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LastDarkness
作:風美



63:刃桜繚乱


 気だるげに煙草を蒸かしている恰幅の良い中年男からは、さほどの脅威は感じられなかった。縁側で日向ぼっこでもしているような、倦怠的な空気をまとっているのである。
「あー、クソ不味い。つか気持ち悪い」
 ハインリヒは青色の煙草の箱を握り潰した。
 握り潰したのに、音がしない。そして、クリスはハインリヒの気配が消え失せたように感じた。
 一瞬でクリスの目前に現れたハインリヒは、丸太のような胴体を見た目よりも機敏に動かし、両腕で円を描きながら掌底を打ち込んだ。それはクリスの刀を掻い潜り、腹部に命中。あの緩やかな動きのどこに、これほどのパワーが込められていたのか、クリスは十メートルも後退させられたことに、さらに驚愕した。
「……太極拳」
「分かるか? ううむ、やっぱり似合わないよな」
 クリスに返事をする余裕はない。それどころか、声を出すことすら許されていないようである。
 どうやらハインリヒは声を聞いた瞬間に魔法を発動しているらしい。最初の一文字だけは発音できるのだが、それ以降は言葉にならない。
 消音サイレントの魔術は存在しているが、それほど使い勝手の良いものではなかった。
 相手が魔術の詠唱を始めてから、消音サイレントの魔術を詠唱した場合、相手が黙るのは魔術を発動した頃なのである。しかも、持続時間が数秒という短さだった。しかし、消音サイレントの魔法は持続時間こそ短いものの、発動のタイミングを押さえ込むことにより、魔術の詠唱を中断させてしまう。
「俺は身体動かすのは好きじゃないから、副団長みたいな無様な戦い方はしない。さっさと終わらせることだけを考えてる。……だから煙草を吸うことにしよう」
「どうし――」
 ……どうして煙草が出てくる!?
 反射的にツッコミを入れようとして、音が奪われていることに気付いた。
 クリスの背筋に寒気が走った。振り返りざまに刀を抜き打つ。ほとんど当てずっぽうの太刀筋だったが、背後から奇襲をかけようとしていたヘルマンは退いた。失敗に終わったが、先ほどの脈絡のない発言は、意識の空白を作り出すものだったらしい。
 背後からの波が引くと、今度は前方からの波が押し寄せる。
 瞬時に間合いを詰めたハインリヒが円の動きで力を蓄えた両腕を振り抜いた。
 やはり、気配がしない。
 足音がしないため、いつ襲いかかってくるのか分からないのである。
「―――!」
 咄嗟に刀で受け止めようとするが、ハインリヒの両手は鋼鉄ごときでは怯まない。それどころか、蛇のように湾曲し、器用に刀の腹を打ち抜いた。
 あっ、と思った。クリスの両手から刀が弾き飛ばされ、遠くの方に転がっていく。
 刀を失っただけではなく両腕が激しく痺れ、刹那の間、棒立ちになっていた。そこを、追撃のハインリヒの蹴りが襲いかかる。
 頭頂を狙い定めたハイキックには、中国拳法の気迫が込められていた。命中していれば、頭蓋骨が陥没していただろう。
「躱したか。だが……」
 背後からヘルマンが細剣を突き入れる。
 クリスに為す術はなかった。
 いや。
 そんな訳は。
 そんな訳はない。
 この程度の窮地、今まで何度も潜り抜けてきた。フランスの地から極東の日本に逃れるまでに、どれだけの刺客に襲われたか、最早数え切れなくなっている。
 魔術が詠唱できないだけで勝敗が決してしまうほど、クリス・リンディアは弱くない。
 あの朽葉悠斗が『自分よりも強い』と断言したのである。相手の実力を計算することでは横に並ぶ者がいない智慧者が、そう判断したのだ。だからこそ、クリスの意外な精神面の脆さに驚愕したのである。
 魔術が使えない。……ならば、魔法があるではないか。
 クリス・リンディアは毅然とした目を二つの敵影に向けた。
「……潮時か」
 ハインリヒ・ベッケンバウアーは口中で舌打ちした。


