60:リリスの涙
二時間ほど時間を潰してから診療所に戻ると、『臨時休業』と書かれたドアプレートがかけられていた。中に入ると奥村孝彦が人のいない受付でコーヒーを飲んでいる。簡単な手術と言っていたが、さすがに疲労しているようだった。
「もう終わったよ。彼女はベッドに寝かせている」
悠斗は銀行から引き出してきた五十枚の万札を孝彦に手渡し、シャワーを借りることにした。この診療所の二階は休憩室になっており、泊り込めるようになっている。
問題なのは、これからどうするのかと言うことだ。
その指針を決めるためには教皇騎士団がクリス・リンディアを付け狙う理由を知る必要がある。だが、クリスが悠斗にその理由を打ち明けてくれるだろうか。まだ初対面に等しい間柄で、そこまで踏み込んでも構わないのだろうか。
ヘルマン・ガーランドのこともある。
悠斗の魔術を完璧に再現した実力や、悠斗を三流以下と評した剣術。さらに、あのヘルマンが本人の分身で、本体よりもワンランク性能が低いという事実。チェスの駒を利用した奇抜な魔術も忘れられない。
考えごとをしていた悠斗は、ガチャリとシャワールームのドアが開いたことに気が付かなかった。
「――え?」
その、不思議そうな声に恐る恐る振り返る。
そこには、タオルで前を隠しているので肝心な部分は見えていないけれど、ほぼ全裸と言える格好をしたクリスがいた。
「いやっ、やだ! 変態!」
悲鳴を上げながら逃げていくクリス。この場合、悠斗はどうすれば良いのだろうか。
誰か入っているとは思わなかったと言うことはないだろう。電気が点いていたし、シャワーの音も耳に入っていたはずだ。それすら見逃し、聞き逃すほど思考が磨り減っていたと言うことだろう。
何が彼女をそこまで疲労させたのか。
「考えるまでもないか」
悠斗は心の中にひとつの決意を宿すと、着替えてから一階に下りた。
クリスはソファに腰を下ろし、恨めしげにこちら見上げてくる。どこで着替えたのか気になったが、とても聞ける雰囲気ではない。
……気まずい。非常に気まずい。
クリスの性格は冷徹だったのではないだろうか。こんな顔をするなんて、正直信じられなかった。他人のことなど歯牙にもかけないクールビューティーだったのではないか。
「あ、あの……さっきはごめんなさい」
それに、どうして悠斗が謝られるのだろう。見たのはこっちだと言うのに。
クリスは顔を赤らめながら、ボソリと一言。
「見た……わよね?」
「見たけど……って、だから何だよこれ。この雰囲気は。俺にどうしろと?」
若干逆ギレしてみると、クリスは泣きそうな顔をする。
訳が分からない。とても、今朝見た彼女と同一人物とは思えない。まさか、人格が入れ替わっているのではないだろうかと疑い始めているこちらの心を知らないクリスは、悠斗に恥ずかしそうに微笑んでくる。
「ごめんなさい。変態だなんて叫んじゃって」
――誰だコイツ。
「ごめんなさい。貴方のこと、敵かもしれないって思ってた。ただ私を助けてくれただけなのに」
「いや、俺も疑われても仕方がない立場だったし、先に助けてくれたのはそっちだろ。お前に助けて貰わなかったら、俺は騎士に殺されていたかもしれない。恩を恩で返すのは当然のことだ」
「……ごめんなさい」
「いや、だからさ……」
謝る必要はない、と言いそうになったが、どちらかが折れないとこの話は終わらないと思ってやめておいた。
「それで、どうして教皇庁の騎士なんて物騒な連中に狙われているんだ?」
「えっと、それは……」
クリスは悠斗を見上げ、迷いを見せた。悠斗に心を開いていない訳ではない。こちらに累が及ぶことを心配している。どれだけ心配しても、もう二度も襲われているので今さらなのだが、それすら考え付かないほど悠斗のことを案じているようだった。
「話せないのか?」
「……そんなことはないわ。そうね、話しておくべきかもしれないわね」
クリスは哀しそうに話し始めた。
「私は悪魔リリスの加護を受けているらしいの」
それは最初の乙女の話。
†
リリス。それはメソポタミアの夜の魔女。アッカド神話の女の妖怪、キスキル・リラと同一視され、悪魔学などからも新生児や妊婦を狩る吸血鬼のような妖精だと信じられていた。
中世の文献『ベン・シラのアルファベット』にはアダムの最初の妻として描かれ、やがてアダムと仲違いして楽園から去って行った。紅海沿岸でアスモダイなどの悪魔たちと関係を持ちリリン(サキュバスのような悪魔)を生み、最終的にはサタンの花嫁になった。
この背景や目的が掴めない文献の重要な部分だけを要約すると『悪魔リリスはアダムとエヴァ(イヴのこと)の子どもを害する』と言うことだ。
「つまりあれか。リリスは最初から穢れた神ってことか」
「そうね。貴方たち東洋系の魔術師には、そう言った方が理解しやすいでしょうね」
「厳密には違うような言い方だな」
「地域によっては悪魔を神として信仰していることもあるから、穢れているかいないのか定義できないのよ。いずれにせよ、その力の使い方で善悪を判断するしかないのよ」
「そうか」
大体分かったが、納得できないことがある。
穢れた神に憑かれているだけなら、国外に逃亡したクリスに追っ手を差し向けるだろうか。騎士たちの追撃はあまりに執拗である。あくまで騎士たちは教会の利益を実現する団体だ。反宗教団体を潰した方が、信者の獲得が見込めるだろう。
「最近、ヨーロッパで勢力を伸ばしている魔術結社があるの」
急に話が飛び、途惑いながら情報を整理する。
悪魔リリスと魔術結社に何か関係があると言うことか?
