弐・アスリート〜狂想曲(カプリッチオ)・3
「違ったね」
「うん、違ったね」
「要らないところ、ないって」
「うん、ないって」
頷いて、無表情に優亜が顔を上げる。
「……あ、コッチの人みたい」
「え、コッチの人なの」
「間違っちゃったね」
「そうだね」
「行こうか」
「うん、行こう」
にこやかに頷いて、音亜は姉の手を引いた。
「要らないところはない?」
「貴方の身体で、要らないところはない?」
「お礼はするよ。だから要らないところがあるのなら、頂戴」
「貴方の望むものをあげるよ。だから頂戴」
双子の声に、彼は。
***
「陸上部、陸上部でございます、楽しい楽しい陸上部〜♪ お、そこの皆瀬くん、楽しい陸上部に入りましょう!!」
「……断る」
誰かなんとかしてくれ。そんな気分だ。奴の調子は変わることなく、明彦への勧誘も毎日毎日変わらない。
「他に足の速い奴ならいくらでもいるだろう」
うんざりした気分でそう言ってやる。
「や、皆瀬ほど速い奴いないのよ、この学校。あとは俺くらい。センパイ方もいまいち遅いしー。俺のライバルは皆瀬しかいないっ! というわけで入れ」
「入らん。そんな弱小部潰れてしまえ」
「はっはっはっ、潰れないよーっだ! 弱小のわりに人数いるからなっ! どーだ、まいったか!? と言うわけで入れ」
「入らん。なくなってしまえそんな部活」
「女の子多いんだぞっ!? 潰したらロマンスがなくなるだろっ! せっかくお近づきになるチャンスなのに! と言うわけで入れ」
「入らん」
しつこい。いちいち応対するのも腹が立つが、無視すると誰かが止めるまで付け上がるのでやむを得ない。最初は無視すればおとなしくなったのだが、最近はそれくらいではおとなしくならなくなってきた。どこまでも懲りない男だ。うっとおしくてたまらない。
うるさいと怒鳴りつけてやろうと思ったとき、ふと気がついた。
「待て。どうしておれが足速いって分かる」
こいつとは中学も違う。明彦のタイムを知るチャンスなどないはずだ。
「え? タイム計ったじゃん。体育の短距離。百メートル俺の次に速かったろ」
けろりと奴は言い切った。そう言えばと明彦は思い返す。
確かに体育の授業で百メートル走のタイムを計った。あまり真剣に走らなかったので、実のところタイムもよく覚えていないが。
「お前のタイム計ったの、俺よ? 覚えてない?」
それでか。明彦は頭を抱えたくなった。
「なんかさー、余裕って感じで走ってたろ? それで俺はぴんと来たわけ。こいつは俺のライバルになるって! と言うわけで入れ」
「入らん」
きっぱりと断ると同時に、心に誓った。
体育の授業で走るときは、もっと手を抜いて走ろう。
運動などどうでもいい。必要なのは学業だ。
運動神経と反射にしか脳みそを使わないサルの相手などしたくない。
「なーなー、一緒に全国目指そうぜ〜? それがだめなら県大会で我慢するからさぁ〜、ねーねー、パパぁ、あたしのお願いきいてぇん」
不気味にシナを作る奴を、綺麗に無視して明彦はノートを広げた。次の授業の予習をしなければ。
はやく転校、あるいは編入したい。学業で結果を出すのが一番の早道だ。
全国規模の模試でもあれば即座に受けてしまおうと心に決める。こいつから早く離れたい。
こんな場所には居たくない。もともとこの学校は自分がいる場所ではないのだ。
「皆瀬ー、皆瀬ってばー」
ひたすら無視した。
「今なら豪華景品つけちゃうぞ? えーと、イチゴミルクおごってやる! あ、コーヒー牛乳のほうが好みか? ええい、ダンチョウの思いで両方おごっちゃうぞっ」
どう聞いてもカタカナ表記にしか聞こえない“断腸”の思いに、明彦はゲンナリした。
くだらないことに何故ここまで必死になるのか。他を探したほうがどう考えても早い。陸上部に入る気などこれっぽっちもない明彦より、熱意あるほかの人間を誘ったほうがよほど効率的だろう。
大体こいつに全国や県大会に行くほどの実力があるのか。
明彦自身にもそこまでの力があるとは思わない。そもそもそれ以前に興味が全くないのだ。
運動するヒマがあるなら、少しでも勉強したい。大切なのは偏差値だ。
そのときの明彦は確かにそう考えていたのだ。
それが彼の全てだったのだから。
