青春の忘れ物
登場人物
唐沢 由利子 国語の教諭、語り手
石隈 洋介 化学の教諭、写真部顧問
長坂 瑞穂 司書教諭
赤池 佐和美 由利子の親友
菊池原 駿 由利子の同級生
望月 大輔 由利子の同級生
私の分身――、それは月明かりに照らされる奇跡を待ち焦がれながら深海に眠り続ける真珠のごとく、誰からも気に留められず母校の片隅にじっと潜んでいた。
二十年という遥か気が遠くなる歳月を……。
勤続十五年を迎えたこの春の辞令で、私は母校への転勤を命じられた。それは私にとって全く思いがけない出来事であった。
母校は厳ついコンクリート壁で取り囲まれていて、外から中の様子を垣間見ることができない。ここに足を踏み入れるのは、教育実習以来十六年ぶりのことだ。
正門の側にある大きな樟から飛散した落ち葉が、白い玉砂利の小径をきれいに覆っていた。どこからともなく、沈丁花の切なくて甘い香りが漂ってくる。どれもこれもがとても懐かしい。
これから私はここの教壇に立つ。母校は県下有数の進学実績を誇る名門校だ。期待と不安とが入り混じった感慨が濛々と胸にこみ上げてくる。そういえば、高校入学当時の私の気持ちもこんなであった。教室の空気はどんよりと鈍色に淀んでいて、とても重苦しかった。周りがみんな優等生に見えた。新しい生活にいつまでも溶けこめずに憂悶する十五歳の少女が、そこにいた。
そして新年度が始まり、毎日が慌ただしく過ぎていった。あれだけ不安だった母校での教師生活にも少しずつ慣れてきた。
◇◆◇◆
事の始まりは残暑厳しい九月初旬のことだった。この時期は学校祭の準備のために毎日が慌しい。業後の校舎には生徒達の奏でる合唱の歌声が響いていた。その時私はクーラーの効いた司書室で司書教諭の長坂瑞穂と井戸端会議中であった。
「由利子先生の旧姓が麻倉さんだって伺ったから、ピンときたのよ。ひょっとして、これって由利子先生の感想文かなって」
彼女は私より十歳年上だが、きさくに話しかけてくるので、まるで同級生のように会話ができた。
「凄いわ。優秀賞よ。これって学年でたったの三人しか選ばれないんだから」
そういって、長坂は古びた黄緑色のクリアホルダーを私に手渡す。それは母校に保存されている歴代生徒による読書感想文のファイルだった。開いてみると数冊の原稿用紙が収められている。そしてそこに書かれた名前は、紛れもなく『一年五組二十五番・麻倉由利子』であった。
「へえ、そんなのよく残っていたわね。懐かしいなあ」思いがけない出来事にうろたえつつ、私は答えた。
難しい言葉を無理やり織り混ぜた文章が、神経質なか細い文字で丁寧に書き込まれている。たどたどしいがとても純朴で読み手をぐいっと引きつける迫力が感じられた。人との接触が苦手で、常に周りを気づかい、恐れ続けて、縮こまっていた十五歳の私の文章。今でこそ職業柄大勢の前で話すことも抵抗がなくなってきたが、当時の私はとてもそんなではなかった。今の私とはっきり違う別の人格が、その文章の中に住んでいた。
――私の分身が……。
「優秀賞を取った生徒の作品は必ず保存されるのよ。やっぱり由利子先生って、昔から国語の才能があったのねえ」長坂はまるで自分のことのように喜んでいる。
あの頃の私は何を考えて、毎日を過ごしていたのだろう。背伸びして入った進学校で、自分より遥かに優秀な人に囲まれて、もろくも崩れ去ったちっぽけなプライド。中学の時は、周りにはいつも人だかりができていた。私は何もしなくてもよかった。ちょっと話しかけてやるだけで、まるで有名人から声をかけられたかのように喜んでくれた仲間達。でも、高校ではそうではなかった。ここでは私はちっとも優等生じゃない。中学では何の苦もなくこなせた勉強が、高校ではどんなに努力しても、国語も、数学も、英語も、理科も、体育も、どれもこれもが下から数えた方が早くなっていた。周りのみんなが怖く見えた。埋もれて目立たなくなった存在ほど悲しいものはない。もし私がここで消えてしまっても、この集団は何も気づかないのかもしれない。
