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デザータウンの吸血鬼

作者: 栗須じょの

!!!警告!!!

暴力をイメージする表現及び、同性愛的表現を含みます。お好みでない方はご注意ください。

 ───あの男は人間じゃない。


 一目見ただけで、ジョナサンにはそれがわかった。他の誰にもわからなくても自分にはわかる。あの男は闇の世界に属する者。 そう、彼はヴァンパイアなのだ。




『デザータウン、平和と安息の場所』

 1950年代に、町の入口に立てられた看板にはそう書いてある。

 そのキャッチコピーはまちがいではなかった。 しかしより正確を記するならば、その下に『でもすっごく退屈』と書き加えるべきだとジョナサン・ロットは常々思っていた。

 十七歳のジョナサンにとって『平和と安息』とは、『眠気と退屈』とほぼ同義語。この平和と安息の小さな町で、ジョナサンの父親は ダイナー(食堂)とモーテルを営んでいる。 観光地でもないこの地のモーテルに泊まる客といえば、 かつてここに住んでいた昔の住人ばかり。それも用事が済みさえすれば、まるで逃げるようにしてそれぞれの現在の住処に帰ってゆく。

 ジョナサンの父親で、ダイナーとモーテルの経営者であるサム──通称“気のいいサム”──は、 自分の仕事に誇りを持っていた。かつての住人がデザータウンに戻り、ひとたび彼のダイナーに腰を降ろせば、サムは瞬時に『その客が誰で、どんな用事でここに来たか』が、思い出せる。20人ぶんの注文を一度に受けることのできる、抜群の記憶力を発揮して、サムはゲストに声をかけるのだ。

「やあドニー、七年ぶりの帰還だな。親父さんは残念だったね。フィラディルフィアはどうだい?」と。

 しかしニコラス・ファウラーが初めてダイナーに訪れたとき、サムはかけるべき声を失った。 薄いグリーンのパンツに真っ白なジャケット。年の頃は二十代。 大きなレンズのサングラスをかけていることを差し引いても、 サムの記憶の引き出しからは、この男の情報はなにひとつも見つけることはできなかったからだ。

「空調の近くにするかい?」

 ジャケットのボタンがきっちり留められているのは見るからに暑そうだったので、 サムは気を利かせてそう言った。 しかしこの白ジャケットの客にはピンとこないようだ。

「外から歩いてきたんだろ? 暑くないのかね?」

 サムが続けてそう言うと、青年は静かに言葉を発した。

「ああ、クーラーのそばの席のこと? いや大丈夫、暑くないよ。ありがとう」

 店に来た客とは、なにかしら言葉を交わすのがサムの流儀だ。 名前は思い出せなかったが、サムはこの会話に満足して厨房に戻った。

 サムの息子、ジョナサンは、父親と入れ替わるようにして、オーダーをとるために青年に近付いた。

 青年はビニールコーティングされたメニューを見ながら、ジョナサンに 「なにがオススメかな?」と訊いてきた。

 “本日のオススメ”。サムのダイナーにそんなものはない。 ここではみんな自動的に、卵とトーストとコーヒーを頼むのが相場だ。強いて言えば、ターキーのサンドイッチはなかなか旨いとジョナサンは思っていたので、 それを勧める。青年はそれに決めた。

 青年はまだジャケットを着たままだ。デザータウンは高地ではない。見ているこっちが暑くなってくると、ジョナサンは思ったが、青年は汗ひとつかいていない。 汗のかわりに彼を取りまいているのは、スパイシーな香水の香り。 サングラスで目の色はわからない。

「コーヒーは食後?」

「ああ……コーヒーじゃなくて、紅茶はある?」

 “コーヒーじゃなくて、紅茶”。サムのダイナーで紅茶が注文されたのは何世紀ぶりだろうか。この男はイギリス人なのかもしれないとジョナサンは考える。

 ターキーのサンドイッチにハインツのケチャップが必要かどうかは論議すべき点だが、ここではなにをオーダーしたとしても、とにかくケチャップをテーブルに置く。それもサムのダイナーの流儀のひとつだ。