    †


 一方、氷壁の内側では――。
 ヴィルヘルム・ツヴァイクが呆然と立ち望む悠斗にしきりに話しかけていた。
「おやおや、君の彼女は苦戦しているみたいっすよ」
 集中力を乱すためにまくし立てているのだろう。
 朽葉悠斗の頭脳についても事前に調べ上げられているはずだ。激昂させてマトモな思考力を奪い、状況を打開する奇策を封じ込めんとしている。しかし、ヴィルヘルムは気付いていない。その思考の動きが声の強弱や高低、その言葉を用いた理由、文脈のアクセントの位置などから思考をトレースされていることに。
 悠斗にはヴィルヘルムの感情の動きが手に取るように分かった。
「どうしたんすか? もしもーし?」
 その心の中にあるのは――焦り。
 悠斗が返事をしなくなったことから、状況を打開する策が練られたのではないかと疑っているようだ。しかし、ヴィルヘルムは外にいる。氷を透明にすれば、空間転移の魔術でみすみす脱出させてしまう。この場合、敵方に為す術はないのだ。
「あらら、副団長がキレてるっすね。ちょっと彼女の方が優勢っぽいっすよ」
 待っていればクリスが助けてくれる――と思わせるための甘言だ。
 魔術を反射する氷壁とは厄介なものだ。氷壁を破壊するために魔術を使えないのである。ならば、物理的な方法を取ればどうだろう。小太刀でガリガリと氷の壁を削ってみれば、やがて光が見えてくるはずだ。
 ……どこの遭難者だ。
 結局、この氷壁は魔術的にも物理的にもほぼ無敵である。例外は本人が語ったように『アサルトライフル』のような現代兵器を持ち込まれた場合だけだ。魔力がなくなれば壁もなくなるだろうが、その選択はクリスを見捨てることになる。
「……なるほど」
 悠斗はひとつ頷いた。この壁の攻略法は三つある
 氷壁の破壊、氷壁の向こう側への攻撃、他者からの救援である。後者二つに共通していることは、術者のヴィルヘルムに直接攻撃を加えると言うものだ。しかし、悠斗には後者二つを選択することは状況的に不可能である。
 ならば、この壁を破壊するしか他にない。
 悠斗は両目を閉じた。凄まじい集中力である。
 ヴィルヘルムの声など、耳に入らなかった。


    †


 濃密な霧が広がっていた。足元を見下ろしてみると、つま先さえ定かではない。それは背筋が凍えるほどの恐怖を呼び込んだ。一メートル先に落とし穴があるかもしれないのだ。最初の一歩を踏み出すための精神力は、尋常なものではない。
『ここで動き出すのは得策ではない。霧が晴れるのを待つべきだ――』
 その声は、耳から入ってくる音声ではなさそうだった。思念のような、耳ではなく感性で受信するような声である。その声は頭の中を侵略するかのように広がっていった。
 ……まさか、これが俺の思念なのか?
「馬鹿な。もし周囲に敵がいれば格好の餌食じゃないか。危険を承知で踏み出すべきだ」
 危険に遭遇する可能性など、ここでは考えるべきではない。立ち止まっていても、襲われるときは襲われる。歩き回ればそれだけ情報が手に入り、正しい判断が下せるようになる。朽葉悠斗は情報がゼロの状態で立ち止まると言う選択肢を取るほど愚かではない。
『ここで動かなければ苦しむこともなかったものを――』
「苦痛を受けることになったとしても、選択肢さえ選べずに死ぬよりはマシだ」
『強情だな、朽葉の者よ。だが、貴様には力がない。霧の中で敵と遭遇すれば、確実に死ぬと分かっていても、それでも動き回れるのか?』
「俺に力がないのは確かだ。だが、俺の心まで弱いと決め付けるな!」
 強敵を前にして萎えてしまうほど悠斗の覚悟は脆くない。
 悠斗は生唾を飲み込み、最初の一歩を踏み出した。
『……愚かなり』
 そこに、もうひとりの悠斗がいた。
『言ったであろう。霧の中で敵と遭遇すれば、確実に死ぬと……』
 白皙の面立ちは朽葉悠斗そのものだったが、その雰囲気はまるで別人のようだった。両目は吹雪のように冷えていて、口元には自嘲的な笑みが貼り付いている。どこか、人生に疲れた世捨人のような風情が漂っていた。
「お前は……」
『我は流浪の王、百桁の神族が束になっても葬れぬ神である』
 悠斗に憑いた穢れし神が、クツクツと喉を鳴らして嗤う。
「なぜ、お前がここに!」
『咆えるな、我が宿主。しかし妙なことだな。ここは我の意識が創り出した心象世界。我の許可なくして立ち入った者など過去におらぬと言うのに』
「……俺から入ってきた?」
『左様である。異国の呪詛の干渉を受けていた所為かもしれぬがな、最終的にこの場に足を運んだのは貴様の意思だ』
 悠斗は周囲を見回してみた。やはり、見えるのは霧ばかりである。
「これがアンタの世界か」
 何と言うべきか思い浮かばない。それほど何もない。
『虚無。それが、この世界の全容である』
 あの蛭子の心が創り出した世界である。もっと、血とか死体とかでドロドロしているかと思っていた。
「そう言えば、アンタの魔法って『刃桜繚乱』なんだよな?」
『――ようやく気付いたか、我が宿主。貴様ほどの智慧があれば、若しかすると解に至るやもと思っていたが、これは面白い。ククッ、ハハハッ、ハハハハハッ―――』
「気付いたのは御剣蒼夜を『刃桜繚乱』で倒したときなんだけどな」
 神の魔法にしては、力不足に思えた。その答えがここにあった。
 悠斗はここに何をしに来たのか、自分でも良く分からなかったが、それを聞けただけでも十分な収穫だった。しかし、用事はこれだけである。帰りたいと考えたのが原因なのだろうか。霧が濃密になり、蛭子の姿が見えなくなった。
『餞別だ。受け取れ』
 紅い光がキラリと瞬き、悠斗の胸を熱いものが貫いた。
 見下ろすと、真紅の剣が心臓に刺さっている。
 しかし、痛みはなかった。出血もまったく見られない。それどころか、不思議と癒されていた。剣が悠斗の血液に溶け込んでいくような感覚がする。
『魂を傷付ける剣である。大切に扱えよ』
「……礼は言わないぞ」
 霧がすべてを覆い尽くし、やがて意識が朦朧としてくる。
 蛭子は皮肉げに嗤い、背を向けた。