そんな中、たまたま選ばれた読書感想文だ。それは消えかけたプライドの燃えかすに、僅かながらの灯がともった瞬間でもあった。この時私は初めて国語教師という職業を意識したのだった。
「唐沢先生はいませんか? ああっ、いたいた」息を切らして飛び込んできたのは、写真部顧問の石隈洋介教諭だ。彼は私より四歳年上である。そして私と同じくここを母校とする卒業生でもある。
「ちょっと、いいかな。今ね、文化祭のために暗室で資料を整理していたら何が出てきたと思う? なんと、唐沢先生の高校時代の生写真ですよ! これそうでしょう」
「えっ、本当に? どれどれ、見せてよ」
偶然とは実に恐ろしいものである。読書感想文と写真――、青春時代に埋もれた私の分身が偶然に二つも発掘されたことになる。石隈から手渡されたものは一枚のスナップ写真だった。胸の中に懐古の情がどっと押し寄せてくる。セピア色とまではいかないが、写真は全体が薄桃色に変色していた。雲ひとつない青空の下、山吹色の水仙と瑠璃色のムスカリの花が鮮やかに咲いた美しい花壇を背に、長身の少年とおさげ髪の少女が並んで写っていた。右側の少女は私に間違いない。両の手の平を腰の前で組んで、背筋を伸ばし、幾分緊張気味に口をつぐんでいる。一方の少年は色黒の元気そうな子で、少女のやや後方に立ち、左手を頭にかかげて、とても嬉しそうに白い歯を見せている。
――誰だろう、この子?
私にはまったく心当たりがなかった。何時、何処で撮られたものなのか。人との接触に悩んでいたこの時期に、男子と二人きりの写真が存在すること自体が、ちょっと想像ができなかった。
「やっぱりこの頃から美人の面影があるよねぇ。すぐに分かっちゃったよ。このおさげの少女が唐沢先生だって」得意げに石隈がいった。「でも相手の男の子は誰なの? すごく気になるんだけど」
「実は全く覚えていないのよね。何処で撮ったんだろう、この写真」思わず正直に思ったことを私は口に出してしまった。
「おいおい、そりゃないよ。これだから美人って困るよな。引く手数多で付き合った男はいちいち覚えていないのかい?」
「そんなんじゃないけど!」むっとして私はいい返す。「本当に覚えていないのよ」
「でもこの女の子は由利子先生よね。今とそっくりだもの」すかさず長坂がフォローをした。
「そうですね。これは間違いなく私です。ああ、本当に思い出せないんだな」我ながら実に薄情な話である。
「まだ他にも写真があったよ。もう一遍調べてみよう。いっしょに来なよ」
突然石隈が誘ってきた。深刻に落ち込む私を哀れに思ったのかもしれない。
「そうね、面白そうだから。私もいい?」司書教諭も同調した。
「もちろんですよ。さあさあ、唐沢先生の青春の忘れ物をみんなで捜しましょう」
忘却の彼方のツーショット写真。もちろん私も真相には大いに興味があった。
最上階にある暗室は、写真部員でなければまず入ることはない淋しい部屋である。扉を開けると酢酸のツンとした匂いが鼻を突く。誰もいない室内に萎びたダンボール箱の中身が無造作に散らかっている。
「この箱に入っていたんだ。かつて誰かがここでこの写真を現像したようだね。ほら、ネガもしっかり残っているよ。あっ、ネガといっしょにまだ何枚かの写真があるぞ」
石隈が取り出したスナップ写真は全部で八枚あった。「この三十六枚綴りのネガから抜粋してプリントしたようだな」
「ほうら、ここにもおさげの子がいるわ。由利子先生よね」そういうと長坂は私に一枚の写真を手渡した。そこには色とりどりのチューリップが植え込まれて美しい平行線が形作られていた。ぼんやりと花を眺める私が写真の右上にちょこんと写っていた。チューリップの群生を狙った写真のようだが、私が偶然に写ってしまって構図の上でかなりお荷物になってしまっている。
