とりあえず翻訳魔法の改良が急務である
「今回は上手く行くのかな?」
「さあな、だがこのままでは我が国はどうせもたん。一か八か――おそらく外れの目が出る可能性の方が高いだろうとは思ってもやるしかないだろう」
「賭けられているチップが俺達の命じゃなきゃ笑えるジョークなんだがな」
「まったくだ」
護衛兵が交わしている会話は彼らの肩にずしりと肩にのしかかってくる緊張と恐怖を紛らわすためだ。重要な儀式の最中というのにその軽口を誰も止めようとはしない。むしろこの豪華な部屋に立ちこめる重苦しい雰囲気を僅かなりとも軽くしてくれたとどこか安堵する向きすらある。
もしかしたらそのためにわざわざ彼らも口を開いたのかもしれない。精鋭である彼らが無駄口を叩くなんて普通は考えられないのだから。
リードは汗ばむ掌を拭い、きつく杖を握り直した。
緊張するのも無理はない。いよいよこれから数百年ぶりの儀式が行われるのだ。
その儀式の名は勇者召喚。建国以来二度めとなる禁呪である。
なぜ禁呪になったのか? 答えは簡単だ。最初にこの呪文で召喚された先代勇者のもたらした被害が、勇者が倒すまでの魔王によるそれをはるかに上回ったから――これに尽きる。
勇者にしてみればいきなり異国どころか異世界へ召喚されて、時間がない上に言葉も通じないからと武器と防具だけを渡され魔王との戦争の最前線へ放り込まれたのだ。
当然事情の説明やロクな訓練など一切なかった。
彼が誘拐されて奴隷にされたと恨んでも仕方がないだろう。
そしてこの時召喚した側もろくに考えていなかったのだ。一国どころか大陸全ての人間国家の軍を合わせた力を持つ魔王、それを倒すだけの力を持った個人が王国に敵意を抱いた場合の対処を。
その考えなしの召喚は魔王を倒しもしたが、その対価として王国を半分焦土としてしまった。
魔王の軍によってではない。魔王を倒した勇者がそのまま王国へと剣を向け、立ちふさがるもの全てを切り殺したのだ。
前線で勇者がどのように扱われていたのかは失伝してわかっていないが、魔王を打倒し王国に反逆を始めた時にはすでに彼は隻眼になり大火傷をしていたと聞く。――呼び出された当初は怪我一つなく、魔王軍のモンスターには一度も傷づけられたことがなかったという情報もあるにも関わらずだ。
上層部に優遇されているくせに新兵扱いで、会話すら出来ない勇者と呼ばれる異分子。それは勇者に対しどのような事をしても上へ彼からの不満が通らない事を意味していた。死の恐怖に直面している兵士の不平や不満をぶつける対象にはうってつけだったのだろう。
その嫌な想像を裏付けるように、彼の世話役に任命されていた者たちは反逆した勇者によって真っ先に剣にかけられていた。
王国を半分滅ぼした勇者の最後も不明であることから、おそらくは真っ当な手段で倒したのではなくどこか後ろぐらい事情――つまり暗殺か毒殺だったのだろうと推察されている。ここら辺は王家が主体となりあまり詮索しないように手を回されているようだった。
とにかくこの事件以降「魔王」と「勇者」はセットとなった。もちろん台風や津波といった災害を意味する言葉としてだ。
今回その禁呪が解禁となったのは前回の魔王を超える大魔王とやらが誕生したためと、新しい魔法などの新技術が開発されたからだ。
歴史的失敗からの反省を踏まえ、今回の召喚には二つ新たな作戦が追加されている。
その内の一つが「翻訳魔法」、つまり言葉の通じない者とでも意志疎通ができるようにする魔法だ。
互いの言語の壁を精霊が介して翻訳する魔法である。
そのため意味や言い回しにブレがあるし、魔法をかける術者の精神状態によって話す相手の言葉遣いや声の響きが変わってしまうという欠点はある。だが実験では限定的とはいえモンスターからの言葉を聞くことも出来たのだ。
