これが現実かっっ
パート2・3・4→http://ncode.syosetu.com/n1947cz/
「すまない、叶恵には急なことで悪いと思っている。けれど君と温かな家庭が築けるとは思えなかったんだ。慰謝料は勿論払う。…婚約を破棄させてくれ」
親には此方から言っておくと、そう伝えられながら目の前に滑る様に差し出された誓約書。
「は…、なに、これ。何の冗談?」
引き攣りつつも四捨五入すれば三十路となる女的には頑張ったお茶目な笑顔を見せれば、雄輔は石像の如く硬い表情で私を見つめた。は…、と愛想笑いをしながら視界に先程から入る彼女へ視線を向ければ、成る程、小柄で細く、雄輔好みのゆるふわの髪が甘く翻る可愛らしい人が座っている。私よりも断然若く、女の子らしい化粧もきちんとした女性だ。
そして、ぱちりとした目には甘い色も優越感も無く、ただ私という障害に対しての微かな罪悪感とそれを上回る闘争心が宿っていた。
どっきりじゃ、ない…?
やけに喉が渇く。今に何処かから看板を持った友人達が出てくるのではないかと、後ろのドリンクバーを見るフリをしてあちこちに視線を投げた。だって、小説じゃそういうパターンもあったでしょ?縋る希望にじりじりと無言で居れば、ファミレスの店員さんが持ってきた水の氷がまだかよとばかりにカロンと音を立てる。
「どちら様ですか」
回らぬ真っ白な頭のままに声を掛けた。自分で口にしておいて、なんて間抜けな質問なのだろうと落ち込む。だがこんな時に咄嗟に回る頭など持っていない面白みの無い平凡女なのだ。
すると二人が視線を交わし合う。そこに確かに存在する絆に、雄輔の薬指に存在しない指輪に、馬鹿な私はようやく悟って打ちのめされた。縋ることすら無駄足で、結末は既に決まってしまっているのだ。
「俺の会社の人だ。お前に仕事での悩みを打ち明けられずつらかった時に支えてくれた。俺から声を掛けたんだ」
「違います! 私は雄輔さんが婚約していることを知っていました。それでもこの気持ちを止められなかったんです」
「美樹! それは言わない約束だろうっ」
「っ、でも!」
目の前で繰り広げられる劇を他人事の様に眺める。視線を落とした先の誓約書を見て、彼等は私がお金で満足せず危害を加えることを危ぶんでいたのだと理解した。それとも婚約を知っていて手を出した美樹さんに、お金を請求することのないようにとした彼なりの彼女の護り方なんだろうか。
心配せずともボイスレコーダーなんぞ一ミリたりとも持って来る予定はなかった。
テーブルの下で手の平が白くなるほどに両手を握りしめる。無理言って空けてもらった24日の真っ白さは、もう私が望んだ予定で埋まることは無い。
愛想笑いも尽きて、ただただ空笑いをしながら、仕事先から持って来た鞄を広げた。既に判の押されているそれをファイルにしまおうと手に持つ。何故か両手が言う事を聞かずファイルを開けるのにもたついてしまった。少し紙が縒れる。
その様子を二人は無言で目で追っていた。結局注文しなかったなぁとまだ氷の残る水を見ながら席を立つ。向かいの席で二人を見下ろす私は、どんな顔で彼等の目に映っているのだろうか。
カニ歩きで通路に立てば、今更ながらに鄙びた深夜のファミレスで良かったと思い当たった。
それでもちらりと此方を伺う店員の様子に、もう此処は使えないなぁと吐息。
なんだ、案外余裕じゃないか自分
励ます様に考え、もう一度二人を眺めた。またカロンと今度は二人のどちらかの水が音を立てる。
私は手を伸ばして自分の水を掴んだ。
「っつ!」
雄輔が美樹さんを庇おうと腰を上げたのを横目で確認しながら、私は持ち上げた冷えた水を一気に飲み干した。
ダンッ、と置けばよくやったとカラカラ氷だけが鳴り響く。
「ごちそうさまでしたっ」
