれは良くないかもしれないけどなあ、だからって……こんな仕打ちをして平気でいられる、『上』のやつらの方がクズなんだ。先に死ななきゃならないのは、あいつらのほうなんだよ!」
(ケイちゃん……)
 ケイも泣いていた。顔は見えなくとも、ユウの頬や首筋に、涙が滴り落ちるのを感じていた。あのケイが、いつも強そうに見える彼女が、こんな風に泣くなんて。ユウは意外に思い、その一方でうれしくも、悲しくも思った。
 ユウもまた泣き出した。その場で二人は抱き合いながら、互いのことを想いながら、しばらく泣き続けた。

 それからまた、どのくらいの時間がたったろうか。ユウはその身を、そのままケイの胸に預けていた。と、ふっとケイの体の力が抜けたように感じ、顔を上げた。
「あの……さ」
 うすぼんやりとした視線の先にうつるケイの姿は、いつもの彼女に戻ったかのようだった。そして、何かを決意したような、そんな表情をしているようにも見えた。
「もしここから、逃げ出すことができるとしたら、どうする?」
(えっ?)
 一言一句、はっきりとした口調で、ケイは話した。逃げ出す? ここから? いや、でも、そんな、まさか……。
「必ず……出られるとは限らない。しかもその行先は、ここ以上にひどい……かもしれない。それどころか……生きてたどり着けるかどうかだって……」
 ケイはゆっくりと、ゆっくりと言葉をつむいでいった。ユウに対してだけでなく、自分自身にも語りかけ、納得させようとしているかのようだった。
「本当に……それが良い選択なのかもわからない……わからないけど……だけど……」
 その先を言いかけたところで、突然ユウはケイの手を取った。そしてその手のひらに、
 ――わたしやるよ。
 と、書いた。
「いや、だって、まだ何をするかも言ってないじゃないか」
 ――いいのそれでも。
「その方法すら、説明していないし……」
 ――だいじょうぶ。
「それに本当に……危険なことなのかも」
 ――しんじているから。
 ユウはそう書いてから、しっかりと両手で、ケイの手を包み込んだ。
(しんじているから)
 と、もう一度、今度は大きく口を動かした。
「……ユウ」
(しんゆうだもの)
 ユウは、笑った。精一杯の笑顔を、ケイに見せてあげたのだった。
 ――わたしはなにをすればいい?
 ケイはしばらく迷っていた様子だったが、やがて大きくうなずいた。
 彼女らの、最後の挑戦がはじまろうとしていた。