 ジョナサンはとなりのテーブルから、青年のテーブルへとケチャップの瓶を移動させた。弧を描くような動線。ここまではいい。問題はこの後だ。どこかの誰か、だらしない者の行い。ハインツのケチャップのフタをきっちり締めていなかったという単純なことが、こののち起こる悲劇の幕開けだとは、誰も夢にも思わないだろう。

 ケチャップのフタは遠心力で飛び、青年の真っ白いジャケットにぶつかった。これにて非の打ち所のないジャケット、一巻の終わり。ちなみにこれはさきほど述べた“悲劇”ではもちろんない。ほんとうの悲劇はもっとずっと後に起こるのだ。おたのしみに。

「ごめん! すぐクリーニングに出さないと……済みません」

 言いながら、ジョナサンは紙ナプキンでケチャップを拭ったが、それには良い効果はなく、血のような染みはかえって広がった。ジョナサンはますます焦ったが、青年は落ち着いている。

「大丈夫。そんなにおおごとじゃないよ」

 ここで青年はサングラスをとった。目の色はグリーンだ。こんなに深い緑の目を見たのはジョナサンは初めてだった。ジャケットの染みから顔を上げて、思いがけない至近距離に青年の印象的な瞳があったので ジョナサンは染みをつくったときよりも、もっと動揺した。

 こうしたやりとりはダイナーはさして珍しいやりとりではない。しかしジョナサン・ロットにとって、これは普通のことではなかった。この短いやりとりの間にジョナサンは確信した。『彼は人間ではない』と。香水、紅茶、緑の目。デザータウンに不似合いな、真夏日に通りを歩いてきて、汗ひとつかかない男。そう、この男は───吸血鬼なのだ。




 モーテルはダイナーの上にある。部屋数はダイナーのテーブルよりも少ないにもかかわらず、この部屋が満室になって困ることはない。現在、埋まっている部屋は一室のみ。そこには例の青年が宿泊している。

 窓がないせいで昼なお薄暗い、モーテルのフロントカウンターに、ジョナサンはいた。ろくに客がいないのだから、フロントに常時、従業員がつめている必要はない。ジョナサンがここにいるのは、さきほど二十秒前からである。

 磨きすぎですっかり光沢の禿げたカウンターの引き出しから、ジョナサンは宿帳を慎重に──それが宿帳以上のものであるかのように──取り出した。

 いちばん新しい記載には“ニコラス・ファウラー”と、男の名がサインしてある。ツェペシュや、ルスペキュなどの、舌をかみそうなルーマニアの名字ではない。普通の名前だ。

「ニコラス・ファウラー」ジョナサンはその名前を口に出してみた。語呂はいい。

「ニコラス・ファウラー」背後から、こだまが返る。ジョナサンが振り返ると、そこには双子の妹、ドナが立っていた。

「なにやってんの?」ドナは猫のような笑みを浮かべている。

「なんだっていいだろ」

「“ニコラス・ファウラー”」ブロンドの髪を揺らしながら、もう一度、今度はさらに一字一句はっきりと発音する。 こういうときのドナはやけに嬉しそうだ。

「“彼を要チェック!”ってわけ? へぇぇ?」妹は、引っこ抜いて細く整えた眉を上げ、小馬鹿にしたような表情をつくって見せた。

 ジョナサンは引き出しに宿帳をしまいながら 「あっち行けよ」と、そっけなく言う。

「そんなこっそり調べるなんて真似しないでさ、名前くらい本人にきけば?」

「うるさい」

「あんたってほんと怪しいって言うか……ちょっと! あぶないじゃない!」

 ジョナサンはわざと乱暴に、跳ね上げ式のカウンター扉を上げた。ドナはちょいと肩をすくめ、「ま、あたしはあんたが“何者”でも構やしないけどね」と、言った。

 ドナの態度にいちいち腹を立てるのは馬鹿らしいこと。ジョナサンは五歳の頃からそう決めていた。決めてはいたが、やっぱり腹は立った。『何者でも構やしない』だって? “何者”かどうか、疑うべきはあのニコラスの方だ。ジョナサンはそう思ったが、口には出さない事にした。ドナに何事か言及するのは馬鹿らしいこと。ジョナサンは六歳の頃からそう決めていた。




