組曲〜移し身の双子〜(16/22)PDFで表示縦書き表示RDF


組曲〜移し身の双子〜
作:マオ



参・ホスピタル〜夜想曲(ノクターン)・5


 夜。
 昼に摘んだタンポポはしおれている。買った花束は、花屋が気を利かせて切り口に濡れた新聞紙を巻いてくれたので、まだ生き生きとしていた。
 しおれたタンポポと、生き生きとしている花束を持って、和人は病院の裏口にいた。
 どうしてここにいるのか分からない。昼、双子の声を聞いてから、どこでどう時間を潰したのかも覚えていない。
 ただ、気がついたらここにいた。
 何をしているんだろう。そんなことを思う。こんな花など意味がない。
 もう何の意味もない。
 どこにも手向けられることのなくなった花束など捨てようと思った。
 顔を上げ、裏口を見る。ここから何度も抜け出した。少女に見送られて抜け出したこともある。彼女はいつも笑っていた。楽しそうに笑って送り出してくれた。
 行ってらっしゃい。気をつけて。
 声を忘れてしまいそうだ。あんなに話したのに、たった数日会わなかっただけで忘れてしまいそうだ。
 いずれ、顔も忘れてしまうのか。いや、その存在すら忘れてしまうかもしれない。
「ごめん」
 約束、守れなかった。
 うつむいて呟いた。ちっぽけな同情は、例えようもないほど重い後悔に変わった気がする。
「そんなことないよ」
 細い声が、耳に届いた。夜、看護師に見つかるからと、いつも小さな声で話し合ったときのまま。
「おにいさん、ちゃんと来てくれたもん」
 裏口が、わずかに開いている。透けるガラス戸の向こう側に、白い影。いつもの白いパジャマ姿で、小さく細い少女が、
「ありがとう」
 和人を見て、笑っている。
 いるはずがない。少女はすでに永遠の眠りについているはずだ。
 いるはずがない。昼間看護師に聞いたではないか。
 でも。
「それ、タンポポだね」
 彼女は目の前で嬉しそうに笑っている。
「あ、うん。でも、昼に摘んだからしおれちゃったかな……」
 呆然と和人はそう返す。目の前の少女は覚えているままだった。あまりにもそのままで、変わらない姿に恐怖心など感じなかった。
「しおれてないよ。元気だよ」
「え、あ、あれ?」
 少女が指差すタンポポは、摘んだときと変わらないみずみずしさを見せていた。先ほどまでしおれていたはずなのに、おかしいと少しだけ思ったが、和人はそのままタンポポと花束を少女に手渡した。
「ありがとう、おにいさん。えへへ、いい香りだね。こっちのお花もかわいい」
 はにかむ少女は可愛らしく、心から喜んでくれていたから、和人は約束を守れて良かったと思った。それから、悲しく思った。
「なんで、ここにいるんだい?」
 いなくなった少女。もう彼女は自由のはずなのに、どうして病院の裏口にいるのだろう。どこにだって行けるはずなのに。
「だって、どこに行ったらいいのか分からないの」
 病院しか知らないから。ここで待っていればお兄さんは来てくれると思ったから。彼女は無邪気にそう言った。
「あ、でもね、ひとつしてみたいこと、あるの」
 少女は小首をかしげて和人を見た。
「おにいさん、ラーメン屋さん連れてって。一回食べてみたいの。とっても美味しいんでしょ?」
 にっこりと彼女は笑う。和人は泣き出しそうになった。同情も、後悔も、この笑顔の前では無意味だ。意味がない――意味が、ない。
「いいよ、行こうか。おにいさんがおごってあげるよ……」
 病院の外を知らずに逝ってしまった彼女のために、出来る限りのことをしてやりたいと、思った。

       ***

 お願いしたんだよ。おにいさんとラーメン屋さんに行ってみたいって。
 お願い、かなったよ。すごくうれしい。
 おにいさん、タンポポありがとう。かわいい花束ありがとうね。
 すごくすごく、うれしかったよ。
 ありがとう、おにいさん。

       ***

 朝。
 昨夜の痕跡を示すものはなにもない。ただ、和人の手の中からタンポポと花束が消えただけだ。
 どこかで落としたのかもしれない。ありえない夢を見たせいで、どこかに置いてきたのかもしれない。
 少女と会った痕跡は、どこにもない。なのに彼女が夜の病院に戻って行ったことは覚えている。少女はあそこにいるのだ。あそこから出ては来ない。
 生まれてずっと病院で、病院しか知らない少女は、いなくなっても病院の中にいる。
 朝の光の中で、やるせない想いに捕らわれたときだった。

「要らないところはない?」

 声が、した。
 全ての元凶としか思えない、双子の声が。
「貴方の身体で、要らないところはない?」
「お礼はするよ。だから要らないところがあるのなら、頂戴」
「貴方の望むものをあげるよ。だから頂戴」
 同じ顔で、違う表情で、彼女たちは言った。
 身体の要らないところをくれるのならば、望むものをあげると。
 少女は望んだのだと、今は理解できる。病気の身体を全てあげるから、代わりに彼女のしてみたいことをさせてほしいと。
 和人と一緒にラーメンを食べてみたいと、そんなささやかな望みすら許されなかった少女。
 あの小さな白い姿を、昼に見ることは出来なくなった。
 和人は双子を見た。
 元凶。そして。