「あら、ここにも由利子先生が写っているわよ」またもや、長坂が見つけてきた。やはり、この写真でも私は隅に何となく写っていた。
「私がいなければ、そこそこいい写真なのにねえ」私は率直な感想を述べた。
「見て、見て。この写真、由利子先生といっしょに女の子がもう一人いるわ」長坂が差し出した写真には、二人の少女が二本指を立ててしゃがんでいる。
――赤池佐和美……。
「この子、佐和美だわ! 私の親友の」私はその写真を食い入るように見た。
赤池佐和美は、一年生のクラスメートである。出席番号が女子の一番二番ということもあって、彼女は私にとって唯一気兼ねなく話し合える相手だった。活発で社交的、かつ男勝りで姉御肌、私の性格とは全くの正反対。大人しい男子は威圧されて佐和美に声すらかけられなかった程だ。
「おっ、これは集合写真だね。裏には昭和六十二年・三月二十六日と日付が書いてあるよ。これで何か思い出せない?」
石隈から受け取った写真には五人の男女が写っていた。私と佐和美の他に、先程の色黒の男の子と、さらに二人の男子が……。
「昭和六十二年といえば、私は高校一年生だわね。そうか、思い出した! これは、写真部が西山公園に遠足に行った時の記念写真よ」思わず私は叫んだ。
「へー、由利子先生写真部員だったの?」
「えっ、私は部員じゃなかったんだけど、たまたま遠足に誘われたのよ。佐和美は写真部員だったけどね」
「なるほどね。ということは他の男の子達も写真部員なのね」
「そうね、真ん中の眼鏡の男の子が一つ上の先輩で部長の、えーと、何だっけ? 名前忘れちゃったな」
「ふふふ、その先輩とやらは唐沢先生のことを、今でもしっかり覚えているだろうけどね」またもや石隈が冷やかした。
「こちらの二人の男子は同級生だわ。うん、だんだん思い出してきた。さっきの背の高い子が望月君だ。そして、もう一人の男の子は」
一瞬言葉が詰まった。
「どうかしたの? 由利子先生」心配そうに司書教諭が覗き込む。
「ごめんなさい。彼は――、今この世にいないの。菊池原駿君。大学生の時に交通事故で、私達の同級生の中では一番早く死んでしまった人だった」
「そうなの。とても好青年なのにね。もったいないなあ」長坂がつぶやいた。
「そういえば、この記念写真でも唐沢先生は一人だけ横を向いちゃってるね。みんなレンズに顔を向けているのに。しかし――この写真の唐沢先生ってとても愛らしく微笑んでいるなあ。他の写真の唐沢先生って、どちらかというと虚ろで淋しそうな表情ばかりでしょう」石隈がさらりと指摘する。
確かにその通りだ。この写真の私は何故かとても嬉しそう……。
「まるで、恋をしているかのようだな」何気なく石隈が口ずさんだ。
「さあ、そうだったのかな?」一瞬困惑したが、石隈がこちらを向いていないので、私はお茶を濁しておいた。
石隈は続けた。「このダンボールから発見された九枚のスナップ写真と三十六枚取りのネガフィルム。これらの忘れ物は、長い年月を隔てて未来の我々に、刻々とあるメッセージを訴えているよね」
「えっ、私には何も分からないけど。だいたい、由利子先生でさえ思い出せないことなのに、洋介先生に一体何が分かるの?」長坂瑞穂が質問した。石隈洋介は、眼鏡のフレームを右手で触りながら、得意げに語り出した。
「ふふん。まず、第一の事実――。先程の唐沢先生と望月少年のツーショットを撮った人物は、このネガを撮った人物とは別人である!」
「えっ、どうしてそんなことが断言できるの?」
「簡単だよ。この九枚のスナップで唐沢先生と望月少年のツーショット写真だけがポラロイド写真だからさ」