 ───彼がどこから来て、ここで何をするつもりなのか。

 ジョナサンはいつもにまして、ダイナーとモーテルの手伝いに励んだ。もちろんそれは吸血鬼ニコラスの情報収集のためだ。 また同じように、妹もダイナーの手伝いに励んだ。ドナは普段ダイナーを手伝わない。 彼女自身、ウェイトレスの仕事を嫌ったせいもあるが、 娘がトラック運転手などから軽口をたたかれるのを、 サムが快く思わなかったからでもある。しかし“悪い虫がつかないように”との父親の配慮も虚しく、発展家のドナは、自らが明かりに吸い寄せられる虫だった。ちょっとでも見栄えがする男を客に見つけると、 親しく声をかけ、コーヒーのおかわりを何度も注ぎにいく。それがドナという虫の性質。その性質はニコラス・ファウラーに対しても遺憾なく発揮されているらしい。通信販売で買った黒のぴったりしたラメ入りTシャツの上に、ピンクのエプロンを着けてせっせと給仕にはげむドナ。彼女が寄り道もせずに学校から戻るのは、お目当ての男が店にいるときだけなのだ。

「どっちが“要チェック”だよ」

 ジョナサンはコップを拭きながら、苦々しく妹の様子を見つめた。気のいいサムは長期滞在の客、ニコラスを歓迎している。ドナが手伝いに励んでいるのは、気前のいいニコラスのチップが目当てなのだろうと思うほど、お人好しであるサムは、少しもニコラスを疑う様子はない。従業員のケヴィン。彼もまたニコラスの正体には気づいていない。もっとも彼だったら、半魚人がダイナーに現れても気づく事はないだろう。それほどおっとりした間抜けなのだ。だがドナはニコラスのことをよく見ている。彼女ならまだ希望はあるかもしれないとジョナサンは思った。なんといっても双子の妹だ。ドナは自分と同じ遺伝子を持っている。そう馬鹿なはずはないだろう。




「ばっかじゃない?」

 自宅階段の踊り場からジョナサンを見下ろすドナの視線は、この言葉とセットになって、冷たくジョナサンに突き刺さった。

「警告? なにソレ? ばっかじゃない?」

 “馬鹿”の部分をリズミカルに言うのはドナの癖だ。だが今はその物言いに腹を立てている場合ではない。ジョナサンは下の階からドナの鼻の穴を見上げつつ、なおも言った。

「ほんとうだ。いや、信じなくてもいい。とにかく彼には近づくんじゃない。ニコラスは危険なやつなんだ」

「へぇー、13日の金曜日のフレディみたいに危険だっていうの?」

「フレディはエルム街だ。13日の金曜日ならジェイソン・ボーヒーズだよ」

「どっちでもいいわよ……ったく! あんたみたいなホラーおたくにゴチャゴチャ言われたくないわ!」

 ドナは金切り声をあげると、自分の部屋へ走り去った。

 ジョナサンは肩で溜め息をついた。気の毒に、ドナはあの吸血鬼にすっかり魅入られているのだ。ドナ、馬鹿な妹。顔は似ているが性格はほど遠い。遺伝子の共有はあてにならなかった。今頃はあのマヌケな男優のポスターに向かって、兄の悪口でも告げ口しているのだろうか。

 ドナの部屋には、ファンである旨を公言するのがはばかられるくらい有名になりすぎた、あるハリウッドスターのポスターが貼ってある。そのスターは職業を同じとする有名な女優と結婚していたが、数年前に離婚した。