キンキン響く頭を抱えて、颯爽と扉から出てやった。
階段を下りる時によろけて転けかけたのはご愛嬌だろう。
駅までの道を一人で歩く。行きしは久しぶりに会えると浮かれ気分だったが、今は冬が近づく寒さを自覚してしまう。仕事からそのまま来たため、こちとら足の防御力がほぼゼロなのだ。寒さのせいに違いないと、ずびっと鼻を啜った。
「あー、そりゃ口約束とか流れ的な感じでうちらの間に劇的なものなんてなかったし。もうおばさんだし。化粧っけとか可愛らしいことなんて全然してなかったし」
すんっと鼻を鳴らす。…咽せた。袖で強く目元を擦れば、会社を出る時に気休めででもと付けたマスカラが袖に付く。ウォータープルーフも物理攻撃には弱いのだ。
「お互い違う仕事があって電話とかメールぐらいしか出来なかったし、そんなんだから雄輔が悩んでるのだって知らなかったし、今日だって会うの久しぶりで…」
ぐちぐち零しながら歩く。そうして、関係が崩れたのは当たり前だったのかもしれないと思い当たった。関係を継続するには双方の努力が必要なのに、私はずるずると甘えていて、本気で努力したとは到底言えない。
でも、趣味でよく面白がって読んでいた小説と同じことが、我が身に起きると誰が思うのか。
勿論、離れていても崩れない関係もある。…私達はその中に入るのだとつい先程まで思っていたのだ。滑稽なことに私だけが。
何川か忘れたが、それなりに大きな川に架かる橋の歩道でぼんやりと立ち止まる。疎らに通る車のヘッドライトに照らされては、直ぐに夜が支配する。深夜でも明るい街が照らす川面を眺めて、ふと思い立って薬指の指輪に手を掛けた。普段から着けっぱなしだったから中々外れない。
何だか苛立って、自分が惨めになって、本格的に泣けてきた。
「もうっ、もうっ、なんで外れないのよっ。太ったとか此処で教えられても嬉しくないわよっ! それとも何、こんなんだから負けたって言いたいの!?」
傍から見たらもう見ていられない人に違いない。それでも、ようやく外れたそれをぎゅっと握り締めて振りかぶれば、意気地なしの私はそこで動きを止めてしまう。物語の様に雄輔が追って来てくれるかもしれない、誰か親しい人が実は好きだったのだと後ろから抱きしめてくれるかもしれない。
…それが有り得ないことだとは、自分が一番良く分かっていた。
その一番親しい筈の幼馴染に振られたのだ。流れでこのまま結婚するんだろうなぁと、家族も自分も、同僚もそういう目で見ていた。情熱的な燃え上がる愛は無くとも、穏やかな絆は生まれていた。けれどその実、羨ましがられていた自分はただたまたま丁度いい相手が居る運の良さに胡座をかいていただけだったのだ。結婚が遅くなっているのはお互いの仕事が一段落してからなのかと馬鹿みたいに信じていた私。そんな愚かな自分に、都合よく王子様が現れる筈がないだろう?
「っつ、…っばっかやろお! 稼ぎまくってやるよ! お前なんか居なくたってなあ、こっちはいい男捕まえて幸せになってやるから! 誰がストーカーしてやるか! こんな紙切れなんざなくたって大丈夫に決まってんだろおっ」
欄干に雫が落ちる。傷ついていたのだ。何だかんだと幼馴染で、27年間腐れ縁の様に一緒に居たのだ。雄輔に私がそんな女だと思われていたのだと思うと、悔しくて悲しくて仕方なかった。そして、自分の不手際がありつつも、やはり裏切られたという思いがひりつく程に痛かった。
「っ、エスパーじゃないんだっ、悩んでるなら口で言えよ!! 今時ロボット名が胡椒のアイツの方がよく喋るわ! 勝手に遠慮されて、浮気されて、それにも気付かない鈍感女なんだから言われなきゃ分かるかい!」
そっちも察しろよ!27年はどうした!
…それとも、あんたにとってはそんな簡単に捨てられる程度のもんだったの?