    9

「……起きた?」
「……ん」
 私は粗末なパイプ椅子に座って、ベッドの上に横たわる兄を見ていた。目覚めている兄を見るのは久しぶりだ。日に何時間かはこうして起きているらしいが、私が見舞える時間とは、なかなかタイミングが合わない。
「夢を……みていたよ」
「夢?」
「ユウが……泣いているんだよ。道路の真ん中で。ひざをすりむいてさ……」
「ああ……」
 私はすぐに思い出した。誕生日に買ってもらった自転車と、はじめてひとりで遠乗りに出かけたときのこと。
「僕はびっくりしちゃって。ユウはわんわん泣いているし、怪我をしているし、まわりには誰もいないしさ……どうしたらいいかわからなくて、僕のほうが泣きたいぐらいだった」
「そうだったの? 全然そんな風には見えなかったけど」
 私が覚えている兄の姿は、私を慰め、励まし、冷静に対処している、頼もしい年長者のそれだった。それはこの後何度も、私が人生の岐路に立ったとき、困難に遭遇したときに見ることとなる、立派な立ち居振る舞いでもあった。
「とにかく連れて帰らなきゃ、って思ってさ。ランドセルを抱えて、ユウをおんぶして……自転車は置いて帰るつもりだったけど、盗まれたらいけないと思って、あわてて取りに戻ってさ」
「へえ……」
「おまけにユウはじっとしないから、バランスをとるのが大変だったし、鼻水が背中に垂れてくすぐったいし。それに……すごく重くてさあ。家までの距離がめちゃくちゃ遠く感じられて……」
「ひどおい。いくら昔のことだからって、それを当の女の子を前にして言うセリフ?」
 私がそう言って、二人で笑いあった。兄の笑顔を見たのも、いつ以来だったろう。
「あのときは……ユウはいくつぐらいだったけ?」
「確か4歳ぐらいだったかな。ほら、お母さんが『年中さんになったら、買ってあげるから』ってしぶしぶ認めてくれたじゃない」
「あの自転車って、何色だったか覚えている?」
「ピンク、だったと思うけど……?」
「そうか……良かった」
 奇妙な問いに疑問を感じはじめたところで、ほっとした顔で兄がつぶやいた。
「君は『本物』のユウなんだな」
 一瞬にして楽しい気分が暗転する。
「さすがに、『思い出』も細部にわたっては、『コピー』されないみたいだね」
 おそらく顔色も変ってしまっている私とは違い、兄は変わらず穏やかな表情のままだ。
「……細かい記憶に関するシナプスの動きについては、不確定な要素が多かったから、必要最低限のものしか、移さないようにしたの」
 そういうのは『無駄』だと思ったから、なんてことは言えない。
「そうだよなあ。ユウがあんなに素直な看護師に、なれるわけないものなあ」
 兄はおどけて言ったが、私は少しも笑うことはできなかった。
「で、でもね、やっぱりそういうスキル面においては、『元』の良し悪しで、かなり違ってくるものなのよ。あたしはともかく、兄さんの『コピー』たちが、研究や調査を主導するようになってから、進捗が見違えるほど速くなったんだもの。このままいけば、あと十年……ううん、五年もあれば、あの『星』の再生だって、夢じゃなくなるかもしれないんだから」
「だけど……肝心の『オリジナル』が、そこまで生きていける自信はないんだよなあ……」
「兄さん……」
 そうなのだ。私が陰でこっそりクローン化を始めたときには、もうすでに兄の体は、病に侵されてしまっていた。使える箇所を探し、出来る限りの手を尽くしたが、駄目だった。マイナスをいくら『コピー』しても、プラスにはならない。どうやっても兄を、『オリジナル』を、延命させる手段は見つからなかった。
「ごめんな……」
 兄はそっと布団の裾から手をだして、それを私の手の上に重ねた。
「『守ってやる』なんて大見得きっといて、このざまさ。全部、お前に押し付けてしまった」
「そんなこと……」
 笑わなきゃ。元気つけなきゃ。いつものように憎まれ口をたたいて、この場を和ませなきゃ。
「ありがとう。本当に感謝しているよ」
「……やめて」
 だが、すぐに私は立ち上がって、窓の方へ退避してしまった。そのままだと、とめどなく泣いてしまいそうだったから。
「あ、ちょうどいいや。ユウ、そこのカーテンを開けて」
 私は言われたとおりにした。分厚い窓の向こうには、無限に広がる宇宙が広がり、そしてその先には……。
「……見えるだろ?」
 そこにはあの『星』が、かつて私たちの生まれた、あの『故郷』が浮かんでいた。
「いい病室を選んでくれたね。展望室ほどじゃないけど、ここからでもよく見える」
「……そうだね」
 以前ほどの派手な動きはなくなったとはいえ、あの『星』は太陽の光を浴びた下でも、いまだにどす黒くくすんで見える。ところどころに白く点在して見えるのは、ガスの吹きだまりだろうか。宇宙望遠からだと、どうしても詳細がつかめない。調査チームを派遣する計画を急ピッチで進めないと。『使い捨て』の要員は、腐るほどできたわけだから。
「僕が死んだらさ……」
 突然兄がそんなことをつぶやいたので、私は驚いて振り返った。
「あの『星』に葬って欲しいんだ」
 兄は力なく笑っていた。
「貴重なタンパク質体と、生物のDNA情報の塊だからね。あの『星』の再生に、生態系の復元に、少しでも貢献したいんだよ」
 いかにも兄の言いそうなセリフであった。理知的でありながら、自己犠牲の精神にもあふれた、優等生的な発言であった。
「……そうじゃ、ないでしょう?」
「えっ……」
 私は意を決して、ゆっくりと兄の元に近寄った。
「教えてよ。お兄ちゃんの本当の気持ちを。ここには、私たちしかいないんだよ? 本当の……本物の『私たち』しか。あの『星』で生まれて、こうして生き残っているのも、もう、『私たち』だけなんだからさ」
「ユウ……」
「これ以上強がる必要も、気持ちをごまかす必要も……ないんだよ」
「……うん」
「だから……」
 そして、しばらく兄は瞑想するかのように目を閉じていたが
「……帰りたい」
 と、震える声でつぶやいた。
「帰りたいんだ。僕が生まれ育った、あの家に。僕の『故郷』に……」
 兄の目から、すーっと一筋の涙がこぼれた。
「……よくできました」
 私は兄をやさしく抱きしめた。私のほうから、こうして抱いてあげたのは、はじめてのことだった。
「大丈夫。すぐに元気になって帰れるわ。それからみんなで一緒に、そこで暮らすの。昔みたいに、笑ったり遊んだりはしゃいだりしながら、みんなで仲良く……夢みたいな毎日を送るの……」
 もはやそんな日が来るとは思えない。仮に、もし『帰る』日が来たとしても、そのときまで、私が生きていられるとも思えない。
 だが、一方で私はその日が来ることを、『信じて』いた。
 だから――。
(お兄ちゃん……愛してる)
 私は心の中でつぶやいた。
 この『記憶』、この『想い』だけは決して忘れたくない。やがては私たちだけでなく、私たちの『コピー』たちにも、それを受け継いでいってもらいたい。その心に、刻み込んでいってもらいたい。
 どんなことがあっても。
 これだけは忘れないで。
 私は兄の涙をそっと拭いながら、そう願っていた。