「あんな美人と別れるなんて、あいつ頭わるいな」

 テレビのインタビューに答える俳優を眺めながら、ジョナサンがそう感想を述べると、ドナは「あら、利口だからこそ、あの女を追い出したのよ」と反論した。

 ジョナサンは妹の背伸びした物言いに苦笑した。男のことのなにがおまえにわかるっていうんだ? 自分は男だ。だから同性のことはよくわかる。ドナは女だ。もし異性のことを学びたいのなら、もっと自分の話に耳を傾けるべきじゃないのか。

 ジョナサンはそう思ったが、食い入るようにテレビにかじりつく妹にはなにも言わなかった。言ったところで彼女が聞く耳を持つとは思えなかったからだ。

 ドナは明るく健康な娘だったが、あまり頭のいいほうではない。ブロンドのティーンエイジャー、頭が軽くて、尻も軽い。ホラー映画に出てくる被害者の要素を、妹が兼ね備えていることは残念なことだ。男前の俳優演ずるヴァンパイアに、前半、二十分で惨殺される娘役。しかし今回、このダイナーにはもうひとりの登場人物がいる。

 『惜しかったね、ジェイソン・ボーヒーズ。いや、ニコラス・ファウラー。 狩りをするならもっと周囲に気を配るべきだ。 タンクトップの刑事か、ジョナサン・ロットが居合わせていないかを 確認するべきだったよ』

 ジョナサンはそう心でつぶやきながら、軽快に階段を駆け上がった。やるべきことは決まった。緊張感を帯びた使命を得たにも関わらず、 ジョナサンの顔には大きな笑顔が浮かんでいた。




「誰?」

 眠っているところを起こしてしまったのだろうか、 扉のむこうから不機嫌そうなニコラスの声がきこえた。扉につけられた部屋番号のプレート“101号”の 文字を見ながら、ジョナサンは何度も心の中で思い描いた台詞を声にだした。

「ジャケットを持ってきたんです。今日、クリーニングから戻ってきたので……」

 そう言うと、すぐにドアは開いた。 白いシャツにスラックス姿のニコラスがそこに立っている。眠っていた様子ではない。 吸血鬼の主な活動時間は夜だ。起きているのは当然だとジョナサンは考え直した。

「わざわざ持ってきてくれたのか? こんな時間に?」

「ちゃんと手渡して、あやまりたかったから」(これも無論、用意してあった台詞だ)。

「そうか、そんなに気にすることなかったのに」

 ニコラスは笑みを浮かべた。黙っていると冷たい印象だが、笑うと急に気さくな感じになる。

 さて、計画第二弾──ジョナサンは厨房から持ち出したブランデーの瓶を取り出した。

「お詫びにってわけでもないんだけど、これ……どう?」

「ここでか?」

「迷惑じゃなかったら」

 一瞬の間のあと、ニコラスはにやりと笑った。 さきほどの気さくな笑顔とは、別の種類の笑顔だ。

「入れよ」

 やった!──ジョナサンは心で喜悦を叫んだ。ニコラスの部屋に入ることができたのだ。とりあえず第一関門は突破した。

 室内に足を踏み入れた途端、ジョナサンの鼻孔にスパイシーな香りが飛び込んできた。モーテル備えつけの安っぽい芳香剤ではない。ニコラスの香水の香りだ。ベッドサイドテーブルには外国の煙草とデュポンのライター。この部屋とニコラスの持ち物は、完璧な不調和をおこしている。モーテルのベッドカバーとカーテンはいちばん汚れが目立たないという合理的理由から、モスグリーンで統一されている(これでもしカーペットまでモスグリーンだったなら、 まるで沼の中にいるような気分が味わえるところだ)。オレンジ色の花模様だった壁紙は、年月により薄い黄色に変色しているが、退色前だとしても救いようがないのは変わりはない。 壁には、デザータウンとはなんの関係もないナイアガラの滝の写真……。