とはいっても魔王軍のモンスターが口にするのは「オレサマ、オマエマルカジリ」といった程度の単語による脅迫ばかりで話し合いは不可能だったのだが。
そして世界が異なる勇者とは言語の壁はさらに高く、もっと意志の疎通が難しくなることは予想されている。
だが、この魔法なしではまた勇者を召還しようとは誰も思わなかったはずだ。
そしてこの召喚の直後もう一つ重大な儀式として、勇者への王家の秘宝が贈られるが行う予定なのだが――。
辺り一面を覆う召喚呪文による光が一際大きくなるとその瞬間魔法陣が激しく弾け、辺りを白く染め上げた。
今回は召喚の場となったのは前回のように実験室ではない。召喚された直後に気を悪くされてしまっては一大事だと、厳重に周りは封鎖されてはいるが王宮の華美な一室である。
小国が相手なら大使を相手に会談をしてもおかしくない部屋だ。
その部屋は呪文の影響が終わったのか静まり返ると、上がった光と白煙が薄くなりゆっくりと元の手入れの行き届いた風景を取り戻す。
否、それだけではない。魔法陣があった絨毯の中心には消滅した召喚陣と引き替えに人影が現れていた。
どのような勇者か――。
その場に待ちかまえていた全員が息を飲み見守っていると、小さく弾ける電光と煙の中からゆっくりその姿を現したのは派手な色彩の服を身にまとった長身の青年だった。
兵士以外の老若男女がゆったりとしたローブを主に身につける風習の王国の人々にとっては、体のシルエットが窺えるその衣装だけでこの国の者ではないと理解できる。
勇者の服装はリードからすればかなり奇異なもので、テカテカ光る未知の材質である布だが彼の目には下品にさえ映った。
特に不自然なのは彼の首から結び目を付けて垂れ下がっている赤い布製で幅広の太い紐だ。あれにはどういう意味があるのだろうか? もしや今度の勇者は奴隷階級で、あれは首輪の代わりなのだろうかと邪推してしまう。
とにかくまずは敵意がないのを示そうとリードが勇者の前に平伏しようとするが、その前に勇者は奇声を上げて踊るかのように手足を動かした。そしてピシリと締めに見得を切るように全身に緊張を漲らせた姿勢をとったのだ。
最後に勇者のとった構えは両腕を高く掲げて片足を上げているポーズで、猛禽類が襲いかからんとする威圧感に溢れた姿にそっくりだった。
魔法使いであるリードに彼の動きはほとんど見えなかったが、勇者の手足が空気を裂く音だけで凄まじい演武だったのは理解できた。
間違いなくこちらにその武威を見せつけて威嚇しているのだ。しかもその後勇者は何か叫んだようだが、まだ翻訳魔法がかかっていないのでこちらの人間にはその言葉が理解できない。
――頼むから俺がかける翻訳魔法に抵抗なんてしないでくれ。
基本的に強者が魔法をかけられまいと抵抗すれば、それが対象にとってプラスの効果がある呪文でもかかることはない。ダラダラと冷や汗を流しながらリードは翻訳魔法を唱えた。
――かかった。
魔法が成功した場合のみ感じる手応えに平伏していたリードは崩れ落ちるほど安堵し、大きく息を付く。
「初めまして、勇者よ。あなたをお待ちしていました」
「……ふうむ、俺が勇者か。俺はたんに帝都で特別許可を出す隊の特攻隊長でクロイなんだが」
翻訳魔法によるせいで雑音混じりのぎこちない通訳だが、どうやら言葉は通じるようだ。
見かけは珍しい服装以外はありふれた若者のようだが、その声はリードが内心に秘めた彼への恐怖を反映してかとてつもなく荘厳な響きだ。話し手よりも受け手の術者の心理状態よって聞こえる声音が委ねられるため勇者が実際にはどう思っているのかが判断できない。この辺が翻魔法の融通が利かない点である。
