兄
『なあ、元気出せ。知ってるだろ?
親ってのは、木の上に立って俺たち子供を見てるんだ。
お前が落ち込んでると、母さん、心配で木から落っこちゃうぞ
木登りなんかしたこと無い人だったんだから
大丈夫だ。心配するな。俺がついてるんだから』
母が亡くなった時。
ふさぎ込む俺のことを兄がそう言って慰めてくれたときのことを思い出した。
兄のそういった気遣いに俺はこれまでどれだけ助けられてきたことか。
俺だけじゃない。学校でも職場でも人気者だった兄。誰もが兄のことを慕っていた。
なのに、こんなことになってしまうなんて。
「……こっちは病人なんだぞ! もっと気を使え!」
病院のベッドの上、枯れ木のように痩せ細っていく兄は、ますます手が付けられなくなっていた。
「兄貴、いい加減にしろよ。佐枝子さんだって疲れてるんだよ」
「それがどうしたよ! 俺はもうすぐ死ぬんだ!
これ以上我慢なんかしてられるか」
なにか言い返そうとしたとき、兄嫁の佐枝子さんが俺を止めた。
「やめてください。わたしが悪いんですから」
「そうだ。そのとおりだ。お前らのせいだ。
お前らのせいで俺は死ななきゃならないんだ!」
今にも泣き出しそうな佐枝子さんの細い肩をつかむと、俺は強引に病室の外に出た。
「これまで散々お前たちのわがままを聞いてきたんだ。
最後のときくらい本音をいわせろ! 」
耳をふさぎたくなるような罵声が後ろから追いかけてくる。
「……ごめんさい。私のせいで」
「佐枝子さんが謝ることない。
それより兄さんひどすぎるよ。いつもああなのか? 」
佐枝子さんは黙ってうなずいた。
兄が入院したのは3ヶ月前のこと。
精密検査を受けて末期のがんであることがあきらかになると、兄はまったく人が変わってしまった。
どんどん暗く、陰湿に。どんどん嫌な人間になってしまっている。
そう遠くない死が確定した今では、俺たちを苦しめてうさを晴らしているようにしか見えない。
もちろん、俺には兄の無念も苦しみもわかるつもりだった。
だからじっと耐えていた。
あの日までは。
「なあ、佐枝子。……お前の横に鳥ががいるぞ」
食事中、ぽつりと兄がそう言った。
ついに幻覚が見るようになったのかと驚いた俺たちの顔を確かめながら、兄は低く笑いだした。
「……佐枝子。お前の脇にいる鳥なんだぞ? わかるだろ?
鵜だよ、鵜。
この浮気女! 」
俺も佐枝子さんも凍りついたように動けなかった。
佐枝子さんを慰める内に俺と彼女の距離は急速に縮まっていた。
二人の間にはお互いを支えあう繋がりができつつあった。
病人の敏感さで兄はそのことを感じとったようだった。
「知ってるぞ! この人でなしども。
俺が死ぬのを二人して待っているんだろ?
そうなんだろ? 」
その言葉に込められた剥き出しの悪意に俺の頭の中も真っ赤になった。
気づけば俺は兄とにらみ合っていた。
「お前……。やっぱりそうだったのか。畜生!
これまでお前のせいでずっと苦しめられてきて、結局こうなるのか。この野郎! 」
兄が腹立ち紛れに投げたフォークが俺のあごに見事に刺さった。
床に落ち派手な音をたてて転がるフォーク。そしてしばらくの沈黙。
呆然としていた佐枝子さんは我に返ると、兄に冷たい一瞥を与え、ハンカチを取り出して俺のあごの血をぬぐった。
「……畜生……」
興奮しすぎたせいか、兄はベッドに倒れこんだ。
そうして苦しそうに息をしながらいつまでもぶつぶつつぶやいていた。
「畜生、畜生、うらんでやる。うらんでやる。畜生、畜生……」
その夜兄は死んだ。
ベッドから床に落ちてうつぶせに倒れるように死んでいたらしい。
目を見開き、口から血を吐き出しながら。
初七日が終った頃。
弔問客も途切れ、家には俺と佐枝子さんだけになった。
「佐枝子さん。兄貴は死んだ。
これからはあなただって幸せにならなきゃいけない。
俺でもし力になれるなら……」
「……だめです。まだ四十九日だって済んでいないのに」
「今でなくていい。もう少し落ち着いたらでいいんだ」
俺は弱々しく首を振る佐枝子さんを強引に抱き寄せた。
抱きしめられた佐枝子さんは、少しの戸惑いの後、俺を受け入れてくれた。
そして長いキスの後、じっと見詰め合う。
佐枝子さんが俺の右の顎の絆創膏をそっとなでた。
兄につけられた傷はなかなか治ってくれなかった。
絆創膏は粘着力が弱まっていたのか、大した力も入ってないだろうにはらりと床に落ちた。
その瞬間。
傷に視線をやった佐枝子さんの目が大きく見開かれた。わなわなと。
あごの傷を見つめながら、俺を突き飛ばして大きな悲鳴を上げた。
俺は訳もわからずそばにあった鏡を覗き込んだ。
そこには、兄がいた。俺のあごに兄の顔があった。
ぱっくり開いた傷は口で、傷の上部にできた吹き出物が鼻と目だった。
まさしくそれは兄の死に顔にしか見えなかった。
兄が死んで3ヶ月。
佐枝子さんは出て行った。もう帰ってはこないだろう。
あごの傷はいつまでたっても治らない。
ある日、一人で鏡を見ていて不意に気が付いた。
俺の右のあごにできた兄の顔。その左側には俺自身の口。
「兄」の左側に「口」。
……なるほど。これはやはり「呪」なんだ。
ぼんやりとそう思ったとき、鏡の中で兄の顔と目があった。
兄の顔はニヤリと笑い、傷口からは黄色い膿がどっくりとあふれ出てきた。