「…っ、この紙切れはお前らの安心の為に判子押して熨斗つけて返してやるだけだから! 私は幸せになるんだからな! そっちも幸せにでもなるといいわ!!」
溢れ出す衝動のままぐずっと何か分からぬ液体を袖で拭いて、一気に腕を振り下ろす。
「…っつ」
でもやっぱり未練が残って途中で腕を止めた。
けど、スローモーションの様に指輪は手の平から零れ落ちる。
「あっ」
慌てて欄干から身を乗り出すが、投げるでもなくただ真下へと落ちていく指輪。
少しして、微かにぽちゃんという音がした。
私はずるずると欄干に縋って足元から崩れ落ちる。欄干に額を付ければ、まだ残っていた蜘蛛の巣が邪魔だと風に揺らいでいた。
呆気ない、これで終わり。最後まで締まらない自分が心底嫌になり、自棄糞でタクシーに電話する。タクシーが来るまでの十分程、未練がましく川面を見ていた私は、タクシーの運ちゃんが声を掛けてくれたのを境に背を向けた。今度こそ努力して幸せになるのだ、私は。
明日からどうかは分からない。けれど、今日だけはせめてと、最後まで川面を振り返ることはなかった。
◇
もうやめてくれ…
それが一週間目で思った感想だ。
まず止めてくれセクハラ課長。なんだそのうるうるの目は。わかるわかるぞって、一緒にするな!お前は浮気して奥さんに出て行かれた立場だろうが!セクハラを止めることは継続しつつ取り敢えずその目をやめろ!というよりミルトンのCM面接に行ってこい!いける、新聞紙に乗れる偉業だぞ。
普通に仕事をしつつ、休憩の時も含め常より妙に優しい課長のソフトな攻撃にダメージを負う。
次に年下の女子社員達。やめろぉ、完全に話の種になることは分かるが何故他部所の人も時折混じるのだ。痛い。曖昧にぼかすが説明を繰り返す度に痛い。兎か!お前達はあのかちかち山に生息する兎か!からし超えてるから!もうヤスリだから!
もはやハード認定の攻撃にもダメージを負う。
人の噂は75日というが、人間関係の希薄な現代社会。もうそろそろ止む筈だと思っている。思いたい。いや面白くないんであんまり広めないで、心で号泣してるから
これまでの一週間を思い返してげっそりし、初めて会う受付の人にああ…という顔をされる新たなダメージ方法に恐怖しつつ、資料が届くのを待つ。職場に居づらくてつらい。そもそも気付かれたのが自分のせいというのがつらい。
しかし言いたい。あの夜は狼もかくやというぐらい吠えていたのだ。ご近所さんには迷惑を掛けたので今度菓子折りでも持っていこうと思っている。そして腫れが若干引かないまま出勤し、目敏い者が指輪が無いのを発見して今に至ると。
…もうやだスピーディー過ぎる
親戚や家族からの電話やメールも、元婚約者との事務的でしか繋がらない状態も、今のくたびれた心境に一役買っていた。ぼんやりと見るともなく床のタイル模様を眺めていると、足が映る。
出来ればどいてほしい。そこが次に数える予定のタイルなので
いつの間にか始まっていたタイル数えだがどうせなら二百を超えたいのだと顔を上げると、我が部下の田中くんであった。相変わらず黒縁の眼鏡から覗くのは何を考えているのか分からん目である。印象に残りにくい薄い顔立ちだが、これが今時の塩系男子なのかもしれない。しかし、私が田中くんの一番注目しているポイントはそこではないのだ。
「おはよう、明後日の会議資料で何か問題は出てる?」
「いえ、大丈夫です」
流石何事にも涼しい顔の田中くんである。何だかんだと長年勤めた経験的に、仕事やさり気無い気配りの出来る彼は出世するだろうなと見込んでいるのだ。
あと、その髪型も私はいいと思うぞ。私的田中くんのイチオシポイントである、その、天然の七三分け。女子社員には不評だが、私含め男性上司の受けもなかなかだ。やはり印象に残るからであろうか。クールというより冷ための彼だが、その髪型のお陰か、爽やかあるいは生真面目な印象となるのだ。
天然パーマで天パがあるのである。天然七三で略して天七三とかどうであろう。メリットもあるのだ、案外流行るかもしれぬぞ田中くん!
