56:教皇庁の騎士
終末の日に翼に死者を乗せて飛翔する黒き龍、ニーズヘッグ。北欧神話の出身で、古エッダ(古エッダ=詩のエッダ。エッダには散文のエッダなど、色々な種類があるが、こちらは王の写本から引用されている)の詩で最も知られた部分『巫女の予言』では死者の血を啜ると書かれている。ユグドラシルの三つ目の根を齧る蛇である。
嘲笑する虐殺者の異名を持つ、邪神にして蛇神。
それが『嘲笑する虐殺者』だった。
キングがひとつ、盤上の中央に据えられている。
国立魔術アカデミーから直線距離で五キロ離れた場所にある、王聖魔術学園の敷地内では妖しげな魔方陣が光り輝いていた。グランドの隅に植えられた桜の木の根元である。一辺五メートルの正方形と、その中に三角形を二つ組み合わせた六芒星が石灰の粉で描かれている。
「――釣れた」
魔方陣の中央にチェス盤を置いて、その正面に向かっていた少年はボソリと呟いた。山高帽を頭に乗せ、漆黒のローブを羽織った、童話に出てくる魔法使いのような格好をしている。
子どもっぽい顔をしているが、その表情は悪意に満ちていた。幼年代特有の際限のない邪気ではない。ギラギラと闇夜に揺れる瞳をよぎるのは、底知れない憎悪である。
「どうやら僕のメッセージが届いたようだね、ニーズヘッグ」
少年は三日ほど前からある魔術儀式を行っていた。寝食を断って丑三刻の呪詛よりも過酷な境遇を作り出し、魔術の効果を最大限に引き出し、その対象を"呪い殺す"ために準備を重ねてきた。
本来なら五日をかけて行われる魔術なのだが、どうやら先に気付かれてしまったようだ。伊達で北欧の邪神を名乗っている訳ではないと言うことか。
内なる神を暴走させるがための術式。
あからさまな挑発だ。少年ほどの技量になると、端から成功するとは思っていなかった。誘き寄せれば少年の目的はほぼ完遂したことになる。しかし、まったく成功しない魔術なら三日も重ねて準備を行わない。少しでも勝算があるから最大限の努力を重ねて成功率を引き上げる――。それが、実力のある魔術師の責任だ。
「この時期、多数の神社で恵比寿関係の祭事が行われる。"信仰"という力を集めた蛭子は、ニーズヘッグの内部で侵食力を高め、僕の魔術を手伝ってくれる。外部的要因を味方に付けたこの魔術、そう簡単に破れるものではないと思っていたんだけど……」
チェス盤のキングはニーズヘッグを示している。日本風な言い方なら、わら人形のようなものになる。残念ながら少年はニーズヘッグ縁の物を持っていないので、こうして見立てるしか方法がない。
少年は月を見上げ、頬をつり上げた。
「ちょうど満月だよ、ニーズヘッグ。僕が仕事をする日はさ、いつも今宵のような月が出ていた気がするんだよ。満月とは狂気の象徴。きっと君が狂うペースが速まるだろうね」
「うろちょろと蠅のように飛び回ってたのはお前か」
「蠅とは心外だな。僕は長老会から崇高なる目的を与えられた神の使徒だ。病原菌を運び込む害虫と同じ扱いをしないで欲しいね」
「同じようなものだ。なるほどな。教会の犬がどうしてこんな極東の地にいるのかと思ってみれば、ただの邪魔者の排除か」
ニーズヘッグは肩をすくめた。自らを邪魔者と呼ばれても、まったく気にしていない様子である。ただ、抜き身の日本刀が満月の光に照らされ、眩しすぎるほど輝いているだけだった。
「すごい殺気だね。そんなに気に入らなかったのかな、僕の魔術は」
「呪術なんてものにはロクなものはない。嫌いに決まってる」
「そう。じゃあ、さっさと始めようか――と言いたいところだけど、君を殺して前に聞いておくよ。彼女はどこにいるのかな?」
「――意味が分からん」
「なら、それでも良いよ。僕は君を殺すだけだから」
少年は山高帽を取り払った。
そこから現れたのは赤毛の髪と金色の瞳。
「教皇騎士団、ヘルマン・ガーランド。勅命により御身の命、貰い受ける」
ドイツ系の西洋人、ヘルマンは剣を抜いて飛びかかった。
†
どうして教皇庁の騎士がこのような場所にいるのか、悠斗にはサッパリ分からなかったが、今はその疑問を解明するよりヘルマンをどうにかしなければならない。
細身の――レイピアに近い形状をした細剣が直線的な軌道を描いて悠斗の喉元に襲いかかる。頚動脈を狙った暗殺技のような剣筋に、悠斗は手元の刀を合わせた。
ガキッと音を鳴らして火花が散る。
『斬撃、闇の剣』
『斬撃、光の剣』
同時に発動した魔術が衝突し、光と闇が拡散する。細剣と日本刀がすれ違う一瞬、ヘルマンは歪な笑みを浮かべた。悠斗は驚愕に目を見開きながら、身体を捻って蹴りを入れた。