    10
【あの星のことを憶えているか】
 そのノートに書いた文字を見て、ユウはうなずいた。
【これは聞いた話なんだけど】
 ケイは、そう前置きをしてから、さらに書き進めていった。
【あの星はもう生物が暮らせるぐらいまで復旧しているらしいんだ】
【ほんとに?】
【だからあそこへ渡ることができれば】
 このステーションから離れたとしても、生きてはいけるはずだ……ということである。しかし……。
【でもどうやって?】
 ここからあの『星』まで、驚くほど遠く離れていることは、さすがのユウでもわかっている。しかも、間にあるのは真空の宇宙空間だ。肝心の移動手段を講じられなければ、移住など単なる妄想でしかない。ユウはその疑問を、率直にぶつけてみた。
【ここで人が死んだらどうなると思う?】
 今度はケイが書いた文章の意味が理解できず、ユウは小さく首を振るだけだった。
【上の階にゴミを燃やすフロアがあるだろ? まずそこへ送られる】
【もやされるの?】
 そこの部屋には、何度か行ったことがある。奥の方に、巨大な焼却炉があったはずだ。
【すぐ隣の霊安室に並べられて、数がいっぱいになったら、それらを全部、ロケットに乗せるんだ】
 ケイは腕を伸ばして、何かが飛んでいく仕草をみせた。
【どこへ?】
【送り先は、あの星さ】
【あのほし?】
 つまりは死体をロケットへつめ込んで、わざわざあの『星』にまで捨てに行っているらしいのだ。
【どうして?】
【なんで、そんなことをするのかはわからない。ほんとうに、そんなことをしているのかもわからない】
 ケイがわからないのであれば、自分がわかるわけもない。
【たぶん、燃やすには、相当の燃料を使うからだと思う】
 だがそれなら宇宙にそのまま捨てた方が、楽なようにも思える。
【そんなにいっぱいしぬの?】
【自然死、事故死、衰弱死。でも、中でも一番多いのは、失敗死らしい】
【失敗死?】
 ユウにとって聞きなれない言葉だった。
【つまりはコピーに失敗したってことさ。長く生きられそうもない者は、すぐ処分するらしい】
 自分たちよりも、さらに下の『レベル』の者たちということか。その『処分』の文字に、背筋に冷たいものが走る。
【でも数が多いってことは、そのぶんチェックも甘くなるはずなんだ。そこがねらい目だと思う】
 そこでケイは、ユウの顔を見た。これから先を話してよいか、迷っていた。ユウもケイを見た。その表情は、自分の意思が変わらないことを示していた。それを見て、ケイは軽くうなずくと、
【その死体の中に紛れ込めば、ロケットに乗せられて、あの星にたどり着くことができるかもしれない】
 衝撃的な提案と共に、彼女の説明はさらに続けられていったのだった。

