部屋から出られない男
どうしても、私は部屋から出られない。
本当なら、もう会社に向かう時間だというのに、玄関で立ち止まっていた。早くしないと仕事がクビになるのは分かっているのだが、今は動く事ができなかった。
なぜなら、ドアを開くと、そこには鬼が待っていたのである。
「……あ、あの、その、どちらさまですか」
と、私は怖々と尋ねた。
初対面の鬼に対し、どちら様、という言葉はあってないのかもしれない。でも、どのように接すればいいのか、私には分からなかったのだ。
そう、私が悩んでいたら、見知らぬ鬼の方から礼儀正しく頭を下げてきたのだった。
「初めまして。不躾にお訪ねして申し訳ありません。ワタシ、鬼、というモノです」
「……はぁ」
その凶暴な見かけとは違う真摯な態度に、つい私は返答に困ってしまった。すると、鬼は更に、予想もしていない事を言い出したのであった。
「あの、唐突で申し訳ないのですが、ちょっと上がらしてもらっても良いですか」
「あがる?」
「ええ」
「私の部屋に、ですか?」
「ええ」
「……何のようですか?」
「ダメですか」
「ダメというか、私、これから仕事に行かなくてはいけないので」
「そこを何とか」
「何とか、と言われましても……」
「そこを何とか、お願いします。ワタシ、ここにいる女神に会いたいから一番早くに訪ねて来たんですよ」
「女神?」
「ええ。早くしないと、他のヤツに女神が取られてしまうかもしれません。だから、どうしてもお願いしたいんです。ワタシを中に入れてくれませんか?」
「いや、それは……」
「頼みますよ」
「……いや、その、とにかく、失礼します!」
あまりに鬼が必死に食い下がってきたので、怖くなった私は逃げるようにして部屋の中に戻った。あのまま話していたら、何をされるのか分かったものではない。
案の定、ドアが閉まると同時に、ドンドンと叩かれる音が響く。私は、ソッとドアの覗き穴から外を見た。すると、やはり、まだ鬼が立っていた。帰ろうとする気配すらない。鬼が部屋の前にいるのなら、どこにも逃げ出せないだろう。
「……女神って何なんだ。意味が分からないよ」
私はへたり込むようにして、その場に腰を落とした。
※
翌日、事態は更に変化した。
ドアの覗き穴から確認するが、もう部屋の前に鬼の姿はなかった。もしかして、入る事を諦めてくれたのかもしれない。必死に頼み込んでくる鬼の姿は怖かったし、居なくなった事には私もホッとしていた。
だが、それでも―――
どうしても、私は部屋から出られなかったのだ。
「……あ、あの、その、どちらさまですか」
と、私は昨日と同じ言葉で尋ねていた。
なぜなら、仕事に行こうとしてドアを開いたら、そこには悪魔が待っていたのだ。
正直、またかよ、と私は思った。それに、これまた初対面の悪魔に対して、どちら様、という言葉は適切ではないのも分かっていた。だが、これぐらいしか今の私には思いつかなかったのだ。
そう私が考え込んでいたら、急に悪魔が土下座をしたのであった。
「……一生のお願いです! ワタシを部屋の中に入れてください!」
「は?」
「なにとぞ、なにとぞ。ワタシからの、悪魔のからの、一生のお願いをきいてくださいっっ!」
その耳鳴りがするぐらいの悪魔の大声に、私はハッとした。
「……あ、あのご近所の迷惑になりますので、もう少し小さな声で話しませんか」
「小さな声にしたら、ワタシを部屋の中に入れてくれるんですか?」
「いや、そういうワケでは……」
「じゃあ、止めません! とにかく、ワタシは貴方の部屋に入りたいんです! どうしても、女神に会いたいんです! 誰にも取られたくないんです!」
「あ、貴方の事情なんて知りませんよ!」
悪魔の声がドンドン大きくなっていたので、私は逃げるようにして部屋の中に戻った。それでも、諦められないのか、外から泣き叫ぶような大声がし続けたのである。
私は少しホッとした。
しかし、困った事に1つ気がつかされた。
鬼や悪魔の姿は他に人には見えないらしく……。
この後、私が悪いワケではないのに、近所から声がウルサイと近所から苦情がきたのであった。鬼や悪の姿が見えないのなら本当の事も言えないし、警察にだって通報できないだろう。
そんなの、どうしたらいいんだよ、と私は思った。
早く、こんな不幸は終わって欲しかった。
しかし、こんな形で始まった不幸が途中で終わるはずもなく……。
翌日、事態は更に変化した。
※
「はぁ。お腹がすいたなぁ」
と、つい私はため息が出ていた。
何か食べようにも、冷蔵庫や戸棚は空っぽである。しかし、だからと言って、部屋の前には魔物達が待っているので買い物にすら出かけられない。一応、ネットから食材や生活備品の注文は宅配してもらえる。だが、無断欠勤したからと仕事がクビになったので、お金も残っていないのである。その内、マンションの家賃すら払えなくなるだろう。
そりゃ、ため息ぐらい出る。
正直に言って、こんな事になるとは想像もしていなかった。
いや、誰だってムリか。
だって、鬼と悪魔が出てきた次の日から次々に来客者が訪ねてきたのだ。
ある時は、幽霊。
また、ある時は、ドラゴン。
またまた、ある時は、透明人間。
