灰色ラビット
◆
冬休み明けで憂鬱なテンションを纏った一月の天気は、音もなく降り続く雪。
年末には一度としてお目にかからなかったが、年が明けた途端、残雪が溶ける間もなく新しく降り積もっていく。
ここら辺一帯は、雪国と呼んで差し支えない。それなりに雪も降る。盆地なので夏は不快極まりなく、山に囲まれているため、冬は風が刺すように冷たい。住むのに適した地域とは言えないだろう。
街は一面の銀世界と化し、どことなく静寂に満ちている。雪の白さで目が痛い。
テクテクと、陽と一緒に学園へと向かう。
冬。
年の終わりと始めを司る季節。
僕は、冬という季節にあまり良い印象を持っていない。
それこそ昔は、冬も雪も氷も大嫌いだった。
今でも、思い出すだけで背筋が冷たくなる。
あれは、僕がまだ五才のガキだった頃の話。
もう十二年も前の事になる。
ある冬の日、僕は母さんと買い物に出かけていた。
前日の大雪のせいで、見渡す限り真っ白。道も凍って、テカテカだったのを覚えている。それが楽しくて、はしゃぎながら歩いていたことも。
僕は雪が好きだった。
氷が好きだった。
冬が、好きだった。
白くて綺麗だし、遊びのバリエーションだって広がる。普段の味気ない道だって、スケートリンクに早変わり。そして何よりも、繋ぐ手の温もりが、他のどの季節よりも心地よかったから。
だからその瞬間、僕は何が起こったのか分からなかった。
耳に響いたのは、頼りなく空回るタイヤの音。そして鈍い衝突音。
体に感じたのは、軽い衝撃。そして冷たく凍った道路の感触。
僕に覆いかぶさったまま、動かない母さん。
感じた温もりは、残酷なまでに優しくて。
状況が飲み込めないまま、僕の意識は白と黒の世界に落ちていった…
目を覚ました時は病院のベッドの上。
医者と看護師と、酷く弱々しい表情の父さん。
痛いところは無いか、と貧相な顔の医者が問いかけた。
首を傾げながらも僕は頷く。
すると父さんが、僕の肩を掴んで口を開いた。その瞳は、涙で濡れて真っ赤だった。
目撃者の証言によれば、僕と母さんが渡っている横断歩道に一台の乗用車が突っ込んできたのだと言う。
目の前の赤信号。急ブレーキで車体はスリップ。スピードを殺しきれずに凶器と化した車。
母さんが庇ってくれたおかげで、僕はほぼ無傷だった。
この車は県外ナンバーの旅行者で、履いていたのはノーマルタイヤ。
混乱するばかりだった僕にそこまで理解できる訳がなく、口から出たのはこの言葉。
お母さんは?
父さんは一層辛そうに唇を結ぶ。
ここまで辛そうな表情の父さんを見たのは、初めてだった。
僅かに言いよどむ父さん。舌に乗せた言葉を、吐き出すのが怖いかのように。
その答えを耳にした僕も、脳が咀嚼して理解に要した時間は計り知れない。
デタラメだと思った。
作り話だと思った。
冗談だと思った。
嘘だと思った。
そんなはず、ないから。
母さんは、いつも笑顔で優しくて。
どんな時でも、温かく僕を見守ってくれていたのに。
しばらくして、車の運転手が僕と父さんに謝罪にやって来た。
ひたすら頭を下げ、謝罪の言葉をベラベラと吐いていたが、僕は何も感じなかった。
僕の中に込み上げていた感情が何だったのか、今ではもう思い出せない。
そしてひとつだけ、決めたことがあった。
母さんが最後にくれた温もりを忘れないようにすること。
心の涙も、乾かせるように。
悪いのは運転手だって分かってはいるけれど、それでも。
当時の僕は冬を恨み、いっそのこと、こんな季節無くなってしまえばいいとさえ感じた。
この日この時この瞬間から、僕は冬が大嫌いになった。
◆
久しぶりに昔を思い出すと、それなりに小さな痛みがチクチクと駆け巡ったりするけれど、悲しみに暮れてばかりいた幼い僕はもういない。父さんは僕を男手ひとつで懸命に育ててくれたし、今まで育ててくれた感謝の思いだって尽きることはない。
過去の痛みを乗り越えて、今の僕がある。
それはきっと、陽がいてくれたから。
一年前の冬。
陽と出会って初めての冬。
外で雪を眺めながら、僕は陽に母さんの事を打ち明けた。