 そして、それから数日ほどたった夜――。
 二人はついに、霊安室に忍び込もうとしていた。
「こっちこっち」
 促されるままに、ユウは部屋の前に立った。ケイが事前に取得しておいた鍵と暗証番号を使って、難なくそこのドアを開く。彼女はどのようにして、その情報を手に入れたのだろう。ユウはいやな予感もしたが、詳しく聞きだすことはできなかった。
「……見えるか?」
 中へと入り、照明をつけると、ユウたちの寝所の半分ぐらいの広さの部屋に、所狭しとひつぎのような長箱が並べられている。かすかな腐敗臭と、強い消毒剤のにおいが、鼻についた。
「こいつらがみんな、最近お亡くなりになった、あたしたちの『仲間』たちさ」
 ユウはその数の多さに、圧倒されていた。
「見たところ、まだスペースが空いているみたいだから、これからも運ばれるのかもな。何人なのか何十人なのか……」
 ユウの喉がごくりとなった。
 ――やめてもいいんだぞ?
 ケイはユウの手を取り、そのように書いた。ことあるごとに、ケイはそのことを、何度もユウに訊ねていた。
 だが今回も、ユウはその首を振った。
(……だいじょうぶ)
 それから、逆にケイの手を取り、
 ――がんばるから。
 と、書いた。
「……そっか」
 その言葉で、ケイも、ついに腹を決めた。
「じゃあ、はじめるぞ」
 ユウの……いや、彼女らの『無謀な計画』が本格的にスタートした。

 そして、それから数時間ほどたった後――。
 ユウはひとり、あるひつぎの中に紛れ込んでいた。
 先ほどまでここに入っていた死体は、別のひつぎの中に紛れ込ませてある。さすがに他の死体と一緒に、ずっと中に入っていたくなかったので、中身は移動させてもらった。念のため紛れ込ませる先も、あまり重くないひつぎを選んで、重さも調節してある。怖くてろくに確認はしていないが、どちらもおそらく途中で『失敗』死した者たちのようだった。
(ケイちゃん……)
 ひつぎの中は何とも形容しがたい匂いで充満していた。人は死んでしまうだけで、こんなにも臭くなってしまうものなのだろうか。
(ケイちゃん……)
 ユウはまた心の中でケイの名を呼び、当座の食料や医薬品などがつまったサバイバルキットを、ぎゅっと抱きしめた。
 確かにこれは『無謀な計画』だった。何よりその行為自体が、無茶だった。本当に行くことができるのか? 仮に行けたとしても、あの『星』で生きていけるのか? もし生きていけたとしても、目も見えず、歩くことすらままならない(あの日以来、杖をなくしてしまっていた)ユウが、ひとりで暮していけるのか? もし……もし……もし? 
 ユウも最初は、そんなネガティブな想いにとらわれていたが、決行が近づくにつれ、次第に何か『わくわく』するような気持ちが、大きくなっていくのを感じていた。
 なぜなら彼女は、生まれてはじめて、自分で運命を切り開こうとしていた。誰の助けも借りず、自分の力だけで生きようとしていた。たとえ失敗しても、死ぬのはユウひとりだけだ。ひそかにいなくなってしまうのも、跡形もなく消えてしまうのも、宇宙の塵になってしまうのも、彼女ひとりだけなのだ。それは逆に言えば、誰にも迷惑がかからない、ということでもあるのだ。
 さらにユウには、誰も見ていない風景を見てみたい、誰も知らない場所へ行ってみたいという、子供じみた『あこがれ』があった。このステーションの中では、想像することすらできなかった未知の世界。それを体験してみたいという欲求を、抑えきることができなかったのだ。
 それに何より、ユウがこれから行くのは、あの『星』なのだ――。
(じゃあいくね)
 ひつぎの蓋が閉じられようとする直前、二人は最後の別れを惜しんでいた。
 ――がんばれよ。
 と、ケイはユウの手のひらに書いてから、しっかりと握手した。
(うん)
 ユウもその手を強く握り返した。
「じゃあ……」
(……うん)
 その手を放して、ケイはその蓋を閉めようとしたが……。
「ユウ!」
 大きくその名を呼ぶと、彼女の目の前まで自分の顔を近づけた。
「ユウ……」
 もう一度、その名をつぶやくと、ケイは今まで顔半分を隠していた長い黒髪を、大きくかき上げた。
(ケイちゃん……)
 ユウは、その顔を間近で見るのは、はじめてだった。いつものユウなら、見ないようにしたのかもしれないが、今はけっして目をそらさず、まっすぐに見つめ返した。そして、その何か決意に満ちあふれたケイの表情を、ユウはとても美しいと思った。
「あたしたちは、元は『同じ』かもしれないけど、こんなに『違う』ものなんだな」
 それはもちろん、その痣のことや、顔つき体つきのこと言っているのではないことはわかっていた。
「くじけるんじゃないぞ」
(うん)
「あたしもさ……あとから、行くから」
(えっ?)
 思わず目を丸くするユウに向かって、ケイは笑顔でうなずいた。
「……必ず」
(じゃあ……まってる)
 ユウもそれに応えて、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあな」
 と、ケイが言い、
(……うん)
 と、ユウがうなずいた。
「さよなら……」
 どちらからともなく、別れの言葉を残して、
 ひつぎの蓋はゆっくりと閉じられたのだった。