「その名は『失堕した神々』。早い話が悪魔信仰者の集まりね」
「おい、それは――!?」
悠斗の耳元に嫌な汗が流れる。
クリスがリリスの神憑きなら、他の神憑きも存在することになる。リリスは神と言うより悪魔である。もしかすると、海の向こうには悪魔を身体に宿した連中がいるのではないか。
「そう。失堕した神々は悪魔憑きが作った組織よ。それで、敵対組織の教皇騎士団がリリスの加護を受けている私を疑いを持った。騎士たちはキリスト教徒だし、たとえ私が失堕した神々と内通していなくても、始末するつもりってこと。否定しても聞き入れるような連中ではないから、逃げるしかなかったのよね」
自分も神憑きと言うより悪魔憑きのようなものなのだ。そんな奴らがいたとしても不思議ではない。
「それに、失堕した神々も私のことを欲しているみたい。伝承ではリリスは何人もの悪魔と関係を持っていたらしいから、さもありなんって話よね」
「同族意識ではなさそうだな。もっと俗物的な欲望ってことか。それで、失堕した神々にはどんな奴らがいるんだ」
「顔は見たことがないけどアスモダイとメフィストフェレスの名前は聞いたことがあるわね」
「アスモダイ……。アモデウスのことか」
悠斗は愕然とした。
蛭子の魔術『七つの大罪』にある空間移動の魔術。詠唱文は『跳躍せよ、色欲の王』である。どうして自分が……いや、あの邪神が西洋の悪魔の名前が入った魔術を使っているのか、考えたことはある。
「私の話はこれぐらいよ。それで、どうかしら? 思ったよりも面倒なお荷物でしょ、私って」
「たしかに、こいつは厄介だな」
クリスが悲しそうな顔をしたことに気付かず、悠斗は思案しながらソファに腰かけた。クリスの隣に座っていることになる。
「教皇騎士団を退けても、失堕した神々が残ってる。悪魔憑きのお前をスカウトしに来る可能性がかなり高い。今回は草壁や幽香たち一流の魔法使いが味方にいないし、果たして俺たちだけでどれだけ頑張れるか――」
「……え?」
悠斗は二人だけで戦うことを決めていた。クリスが厄介事を抱えていたからと言って放り出すこともせず、もう作戦を練り始めている。
それが当然の行為だと疑いもせず、ただこれからのことを考えている。
「私たちだけでって――悠斗、貴方は何を考えてるの!?」
「何って言われてもな。ヘルマンの倒し方とか戦場の場所とか作戦とか?」
「そうじゃなくて、貴方、私と一緒にいると死ぬかもしれないのよ!?」
たしかに、そうなるかもしれない。
だが、それが何だと言うのだ。今まで何度も死ぬような目に遭ってきたが、それでも生きている。その行動に後悔したことはない。悠斗が後悔するのは、いつも守れなかったときだけだ。
「お前と一緒にいなければ、俺の知らないところでお前が死んでいるかもしれないだろ」
今クリスを見捨てれば、必ず後悔する。ならば、考えるまでもないだろう。
シャワーを浴びている最中に呟いた「考えるまでもないか」の言葉と決意。
――ああ、そうか。
さっきまでクリスのことが分からなくなっていたけど、ようやく少しだけ理解できた。
「……不器用な女だな、お前って」
「そうよ! 不器用で悪かったわね!」
人と距離を取るのも相手を想いすぎるため。傷付いてしまった者たちを見てきたからこそ出せた悲しい結論。つまるところ、クリスと悠斗は似たもの同士だった。
――まあ、そんな不器用さも悪くないか。
「守ってやるよ。こんな不甲斐ないガキで構わないならな」
「本当に? 貴方は私を見捨てないの?」
「……急に甘えるなよ、泣き虫」
クリスは悠斗の胸に飛び込んだ。長い金髪が波打つように揺れる。
――ああ、何だかなあ。
アカデミーにいる咲夜にどう弁解しよう。悠斗はクリスが泣き止むまで悶々と悩むことになる。 |