「裕二! 裕二!」
泣き叫びながら彼を呼ぶ私、しかし彼は振り返りもせずに私の元から去っていった。
ふっ、と目が覚めた。広いベッドの上で一人。目の端に涙がたまっている。
なんて都合のいい夢。彼が海外に行くときに、差し伸べてくれた手を振り払ったのは私。
あの頃の私は、写真家として食べていくのが夢だった。あれから6年たったが、今でも私は売れない写真家だ。
隣りあったような気がしていたぬくもりは、意識が覚醒してくると同時に、パッと消え去った気がした。
「さむい……」
毛布を肩まで引き上げ包まる。時計を見るとまだ午前5時過ぎ、今日は日曜日でまだ寝ていられる。
彼は貿易会社の社長の一人息子。もともと私とは釣り合いが取れる人でもなかった。でも私は今でも彼のことが好きで、彼に逢いたいと思う。
もし私に翼があれば、あなたに逢いに飛んで行けるのに……
本当に都合のいいことを考える。もう彼とは恋人同士でもなんでもないのに。軽い自己嫌悪に浸りながら、私は眠りの海に引き込まれていく。
携帯電話の着信音で目が覚めた。
時間は午前9時ちょうど。携帯にはメールが1件届いていた。件名には『逢いたい』とだけ。そして差出人は……
メールを読み終えた私は、ベランダに出て、タバコに火をつけ肺の奥まで吸い込む。
肌寒くなってきたが、今日もいい天気なりそうだ。ひとりでゴロゴロ過ごすのも、もったいない。
携帯電話を取り出し、私は人懐こい笑顔の男性を思い浮かべる。しばらくして電話に出た彼は、寝ぼけた声で電話に出た。
「はい、水無月です」
「圭、ごめんね。寝ていた?」
電話の向こうで、彼の声が明るいものに変わった。
「大丈夫です。今起きるところでしたから」
「それじゃ、今日、時間が空いていたら付き合ってくれないかな?」
「はい。問題ないですよ」
彼と時間と待ち合わせ場所を約束して電話を切る。もう一度タバコを肺の奥まで吸い込み煙を吐き出した。そして、つぶやく。
「私って最低な女……」
彼女、山口真琴との出会いは、いきつけのバーで隣に座ったことがきっかけだった。そのまま意気投合してホテルに雪崩込み現在に至る。
彼女に呼び出されて、映画やウインドウショッピングを楽しみ、食事をして、バーで一杯、そして彼女の部屋で肌を重ねる。それの繰り返し…… 1年付き合って、身体の距離は限りなく0(ゼロ)に近いのに、精神の距離は1センチも縮まっていない。
真琴の心は寂しさを抱えていて、ぬくもりを求める。しかし、本当に欲しいぬくもりは僕のものではないことも、知っていた。彼女の心の中に僕は存在しない。見える他の男の影。そして、いつもと様子の違う真琴。
「何があったの?」
僕は彼女から身体を離しながら尋ねた。
「嫌だ。離れないでよ。もっとめちゃめちゃに」
彼女が僕の首に手を回す。だが僕は彼女の耳元でもう一度尋ねる。
「何があったの、真琴?」
彼女の瞳を見つめる。そこには動揺の色が見て取れた。宙を舞う視線、どれほどの間そうしていただろうか、真琴が先に折れた。そして見せられたのは携帯電話に届いた1通のメール。
真琴への真摯な想いがつづられたメール。そして、今夜逢いたいと…… 時間は午後8時。今の時間は午後7時45分。だが、メールの相手は閉店まで待つと……
「この人だよね。真琴さんの心に居る人?」
「うん」
「何故、行かないの?彼も待っている」
真琴の顔が辛そうに歪む。
「6年前、私が彼の手を離した。いまさら、一緒に行きたいって、どんな顔して言えるの? そんな都合の良いこと」
真琴の顔は今にでも泣き出しそうだ。いや、もう目の端には涙が浮かんでいる。
「でも、真琴は6年も彼を想っている。真琴も逢いたいのだろう? 逢いたくて、逢いたくて」
「そうよ! 彼に逢いたい。それこそ、翼があれば、彼のところに今すぐに行きたい。って、何年も想ってきた」
僕は真琴に微笑んだ。そして、ベッドの上から降りる。少し距離をとって離れて見る真琴は、今にも折れてしまいそうだ。
「あるじゃないか、翼。その逢いたいという想いが、立派な翼だよ」
真琴は口に手を当てて、黙り込む。その瞳からは零れ落ちる涙。
「過去のこととか、そんなゴタゴタは、僕において行きなよ。抱えていくのは、逢いたいという想いだけでいい」
僕は泣く真琴を抱きしめた。これが最後だ。もう彼女は、僕の手の届かないところにいってしまう。重荷は僕が引き受けた。後はその翼を広げて、飛び立つだけ、必要なのはひとかけらの勇気。
「圭、ごめん。ごめんね」
「うん。さようなら真琴」
1時間後、行きつけのバーに僕は居た。真琴と出会ったバー。
「マスター、次はザ・マッカラン」
マスターは、何も言わずグラスにウイスキーをついでくれた。今日あったことを吐き出して、少しは気持ちが落ち着いた。
「愛しのロクサーヌですね」
愛しのロクサーヌ。確か、詩才のある一流剣士、シラノ・ド・ベルジュラックの話だったと思う。彼は鼻にコンプレックスがあって、美しい従妹のロクサーヌに恋したが、自分の醜さを自覚するゆえに告白することができない。
しかし、ロクサーヌは彼の友達でもある美男子クリスチャンに一目惚れ、彼は自分の想いを押し殺して、二人の仲を取り持つ役に徹する。という話だったと思う。
「そんな純な話じゃないよ」
そう、自分に自信があれば、真琴を手放さなかった。俺が幸せにする。だから、昔の男のことは忘れろと…… 言えなかった。そう言ってしまうには、真琴の想いを知りすぎた。
携帯電話が着信を告げる。見ると真琴からのメール。中身は一言「ありがとう」とだけ。
上手くいったらしい。僕は携帯電話の中から、真琴の番号とアドレス、そして届いたメールをすべて削除した。
「さようなら真琴。幸せになれよ」
そうつぶやき、僕はグラスを掲げてみせた。
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