    †


 頭脳が冴え渡っていくような、清々しい気分だった。
 どうやら自分はとんでもない勘違いをしていたらしい。蛭子の『刃桜繚乱』は斬撃を無数に作成させる魔法のように見える。だが、それはただの副産物だったのだ。仮にも神たる存在の魔法が、その程度のものとは思えない。
 『刃桜繚乱』は無数に存在する並行世界パラレルワールドから魔力を取り出し、斬撃という形にして放出していただけに過ぎないのである。
 その本質は"魔力の吸収"。
 あまりに強力なため、他の世界まで影響を及ぼすほどの魔法。
 悠斗は右手に握り締めた、意外に軽い剣を見て微笑した。ここまでしてくれと頼んでいないのに、世話好きな虐殺者だ。あまりに娯楽に飢えているのだろう。時々顔を見せに行ってやろうかと本気で心配になってくる。
 『滅魂―紅覇―』は爛々と光り輝いている。命を吸いたいと啼いているようだ。
「餞別か。有り難く使わせて貰う……」
 悠斗は居合構えに腰を屈めた。
 柄に左手を添えて、神経を集中させる。失敗は許されない。蛭子の力を使えば、悠斗は精神力を一気に削り取られる。一撃目は問題なくとも、二撃目を撃ったあとは魔力が残っていても足腰が立たない状態になるかもしれない。一撃目でもそうなる可能性は十分にある。壁を抜け出させても、力を使い果たしたところを狙い打たれることもあるだろう。
 それでも――行かなければならない。
 守ると誓った彼女が待っている。もしかすると、泣いているかもしれない。
「……俺に従え! この空間に存在しているあらゆる魔力よ!」
 居合から抜き撃たれた剣は、紅い筋と化して氷壁に吸い込まれた。
 その刃はあらゆる魔力を吸収する。氷壁を構築していた魔力が、滅魂の剣に触れられただけで刀身に流れ込んでくる。氷が崩壊すると刃は壁に滑り込んでいった。
「なっ、どう言うことっすか!?」
 ようやく状況に気付いたヴィルヘルムが焦燥を露にする。
 さらに、氷を形成していた魔力と、並行世界から奪ってきた魔力から、無数に生成された刃がどんどん壁を削り取っていく。
 そして、返す刃で完全に氷壁を打ち砕いた。
「蛭子曰く、魔力で形成された物なら斬れぬ物はなし――」
 それが本当の『刃桜繚乱』の魔法。

 『刃桜繚乱クラストエッジ・スティーラー』である。







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