数日後の科学の実験で、事故が起きるまでは。
何故その事故が起きたのか。理由は全くの不明だった。混ぜてはいけない薬品を混ぜたわけでもなく、ガスでもどこかから漏れていたわけでもなく。
なのに、爆発が起きた。どこかで何かが壊れた。もうもうと煙が上がり、生徒たちはパニックを起こして、とにかく室外に逃げ出そうとした。
何が起きたのか。爆発の近くにいた明彦は倒れてしまっていた。くらくらする頭を何とかおさえて身を起こす。
耳の奥がキーンと音を立てていた。爆発の影響で一時的に耳がおかしくなったようだ。
ひとつ頭を振って机に掴まるように立ち上がった。
とにかくこの場から離れなくては。発生した煙が有毒のものだったら命に関わる。
こんなことで死にたくなかった。ふらつく足でなんとか出入り口に向かったときだった。
「――みなせっ!!」
奴の声がした。耳鳴りに消されてよく分からなかったが、何か叫んでいるようだった。
振り返らずに進もうとしたとき、衝撃を受けた。
ふらつく身体では支えきれずに床に倒れる。その上に奴が覆いかぶさってきた。どうやら奴に突き飛ばされたらしい。
何をすると文句を言う前に、再びの衝撃。
奴の身体越しに。
ガシャン! パリパリ! 何かが壊れる音と共に、明彦の身体の脇に落ちてきたもの。
――蛍光灯だ。
「!?」
まさか。奴は動かない。明彦をかばうようにして、ピクリともしなかった。
「おい」
揺する。反応がない。
まさか。
明彦は何とか起き上がった。奴はぐったりとしていて動かない。頭から血が流れていた。
落ちてきた蛍光灯で、頭をざっくりと切ったようだ。動かすのはまずいが、まだ煙が充満している。このまま置いておくのもまずい。
ましてこのサルは明彦をかばったのだ。
「くそ……サルのクセに……馬鹿が!」
悪態ついて奴の身体を肩に背負うように担ぐ。ぐったりとした人間の身体がこんなにも重いことを初めて知った。明彦自身もまだふらついていたが、なんとか実験室から出る。
廊下の離れたところに科学担当の教師がいた。
「お、おい、大丈夫か!?」
明彦と奴の様子を見て、あわてて声をかけてくる。
「見たままです。怪我しました。救急車を呼んでください」
教師はふところから携帯電話を取り出して、動転のあまり何度も間違えながら百十九番している。
奴を壁に寄りかからせて、明彦も座り込んだ。耳鳴りがひどい。頭が痛い。
奴の流した血の色が目に焼きついてしまった。
気持ちが悪い。煙のせいだろうか。それともサルが自分をかばったりしたせいか。
頭のどこかを切っている奴。落ちてきた蛍光灯が直撃したのなら、最悪死ぬだろう。
打ち所が悪ければ、助からない。
「おい、サル、この馬鹿、起きろ、聞こえてるのか」
かすれる声で呼びかけながら上着を脱いだ。とにかく止血しなければ。
上着を奴の頭に巻き、少しでも出血を抑えるしかない。頭には血管が集まっているので、たいした怪我でなくとも派手に出血すると知識はあった。しかし、蛍光灯に直撃されたのだとすると、かなりの怪我だろう。安心は出来ない。
「サルって……俺のことかぁ?」
ぼんやりと返事があった。奴の目が開く。
「お前以外に誰がいる」
「ひでぇ……こんなに尽くしてるのに、あなたっていつもそう……そういう男よね」
「気色悪いことを言うな。こんな状態でもふざけるのかお前は」
あてている上着にじんわりと血が染みてきている。感触が気持ち悪いが手を離すわけにいかない。
「あー……なんか、血ぃ出てる感じ……大出血中?」
「そうでもない」
嘘をついた。
「皆瀬、怪我してねぇ?」
「……さぁ。分からん。耳鳴りがひどくて頭痛はしている」
上着を染める、人間の血。紺色の上着が漆黒に染まっていく。
「俺、死んじゃったら陸上部を頼む……」
「断る」
「ひでー、親友の頼みよ? 最後の頼みかもしれないのよ?」
「いつお前と友人になった? しかも親友か? そんな覚えはないな」
「ひとでなしー」
「そこまで喋れるのなら死にそうにないだろ」
「……そうかも」
にへ、と奴は笑った。血まみれの顔で。
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