「ポラロイド写真って、いわゆるインスタント写真のことよね。写した瞬間にカメラから写真が出てくる。でも、どうしてポラロイド写真だって分かるの?」長坂が訊ねる。
「そんなの写真の材質を見ればすぐに分かるよ。ポラロイドカメラは、最近はデジタルカメラに押されて生産が中止になってしまったけど、かつてはそこそこ普及していたんだよ」
「なるほどね、一人で二種類のカメラを持っているのは不自然よね」長坂は感心している。
「そして、ネガ写真を撮った人物とポラロイド写真を撮った人物は、お互いに仲良しだったと推測できる。なぜなら、それらの写真はこの暗室の同じ箱から出てきたからだ。ところで唐沢先生――、望月君と菊池原君は仲良しだった?」
「そうね、二人は友達だったわ。同じ写真部員で……」
「そもそも、唐沢先生はどうして遠足に参加したのかな?」
「さっきもいったけど、佐和美に誘われたのよ。突然に。あんまり乗り気ではなかったけど断り切れなくて、渋々参加したような気がする」
「ずいぶん臆病だったみたいだね。当時の唐沢先生は――、いや麻倉由利子さんは」
「本当に臆病だったなあ。佐和美以外の部員は誰も知らなかったしねえ」予想外の同情に気が緩んで、私は甘え声を発していた。
「だから不思議なのさ。写真部の遠足なのに、部外者の唐沢先生が誘われた。何か意図がなかったのかな?」急に石隈が切り返してきた。
「まさか」私はつぶやいた。
「全員で写したこの集合写真は、ネガの最後の写真になっている。恐らく、解散直前に撮影されたものだろう。それともう一枚、赤池佐和美さんと唐沢先生を写した写真があったよね。この三十六枚の中で、この二枚だけは人物を被写体にして写されている。そして、それ以外の写真は全て、構図から推測するに、公園の風景を狙っている。如何せん、その中の何枚かにちゃっかり写ってしまった人物がいる。それは麻倉由利子さんだ」
「そうよね。私が邪魔しちゃっているのよね」私が賛同した。
「偶然に写ってしまった麻倉由利子さん。しかし、本当に偶然なのだろうか? 僕は三十年間写真を撮り続けているし、四十一年間男を続けている。この写真を撮った人物の気持ちは手に取るように分かるよ。例えば、この写真。うっかり唐沢先生が入っちゃったように思われるが、仮に唐沢先生を写真の中から取り除くと、果たしてこの構図自体はいかがなものだろう?」
「さあ、よく分かんないけど、どうなの?」長坂が訊き返す。
「とてもまともな構図とはいえないね。つまり、この写真自体が風景撮影が目的ではないのさ。撮影者が意図した真の被写体は、可憐な少女――麻倉由利子さんだ!」
『いっしょに写真に入ってくれないか? 菊池原は人物写真が苦手なんだってさ。あいつのスキルアップのためにちょっとだけ頼むよ』
突然、昔の会話が甦る。そうだ! たしかあの時、私はとても困っていた。望月大輔の急で勝手な提案を断れずに嫌々撮られたツーショットだった。私は思った。何でこんなことをしているのだろう? 根暗の私じゃなくて活発な佐和美といっしょに撮ればいいのに。
「分かったかい? このネガ写真の撮影者は望月君だ。そして彼は当時の麻倉由利子さんに密かに恋焦がれていたと推測されるね」素っ気なく石隈が付け足した。
「まさか」私はさっきと同じ言葉を繰り返した。
「それならば望月君が撮った三十六枚の写真の中で、実に七枚に唐沢先生が写っちゃったという事実をどう解釈するのかな?」
「そういわれてみると、由利子先生を狙って撮ったようにも見えるわ。先生に気付かれないようにこっそりと撮影しているの。なかなか可愛いじゃない」司書教諭がくすくすと笑いだした。
「唐沢先生と望月君のツーショットのポラロイド写真を撮影した人物は菊池原君だ。そしてこの貴重な写真は親友の望月君にプレゼントされた。だからこの写真はネガといっしょにここにあったのさ。うん、どうやらここまでの推理は間違いなさそうだ」石隈は自説に自己陶酔していた。「――だけど、もしそうなら、最大の疑問に突き当たってしまう」