 ガタン!
 どれくらいの時間がたったのだろうか。
 急な衝撃に、ひつぎの中のユウは、目を覚ました。
 外では、なにやら重機のようなものが動く大きな音がしていて、その振動が中まで伝わってくる。
(はこびだされるのかな……)
 ユウはサバイバルキットのはいったバックをぎゅっと抱きかかえ、身を硬くする。
(ケイちゃん……)
 ガタン!
 そしてついに、ユウのひつぎが動き始めた。
 まず高く持ち上げられたかと思うと、そのまま水平移動していき、別のどこかの場所に積み込まれる。すべてが機械で操作されているせいか、非常に荒っぽい作業の連続で、中のユウはその衝撃に、必死に耐えなければならなかった。
 ウィーン……。
 どうやら、今度はまたエレベーターのようなものに乗せられたらしく、どんどん上へと登っていく感覚がする。
 ガッタン!
 ゴトン……。
 どこか別のフロアについたらしい。その後の定期的な揺れから判断すると、何かベルトコンベアのようなものに乗せられたようだ。
 ウィーン……。
 横移動のあとは、また縦への移動が続く。しかし今度はこれまでとは違い、無造作に吊り上げられているような感じで、その中でバランスを取るのが難しい。
 このままロケットの発着場まで、連れて行かれるのだろうか。それともまだ、いくつもいくつも違う場所に停泊させられるのだろうか。途中、抜き打ちで、中身を検査されなければよいのだが……などと、そんなことを考えていた瞬間……。
 ガッタン!
 動きが止まった。さらにひつぎが斜めに傾いたかと思うと、その足元が突然パカッと開いた。
(きゃあ!)
 ユウはそのまま、滑るようにひつぎの外へ、真下へと飛び出していった。
 グシャ!
 急速な落下の末に、ユウは何か柔らかいものにぶつかった。運よく背中から着地したのだが、それでもかなりの衝撃を受け、腰や背中のあたりがひどく傷む。ユウはその場に丸まって、ひどく咳き込んだ。
(あっ!)
 それからすぐに、はっとなった。さっきまで胸に抱えていたはずのサバイバルキットがない。落ちる際に手放してしまったようだ。ユウは慌てて探そうと、顔を上げて周りを見渡したのだが……。
 そのとき、自分がどんな場所に着地したのかを知った。
(う……そ……)
 そこは、死体の山の、頂上であった。
 男の、女の、完全な、不完全な、裸の死体たち。
 男女それぞれが、同じ顔をした、『コピー』たちの残骸。
 それがゴミのように捨てられ、うずたかく積み上げられていたのだ。
 その死屍累々の中に、ユウは放りこまれたのである。
(うっ)
 そのときユウは、自分の目が見えないことが、これほど幸運だと思ったことはなかった。
 しかしぼんやりとした視界であっても、この光景の衝撃と、すでに発生している腐敗臭のひどさに、すぐにユウは耐えきれなくなり、
(うううっ)
 その場で胃の中のものを、すべて吐いてしまったのだった。
 ドサッ!
 ユウのすぐそばで、何かが落ちてきた衝撃があった。
(えっ?)
 ドサッ!
 ドサドサドサッ!
 次々と、何かが空から落ちてくる。ユウは思わず、天を見上げると、
(!)
 彼女に向かって、まっすぐにその『何か』が降ってきた。
 それは……新しい、別の死体であった。
(きゃあ!)
 ユウはそのまま押し倒され、次々と降りかかる死体に、その体は覆い隠されていった。
 頭に受けた強い衝撃のせいで、ユウはまたすぐに意識を失った。