そんな化け物共が現れ、自分が部屋から出られない日々が続くなんて想像できるハズもない。どうしろって言うんだよ、そう私は思った。あまりの理不尽な仕打ちに、イライラが募ってしまったのは仕方のない話しだろう。
「いい加減にしろっ! なんで、お前らは、私の部屋に入りたがるんだ!」
そう叫んでしまったのは、ちょうど50番目の来客者である河童がドアをノックした時であった。空腹感も相まって、私は慌ててドアを開くと怒鳴らずにはいられなかった。
「……そ、それは、貴方の部屋に女神がいるからですよ」
と、私の唐突な怒鳴り声に驚いた河童は、オドオドと答えてきた。
「女神だぁ? そんな私の部屋には居ないぞ」
「いますよ。だから、みんな訪ねてくるんですから」
「だから、どこに居るんだよ。私の6畳一間に隠れる所なんて無いんだぞ!」
「あ、いや、居るというか、流し台の下にありますよ」
「下だぁ」
私は河童から言われたとおり、部屋に戻って台の戸を開けてみた。一瞬、ジメついたニオイがする。ただ、そこにあるのは、料理と食器兼用の鍋と、100均のコップと包丁、コンビニの割り箸、隅に生えたキノコ、ぐらいの物しかなったのであった。
「ウソ付くんじゃねーぞっ! 誰も居ないじゃねーかっ!」
そう私が叫ぶと、部屋の外から河童の声が響いた。
「誰も、じゃありませんよ」
「あん?」
「女神の姿は、人間の言葉で言う所の菌類ですから」
「きん、って……じゃあ、このキノコが女神だっていうのか?」
「ええ。そうです。煎じると、私達には数百年に一度の妙薬になるんですよ」
カッと、私の首筋が怒りで赤く染まった。
「ば、バカバカしい! こんな物の為に、私は今まで苦しんできたのか」
「そうなんですかね」
「くそっ! こんな、こんな、もの……くそったれ!」
「はあ」
「ちょうど腹が減ったし、こんな物なんて食ってやる!」
「え、ダメですよ。それ、女神なんですよ。人間が口にしたら、どうなる事やら」
「うるさい! こっちは、仕事なし、彼女なし、金なし、何にもナシなんだぞ! 鬼とか悪魔が出るなんて事を他人に相談したら、正気を疑われて友達だって無くなった! 親の信頼も消えた! 今更、失う物なんて何もないんだよ!」
「し、しかし!」
「ウルサイ! ええーい、生のままいってやらぁ!」
頭に血が上っていた私は、流し台の下に生えていたキノコをむしり取り、そして口の中に放り入れた。そして、ゴクリと一気に飲み干したのである。
すると、どうだろうか。
今まで部屋の外から叫んでいた河童の声が聞こえなくなったのである。何度も確認してみるが、本当に消えてしまったのであった。
「……やった、やった、やったぁぁぁぁあ!」
私は心の底から喜んだのだった。
この後、幸運な事に、女神と呼ばれていたキノコを食べても体に変化は現れなかった。もしかしたら人間にも何かしらの効果があるのかもしれない。まあ、菌類に会いたがる化け物達の考えなど理解は出来ないが、私の健康に害がないのならどうでも良いだろう。
とにかく、これで私は部屋から出られる。
やっと外出する事が出来る。
そう思った。
いや、思っていた。
だが、私は忘れていたのだ。
女神の恐ろしさを……。
キノコというヤツの本性を……。
菌類の繁殖を……。
私は理解していなかった。
―――それは、あれから、一週間後である。
ドアを開けたら、部屋の前にあの河童が再び立っていたのだった。
「……なんで、いる?」
「女神に会いに来ました。ですから、部屋に入れてください」
「……キノコなら食べたよ」
「また女神が生えたんですよ。いやぁ、ここはラッキーな場所ですねー」
「……でも、流し台の下には無かったよ」
「別の所です」
「……ははは、そうなんだ」
私は一瞬、クラッと立ちくらみがした。まるで終わらない悪夢を味わっているかのような絶望感が押し寄せてきたのである。なんてことだ。いつまで、こんな事に苦しめられなければならないというのだろうか……。
「……いや、待てよ」
私はハッとした。よく考えれば、一度女神を食べたらヤツらは消えたのである。なら、もう一度、食べてしまえば……。いや、待てよ。それよりも、前回の行動と結果を考えると、一週間に一度キノコを食べるだけでヤツらは消えてくれる。
そうすれば、何の問題もなく部屋から出る生活ができるハズだ。
「……こ、これだ! これしかない!」
「あ、あの、どうかしましたか?」
「おい、河童、また私の部屋に女神が現れたと言ったな。それなら、どこだ。どこに生えてるんだ、その女神さんは」
すると、河童は笑顔で答えてくれた。
「便器です」
「は?」
「ですから、貴方がいつも使っている便器の水が溜まってる底にです。今度は、そこに女神は現れましたよ」
「……そ、その女神は食えねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ! いくらなんでも、食えねぇぇぇぇぇぇぇえええええええええっ!」
あまりの絶望感から、私は膝から崩れ落ちていた。
どうしても、私は部屋から出られない。
なぜなら、便器の中の女神を食べるかどうかで、人間の尊厳と戦い、今は悩んでいる最中なのである。
良いお年を。