がしゃどくろ
ここで戦があった。
後の世では誰もが知っている名将の軍と、歴史家以外には名も知られていない将との戦だった。
軍配は後の名将に上がったが、名将の軍にも相当数の死者が出た。戦場が僻地であったこと、名将がその後すぐに別の戦場へ出たこともあり、戦死者の骸はそのまま戦場跡に野晒しにされた。
経を読む者も死を悼む者もいない骸に、やがて虫がわく。蝿をはじめとした肉食の虫が死臭を嗅ぎ付け寄ってきた。羽虫が飛び交い甲虫が這いずる。傷口や目玉、思い思いに卵を産み付けていく。
やがて卵が孵りぶよぶよの体を持った幼虫が、産声代わりに肉を喰う。体内を食べ進み、皮膚を食い破り体の内外で蠢いた。体表をひしめき体内を泳ぐ。
虫や微生物に食い荒らされ肉がとろけ始めた頃、今度は鳥獣が群がり始めた。血を啜るために。肉を食むために。
鳥が目玉を啄み、獣が皮を剥いでいく。腐敗の進んだ肉は容易く骨から剥がれ、鳥獣の胃の腑に満ちていく。
血が流れ肉が剥げると、見えてくるのは白い骨。
肉片、血痕、脂肪で汚れくすんだ骨。
虫と獣の晩餐は続く。
続いていた。
その瞬間まで。
――こそり
その骨に、鳥も獣も触れていなかった。あらかた肉も食われ、虫が這うだけの腕の骨だった。
生き物に押されたわけでもなく、風に流されたわけでもなく、その骨がひとりでに動いたのだ。
それがきっかけだった。
――こそり、こそり
――ガサガサガサ
――がしゃがしゃがしゃがしゃ
剥げた骨がより集まり、大きな塊となっていく。腐肉のついていた骨は、肉を厭うように身震い――と云っていいものか――して肉を振り落とし、骨塊に加わっていく。
骨が集まり、組まれ、混ざり合う。
がしゃがしゃと骨の擦れる音を淋しい戦場跡に響かせて、幾十人か幾百人か、骸の骨が重なり合い、やがて見上げるほどに大きな骸骨が出来上がった。背骨は大樹のようにそびえ、胸骨は空を囲うかのように円弧を描く。延びる腕もまた長く、尺骨だけで二間はありそうだ。
背骨の頂きに座する頭蓋骨。目玉などなく虚ろなはずの眼窩には、不思議な、否、妖しい光が儚として灯り、まるで戦場跡を睥睨しているようである。
死者の骨の集合体が、戦死者たちの怨念を総身に纏い、戦場跡に佇立した。
●
頭に笠を被り手に錫杖を持った僧行の男が戦場跡を目指して山道を歩いていた。
戦があったこと、その後戦死者の骸が放置されていることは、当然話題になっている。戦場跡からそう離れていない地にある寺から、僧行の男はやって来た。近場の村の男に案内を頼み、供養するために戦場跡へ向かう。
まだかかりますか? 僧行の男が問う。
もう目の前ですよ。村の男が答える。
村の男が答えた通り、戦場跡はすぐに見えた。山道が開けぽっかりと開けた場所に出た。下草もなく土が剥き出しの土地がある。周りが木や草で繁っていることを考えると、ここだけ土が出ているのは不自然に見える。
無数に転がる死者たちの念が障気となり、漂っているのだ。
虫、鳥、獣の体臭。糞尿。腐敗した骸。おびただしい量の血。思わず顔をしかめるような臭いが場に澱む中、僧行の男は顔を悲痛に歪め右手の平を顔の前に立てた。そのまま無言で瞑目する。村の男もそれにならい手を合わせた。
しばらくそうした後、僧行の男は一番近くの骸の横にしゃがみこんだ。
どうなさるおつもりで? 村の男が問う。
全て埋葬し供養塔を建てます。僧行の男が答える。私より数日遅れですが、同じ寺のものがここへ向かっています。僧行の男が続けた。
ひ、ひぃっ
僧行の男の男の言葉に被さるようにして、村の男が悲鳴を上げた。何事かと僧行の男も顔を上げる。するとそこには、あまりにも大きな骸骨が、二人の男に覆い被さるように存在していた。
驚き居竦む二人の男を前にして、骸骨はその大きな腕を振るった。上から下へ、叩きつけるように村の男へ。
今度は悲鳴を上げる間もなく村の男は骸骨の手の骨に潰された。湿った音と共に血が跳ね僧行の男の僧衣を汚す。骸骨は無惨な骸と成り果てた村の男を指先で器用に摘まみ、口腔へと運び入れた。
――ぐちゃ、ぐちゃ
――ばき、ばき
咀嚼し、飲み下す。肉体を持たない骸骨には噛み砕いた肉を納める臓腑はなく、ぼとぼとと、村の男だった肉と血が、骸骨の下の地面を赤く染めた。