体重を背後に移動させて衝撃を緩和し、猫のように着地したヘルマンはダメージを受けたようには見えない。
「驚いたみたいだね。ニーズヘッグの魔術について、あらかじめ調べておいたんだよ。術式さえ分かれば、僕ほどの実力があれば再現は可能だ。まあ、元々の属性が光だから、こればかりはどうにもならないけど――」
「――ッ! 『突貫、闇の槍!』」
「無駄さ。『突貫、光の槍』」
またしても光芒が衝突し、お互いの魔術が相殺される。
悠斗は歯軋りした。まさか、己の魔術を盗まれるとは。しかも、その魔術を使っていても、悠斗と互角に渡り合うとは――。
模倣品が正規品に匹敵することなど、あってはならないことである。
「クソッ! 『断断断、ダークハルバード!』」
「まだ分からないのかい! ほら、『断断断、ライトハルバード!』」
三重詠唱で威力が革新的に引き上げられた魔術さえも真似されている。二つの魔術は再び衝突し、霧散していった。
悠斗はその隙に前進していた。火之迦具土神の加護を受けた刀が燃え盛りながら大気を切り裂く。その剣先が細剣の切っ先で流され、今度は悠斗が蹴りを喰らった。
「魔術も二流、剣術に至っては三流以下。北欧神の最高峰、『嘲笑する虐殺者』の異名を持っていると言うからそれなりに楽しみにしていたんだけど、これは飛んだ期待外れだったな」
「――るせえよ」
「どうして長老会が君ごときを始末するために僕を寄越したのかな。彼女を匿ってるという情報もガゼだったかもしれないと思えてきたよ。まあ、命令には絶対服従が騎士の職分だから、不服は申し立てないけどさ」
ヘルマンは刀を構える悠斗を見据えて舌打ちした。
ローブという動き辛そうな格好をしているのに、その動きは俊敏の一言に尽きた。幼顔と小柄な外見からは想像も付かないほど力もある。先ほどの蹴りのダメージがまだ身体に残っていた。
――この少年は強い。
今まで戦った誰よりも――あの草壁涼二や御剣蒼夜、倉渕祐作よりも強い。
「手加減はしないよ。僕はね、偉大なる主以外の神は認めていないのさ。存在自体が許せないね。黄色い猿どもの信仰なんて、打ち砕いてしまえば良い。僕はそのために教皇庁に所属しているのだからね」
「黙れよ。さっきからベラベラと煩い野郎だ」
瞳に憎悪を垣間見せたヘルマンに、悠斗は刀を突きつけた。
まだ悠斗の眼から意思が消え失せていないのを確認し、ヘルマンはさらに苛立ちを増したらしい。細剣を持つ手が軽く震え、しっかりと構え直された。少なくともこの態度に多少は動揺してくれたようだ。
「その傲慢を――打ち砕いてやるよ」
「囀るな、ニーズヘッグ!」
悠斗は地面を蹴った。地面の爆ぜ方から、無詠唱で物体破壊の魔術を使用したことが察せられる。だがヘルマンにとってそれは強襲でも何でもないのだろう。冷静に剣先で攻撃を受け流し――。
『刺刺刺、ライトスナイプ』
大量の矢を悠斗の周囲に展開させた。必勝の展開。このままヘルマンが命じれば、光の矢はことごとく飛翔し悠斗を突き刺していただろう。
剣術の腕が勝っているのが何だ。
少し魔術を真似できるのが何だ。
「さあ、光の矢よ! 偉大なる主の敵を貫きたまえ!」
ヘルマンが勝ち誇った笑みを浮かべるのが分かった。
しかし、二秒後。その顔が驚愕で彩られる。
『跳躍せよ、色欲の王』
大量の矢に取り囲まれていたはずの悠斗が、いつの間にか背後に回っていたのだ。
「なっ、なんだと! その魔術はあの蛭子のもの! まだ使えないはずでは!」
「使えない? 勝手に決め付けるなよ、狂信者」
ヘルマンは細剣を振りかぶりながら、魔術の詠唱を始める。
「クソッ、『斬斬斬、ライトブリンガー!』」
『拒絶せよ、怠惰の王』
光の刃が霧散の魔術の煽りを受けて消滅する。
「馬鹿め!」
その隙にヘルマンの斬撃が襲いかかった。先ほどとは立場が逆転していることに、果たしてこの少年は気付いていただろうか。すでに悠斗の術数に載せられていることに、気付いていただろうか。
『死守せよ、嫉妬の王』
あらゆる攻撃を防ぐ鱗が展開し、斬撃を受け止めた。
悠斗の左手人差し指が、ヘルマンの額に焦点を定める。
『断罪せよ、憤怒の王』
十字の暗黒刃が虚空から出現し、闇夜の空気を滑りながら疾走する。
必殺の一撃だった。鱗の防御壁が解けた間隙を縫っての奇襲である。ヘルマンに回避する術はないはずだ。悠斗はこれで止めだと意気込んだ。
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