しかし、若く見えるこの年にしてすでに首都で特攻隊長を務めているとはクロイという勇者はどれほどの実力を秘めているのだろう。
異世界や異文化であっても一廉の隊を率いていた彼を甘く見ることなどできない。
ましてや召喚されただけでその身には勇者としての力が備わり、素人ではあっても魔王を倒せるほどの力が上乗せされるのだ。元々実力のあるこの勇者ならば大魔王を軽く超える武力を与えてしまったのかもしれない。
リードが言葉を続ける前に、一つ一つ周囲を確かめるように視線を動かしていた勇者は、最後に部屋の隅にある暗がりをじっと見つめてからふいっとあからさまに顔を逸らす。
しまった、機嫌を損ねないでくれればいいのだが。
リードは冷や汗を垂らしながら唾を飲み込む。勇者が睨んでいた部屋の隅には、この国一番の暗殺者が潜んでいると聞いていたからだ。
そう言われても魔法使いである彼には気配どころか存在すら確認できないため、伝え聞きで「向こうの隅には近寄るな」と警告されだけである。
それを彼は一発で見破ったらしい。
どこまで勇者が力を持っているのか緊張で冷や汗が止まらない。
だがこれまでの人生の中で一番激しく鼓動する心臓をなだめながらも、外見上は平然と「それ」を勇者に渡す。見た目は安っぽい宝石だが、そこに込められた魔力は召喚に使った陣に使用したのにも劣らない。
「いいですか、これは王国の秘宝で勇者に渡すよう伝えられていたものです。これを身から離したり壊すと恐ろしいことが起こるという伝承もあります。絶対に壊したりしないように。絶対にですよ」
じっと渡された首飾りを見つめていた彼はその言葉を耳にするとにやりと口角を上げ、掌から首飾りを滑り落とす。
何をするのかと声をかけるより早く「おっと手が滑った、ついでに足も」とわざとらしい台詞と共に勇者の靴に踏みにじられて首飾りは耳障りな破砕音をたてた。
その残片から王国選りすぐりの魔法使い達が込めた魔力が微かな紫の煙となって霧散していく。
突然起こった出来事に呆然と立ち尽くしていると、その耳に勇者の不機嫌そうな声が届いた。
「おい、恐ろしいことどころか何も起こらないじゃねぇか。一体どういうつもりだ」
王国の魔法の粋を集めた秘宝とも言うべき首飾りを壊したにもかかわらず謝罪の意志など一片もない響きに、その場にいた者は皆震え上がる。
はっきりと理解したのだ。この勇者に渡した首飾りが魔王を倒した後、勇者を始末するために作られていた魔法具だったのを見抜かれたたのだと。
急所である首にかけられた状態でこれだけの魔力が込められた魔法具が発動すればたとえ大魔王でさえも死に至るダメージを与えられる、そう豪語したのは急病とやらでこの場に来るのを拒んだ筆頭魔法使いだった。その筆頭魔法使いご自慢だった必殺のはずのアイテムはあっさりと見破られ、勇者によって踏みにじられているのだ。
彼らの恐怖を裏付けるように勇者クロイは憤怒の形相でこう告げた。
「お前らいくら何でも俺を騙そうとするんだったら演技が雑すぎるぞ」
――ああ、勇者を害しようとする企みは全てばれていたのだ。大魔王の前に勇者によってこの国は滅ぼされるのか。
「俺の所だったら、お前らは全員斬首刑だ」
彼の口から翻訳魔法によってもたらされる言葉にリードたちは冷や汗が止まらない。
「いや今風に言えば動物にしてから野に放逐する、か」
――この勇者は人間を動物に変化させることすらできるのか! 動物に姿を変えるなど名誉ある戦死よりも十倍恐ろしい。大魔王より強大で性悪な奴を召還してしまったとこの場にいる王国の人員は絶望にかられた。
ああ、どんなに追いつめられようとやはり勇者召還の儀などするべきではなかったのだ!