「何なの、それは?」長坂が興味深げに訊ねる。
「望月君にとって、唐沢先生との写真は掛け替えのない宝物のはずなんだ。しかもポラロイド写真だから、それはこの世にたった一枚しか存在しないものだ。じゃあ何故この大切な写真を彼はここに置き去りにしたのか?」
「きっと由利子先生にプレゼントする気で、うっかり忘れちゃったのよ」長坂が答えた。
「あり得ない! 望月君には掛け替えのない写真であっても、それは唐沢先生にとっては喜ばしい写真ではなかった。むしろ迷惑なものだ。そんなことは望月君自身にも分かっていた。だからこそこの写真は自分の家に持ち帰る筈なんだ。どうして?」
『アロエだって。変なジュースがあるけど。麻倉、飲みたくない?』
いきなり望月が割り込んできた。びっくりして、私はうつむいた。
その瞬間である。滞っていたジグソーパズルの断片はぴったりと収まった! 青春の絵柄の全容が一気に浮かび上がる。様々な出来事が走馬灯のように音を立てて私の脳内を廻り出した。
『急に来なくなっちゃったんだ。あんなに元気だったのに。もう何がなんだか分かんないよ』
菊池原は嘆いてきた。適切な言葉を返すことができず、私はいっしょに立ち尽くした。
『悪いのは無理に曲がってきたトラックなのよ。どうしてこんなことに』佐和美は悔しがって声を詰まらせた。
「どうしたの、由利子先生?」気が付くと、長坂が心配そうに覗き込んでいる。
「はっ、どうかしてた? 私……。急にいろんなことを思い出しちゃって」
「どうやら望月君のことも思い出したようだね。どんな子だったの?」石隈はにやにやしていた。
◇◆◇◆
そう、この物語は二十二年前の三月末まで遡る。
「写真部の遠足に参加する女子は私だけなのよ。だからお願い。由利子がいっしょに来てくれると助かるのよ」
正直なところ乗り気ではなかったが、佐和美のたっての頼みということで断り切れなかった。
昭和六十二年の三月二十六日。その日は吸い込まれるようなコバルトブルーの晴天だった。電車と地下鉄を乗り継いで、私と佐和美はようやく目的地の西山公園にたどり着いた。西山公園は大都会の郊外にある緑地公園で、園内には市営の動植物園もある。私達は約束の時刻に十分ほど遅刻した。
「ごめんねー。ちょっと道に迷ったみたいだから。ずいぶん待ったの?」佐和美は少しも悪びれずにいい放った。
「いや、そんなに待ってはいないよ。ああ、麻倉……さん、ようこそ写真会に」長身の望月大輔が視線を佐和美に向けたまま答えた。
「どうやら、みんな無事に揃ったようだね。それではこれから自由行動にします。帰りの集合時刻は四時。場所はこの噴水前にしましょう」一人だけ上級生の先輩が指示を出した。
そうだ! 思い出した。この先輩は向日葵君だわ。
解散後それぞれの目指す被写体を求めて銘々は散っていった。一人だけカメラを持参していない私は、佐和美にべったりとくっついていた。佐和美は花の写真が専門らしく、私達は花畑を転々と梯子した。
「ほうら、由利子――、今度はそのサクラソウの前にしゃがんでよ。そうそう。あんたは本当に絵になるわねえ」佐和美は花といっしょに私を写真に収めていく。
「えっ、これでいいの?」佐和美の役に立つ喜びで、恥ずかしさも顧みず私はモデルに専念した。
しばらくすると、二人の男子が近づいてきた。望月大輔と菊池原駿だ。
「おおい、赤池。折角男女が二人ずついるんだ。あっ、変人の向日葵先輩は除いてね。これからタワーの屋上に行こうよ」望月大輔が提案してきた。
「ふふん、望月。あんたの狙いは由利子だってちゃんと分かってるんだから!」すかさず佐和美が楽しそうにいい放つ。それを聞いて私は縮こまった。