 ジョナサンはこの部屋のすべてを呪いたくなった。自分がオーナーになった暁には、モーテルを改装することにしようと心に決める。

 なによりもこの部屋にミスマッチなのは、ニコラス自身に他ならない。彼のゆったりとした余裕のある動き。そのまわりだけ時間の流れが違うようにすら感じられる。ジョナサンは『ものうげ』という言葉の意味を初めて知ったような気がした。

 ニコラスはグラスをひとつだけ用意して、自分の分だけ注いだが、そのことにジョナサンは不服を覚えなかった。ここには酒を飲みにきたのではない。目的は別のところにある。むしろニコラスだけが酔っぱらってくれれば好都合というものだ。

 ジョナサンはベッドに腰かけながら「いつまでデザータウンにいるの?」と、訪ねた。

「まだはっきり決まってない」

「どうして?」

「仲間が来るのをここで待ってる。来たら移動する」

 やはり今日、これを決行したのは正しかった。仲間が来てからでは遅すぎる。

 ニコラスはブランデーに口をつけ、満足そうに呻いた。こうしているとまったく人間と変わりなく見える───見えるが、ジョナサンは少しも騙されなかった。

「ぼくはあなたの仲間になるよ」枕を胸にかき抱きながら、ジョナサンは上目遣いでつぶやく。

「仲間に?」ニコラスはくくっと喉で笑った。「悪い子だな」言いながら、ブランデーを注ぎ足す。

「あなたは? 悪い大人?」

「かもしれない」

 悪い大人だとしても、ニコラスはとても魅力的だった。今どきノスフェラトゥのような姿では、ハロウィーンのときにしか活動できない。吸血鬼はだいたいにおいて美男美女というのが相場なのだろう。魅力的であることは、恐ろしげな容姿よりもよっぽど武器になる。ドナのような浮かれた女の子にはそれが旨く通用するのだろう。

「煙草、もらってもいい?」

 ジョナサンはベッドサイドテーブルに手を伸ばした。ちょっと緊張をほぐしたい気持ちもあったし、外国の煙草に興味もあった。

 ニコラスは短く「駄目だ」と言い、ブランデーを飲み干した。

「どうして」

「おまえ未成年だろう」

「ぼくは“悪い子”なんだ」言うなり、ジョナサンは箱から一本抜き取った。

「おい、よせよ」素早くニコラスがそれを取り上げる。

「けちだな」

「けちじゃない」取り上げた煙草をくわえるニコラス。 それに火をつけるより早く、今度はジョナサンがそれを取り上げる。

「おい!」

 こいつを油断させるんだ──ジョナサンはそう思いながら、 素早くベッドから立ち上がり、ニコラスの唇に自分の唇を重ねた。 カツンと歯がぶつかったが、あとは順調だった。 ゆっくりと口づけは交わされ、 ジョナサンの目的、“油断させること”は、うまくいったようだった。

 そっと唇を離すと、ニコラスは溜め息まじりに、もう一度「悪い子だ」と言った。

 ジョナサンは微笑み、ニコラスのシャツのボタンを外しにかかった。吸血鬼の胸は、陶器のようにすべすべだ。 その上には金の十字架のペンダントが光っている。どうやら武器のひとつは無効であるらしい。しかしもとよりジョナサンは、ニンニクや十字架の類いに頼ろうとは思ってもいない。ドラキュラ映画のクライマックスで使われるアイテム、しっかりした杭と、それを深く打ち込む木槌がありさえすれば問題はない。それまでの途中経過はすべて省略だ。

 ボタンをすっかり外して露になったニコラスの胸を、ジョナサンは軽く押し、 そのままベッドに押し倒す。 吸血鬼は抵抗しない。唇の端には笑みがにじんでいる。年下の子供にリードさせてやるのを楽しんでいるのだ。

 ニコラスの無毛の胸、その白い肌の下には青い血管が走っている。この血液は他人から奪ったものだ。罪もない人々を渡り歩き、ヨーロッパから新天地アメリカへ。ニューオリンズ、シカゴ、ニューヨーク。 そして最終的に、どういうわけかこの小さなつまらない町、デザータウンにたどりついた。その偉大な物語を自分が終わらせるのだと思うと、 ジョナサンの胸は高鳴った。ニコラスの胸のちいさな十字架。 ジーザスが自分にYesと言っている。『我が愛し子よ、これこそがおまえの使命なのだ』と。

 ジョナサンはそっとベッドの下に手を伸ばし、武器が間違いなくそこにあることを確認した。前日のシーツ交換のとき、ベッドマットの下に杭と木槌を隠しておいたのだ。吸血鬼は微笑んでいる。ゆったりとベッドに身を預けている。仲間になると宣言したジョナサンにすっかり油断しているのだ。 さあ──これからだ!