 さらにそれからまた、どれくらいの時間がたったのだろうか。
 ユウは、胸にひどい圧迫感を感じて、目を覚ました。
 ひどいのは、圧迫感だけではなかった。
 今まで嗅いだことのないほどの悪臭と、
 体温をすべて奪い取ってしまうかのような悪寒が、
 彼女の体を覆い尽くしていた。
 ユウはなんとかして、そこから逃れようと必死にもがいたが、指一本動かすことはできなかった。
 まわりは漆黒の闇の中で、目を凝らしても何も見えない。
(わたし……どうなっちゃったんだろう……)
 必死に記憶を遡る。
 このまま自分も死体の山の一部として、
 その中に埋もれて、
 朽ち果ててしまうということなのか。
(ううっ)
 また強い吐き気がしたが、ユウは必死でそれをこらえた。
 今自分のまわりには、どれだけの死体が積み上げられているのだろう。
 どれだけの『私』たちと、
 どれだけの、あの『男』たちが。
(……!)
 あの日のことを思い出し、思わずユウは身震いした。
 しかし、次の瞬間、なぜか彼らのことを許せるような気持ちにもなった。
(しょせんはあのひとたちもわたしたちとおなじ『コピー』じゃないか)
(しんじゃえばみんなおなじじゃないか)
(わたしもここでこのまましんでしまうんだ)
(なにもできないまましんでしまうんだ)
(みんなと)
(おなじで)
(このまま)
(しんで)
(しんで)
(いっしょに)
(しんで)
(……)
(……)

 “『死ぬ』なんて、冗談でも考えるな。絶対に考えるんじゃない!”

 突如、ケイの言葉が脳裏に響いて、ユウははっとなった。
 コピー? 同じ?
 このまま? 一緒に?
 死ぬの? わたし?

 いや、『違う』――。

(わたしはちがう)
(わたしはまけない)
(わたしはしなない)
(だれかをきずつけたり)
(ふみにじったりなんかしない)
(わたしは)
(じぶんのちからで)
(うんめいを)
(きりひらく)
(みらいを)
(かえてみせる)
(だから)
(まけない)
(ぜったいに)
(ぜったいに)

 ユウは心の中で、何度も何度もそうつぶやいて、わが身を奮い立たせた。
 そうしてそのまま彼女の意識は、いつしか別次元の地平へと飛び立っていったのだった。


    11

 目の前のインターフォンがなる。私がスイッチを入れると、
「定時報告です」
 と、『私』の声がした。それから今日起こったことが、淡々と読み上げられていく。何度聞いても好きになれない、甲高い、耳障りな声。
「……最後に、本日の『定期便』は定刻通り発射されました。二日後の八時ちょうどには、東経百二十度、北緯九十度付近に到着する予定です」
「そう、ご苦労さま」
「失礼します」
 通信は切れた。スイッチをオフにし、機器をデスクの中へとしまう。これで、私の今日一日の仕事は終わりだ。
「お疲れさまでした」
 と、背後から『兄』が声をかけてきた。ドアのところで、直立不動の体勢で立っている。私がそのように命じたから、そうしているのだ。
「なにか、カクテルでもお作りしましょうか。それとも、コーヒーでもお入れいたしましょうか?」
「そう……ね……」
 私は考えているそぶりをみせて、
「もういいわ」
 と、つぶやいた。
「は?」
「今日中に読んでおかなきゃいけない書類があることを思い出したの。それに目を通すから、あなたはもう下がっていいわよ」
「では、終わるまでお待ちいたします」
「待たなくてもいいわ。私から呼んでおいてなんだけど……ちょっともう、したくなる気分じゃなくなったから」
「ですが……」
「わかんないの? 『ひとり』にしてって言っているの。早く、下がりなさい」
「……かしこまりました」
 ぎくしゃくと挨拶をしてから、『兄』はやっと部屋から出て行った。あの『クラス』だと、情緒とか、言葉の裏の意味を理解させるのは難しい。だが、あれより上となると、私の言うことは簡単には聞かなくなる。より『元』の『兄』の思考に、近づくことになるからだ。
「カクテルなんかよりも、断然こっちの方がよろしくてですのよ……てね」
 私は『兄』の口調を真似しながら、キャビネットの奥に隠しておいた、上等のブランデーを引っ張り出した。氷でも水でも割らず、グラスの底から三分の一ぐらいの高さまで注ぐ。さらにそれを手にしたまま、リクライニングチェアにわが身を深々と横たえた。
「……お疲れさまでした」
 私はデスクの上に置かれた、小さなくまのぬいぐるみに軽く挨拶をしてから、グラスに口をつける。苦味と熱が、喉から胃袋へとなだれ込む。
 お前、最近飲み過ぎじゃないのか……?
 どこからか、ほんものの『兄』の声が聞こえてきて、私はそれを手で払う。まだ酔っぱらうには、早すぎる。過去を懐かしむにも、早すぎる。
「わかっているわよ。そんなこと……」
 私は幻聴に返事をし、ふっと椅子から立ち上がり、そのまま窓へと近寄って、ブラインドを引き上げた。
 眼前に小さく浮かぶ、真っ黒い、あの『星』。私の想いになかなか応えてくれない、意地悪な、あの『星』。
「ん?」
 目じりの先の方で何かが光った。細く小さな放物線を描いて、通り過ぎていく。
「ああ、『定期便』ね……」
 われながらいい名前を付けたものだ。中身はゴミと……死んだ私たちの『コピー』の詰め合わせ。便利なリサイクル用品だ。
 調査の結果、あの『星』は、生命が生息できる環境にほぼ戻りつつある、という報告を受けてはいる。土壌はできつつあるので、あとはその種――過去の生態系を復活させるための、『情報』を定期的に提供していけばいい。かつてあの『星』に『人間』という生物がいて、それがどのように暮らし、生きてきたのか。その生命を維持するためには、他にどんな生物と共存させなければならないのか。それを教え込まねばならない。
 しかし、あの『星』は広すぎる。そんなところに点々と、小さな贈り物を届けたところで、すぐにお返事がくるとは思えない。目に見える効果が出るのは、まだまだ先のことだろう。ひょっとしたら、効果など期待できないのかもしれないが。
 だからといって――。
「……あきらめてたまるもんですか」
 私はグラスの残りを飲みほし、ブラインドも閉じた。それから例のぬいぐるみを小脇に抱えて、寝室へ向かった。明日も朝が早い。やることも山積みだ。明日も、明後日も、そのまた次の日も……。
 あの『星』に帰る、その日まで。
 あのとき結んだ、『兄』との約束を果たすまで。
 私の無駄な抵抗は、これからもずっと続いていくのだった。