「何いってんだよ」顔を真っ赤にしながら望月大輔が否定する。
「あはは、どうやら図星のようね。まあ、いいわ。ねっ、由利子もいいでしょう」
既にこの場は佐和美に仕切られていた。
望月と佐和美が前を並んで歩いていく。セントラルタワーに向かっているのだ。ふと隣を向くと、菊池原駿が黙ってとぼとぼと歩いていた。望月とは対照的で、華奢な菊池原はどちらかというと気弱な性格のように見える。シックな色のポロシャツの上に薄手の白いジャンパーを軽く羽織っていた。落ち着いたその態度からは生真面目で清潔な雰囲気が感じられる。個性を主張していないようで、何か惹きつけるものがあった。菊池原は歩きながらチラッとこちらに眼を向けた。あどけなくて無垢な眼差しだ。とっさに私は視線をそらす。
「さあ、着いたぞ。おーい、麻倉。遅いぞ、もっと早く歩けないのか?」望月が振り返って大声をあげている。はっと我に返ると、私と菊池原は彼らから大きく遅れていた。私の歩みがのろいからだ。どうやら菊池原は私を気遣いながらゆっくりと歩いていたようだ。この間二人は一言も口を交わさなかったけど。
「さあ、いこうか」菊池原が小声で、初めて私に囁いた。
「はい」素直に私は返事をすると、駆け出した。――とその瞬間に、足元の地面に躓いてよろけてしまう。
「大丈夫?」驚いた菊池原が声をかけた。
「ああ、ごめんなさい。大丈夫です。私っておっちょこちょいだから」
恥ずかしさに顔が赤らんだがとても嬉しかった。菊池原はにっこりと笑っている。
セントラルタワーは西山公園のシンボルで、尖った鉛筆のような形をしている。屋上に向かうエレベーターで、私は意図的に菊池原の隣にいった。望月大輔はそわそわしていた。今度は私が思い切って菊池原に声をかけた。
「写真を撮るのが好きなんですか?」
訊ねた瞬間にとても間の抜けた質問だと思ったが後の祭りだ。
「そうだね。撮り方やタイミングをちょっと変えただけで全く別の写真になっちゃうんだ。そこがとても面白いね」菊池原は誠実に返答した。
「へえ、どう違っちゃうの?」
エレベーターが屋上に着くと、菊池原はリュックから一冊の本を取り出した。
「ほら、前田真三さんの写真集だよ。僕はこの人の風景写真に憧れているんだ」
菊池原から手渡された本には、広大な北海道の写真がいっぱい綴られていた。
「うわー、とっても綺麗ね」
その美しさに私はすぐに魅了された。
「ほら、この写真なんか最高にいいでしょう」
菊池原が指差したのは『麦秋鮮烈』というタイトルの写真だった。
嵐のように曇ったダークグレイの寂しそうな空の下に、信じられないくらいに鮮やかな赤い麦の穂が常盤色の牧草地の上にくっきりと浮かんでいる。
写真の中に心地よい風が吹いていた……。
「この写真はこの構図じゃないとだめなんだ。そしてこの一瞬しか存在しない情景を、当代随一の天才が撮ることで産まれた作品なんだ」
「本当ね。私もこの写真とっても好きだわ」私はいった。
「僕もいつかこんな写真を撮りたいと思っている」
今度は菊池原は真っ直ぐに私を直視してきた。とてもあどけない笑顔だった。本当に好きなことを純粋な気持ちで語り出す少年の笑顔だった。いつの間にか私はその瞳に引き込まれていた。
「おい、菊池原。いつまでべたべたしてるんだ」望月大輔の声がした。
「ああっ、ごめんごめん。つい、楽しくて」菊池原は素直に謝った。
「麻倉――、こっちこっち。これで下の街が見られるよ」望月が展望台の望遠鏡の前で私を手招きする。
「行って来なよ。望月は麻倉さんを待っているみたいだ」菊池原が私に囁いた。
「はい、じゃあ行って来るわ」私は渋々承諾した。
望月大輔は傍に行くと熱心に街並みを説明していが、私はあまり聞いていなかった。
「ねえ、もう飽きちゃったから降りない?」佐和美がいった。正に天の助けだ!