 ジョナサンは枕を手にし、そっとニコラスの顔に押し当てる。

「なにするんだ?」

 ニコラスは枕の下からくぐもった声で訊ねた。

「見られていると恥ずかしいから……いいよね?」

 吸血鬼は黙ったままだ。“沈黙をもって了解の意志とする” ──ジョナサンはそう解釈した。

 スラックスの上からニコラスに触れると、彼は既に堅くなっていた。どうやら吸血鬼でも勃起するらしい。そのことはジョナサンには不思議に思えた。 吸血鬼には人間のような生殖能力はないはずだ。だとしたらこれは単に快楽のみに従事する器官なのだろうか。

 そんなことを考えながら、杭を握る手に力を込め、 もう一方の手でニコラスの“快楽のみに従事する器官”を愛撫する。ジョナサンの“生殖する器官”にも血液が集まりつつあったが、ここで誘惑に負けてはいけない。ジョナサンの脳裏に妹の顔が浮かんだ。ドナはこの男と寝たがっていたっけ。しかし自分はドナとは違う。馬鹿な彼女は何も知らない。この男が悪魔だということを。真実に気がついているのは自分だけ。自分だけがこの男を殺すことができるのだ。

 ───ああ、神よ! デザータウンに永遠の平和を!───

 ジョナサンは杭を振り上げた。

「やっぱり息が詰まるよ」言いながら枕をどけたニコラスが見たのは、 はじめてのセックスに恥じらうジョナサンではなく、 高々と杭を構えるおかしなポーズのジョナサンの姿だった。

 作戦が失敗したことをジョナサンは瞬時に理解したが、 振り上げた手はその失敗をものともせずに、 一直線にニコラスの広い胸めがけ、矢のように落下した。しかし神の雷が吸血鬼を穿つ直前、闇の力がジョナサンの手首を掴む。ニコラスは起き上がると同時に、ジョナサンの両手首をひねりあげた。

 ───おそろしい腕力! これこそが悪魔の力だ。人間ではない。ニコラスは人間ではない。次いで吸血鬼はジョナサンを罵倒する言葉を吐いた。呪いの言葉だ。聞いてはいけない。

 抗い続けるうちに、杭を持つ手がしびれ、ブルブルとふるえはじめる。ニコラスはジョナサンに何か言っていたが、少年の耳には入っていなかった。この武器を取り落としてなるものかという、自分への懸命な励ましがジョナサンを鼓舞し、かろうじて気を失うことを押しとどめている。

 これまで映画を見ていて、肝心な場面で主人公が気を失ってしまうことに、 ジョナサンは常々疑問を抱いていた。 しかし今それが現実のものとなって、少年に襲いかかってくる。恐怖によってか酸欠によってか、ジョナサンの意識は徐々に遠のきつつあった。ジョナサンを見つめるニコラスの目は赤く燃えている。ベラ・ルゴシ、クリストファー・リー。映画で何度も見た吸血鬼の瞳。自分はこの瞳に焼かれ、あの魅力的な唇に吸われるのだろうか。