僕の話に耳を傾けていた陽は、やがて泣きそうな顔で口を開いた。
『…アキト…辛かったんだね。寂しかったんだね』
『………』
『実は私も、冬って良い思い出が無いんだよね。中学の時かな、付き合ってた人がいたの。その人のことが好きで好きで好きで。自分でも舞い上がってたんだと思う…重いって言われちゃったんだよ。こっぴどく盛大に振られちゃった』
『………』
『もう目の前が真っ暗になってね。しばらく廃人みたいな生活を送ってた。実を言うと自殺を考えた時期もあったの。伝わりすぎた気持ちっていうのは、重荷以外の何物でもないんだよね』
『ヒナ…』
『あ、えっと、私が言いたいのはそんなことじゃなくて!そう、過去をいつまでも引きずってちゃいけないってこと!…私も、アキトに会えて変われたから。いっぱい大切なものをアキトに貰ったから。だから、今度は私が…』
陽はそう言うと、立ち上がって雪をかき集め始めた。
頭上にハテナマークが飛び交う中、やがて陽は僕の前にあるものを置いた。
『ほらアキト。どんなに傷だらけだって、痛くたって、苦しくたって。二人で寄り添えば、きっと頑張れるよ』
儚げに、弱々しく。
いつもとは全く別物の笑顔を見せる陽。
それでも、伝えたい気持ちは十分に僕の心を満たした。
目の前に置かれた二体の雪ウサギ。
雪が少ないせいもあってか、純粋な白色とは言えない。
石で作られた目はお互いにひとつずつ。葉っぱで作られた耳もひとつずつだった。
傷だらけのウサギ、か。
弱々しくて寂しがり屋の僕たちには、お似合いなのかもしれない。
中途半端に汚れた色も、皮肉っぽくて笑える。
中途半端に綺麗なより、相応しいと思う。
内心で苦笑しつつも、僕は思わず立ち上がり、陽を抱きしめていた。
『あ、アキト!?こ、こここここここここここれは…』
顔を真っ赤にする陽がやけに可愛かったのを覚えている。
『ん?冬だしな。寒いしな。このウサギに倣って温まるのも悪くない提案だと思うんだが』
『そ、そそそそそそそそそそそうですねぇ!!』
挙動が不審な陽をよそに、僕は小さく呟く。
『…温もり、か』
『アキト?何か言った?』
『いや、傷だらけのウサギだって良いもんだなと思って』
こうやって傷を癒しあえるのなら。まだまだ捨てたもんじゃない。
『知ってる?ウサギって年中発情期なんだよ!アキトもムラムラ!?』
『お前は今までの流れを、一瞬にして木っ端微塵にしたな』
溜め息を吐きつつも、僕は笑顔になった。
そうだよな、シリアスな空気は僕らには似合わない。
こうやって下らないことで笑い合ってる方が断然ピッタリだ。
でも、それでも。
この日の事は、いつまで経っても大切な思い出として心に刻み込まれるだろうと、僕は何となく思った。
◆
やれやれ、朝から重い話を持ち出してしまった。
降りしきる雪が記憶を呼び起こすのだろうか。
ドサ、と道端の木に積もった雪が落ちる。
ちなみに僕と陽は、一本の傘に無理矢理入っている。家を出るときは既に雪が降っていたが、陽が『傘が無い』などと誰も騙せそうにない嘘をつき、僕の傘に強引に入ってきたのだった。
「雪が降ると思い出すねぇ。去年のこと」
「まぁな。あの時のお前の言葉、結構感動したのを覚えてるぞ」
「どうしたの!?アキトが珍しく素直だよぉ!これは、とうとう私たちのゴールインも近いってこと!?」
一体何を言っているのだろう、このハイテンション娘は。
相変わらず疑問は尽きない。今だって、頬に手を当てて体をくねらせている。第三者が見たら明らかに不審者だ。
なので、放っておくことにする。
僕は一人で歩き出した。
「って、アキト!何で行っちゃうの?放置?放置ですか?そういうマニアックな趣味も持ち合わせていたとは、侮り難し…!」
理解不能な発言をしつつ、陽が再び傘に侵入してくる。
雪色の街と、寄り添って歩く僕ら。
共有するのは、ささやかな温もり。
記憶の片隅には、あの日の灰色のウサギ。
傷だらけでも、灰色でも。
僕らは歩いていける。
不意に、冬の色が濃くなった気がした。
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