       ***

 夜。
 和人は目を開ける。そろそろだろうか。時計を見る。さっき見たときよりも大分時間が経過していた。
 もうそろそろ連絡が来てもいいはずだ。彼女が病院に運ばれてから優に五時間が経過している。
 初産だからひょっとするともっと時間がかかるかもしれない。とにかく出産と言うものは時間がかかるものだ。特に初産ならなおさらである。案外ポコッと簡単に生まれたと言う話も聞くには聞くが、そう多くはない。
 頬杖をついて電話がある方向に視線を向けた。鳴る気配が事前に分かれば安心するのだが、あいにくとそんな特技は持っていない。
 ただ待つだけだ。それしか出来ない。
 まだだろうか。そわそわする心が自分でくすぐったい。
 まだだろうか。待っているのに。
 くすくす。
 笑い声がした。
 白いパジャマが視界をよぎる。
 ああ、そうか、夜なのだ。彼女が起きる時間なのだ。和人は思い、苦笑した。
「面白いかい?」
「うん」
 白いパジャマの少女が楽しそうに笑っている。
「おにいさん、落ち着かないね」
「そうだね。落ち着かないよ」
「初めて子供生まれたときみたいだよ」
「ああ。あの時もこんな感じだったかい?」
「うん」
 笑いながら少女は和人の脇に座った。月の光に透ける、変わらない小さく細い姿。
「孫、楽しみだね」
「そうだね、楽しみだよ」
 隣に座った少女は、新しい家族が増えることが嬉しいのだ。
 初めて少女に会ったときからすでに数十年が経っている。あちこちガタがきている自分の身体を見下ろして、和人は笑った。その右手首から先がない。
「ね、名前、決めたの?」
「うん? まだ考え中だよ。男の子なのか女の子なのか、生まれるまでのお楽しみだったからね」
 息子の嫁が出産する。初めての孫だ。和人の妻は息子夫婦について病院にいる。
「君にも考えておいて欲しいって言っていたよ」
「うん、言われた。いっぱい考えてるよ」
「そうか。どれがいいかなぁ」
「どれがいいかなぁ?」
 笑いあう。
 幽霊と同居しているなどと、普通の人が知ったら気がふれていると思われるだろう。
 だが、妻も息子も娘も、息子の嫁も娘の夫も知っている。
 白いパジャマの少女。和人が若い頃に足を折った病院で出会った、彼女。
 病院しか知らない少女に、外の世界を見せてあげたかったから。
 たくさん楽しいこと幸せなことがあると教えたかったから。
 命は戻らない。でも魂は存在している。ならば、共に歩くことはできるかと。
 あの日和人は双子にそれを望んだ。
 ほかにもっと上手い方法はあったのかもしれない。でも、あの時はそれしか思いつかなかった。病院から少女を解放してあげることだけを考えた。
 あなたって、馬鹿よね。妻になった女性には苦笑された。
 お父さんって、お人好しだよね。息子と娘には笑われた。
 お義父さんは、いい人ですね。嫁と婿は微笑んだ。
 そうして、少女は家族の一員としてここにいる。
 赤の他人だ。血の繋がりなどない。でも、今ここにいる彼女はまぎれもなく家族だ。
「男の子かな、女の子かな」
「どうかな、どっちがいい?」
「うーん、うーん、元気だったら、どっちでもいいよ」
「そうだね、それが一番かな」
「病院しか知らなかったら、かわいそうだもん」
「そうか。そうだね……」
 少女は和人がいなくなるまでこのままだろう。和人がいなくなってしまったらどうなるのか分からない。一緒のところに逝くのか、そうでないのか。
 それとも、和人も少女のように残るのかもしれない。
 それならそれでいいとも思う。
 自分はやるべきことをした。望むことをし、家族の理解もあり、幸せだからだ。
「楽しいかい?」
「うん!」
 そして、少女も笑っているから、悔いはない……。

 夜が謳う。
 難病の白いパジャマの少女と、足を折った青年がいた。
 外を知らない少女のために、青年は出来ることをしたいと望んだ。
 青年は心そのままにそれを貫いた。
 一心に、赤の他人の少女のために。
 少女は笑う。嬉しそうに幸せそうに。
 青年に貰った幸せな時間は、確かに彼女のものになったのだ。
 青年は中年になり、やがて老年を迎える。それでも少女は少女のまま、彼を慕う。
 夜、少女は目覚め、兄とも慕う彼と話す。
 いつか限りが来るノクターン。
 それでも、少女と彼はそのままで笑いあう。
 いつか終わるノクターンでも、幸せなものだと、知っているから――。


三章が終了しました。『何かをしてあげたいと思う心』と『わずかなものでも楽しむ心』。心のありよう一つで、きっと幸せになれるのではないかと、思います。











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