「責任を持ってあなた様を帰らせるので、どうかお怒りを鎮めてください!」
恥も外聞もなく地に伏せ、額を床にこすり付けるリード。もし絨毯がなければ彼の額からは血が流れていただろう。
――誇りなんか犬に食わせてしまえ。俺が恥をかくぐらいで王国が救えるのなら安いものだ。
まだ送り返す呪文など存在しないが、それでもこの場で勇者に爆発されるよりはいいと判断して偽りを述べる。後で責められたなら嘘を付いた罰として彼一人が犠牲になればいいのだから。
そんなリードの悲壮な覚悟に、動揺していた王国人も皆同じように這いつくばる。
だが勇者はそんな彼らの願いをふんと鼻で笑い、無慈悲に切り捨てる。
「このまま帰るなんて死んでもお断りだ」
まさか元の世界に帰すのを断られるとは、然と固まる王国の人々。
そしてリードは自分が翻訳魔法を開発するのではなかったと後悔した。
この魔法が使えなければ次に勇者が呟いた恐ろしい言葉を聞かずにすんだのに、と。
勇者はおそらくは誰に聴かせるつもりもなく、小さく口にした言葉を翻訳魔法は伝えてきたのだ。
――せっかくのチャンスを逃せるかよ。くっくっくっ天下をオレが取ってやるぞ、と。
この時リードは王国が大魔王、または前回の勇者以上の災厄を招き入れたのだと絶望した。
◇ ◇ ◇
黒井はドアを開けた途端に広がった光景に目を疑った。
彼は名札のかかった楽屋へ続く扉を開けたはずなのに、それはなぜかスモークが立ちこめたかと思うと豪華な内装の部屋に繋がっていたからだ。しかもそこには多くのゆったりとした中世風衣装を身にまとった人間や儀仗兵たちがひしめき合い、飾りの多い室内にはスモークの残滓が漂っている。
これは一体?
混乱しかけた彼の思考に一つの答えが閃いた。
――これはドッキリなのだと。
これまで売れない芸人コンビ「東京都特許許可局」を続けていた甲斐があった。きっと先週受けた新番組のオーディションが実はドッキリのターゲットを探す目的だったのだろう。
あの後に相方や芸人仲間とまた落ちたなとがっくり肩を落としてやけ酒を飲んだのが笑い話になりそうだ。
ツッコミやリアクション芸ぐらいしか取り柄のない彼に、これだけ人数を掛けた大規模なドッキリを仕掛けてくれるなんてもしかしたらゴールデンの特番かもしれない。テレビに映る自分の姿を想像しただけで鳥肌が立つ。間違いなく黒井はこれからの芸人人生を左右する岐路に立っているのだ。
――ならば全力でドッキリに乗って騙されるしかない!
スモークが晴れて一人の男が進み出そうとするタイミングで機先を制するように名乗りを上げる。手足を振り回すと最後に大きく手足を振り変身ヒーローのようにピシッとポーズを決めた。
決めの姿勢はもちろん両手を上げて片足立ちになる「荒ぶる鷲のポーズ」だ。
アドレナリンが出ているのかいつもより動きがキレて、手足からはカンフー映画のような空気を裂く効果音が出たような錯覚さえ覚える。
着替えなど準備していない彼は、楽屋に入ろうとしたこの時も舞台衣装であるラメの入ったきらびやかなスーツに真っ赤なネクタイといった姿である。この姿を撮影してくれていればお茶の間でも一発で彼の顔と衣装を覚えてくれるはずだ。つかみはこれでオーケーだろう。
「東京都特許許可局、ツッコミの黒井!」
格好よくポーズを決めたまま自分のコンビ名と役割まで分かりやすく説明した台詞も鮮やかに決まる。
少しでも電波に名前を乗せようとする涙ぐましい営業だ。ここで相手から何らかのリアクションが欲しいが、それなのに目の前の男はポカンと口を大きく開けているだけだった。
くそ、スタッフめ外国人タレントってだけで安いギャラでかき集めてアドリブ演技ができるかは考慮しなかったな。こんなんじゃテンポが悪くて視聴者に飽きられてしまうじゃないか。早く演技を続けろという意味を込めてポーズを解いて強めに咳払いをする。