「そうね、私も疲れちゃった」申し訳なさそうに望月にいうと、私は望遠鏡台から降りて佐和美にべったりと寄り添った。
「なんだよ、まだ昇ったばかりじゃないか。ちぇっ。まあ、麻倉がそういうなら仕方ないか」望月はやや不満そうだった。
今度は、佐和美と私、望月と菊池原がペアを組んで話しながら下に降りた。
「ごめん、ちょっと待っていてね」佐和美は用足しに行ったようだ。私が一人になると、また望月が近づいてきた。
「いっしょに写真に入ってくれないか? 菊池原は人物写真が苦手なんだってさ。あいつのスキルアップのためにちょっとだけ頼むよ」
私はびっくりしたが断れなかった。菊池原は顔色も変えず黙って望月の命令に従った。
「ちょっと、何やってんのよ!」戻ってきた佐和美の怒鳴り声がした。
「わりい、わりい。お前があんまり遅いんで。麻倉、ありがとうな」望月はすっかり上機嫌になっていた。
私は複雑な気持ちになっていた。望月がどうのこうのではなくて、本音をいうと私は菊池原といっしょに写りたかった。でも写真を撮ったのが菊池原で、彼は黙って望月の指示に従った。菊池原は私と写真に写りたくないのだろうか? さっきまでとは打って変わって、菊池原に話しかけることができなくなってしまった。折角共通の話題で会話ができていたのに。
再び銘々が思い思いに散らばっていった。今回は佐和美も撮影に没頭して相手をしてくれないので、私は一人でブラブラと散策をすることにした。
「本当に今日はいい天気だわ」誰にも聞こえない声で独り言をつぶやいた。綺麗なチューリップ畑の前で私はしゃがみ込んだ。花弁やおしべ、めしべの独特な形状は見ているだけで楽しくなってくる。単純な私はこんなことでも時間をつぶすことができるのだ。やがてそれにも飽きるとベンチで持ってきた推理小説を読み始めた。
どれほど時間が経ったのだろう。ふと、眼を上げると偶然にこちらを向いた菊池原と眼が合った。反射的に私は視線をそらす。菊池原が私の方に近づいてくる。
「何、読んでいるの?」菊池原が訊ねた。
「えっ、これクリスティよ」私は平然を装って答えた。でも胸はドキドキしていた。どうしよう、何を話せばいいんだろう。
「へえ、アガサ・クリスティか。僕も大好きだよ。偶然だね」菊池原はいった。
「菊池原君も推理小説を読むの?」
「読む、読む。クリスティは最高だよね、意外な結末があって」
「私も彼女の作品の半分は読んでいるわ」
「どの作品がよかった?」菊池原が興味深げに訊ねてきた。
「そうねえ、いろいろあるけど、『パディントン発4時50分』なんて好きだなあ」
「なかなか渋い作品がお好みだね。どこが面白いの?」菊池原が感心している。
「私、おばあちゃん探偵のミス・マープルが好きなの。それに電車越しの殺人や古くて不気味なお屋敷とか、わくわくしちゃうわ。菊池原君は何が好きなの?」
「僕はマープルよりもポワロの作品の方が好きだな。ヘイスティングス大尉とのコンビは最高だよ。残念ながらそれらは全部読んじゃったけどね」
「それで?」
「ああ、お気に入りね。そうだなあ。『満ち潮に乗って』は後味が良かったね」
「菊池原君も随分マニアックなのね」私はくすくす笑った。
「だって、麻倉さんがマイナーな作品をあげるから、『アクロイド』や『ABC』が好きですなんていえなくなっちゃったんだ」菊池原は頭を掻いた。
私は驚いていた。クリスティの小説についてこれほど深く語り合えた人物は今まで出会わなかった。菊池原は私の発言に的確に応答してくれた。
「『葬儀を終えて』ってプロットがシンプルなのに、あれだけインパクトを与える作品になっているんだよね」菊池原は持論を繰り出す。
「そうよね。すごく面白かったけどどうしてなのかなあ」
「つまりクリスティって表現力が別格なのさ。同じプロットで他の作家が執筆しても、多分凡庸なものになってしまうだろうね」
「そうそう。クリスティの登場人物って容姿や性格がはっきりとイメージできるのよね。すごいわ」
私と菊池原はやり取りを楽しんでいた。このひと時が永遠に続いて欲しいとさえ思った。しかし……。
「アロエだって。変なジュースがあるけど。麻倉、飲みたくない?」
いきなり望月が割り込んできた。びっくりして、私はうつむいた。
「望月か。僕はいいよ。今麻倉さんと推理小説について語り合っていたところさ」
菊池原が珍しく望月大輔に対等な口調で応じた。
「私、何もいらない」それだけを告げて、私は反射的に席を立った。
「あっ、麻倉さん……」菊池原の名残惜しそうな声がした。
「何か怒っているのか?」当の望月はただ驚いていた。
私はいらだっていた。折角の、そしてもしかしたら二度と来ないかもしれないひと時が壊されたのだ。しかも、これで二度目だ。まるで望月大輔は私達を監視しているのじゃないかとさえ思えた。こんなことになるのなら、そもそも遠足になんか来るんじゃなかった。ここに来なければ、こんなに落ち込むこともなかった筈だ。なんで私は参加しちゃったんだろう。
解散前に参加者全員で記念写真を撮ろうということになった。例のごとく佐和美が場を仕切り、命令された望月がカメラのセッティングをした。相変わらず私はふて腐れていた。
その時、耳元で誰かが囁いた。
「 Use your little gray cells ! 」
英語? リトルグレイって……。はっ、小さな灰色の?