その音を背中に聞きながら、僧行の男は元来た道を走る。裾が乱れるのも笠が落ちるのも意に介さずただひたすらに、村の男の弔いなど頭の端にも浮かぶことなく、ただひたすらに、ただひたすらに逃げた。
僧行の男の顔に浮かぶのは、頭の中を占めるのは、今見た化生への恐怖だけだった。
走る僧行の男の後を、巨大な骸骨が追い掛ける。行く手の木を薙ぎ倒し、枝葉をその身で打ち払い、僧行の男の背中を追う。骸骨は体が大きいせいか、僧行の男になかなか追い付けないようだった。
息の詰まるようなおいかけっこを続けていると、やがて人影が見えてきた。立派な衣に身を包んだ、僧行の男と同じ寺の僧侶たちである。
助かった。恐慌にこわばった僧行の男が泣き笑いのような声で叫ぶ。おーい、おーい。
大きく手を降り、喉も裂けよと叫び、そして骸骨に叩き潰された。希望を胸に死ねただけ、村の男よりはいい死に顔だっただろう。そして村の男と同じように、骸骨に咀嚼された。
――ぐちゃ、ぐちゃ
――ばき、ばき
僧侶たちにも当然骸骨は見えている。同じ寺の仲間が食われたのも目にしている。僧侶たちは普段から化生を相手にしているわけではない。化生退治を生業にしているわけではない。見たことのないものを見たとき、まず感じるのは戸惑いと恐怖である。それが己の身の丈よりもはるかに大きいこと。目の前で人を殺し、食ったこと。そんな光景を見て、出来ることは僧行の男と同じく、悲鳴を上げて逃げることだけだった。
戦死者たちの怨念で動く骸骨の行動もまた同じ。眼前の生者を己らと同じ目に。
●
一人食うごとに動きを止める骸骨から逃げ切れた僧侶は、わずか三人きりであった。三人の僧侶たちはまるで涅槃でも見付けたような、歓喜に満ちた顔で寺に駆け込んだ。寺が安全であるなどと誰もいっていないのに。そんな保証もないのに、知っている場所に着けただけで助かった気になった。
門をくぐる僧侶たち。門を壊す骸骨。再び僧侶たちの顔は絶望に歪む。
逃げ惑ううちに僧侶たちは、寺で供養する墓地に逃げ込んだ。死者を悼む墓地に踏み行ったとて、骸骨に追悼など望むべくもなく、墓石を薙ぎ倒し僧侶たちを追う。
そこで僧侶たちは、ひときわ立派な僧衣を着た男を見付けた。ひとりが叫ぶ。権僧正様。
僧侶が二人。骸骨に潰された。二人を一度に噛み潰す。
残った僧侶が権僧正の足元に転がり込む。
権僧正様、戦場へ弔いに行った我らですが、あの骨の化生めに皆食われ、残ったのは私だけにございます。僧侶が息も絶え絶えに報告する。権僧正は二人の僧侶を咀嚼する骸骨を見上げた。
がしゃどくろか。弔われぬ骸が化け生き人を妬む哀れな変化よ。我が仏の教えを説こう。
権僧正が両手を合わせ目を閉じ経文を諳じる。すると骸骨――がしゃどくろ――は肉を砕く顎を止め、眼窩の光を権僧正に向けた。しかし襲いかかる素振りはなく、どころか権僧正の唱える経文に聞き入るようにも見える。
生き残った僧侶が憧憬の眼差しで権僧正を見上げる中、不意に異臭が鼻をついた。がしゃどくろが伴った臭いとは別の、より強い臭い。腐臭。それは背後から臭ってくる。
耐えきれず振り返った僧侶が見たものは、異様な肉の塊であった。
まるで大きな小児のようで、手足はあるが指はなく、首も胴も肉に埋もれてわからない。目も耳も鼻も口も見当たらない。あるいは弛んだ肉の皺に隠れているのか。
その、肉人とでも言うべき尋常ならざる姿を見た僧侶は身が竦み、権僧正の僧衣の裾を強く引いて引きつるような悲鳴を上げた。
それに気をとられた権僧正も、僧侶の視線を追って背後を振り向く。そして同じく肉人を見た。
ぬっぺふほふ……。権僧正が慌てたように化生の名を呼ぶ。ばかな、この寺にぬっぺふほふが出たことなどない。がしゃどくろに牽かれたとでもいうのか。
権僧正が読経を止めたことにより、がしゃどくろが再度動いた。大きな頭蓋を両手で抱え、慟哭するように天を仰ぐ。読経をやめた権僧正へ、その怒りをぶつけるように拳を降り下ろした。
――ずしん
と、地響きすら鳴らして落ちた落ちた拳は、権僧正を無惨な血肉に変えた。権僧正にすがり付いていた僧侶も、拳の巻き添えとなった。
墓地に生者はなく、在るのは墓石の群れと化生が二体。
がしゃどくろの双眸代わりの光がぬっぺふほふを捕らえた。
ぬっぺふほふもまた、肉のみの体でがしゃどくろを察した。
死者の骨の化生、がしゃどくろ。
死者の肉の化生、ぬっぺふほふ。
どちらからともなく、
恋に落ちた。