思ったより響いた咳の音に電流を流されたように男は跳ねる。そしてテレビに撮影されているのを思い出したのか「勇気ある者よ待っていたぞ」と話しかけてきたのだ。
まだ日本語に慣れていないのか、かなり曖昧でわかりにくい発音だったがなんとか意思の疎通は可能だ。
――おいおい、俺が勇気ある者って柄かい。あ、そうか。勇気があるって設定だとドッキリの時に驚くとそのギャップが一層美味しくなるからか。なるほど、度胸試し系の仕掛けがあるんだな。
台詞から深読みしてこれからの台本と展開を読む黒井。
この時彼にとって不幸だったのは彼らは会話しているのではなく、悪名高い機械翻訳よりもなお適当に精霊が通訳をしていると気が付かなかった事である。まあ普通の日本人なら精霊が通訳しているのに気が付けないと言われればそれまでだが。
「ほー、勇気ある者かい。俺はたんに東京都特許許可局のツッコミの黒井なんだが。」
こまめに自己紹介を電波に流そうとしながらぐるりと周りを見回す。隠しカメラがどこから撮っているか確認しておかないと、一番いいリアクションをする時の角度が決まらない。
その中で彼が気になったのは豪華な部屋の中で唯一薄暗い部屋の隅だった。
――この部屋の中であそこが一番薄暗い。普通テレビでは画面を明るくするため部屋も明るくしておくよな、ということはあそこには見つかってはならない物、つまり隠しカメラがあるってことか。
あまり凝視するのは不自然なので黒井はそこをちら見程度にしておく。
だがそれなのに、目の前の外国人タレントは黒井が部屋の隅に視線をやったのに気が付いたようだ。隠しカメラがこんなに早くばれるとは予想外だったのか動揺して目が泳いでいる。
ここまで仕掛け人が動揺すると逆に黒井の方が困ってしまう。これで驚かされる役のはずの黒井までまでおどおどした演技をすると話が進まなくなってしまうからだ。
仕方なく黒井はまだ騙されているのに気づかない振りで堂々とすることにした。
その彼の態度にドッキリを続行できそうだと安心したのか、仕掛け人はおそるおそるといった格好でなぜかプレゼントだと首飾りを渡してきた。
だが不思議なことにそれがまた素人の彼でも分かる粗悪なガラス玉なのだ。まだラムネの瓶に入っているビー玉の方が高級かもしれない。
そんな粗末な物を運ぶのに仕掛け人役の外人がまるで爆発物を動かすか、ライオンに餌を配る時のようにもの凄く腰が引けている。これは黒井をビビらせるための笑い所なのだろうか?
黒井はここまで視聴者を引きつけるシーンがないことに悩むが、首飾りを渡す外人タレントが必死の様子で告げた台詞にようやく合点がいった。
「いいか、これは王国の秘宝で勇気あるものに渡すよう伝えられている。これを壊すと恐ろしいことが起こるそうだ。だから絶対に壊したりしないように。絶対にだ」
――なるほど、すぐ壊せってことですね分かります。
芸人ならすぐにぴんとくる言い回しに黒井は頷いた。
そうか、一目で分かるぐらい雑な作りの首飾りだったのは壊しても問題ないようにしたせいだったか。にっこりと笑顔を作ってお前の言いたいことは了解したとアイコンタクトする。
もちろん手を滑らせた振りでさっさと床に落としたのだが、予想以上に絨毯が厚かったせいで衝撃が少なかったのかガラス玉にはヒビすら入らなかった。
これではまずい。絨毯をこんなにふかふかさせるなんてここのスタッフはどこか詰めが甘いぞ。
「おっと、手がそれに足も滑った」
黒井は自分でも棒読みになったと反省しながら首飾りを床の上でぐりぐりと踏みにじる。靴の底で軽いガラスが割れる音がした。
――よし、ここで何かが爆発するんだな?
リアクションの準備は万全だと身構える彼の期待に反し、足下からはどこか頼りなげな紫色の煙が一筋上がっただけだった。
爆竹一本分以下の音と線香一本分以下の煙だ。
――え? たったこれだけ?