『小さな灰色の脳細胞を使ってみなさい』
それは、クリスティの小説に登場する名探偵エルキュール・ポワロの決め台詞だ。さっと振り返ると、菊池原が眼で合図をした。私は……。
カシャリと音がした。
「はーい、お疲れ様です。これで写真会は終了です」
ほのかに赤みがかった西日が射し込む西山公園に、向日葵先輩の甲高い声が響いた。
四月になって私達は二年生になった。私は、佐和美、望月、菊池原のいずれとも同じクラスにはならなかった。あの時以来、菊池原とは廊下ですれ違うことはあっても、互いに話をすることはなかった。そんな中、望月大輔が最近学校に登校しなくなったという噂を耳にした。心配になって私は菊池原に訊ねた。
「望月君が学校に来なくなっているって、本当?」
「望月とは春休みにそこの暗室でいっしょに遠足の写真を現像したんだ。少なくともその時はなんともなかった。でもその後で急に来なくなっちゃったんだ。あんなに元気だったのに。もう何がなんだか分かんないよ」
菊池原は嘆いてきた。適切な言葉を返すことができず、私はいっしょに立ち尽くした。
望月大輔はその年の二学期に退学した。
母校を卒業した後で、望月大輔とは一度だけ顔を合わせている。でもそれはとても思いがけない出来事のせいだった。
大学生活にもようやく慣れた六月の雨の日だった。赤池佐和美から突然の電話があった。佐和美は興奮して声が上擦っていた。
「いい? 落ち着いて聞いて頂戴ね。菊池原駿君……、知ってるわよね。彼がね……、彼が……、おととい交通事故で亡くなったの。葬儀は明日の十一時よ。もし都合が付くようだったら来てね。場所は……」
その夜、私は食べたものを全て戻した。
翌日、葬儀の会場で佐和美と久しぶりに会った。
「悪いのは無理に曲がってきたトラックなのよ。どうしてこんなことに」佐和美は悔しがって声を詰まらせた。私も何もいわずに静かに泣いた。
気が付くと、向こうに蒼ざめた顔の望月大輔が参列していた。私と一瞬眼が合ったが、すぐにお互いに視線をそらした。
私の青春の忘れ物に関する物語は、これで終わりだ……。
◇◆◇◆
あれから数日後のことである。その日は文化祭が催されていた。いつものごとく司書室でハーブティーをご馳走になっていると、そこにまた石隈洋介が現れた。
「はい、唐沢先生にプレゼント。一人だけ横を向いちゃった例の集合写真をリプリントしてみたから。あ、御代は結構ですよ」石隈は一枚の写真を私に手渡した。
「ああっ、どうもありがとう。とてもうれしいわ」私はお礼をいった。
甦った二十二年前の写真は誇らしげに本来の鮮やかな色彩を解き放っている。大きめのサイズでプリントされているので、参加した五人の人物の表情が鮮明に見て取れた。
「ほら、長坂先生。石隈先生がプリントしてくれたの。遠足の最後にみんなで撮った記念の――」
私は司書教諭にその写真を手渡した。長坂瑞穂はしばらくの間黙って写真を見入っていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「私はね、学校に来られなくなった望月君の切ない気持ちがちょっとだけ分かるような気がするの。ねえ、由利子先生。どうか怒らないで聞いてね。だって、この写真の由利子さんって、その……、とっても嬉しそうなのよね……」
長坂がいわんとしたことが薄々と私にも伝わってきた。確かにこの写真の中で、横を向きながら私はにっこりと微笑んでいた。これ以上ないくらいに幸せそうな笑顔で。そしてその視線の先には白いジャンパー姿の菊池原君が立っていた。
昔書いた作品です。いただいたご感想を参考にして、一部修正してみました。