    エピローグ

 その空は暗く、厚い厚い雲に覆われていた。
 見渡せど、干からびた大地には草木の一本も見えず、
 海はあったが、その水は淀み、波しぶきひとつたてていない。
 うるおいと輝きを失った死せる地に、いつからか一台の宇宙船が不時着していた。
 胴体着陸となったらしく、船体は真っ二つとなり、
 積荷も遠く投げ出されてしまっている。
 さらにその荷をよくよく見れば、
 驚くべきことに、それぞれ同じ顔した人間の男と、
 同じ顔をした女たちの、
 何百体にも折り重なった、死体の山なのであった。
 もはやその中に、生ける者などいないと思われたが、
 さらに数時間したのち、
 ごそ、
 ごそ、
 そこに蠢く、影があらわれた。
「……」
 ひとり這い出してきたのは、
 他の死体と同じ顔をした、
 半裸に近い女であった。
「……」
 女はゆっくりと、
 ゆっくりと辺りを見渡した。
 その左の眼はつぶれ、
 右のまなこもほとんど開かず、
 本当に見えているかもわからない。
 さらに左の脚がねじ曲がっており、
 立ち上がることなどできない様子だった。
「……」
 だがそれでも彼女は、
 四つん這いになりながらも、
 その死体の山を、上へ上へと
 這いあがっていった。
 ついに、その頂上へたどり着くと、
 ゆっくりとあたりを見渡したのち、
 その場で力強く、吠えたのだった。
「……!」
 その無言の咆哮は、地面を揺るがし、
 大海を波打たせるほどの、すさまじいものであった。
「……」
 やがて彼女は満足した表情で、
 その山を下りていった。
 地面までたどりつくと、
 這ったままその場から離れようとしたが、
 近くに宇宙船の部品と思わしき、長い金属の太い棒を発見すると、
 女はそれを手にして、
 それを支えとして、立ち上がろうとした。
「……」
 そして見事立ち上がった瞬間、
 女はふたたび、高らかに吠えた。
「……!」
 それからそこを離れ、
 地平線しか見えない砂漠の彼方へ、
 ふらふらとなりながらも、
 一歩、
 一歩、
 しっかりと前を見て、
 歩いて行ったのだった。

【おわり】
読んでいただきましてありがとうございました。
なお、SFは"Science Fiction (Double Feature)"でお願いします。

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