これで一体どういうリアクションをとればいいんだよと黒井の頭に血が昇る。
目の前の外人も周りのタレントたちもドッキリの仕掛けが不発だったせいか顔色を悪くしておろおろしている。
――くそ、ど素人どもが。アクシデントがあった時こそ芸人や役者の力量が試される場だろうが。
ついこらえきれなく黒井の口から文句が飛び出した。
「お前らいくら何でも俺を騙そうとするんだったら演技が雑すぎるぞ」
せっかくのゴールデン進出の夢が破れていくのが黒井の脳裏をよぎる。このままではドッキリの失敗映像としてお蔵入りになりお茶の間には流れないだろう。
この手に掴み変えた栄光へのチケットが寸前で逃げてしまったのだ。彼の頭に血が昇ってしまっても仕方ない。
血走った目でアドリブの効かない外人タレントを睨み付ける。
「俺ならお前たちを全員クビにするぞ」
びくっと全員が背筋に氷を当てられたようにを伸ばす。いかん、薬が効きすぎたか。無理を言っても通る大御所ならともかく、ここで黒井が外人を派遣した会社ともめてもメリットはどこにもない。すこしだけ冷静になった彼は少し表現を柔らかくした。
「今風の言い方にすると、お前らをリストラにして放り出す」
言い直してもちっとも柔らかくなってはいないのは、まだ彼の怒りと失望が解けていないからだ。
だが一番近くにいた外人がいきなり土下座をしてきたのは予想外だった。
しかも、
「責任を持って家にお送りするのでどうかお引き取りを!」
とここまでの取れ高を番組で使わない宣告をしてくる。それに番組から下ろす迷惑料とキャンセル料をタクシーのチケットだけですますつもりかもしれないが、それではいくら黒井が若手でも割に合わない。次々と周りで土下座が連鎖していくがここで黒井は一歩も引く気はない。
「死んでも帰るわけにはいかないな」
せっかくのチャンスを逃せるか、ここから俺はお笑いの天下を取ってやるんだ。
そう一人ごちて粘る黒井であったが、はたしてこれからどんな運命がこの世界での彼を待っているのか、まるっきり不明であった。
◇
勇者召喚より数日後、翻訳魔法の改良を急いでいると聞いた王国の民は翻訳魔法が不調にも関わらず勇者が王国へ被害を与えないのに喜びに湧いていた。
なにしろ勇者が再び召喚されると聞いてからは「大魔王ではなく勇者に滅ぼされることを王家が決めたのか」と民は諦めきっていたのだ。
それなのに勇者が数日おとなしくしているだけで盛り上がるのだから、どれだけ民の絶望が深かったか推察できる。
「きっと偉い魔法使い様と勇者様が前回のような悲劇にならないよう話し合ってくださっているのだ」そう口々に噂し合った。
その噂を聞いた王宮勤めの誰もが遠い目をしながら「そうだな……」と答えたという証言が残っているので、おそらくはそれが真実だったのだろう。
偉大な賢者である翻訳魔法の使い手であるリードと異世界より慈悲と武力を持って降臨した勇者クロイ。
前代の勇者から甚大な被害を受けた教会でさえ勇者召喚の成功に浮かれていたと記録されている。大魔王を倒すために神からのご加護が二人にありますようにと教会が音頭をとって祈り捧げていたそうだ。
王国の民からの期待は大きく、まだ王宮から一歩も外に出てないこの時点で想像上の二人をモデルにした人形まで発売されていたらしい。
これがリードとクロイの二人による現代にまで伝わる大魔王退治の大冒険の始まりだった。
そしてこの二回目の召喚から百年を経て超魔王が誕生した現在、いまだに翻訳魔法は完成していない。
三回目の召喚を成功させるためそして翻訳魔法を完成させるためにも、伝説の賢者リードと「彼の周りは常に微笑みがあった」とまで讃えられる慈愛の勇者クロイが翻訳魔法を使ってどのような高尚な会話を交わしたのかが判明すればいいのだが――。