田中くんの顔を少し見上げつつ考えていると、何故か田中くんはその場を去らない。
「どうかした?」
無表情で見下ろす田中くんへ尋ねていると、彼がその薄い唇を開こうとした瞬間離れた場所がざわついたのが分かった。
「な、なに?」
見やると人混みが出来、その中心には背の高いスラリとしたイケメン――佐藤さんが居た。海外出張から帰って来たばかりなのだろう。その顔に微かな疲労感が見えつつも、朗らかな笑顔を浮かべている。
私は内心でおおっ!と歓声を上げていた。そう、私はあの日から肉食系女子へとメタモルフォーゼを果たしたのだ。華麗なる躍進である。師匠を見つけ、つい先月寿退社した数少ない友人から、狙うべき玉の輿男ランキングなるものを譲り受け、着々と努力を積み重ねている最中なのだ。
そして、その中で佐藤さんは玉の輿男ランキング、略して玉ランの堂々たる3位保持者なのである。
ちなみにマイナスポイントは海外赴任が多いことと家のしがらみが名家故多いこと…らしい。
ふむふむと頭の中で友人のデータを思い出し、もう一度彼を見ると何故か人混みが割れて此方へと彼が歩いて来ていた。コンパスの長い彼は、結構離れていたのにもう近いところまで来ている。切れ長の目は真剣に、そして少しの緊張を孕んで唇を結んでいた。
「たたた、田中くん、どうしようっ」
「どうもしませんね」
相変わらず涼しい田中くんである。真っ直ぐに近寄ってくる佐藤さんの手には、よく見れば赤いバラの花束が握られている。
いよいよ私は動悸が激しくなった。見れば彼を追ってギャラリーが半円を形成しつつある。よくよくざわめきに耳を傾けると、「ようやく婚約が破棄されたんだってさ」「なんであんな女に!」「ま、ちょっとぐらいはいいか…」といった感じで、彼の上司ですら生温かい目を向けつつ男女共にきゃいのきゃいの盛り上がっていた。
こ、これは現実なのだろうか?こんな小説みたいなことが本当に…、いや、婚約破棄されたけどさ。で、でも佐藤さんとは遠目に見たことがあるくらいで全然親しい会話をした覚えはないし…
それでもいよいよ目の前に立つ佐藤さんに、私の頭の中で様々な理由付けが行われていた。
あれかな、自販機の所でホットティーを飲みつつ会話したことが一回だけあったし、そう言えば他部所の人達が何で聞きに来るのだろうと思っていたけど、今思えば視察にでも来ていたのかもしれない
閃きに高陽を抱き、私はぼうっと頬を赤らめて佐藤さんを見上げた。身長155cmほどの私からしたら、佐藤さんは大分見上げなくてはならない程の高身長だ。少しして佐藤さんと目が合う。
すると、隣で気配を消していた田中くんが腕を引っ張った。
「た、田中くん?」
「邪魔してはいけませんよ」
何だと意外と近い位置にあった顔を見やると、此方を見ずにそんなことを言われる。というか肌のキメ細かいな!後で化粧水使っているのか聞こう。
じゃなくて、一体田中くんこそ何なのだと訝みつつ佐藤さんの方を見ると、微笑ましいといった顔で目礼された。小さく頭を下げる田中くん。呆然と見ていると、佐藤さんは「ありがとう、勇気を貰ったよ」といった意を決した顔でその手に持った花束を差し出した。
受付嬢に。
「一緒にイギリスに来て欲しい」
「やめてください、仕事中です」
見れば吊り上がった目や制服越しでも分かる、女性も羨む豊満な肢体。肉厚な男を誘う唇など、背の高いところも含め悪女風だがとても綺麗な方だ。というより今日初めてお会いした先程の受付嬢さんではあるまいか。
「愛している」
「そうですか」
佐藤さんの熱の篭った視線から目を逸らし、受付嬢さんはトントンと資料を整理してから此方を見つめた。――佐藤さんを無視して。
「小林様、お待たせ致しました。資料は此方でよろしいでしょうか」
びくっっと体が跳ねる。悪女顔なのに雰囲気柔らかく微笑まれるご尊顔は、ギャップを生み出し破壊力が凄まじい。だがこの状況で向けられるその笑顔は悪魔にしか見えぬというカオスな状況。
「は…、はいっ! ありがとうございましたっ! あと何かすみませんでしたぁっ」
資料を震え上がりながら受け取る。冷や汗だらだらのまま全ての視線を私は亡き者としてシャットアウトし、壊れかけのrobotの如くぎこちなく輪の外へ向け足を動かした。いや、ちょっとでも私如きが夢見て申し訳ない、ほんとに調子に乗ってすみませんでしたっ。無理です、私には状況を見守る度胸なんてもう無いです。
結末?知るかい!
取り敢えず輪の外に出て冷や汗を拭っていると、上手いこと一緒に脱出した田中くんが私を見下ろし目を眇める。
なんだ、何か文句でもあるのか
沸き起こって来た羞恥のままに喧嘩腰の半眼で相対すると、目が「馬鹿ですか」と言っていた。目は口ほどに物を言うとは言うが、情よりも余程伝わるこの蔑み。
おい田中!おい!いずれ昇進確実とはいえ今お前は部下だからな!乙女のナイーブな心がズタボロだからな!分かるから!無言でも分かるから!
「田中くん、今日の夜飲もうか。強制だから」
資料がマンドラゴラの如く悲鳴を上げているが、無視してふふふと暗い目で微笑みつつ上司命令を発動すると、
「すみません、今日は忙しいので無理です」
一礼してから颯爽と田中くんは去っていった。
…田中!!!
打ち拉がれながら私は思った。
そうかっ、これが現実かっっと―――