「たすけて……」

 恐怖映画のヒロインが虚しく口にする台詞が、ジョナサンから弱々しく発せられた。無駄と知りつつ、言わずにはいられない命乞いの言葉だ。

「おねがい……たすけて」

 だがこれは意外や功を奏した。掴んでいた手をニコラスがゆるめたのだ。戒めをほどかれ、ジョナサンは床にへたり込んだ。

「おまえ一体……大丈夫か?」ニコラスの声音は人間に戻っていた。

「親父さんを呼ぶぞ。いいな?」言いながら、ニコラスはドアへと歩き出す。

 そうか、人間に戻って逃げ出そうというのか。ジョナサンは吸血鬼の思惑に気がついた。ここで逃がすわけにはいかない。よろけながらもジョナサンは立ち上がり、ほとんどもたれるような格好で、ニコラスに再び躍りかかった。少年に体重を預けられ、吸血鬼はジョナサンもろともベッドに倒れる。そのはずみ、手にした杭が深々と突き刺さった。しかしニコラスは悲鳴ひとつあげず、素早くベッドから飛び退く。ジョナサンがはっきりと感じた手応えは、枕をベッドマットごと貫いた感触だったのだ。

「畜生!」

 ジョナサンは叫び、枕から杭を引き抜いた。パーティの紙吹雪のように、ばっと羽根が舞い上がる。雪のようにひらひらと羽根が舞うなか、吸血鬼は苦悶の呻きをあげた。脇腹をおさえた指の間から血が滴っている。ニコラスは無傷ではなかったのだ。

 いいぞ! 今だ! ジョナサンは雄々しく叫び、 これがとどめだとばかりに吸血鬼に向かっていった。

「おまえたち、なにをしているんだ!」

 どたばた騒ぎを聞きつつけたサムが、ドアを蹴り飛ばして乱入してきたのと、ニコラスがジョナサンを蹴り飛ばしたのは、ほぼ同時だった。床に倒れた息子に父親が駆け寄る。ジョナサンは勢い良く立ち上がりかけたが、 サムの両手が両肩をおさえていた。 その手がなければジョナサンは今度こそニコラスに杭を穿っただろう。

「父さん! こいつは吸血鬼なんだ! ほら見て! この化け物を!」

 ジョナサンは、目をおおきく見開いて父親に訴えた。言われ、サムが吸血鬼を見ると、それは横っ腹から血を流し、 呻きながらゆっくりとベッドに腰掛けるところだった。それから吸血鬼は弱々しくサムの方を見返し、首を左右に振った。 サムは再び、手に抱いた息子の方に視線を戻した。

「はやく! 胸に杭を打つんだ! でないとみんな殺される!」

 ジョナサンの額には汗が浮き、前髪がぺったりと額に張りついている。瞳は爛々とし、それは異様な輝きに満ちていた。

 いつ入ってきたのか、ドナと従業員のケヴィンが部屋の中に立っていた。 ドナは前に進み出て、落ちている杭をゆっくりと拾い上げる。

「畜生! ドナ! それをこっちへよこせ! ケヴィン、ドナから武器を取り上げるんだ。彼女はもう吸血鬼の手先なんだぞ!」

 ケヴィンはぽかんとし、それからドナの手にある杭に視線を移した。ドナは大人しくケヴィンにそれを手渡し、それと同時にドナの口からお馴染みのリズミカルな侮蔑の言葉が出かかったが、 彼女ははっとしてそれを飲み込んだ。 わめき声を上げる兄の目の中に、これまで見たこともない狂気を見たからである。




 “気のいいサム”が人前で号泣したのは後にも先にも これっきりだったとケヴィンは後に語った。サムのダイナーの息子が正気を失ったその翌日、今度は娘が死んでしまったのだ。これはデザータウンが、1985年に大規模なひょうに見舞われたとき以来の不幸である。ドナの死因は失血死。にもかかわらず、失われた血液はどこにも見つからなかった。水玉模様のベッドリネンを少しも汚すことなく、 彼女はただ人形のようにそこに横たわって死んでいたのだ。

 今は精神病院に入っているジョナサンには、酷すぎる妹の死は伝えられていない。ニコラスはその翌日、向かえに来た仲間たちと共に姿を消した。それと事件を関連づけて見るものは、平和なデザータウンには誰ひとりとしていなかったのである。


end.

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